岩崎英二郎

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岩﨑 英二郎
人物情報
生誕 (1922-04-29) 1922年4月29日(94歳)[1]
東京府荏原郡品川町
出身校 東京帝国大学[1]
学問
研究分野 ドイツ語学
研究機関 成蹊大学[1]
埼玉大学[1]
東京教育大学[1]
東京大学[1]
慶應義塾大学[1]
獨協大学
主要な作品 『ドイツ語不変化詞の用例』
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岩﨑 英二郎(いわさき えいじろう、1922年4月29日 - )は、日本ドイツ語学者で、慶應義塾大学名誉教授。専門は、ドイツ語の不変化詞の研究[2]

人物・業績[編集]

子安農園を経営していた岩崎輝弥の次男として、東京府荏原郡品川町(現・東京都品川区)に生まれる。姉2人・兄1人の末っ子[1][3]。兄の長男(英二郎からみたら甥にあたる)は旭硝子に勤めており[4][5]、長姉は岡部長職の八男・長章に嫁いだ[6][7]。岡部長章の長兄・長景の妻・悦子は加藤高明の長女なので[6][7]、悦子は英二郎の又従姉にあたる(加藤の義父すなわち長景の義祖父・岩崎弥太郎は英二郎の大伯父にあたる)。

祖父は三菱財閥の2代目総帥・岩崎弥之助[5][8]、父・輝弥は弥之助の三男で日本における鉄道ファンのパイオニアとして知られる人物[5][8]。曾祖父に後藤象二郎がいる。三菱の創業者一族・岩崎家に生まれたため、研究者としての駆け出しの頃に三菱財閥と密接な関係にあった成蹊学園で教鞭をとっている[1]

1929年に成城小学校(現・成城学園初等学校)へ入学したものの、病気がちで学校にはほとんど行かず、鎌倉逗子転地療養[1]

1931年、成蹊小学校3年に転入学し、以後は健康を取り戻す[1]。1935年に旧制・成蹊高等学校(尋常科)へ進学し、1939年に同高等学校の高等科(文科乙類)へ進学した[1]

1942年に東京帝国大学文学部独逸文学科へ入学したものの、1943年12月に学徒出陣で横須賀の武山海兵団へ入団[1]

1944年7月、久里浜海軍通信学校に入校[1]。同年12月には、戦時特例により大学を不在のまま卒業[1]。大学で勉強したのは1年半だけだった[1]

1945年6月に九州の海軍航空隊基地に赴任し、同地で敗戦を迎えた[1]。復員後、東京大学慶應義塾大学などで教授を務めた[1]

1988年3月31日に慶應義塾大学を定年退職し、慶應義塾大学名誉教授となった[1]

ドイツ語学者としての業績としては、ドイツ語の副詞、とくに話法詞・心態詞の研究に専念し、日本人の視点からドイツ語の不変化詞の意味分類と意味記述を試みていることが挙げられる[2]。また独和辞典和独辞典の編集にも数多く携わっている[2]

妻・篁子(歌人北原白秋の長女)との間に2男をもうけた。長男・三菱商事勤務を経て東山農場(東山農事のブラジル法人で農場を経営。ちなみに小岩井農牧は東山農事の子会社)の社長、次男・栃木ニコン社長・ニコン執行役員を経てニコンの特別嘱託。

年譜[編集]

著書[編集]

  • 『ドイツ語不変化詞の用例』(単著、大学書林、1992年9月)
  • 『ドイツ語副詞辞典』(編著、白水社1998年10月)
  • 『ドイツ語不変化詞辞典』(小野寺和夫との共編著、白水社、1969年)

脚注・出典[編集]

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak 岩崎英二郎教授・履歴(学歴および職歴) - 慶應義塾大学学術情報リポジトリ内のPDFファイル
  2. ^ a b c d 日本学士院内のプロフィール
  3. ^ 佐藤 『門閥』 264-265頁。
  4. ^ 『プレジデント』1990年7月号掲載『創業者「岩崎家」一族は、いま』、287-288頁。
  5. ^ a b c 『週刊テーミス』1991年3月20日号掲載「日本を動かす101家 10 岩崎家」、49頁。
  6. ^ a b 早川 『日本の上流社会と閨閥』 56-57頁、63頁。
  7. ^ a b 佐藤 『門閥』 264-265頁、276頁。
  8. ^ a b 『プレジデント』1990年7月号掲載『創業者「岩崎家」一族は、いま』、287頁。

参考文献[編集]