桜田門外の変

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桜田門外の変
Sakuradamon incident 1860.jpg
桜田門外の変の想像図
場所 江戸城桜田門
座標
標的 大老井伊直弼
日付 安政7年3月3日1860年3月24日
概要 暗殺事件
攻撃手段 拳銃
犯人 水戸藩浪士薩摩藩藩士一覧
関与者 一覧
防御者 彦根藩藩士一覧
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桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)は、安政7年3月3日1860年3月24日)に江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関)において水戸藩薩摩藩脱藩浪士彦根藩の行列を襲撃して、大老井伊直弼を暗殺した事件。

経緯[編集]

外桜田門と彦根藩邸の距離は600m。

安政5年(1858年)、大老に就任した彦根藩主・井伊直弼は、将軍継嗣問題修好通商条約の締結という二つの問題に直面していた。まず、第13代将軍徳川家定の後継をめぐって、南紀派会津藩主・松平容保高松藩主・松平頼胤ら、溜間詰の大名を中心とした一派)と一橋派水戸藩主・徳川斉昭福井藩主・松平春嶽ら、大広間や大廊下の大名を中心とした一派)が争う将軍継嗣問題については、南紀派の推す徳川慶福(将軍就任時に家茂と改名)を将軍の世子とすることで決着した。これは、血縁を重視する慣例と将軍家定の内意に沿い、井伊を大老に推した南紀派を満足させるものであったが、朝廷から示された「年長の人が望ましい」という意向に反するものであった。もう一つの懸案である修好通商条約の締結については、孝明天皇の勅許が得られず、攘夷派の反対論が勢いを増していた。そこで、駐日米公使タウンゼント・ハリスからの早期締結要求も強まる中、井伊は勅許を得ずに日米修好通商条約をはじめとする安政の五ヶ国条約の調印に踏み切った。これは、そもそも「鎖国」は朝廷とは無関係に始められたものであり、慣例上、条約締結に勅許は必ずしも必要ではなかったからである。将軍継嗣問題で井伊に反感を抱いていた一橋派は、条約締結に抗議すべく、規則外の不時登城を行って違勅と非難したが、「大政関東御委任」(政治は幕府に委任されている)の立場を固めた井伊大老に処罰され、発言は封じられた。

江戸城内での活動を制限された一橋派は京都で政治運動を行い、朝廷の権威により失地回復を図ろうとした。一橋派の思惑は当たり、勅許を得ない条約調印と斉昭・春嶽の排斥は、攘夷論の強かった公家たちに喧伝され、孝明天皇も幕府の行いに激怒した。天皇は、幕政の刷新と大名の結束を説く「戊午の密勅」を水戸藩に伝え、さらに、幕府寄りとされた関白九条尚忠内覧を解いて朝政から遠ざけた(関白を辞めさせるには幕府の了解が必要)。水戸藩は密勅の写しを雄藩に送って賛同を求めたが、幕府権威がいまだに強かった当時、各藩は関わりを恐れ相手にしなかった。しかし、朝廷が大名に直接指令するという事態は、江戸幕府始まって以来前代未聞であったため、幕閣は大いに狼狽した。井伊大老は、密勅は叡慮(天皇の意思)ではなく水戸の陰謀とする側近長野主膳の注進に基づいて、徹底弾圧を決心した。まず、老中に再任させた間部詮勝を京都に送り、新たに京都所司代に任命した酒井忠義にこれを補佐させた。「天下分け目の御奉公」と井伊に表明した間部老中は、着京後、態度不鮮明のまま「病臥」と称して参内を延期し、長野や九条家家士の島田左近と連日協議した。これは、先年、入洛早々に参内して条約勅許の獲得に失敗した老中・堀田正睦の轍を踏まぬため、十分な準備を図って慎重に行動したものである。間部老中は、井伊の指示を受けて、一橋派らと関係を深めていた公卿の家人たちを捕縛断罪、また全国でも民間の志士を手始めに、幕政を批判する政治運動に関わった諸藩の武士を捕らえていった。いわゆる安政の大獄の始まりである。一方で、天皇は、いずれは鎖国に復帰するという条件のもとで、条約調印が切羽詰まった措置であったという井伊大老の弁明に一通りの理解を内々に示した。朝廷内も「公武一和」のため幕府の行いを認めたことで、幕府に批判的な一派は勢いを挫かれ、弾圧はさらに加速していった。

水戸藩では、密勅への対応をめぐって藩論は分裂していた。前藩主である徳川斉昭永蟄居の処分を受け、さらに幕府は「戊午の密勅」の朝廷への返還を求めた。主君の処分解除のためには幕府へ恭順を示さねばならず、同時に密勅の返還を認めない過激派の抵抗もあったため、藩内の膠着状態は続いた。そこで幕府は、自ら返還を促す勅命の草案を作って天皇の同意を得る方策を検討した。このため、水戸藩の対応には寸刻の猶予もなくなった。藩内では返納論が主流となりつつあったため、密勅返還阻止の運動はかえって激化し、有志たちは密かに返納されることを警戒して、藩境の長岡でたむろして街道を封鎖した。この長岡屯集は藩上層の工作により懐柔されて失敗し、過激派の藩士たちは活動の中心を江戸に移した。

以前より攘夷派の高橋多一郎金子孫二郎などの水戸藩士と、薩摩藩の在府組である有村次左衛門は、双方の藩に仕えた日下部伊三治(大獄により獄死)を介した結合を維持していた。この水戸藩士に薩摩藩士を加えた攘夷激派は、薩摩藩主・島津斉彬による率兵上京(一橋派に与する斉彬は、藩兵5,000人を率いて上京することを企図していた)及び天皇の勅書をもって、京都における「義挙」を断行し、幕政を是正しようと図った。しかし、薩摩藩は斉彬急死後に実権を握った弟の島津久光が、江戸での「義挙」を黙認しつつも自藩の直接関与を抑制する方策をとった。久光は、息子である藩主・島津茂久が直書で志士の「精忠」を賞賛するとともに、後日を期して脱藩突出を思いとどまるように説諭するという異例の対応で、攘夷激派を沈静化させた。ここに率兵上京は不可能となり、京都における攘夷派の蜂起は破綻する。

一方、幕政是正のためには井伊の排除が必要不可欠と考えた水戸藩士たちは、関東における「義挙」を単独でも実行する方針を固め、井伊暗殺計画の準備を進めていた。この水戸藩士単独決行の考えは、後に明らかにされた「斬奸趣意書」の中にも見られる。水戸藩士たちは二手に分かれ、高橋多一郎、金子孫二郎らは薩摩との合流のため京へ上り、関鉄之介率いる実行部隊は井伊大老襲撃のため江戸に残った。この江戸に残った水戸藩士たちに、薩摩在府組の有村次左衛門が一人加担した。襲撃に加わる藩士たちは、藩に届捨てで脱藩を願い出て、浪士となった。

襲撃[編集]

安政7年3月3日1860年3月24日)の早朝、浪士一行は決行前に訣別の宴を催して一晩過ごした東海道品川宿(東京都品川区北品川)の旅籠を出発した。一行は東海道(現在の国道15号)に沿って進み、愛宕神社港区愛宕)で待ち合わせた上で、怪しまれないようにあらかじめ決められた小グループに分かれて外桜田門へ向かった。現地に着いた襲撃者たちは、武鑑を手にして大名駕籠見物を装い、井伊の駕籠を待った。

当日は季節外れの大雪で視界は悪く、彦根藩の護衛の供侍たちは雨合羽を羽織り、汚れ・濡れを嫌っての柄に袋をかけていたので、とっさの迎撃に出難く、襲撃側には有利な状況となった。また、江戸幕府が開かれて以来、江戸市中で大名駕籠が襲われた前例はなく、ゆえに登城行列の警護は薄かった。井伊の元には以前より襲撃の警告が届いていたが、護衛の強化は失政の誹りに動揺したとの風評批判を招くと判断し、あえてそのままに捨て置いていた[1]。登城する井伊の駕籠は、彦根藩藩邸上屋敷(現在の憲政記念館付近)を出て、内堀通り沿いに江戸城外桜田門外(現在の桜田門交差点)に差し掛かり、そこで浪士たちの襲撃を受けた。

駕籠が近づくと、まず前衛を任された水戸浪士・森五六郎が駕籠訴を装って行列の供頭に近づいた。取り押さえに出た彦根藩士・日下部三郎右衛門に森は斬りかかった。森が護衛の注意を前方に引きつけた上で、水戸浪士・黒澤忠三郎(関鉄之介という異説もある)が合図のピストル[2]を駕籠めがけて発射し、これを合図に浪士本隊による全方向からの駕籠への抜刀襲撃が開始された。

発射された弾丸によって、井伊は腰部から太腿にかけて銃創を負い、若き頃より独自に修錬を重ねていた居合を発揮すべくもなく、動けなくなったとされている。襲撃に驚いた丸腰の駕籠かき、徒歩人足はもちろん、藩士の多くも算を乱して遁走した。残る十数名の供侍たちは駕籠を動かそうと試みたものの、銃撃で怪我を負った上に襲撃側に斬りつけられ、駕籠は雪の上に放置された。護衛の任にある彦根藩士たちは、ベタ雪の水分が柄を濡らし刀身が湿るのを避けるため、両刀に柄袋をかけており、銃創と鞘袋が邪魔してとっさに抜刀できなかった。このため、鞘のままで抵抗したり、素手で刀を掴んで指や耳を切り落とされるなどした。

こうした不利な形勢の中、しかし彦根藩士も抵抗を行い、結果として水戸浪士も被害が拡大した。二刀流の使い手として藩外にも知られていた彦根藩一の剣豪の河西忠左衛門は、冷静に合羽を脱ぎ捨てて柄袋を外し、襷をかけて刀を抜き、駕籠脇を守って浪士・稲田重蔵を倒し、さらなる襲撃を防いだ。同じく駕籠脇の若い剣豪・永田太郎兵衛正備も二刀流で大奮戦し、襲撃者に重傷を負わせた。しかし、河西が斬られて倒れ、永田も銃創により戦闘不能になる[3]

護る者のいなくなった駕籠に、次々に襲撃者の刀が突き立てられた。有村次左衛門が荒々しく駕籠の扉を開け放ち、虫の息となっていた井伊のを掴んで駕籠から引きずり出した。井伊は地面を這い逃れようとしたが、有村が発した薬丸自顕流の「猿叫」[4]とともに振り下ろした薩摩刀によって斬首された。襲撃開始から井伊殺害まで、わずか数分とも十数分とも伝わるが、短い時間の出来事だった[5]

有村らは勝鬨を上げ、刀の切先に井伊の首級を突き立てて引き揚げようとした。斬られて昏倒していた彦根藩士・小河原秀之丞が鬨の声を聞いて蘇生し、主君の首を奪い返そうと有村に追いすがり、後頭部に斬りつけた。小河原は水戸浪士・広岡子之次郎らによって斬り倒されたが、現場に隣接する杵築藩邸の門の内側から目撃した人物の表現によると、朦朧と一人で立ち向かい、数名の浪士に斬られ尽くした有様は目を覆うほど壮絶無残だったと記述されている。一方、斬られた有村も重傷を負って歩行困難となり、単独でのしばらくの逃走の後、若年寄遠藤胤統(近江三上藩)邸の門前で自決する。これにより、直弼の首は遠藤家に収容されることになる。

小河原は救助され、藩邸にて治療を受けるが即日絶命した。自分の他に数名でも自分と同じような決死の士がいれば、決して主君の首を奪われることはなかった、と無念の言葉を遺している。

襲撃の一報を聞いた彦根藩邸からはただちに人数が出撃したが既に遅く、やむなく人員を割いて死傷者や駕籠を収容し、さらには鮮血にまみれ多くの指や耳たぶ、数本の腕が落ちた雪まで徹底的に回収した[6]。井伊の首は前述の遠藤邸に置かれていたが、所在をつきとめた彦根藩側が引き取りを要請するも断られ、井伊家、遠藤家、幕閣とが協議の上で、表向きは闘死した藩士のうち年齢と体格が井伊に似た加田九郎太の首と偽り、内向きでは「遠藤家は負傷した直弼を井伊家に引き渡す」という体面を取ることで貰い受け[7]、彦根藩邸で典医により胴体と縫い合わされた(遠藤胤統は現役の幕閣であり、彦根の近隣の藩主でもあることから有名な井伊の顔を家中もよく知っており、実際には気付いていた可能性が高い)。

死傷者とその後の処分等[編集]

襲撃側[編集]

最初に駕籠目がけて斬り込んだ水戸浪士・稲田重蔵は、彦根藩士の河西に斬り倒され即死した。薩摩の有村次左衛門のほか、水戸の広岡子之次郎、山口辰之介、鯉渕要人は、多くの士卒が遁走する中で踏みとどまった数名の彦根藩士による必死の反撃で重傷を負い、他の藩邸に自首した後に自刃した。襲撃の指揮者・関鉄之介は各地を遊説・逃亡した後、2年後の文久2年(1862年)に越後の湯沢温泉(現在の新潟県岩船郡関川村)で捕らえられ、江戸で斬首された。

大坂で薩摩藩兵の上京を待っていた高橋多一郎・庄左衛門親子は、幕吏の追捕を受け、四天王寺境内にて自刃した。薩摩藩士・有村雄助と共に上坂の途上にあった金子孫二郎も、伏見で捕らえられ江戸で斬首された。大坂で薩摩藩との連絡役であった川崎孫四郎は幕府に探知され自刃した。

他の者も多くは自首したり捕縛された後に刑死、獄死している。増子金八海後磋磯之介は潜伏して明治期まで生き延びた。

彦根藩側[編集]

襲撃により、藩主である直弼以外に8名が死亡し(即死者4名、後に死亡した者4名)、13名が負傷した。藩邸では水戸藩に仇討ちをかけるべきとの声もあったが、家老・岡本半介が叱責して阻止した。死亡者の家には跡目相続が認められたが、2年後の1862年(文久2年)に、直弼の護衛に失敗し家名を辱めたとして、生存者に対する処分が下された。草刈鍬五郎など重傷者は減知の上、藩領だった下野国佐野(栃木県佐野市)に流され揚屋に幽閉される。軽傷者は全員切腹が命じられ、無疵の士卒は全員が斬首・家名断絶となった。処分は本人のみならず親族に及び、江戸定府の家臣を国許が抑制することとなった。

影響[編集]

老中・阿部正弘の示した雄藩との協調体制を否定し、伝統的な幕閣主導型の体制と秩序を復活させるとともに、朝廷の政治介入を阻止するという井伊大老の路線は、自身の死によって決定的に破綻した。そればかりか、江戸定府・徳川姓の親藩で「副将軍」と巷間称される水戸藩徳川家と、譜代大名筆頭の彦根藩井伊家が仇敵となり、長年持続した江戸幕府の権威も大きく失墜した。幕府政治の安定性も損なわれ、文久期以降に尊王攘夷運動が激化する端緒となった。また、18年後の大久保利通の暗殺(紀尾井坂の変)に至るまでの、実力行使と武力による血なまぐさい争乱の時代が幕を開けることとなった。

水戸藩士はその後も文久元年(1861年)から元治元年(1864年)にかけて、第一次東禅寺事件坂下門外の変天狗党の乱などの争乱事件を起こしている。天狗党の乱の際に、彦根藩士は「直弼公の敵討ち」と戦意を高揚させ、中山道を封鎖して筑波山から京都に向かった水戸藩士を迎撃しようとした。このため、やむなく天狗党一行は美濃から飛騨を経て越前に入り、敦賀で降伏した。武田耕雲斎など水戸浪士352人はここで処刑される。なお、彦根藩士が水戸浪士を処刑した刑場は来迎寺である。

井伊家のその後[編集]

井伊直弼(彦根城博物館所蔵)

変の直後[編集]

当時の公式記録としては、「井伊直弼は急病を発し暫く闘病、急遽相続願いを提出、受理されたのちに病死した」となっている。これは譜代筆頭井伊家御家断絶と、それによる水戸藩への敵討ちを防ぎ、また、暗殺された井伊自身によってすでに重い処分を受けていた水戸藩へさらに制裁(御家断絶など)を加えることへの水戸藩士の反発、といった争乱の激化を防ぐための、老中・安藤信正ら残された幕府首脳による破格の配慮である。井伊家の菩提寺・豪徳寺にある墓碑に、命日が「三月二十八日」と刻まれているのはそのためである。これによって直弼の子・愛麿(井伊直憲)による跡目相続が認められ、井伊家は取り潰しを免れた。

直弼の死を秘匿するため、存命を装って直弼の名で桜田門外で負傷した旨の届けが幕府へ提出され、将軍家(家茂)からは直弼への見舞品として御種人蔘などが藩邸に届けられている。これに倣い、諸大名からも続々と見舞いの使者が訪れたが、その中には藩主徳川慶篤の使者として当の水戸藩の者もおり、彦根藩士たちの憎悪に満ちた視線の中で重役の応接を受けたという。井伊家の飛び地領であった世田谷(東京都世田谷区)の代官を務めた大場家の記録によると、表向きは闘病中とされていた直弼のために、大場家では家人が病気平癒祈願を行なっている。

しかし、襲撃後の現場には尾張徳川家など後続の大名駕籠が続々と通りかかり、鮮血にまみれた雪は多くの人々に目撃されており、大老暗殺はただちに江戸市中に知れ渡った。「赤備の武勇」はすっかり文弱と化していたが、井伊の強権と、襲撃を受けた際の彦根藩士の狼狽ぶりは好対照で、「井伊掃部頭」をもじって「いい鴨を 網でとらずに 駕籠でとり」などと市井に揶揄された。また、首を取られたにもかかわらず病臥と言い繕うことを皮肉った「倹約で 枕いらずの 御病人」「遺言は 尻でなさるや 御大病」「人蔘で 首をつげとの 御沙汰かな」などの川柳も相次いだ。

文久から維新期[編集]

1862年(文久2年)に率兵上京した薩摩の「国父」島津久光は、勅使・大原重徳を擁して江戸に下り、幕政の刷新を要求した。これを受けて、幕府は福井藩主・松平慶永の主導で井伊政権の清算を図った(文久の改革[8]。末期の井伊政権を支え、井伊の死後に幕閣をまとめた老中・安藤信正は、同年初めの坂下門外の変で水戸浪士の襲撃から難を逃れたものの、この改革で久世広周と共に老中を罷免された。また、井伊家は直弼の失政を理由に、石高を35万石から25万石に減らされるとともに京都守護の家職を剥奪され、会津藩主・松平容保京都守護職に充てられた。これに先立って、彦根藩は直弼の腹心だった長野主膳宇津木景福斬首・打ち捨てに処したが(切腹より重い重罰)、結局のところ減封を免れることはできなかった。この後、彦根藩は幕府を守る立場から距離を置くことになる。

この減封は、明治になってから思わぬ憶測を井伊家周辺に及ぼした。1884年(明治17年)の華族令施行に伴い、旧藩主の直憲は伯爵に叙されたが、この爵位は減封後の石高を基準としたものであった。草高35万石で、近江半国領主という国持大名に準ずる格式に沿うならば、1階級上の侯爵となるはずとの思惑も、井伊家の周辺にあった。そのため「安政の大獄の恨みで新政府に冷遇され、伯爵に落とされた」との説も流れた。しかし、減封後の現石は9万石程度であり、さらには仮に減封がなくても国持大名で現石15万石を基準とする侯爵の基準は満たしていない。そもそも爵位の基準は版籍奉還の時点の現石が基準であり、「安政の大獄の恨み」などというのは全くの俗説である。彦根藩はすでに鳥羽・伏見の戦いの時点で薩摩藩兵とともに東寺大津を守備するなど、最初から勤王の姿勢を示しており、新選組近藤勇を逮捕する手柄を立てるなど実戦での功績も評価され、賞典禄2万石を与えられている。直憲は有栖川宮家から夫人を迎えており、井伊家は旧譜代大名の中では、むしろ厚遇されたと考えるべきである。

戦後の彦根市での出来事[編集]

親善都市提携[編集]

桜田門外の変で敵対した両藩の城下町であった水戸彦根の両都市は、事件発生から110年後の1970年(昭和45年)に親善都市提携を結んだ。水戸市からは偕楽園の梅、彦根市からは堀の白鳥がそれぞれに贈られた。当時の彦根市長は、直弼の曾孫にあたる井伊家の当主で「殿様市長」として知られた井伊直愛であった。水戸と彦根を和解させた都市は敦賀市であったが、敦賀は水戸天狗党がことごとく殺された土地である。水戸と敦賀が、天狗党の縁で姉妹都市提携を結んだのは1964年(昭和39年)だった。その後、彦根市は水戸市と高松市の姉妹都市提携の仲立ちまでしている(高松は水戸支藩高松藩の城下町であったが、直弼の娘の弥千代が藩主松平頼聰に嫁いだ縁があった)。

市長選挙での争点化[編集]

2013年4月の彦根市長選挙において、当時現職の市長であった獅山向洋は、対立候補の一人の有村国知が有村次左衛門の弟の子孫であることを指摘し、そのような人物が市長選挙に出馬することは容認出来ないと主張するビラを支持団体に配布させた上、選挙の争点として訴え続けた。この行動に対しては有村だけでなく、もう一人の対立候補で次期市長に当選した大久保貴からも批判を浴びている[9]

関連人物[編集]

彦根藩側[編集]

  • 井伊掃部頭直弼(大老。彦根藩35万石藩主。享年46)
  • 岩崎徳之進重光(伊賀奉行。負傷、帰邸後死亡)
  • 小河原秀之丞宗親(小姓。負傷、帰邸後死亡。享年30)
  • 加田九郎太包種(騎馬徒士。闘死。享年31)
  • 河西忠左衛門良敬(剣豪。闘死。享年30)
  • 日下部三郎右衛門令立(物頭。負傷、藩邸で死亡。享年39)
  • 越石源次郎満敬(負傷、帰邸後死亡)
  • 沢村軍六之文(闘死)
  • 永田太郎兵衛正備(闘死)
  • 朝比奈三郎八(無疵、帰邸のため入獄、文久2年(1862年)斬首)
  • 朝比奈文之進(無疵、帰邸のため入獄、文久2年(1862年)斬首)
  • 小幡又八郎(無疵、帰邸のため入獄、文久2年(1862年)斬首)
  • 小島新太郎(無疵、帰邸のため入獄、文久2年(1862年)斬首)
  • 長野十之丞(無疵、帰邸のため入獄、文久2年(1862年)斬首)
  • 藤田忠蔵(軽傷、帰邸のため入獄、文久2年(1862年)斬首)
  • 水谷求馬(無疵、帰邸のため入獄、文久2年(1862年)斬首)

襲撃者[編集]

襲撃に関与[編集]

  • 金子孫二郎教孝(郡奉行。首謀者。伏見にて捕縛、文久元年(1861年)斬罪。享年58)
  • 高橋多一郎愛諸(小姓頭取、矢倉奉行。首謀者の一人。大坂にて自刃。享年47)
  • 高橋庄左衛門諸恵(多一郎の長男。大坂にて自刃。享年19)
  • 有村雄助兼武(次左衛門の兄。薩摩藩とのパイプ役、金子、佐藤と共に上方に上る。伏見薩摩藩邸にて捕縛、切腹。享年26) 
  • 佐藤鉄三郎寛(金子に従い補佐、その後、金子と共に伏見で捕縛。追放刑。変名は安島鉄三郎。暗殺や上方道中に関して後世に書き残した。明治期に水戸藩吏。1915年(大正4年)没。享年80)
  • 川崎孫四郎健幹(郡吏。大坂で連絡係。自刃。享年35)
  • 小室治作(高橋に随行、自刃)
  • 大貫多介則光(高橋に随行、捕縛後獄死。享年26)
  • 山崎猟蔵恭礼(薩摩藩士との連絡役、捕縛後絶食死。享年33)
  • 島男也竜雄(笠間藩士。高橋に随行、捕縛後1861年獄死。享年53)
  • 小野寺慵斎(土浦藩士。兵学者。参謀の一人。1861年自刃)
  • 宮田瀬兵衛(変後に一味だと熊本藩に自訴、獄死。享年47)

その他[編集]

  • 飯田左馬忠彦国学者。同事件への関与を疑われて囚われたために抗議自殺した。享年62)
  • 滝本いの(関鉄之介の愛人。元吉原谷本楼の。鉄之介の潜伏の手助けをした。鉄之介を追う幕吏に捕らえられ伝馬町牢で拷問により獄死。享年23)
  • 佐久良東雄良哉(京都妙法院の武士。高橋多一郎・庄左衛門を匿ったため捕縛、絶食死。享年50)
  • 後藤権五郎輝(郷士。変には関わっていないが元一味。広木松之介を名乗って自首。文久2年(1862年)獄死。享年32)

碑・塚・墓[編集]

題材とした作品[編集]

※発表順

小説
映画
テレビドラマ
漫画
  • 風雲児たち 幕末編みなもと太郎 2001年 - ) - 桜田門外の変を扱うのは単行本20巻から。作者による実地検証を織り込み、ギャグを交えつつ変の発端から発生後の対応までを詳細に描いている。
ブックレット
  • 桜田門外ノ変 時代を動かした幕末の脱藩士 (黒沢賢一 2010年)

脚注[編集]

  1. ^ みなもと太郎が「風雲児たち幕末篇」で指摘しているように「(雨雪だろうが)刀の柄袋を外させる」「門前に見張りを立てる」ぐらいのことは批判されない範囲で可能であり、要するに警告を本気にしてはいなかった。
  2. ^ この時使用されたピストルは、ペリー艦隊が1854年、再度来航した際に幕府に贈呈した最新型コルトM1851を、徳川斉昭が入手して藩内で模倣して製造させていた物。水戸浪士の多くが襲撃の際にこのピストルを携帯していた。2010年1月16日の報道によると、このピストルは現物が出現し、そこには高度な旋条線が刻まれていた。当該項を参照
  3. ^ その時の永田の刀が、子孫の永田茂鈴木貫太郎の末弟)によって彦根城博物館に、赤備え甲冑等と共に寄贈されている。斬りこみ傷が多数あり、激しい戦闘の生々しさを物語っている。河西忠左衛門の刃こぼれした刀も同博物館に保存されている。
  4. ^ 「キャアーッ」様の気合いの声。
  5. ^ 一連の事件の経過と克明な様子は、伝狩野芳崖作『桜田事変絵巻』(彦根城博物館蔵)に描かれている。
  6. ^ 城門のすぐそばを血で汚したままにはできない上に、登城のため通過待ちをしている大名家がいたため。
  7. ^ この時点では公式には「井伊直弼は負傷して治療中であり、存命。」ということになっており、首を渡すとなると「直弼は既に死んでいる」ということになってしまうため。
  8. ^ なお、生麦事件がこの時の久光の帰途に起こっている。
  9. ^ 桜田門外の変が争点?…襲撃の子孫が市長選に
  10. ^ 「井伊大老警護の武士逃げ散った」…桜田門外の変 奉公人証言録‐読売新聞関西版2010年7月11日付(同日閲覧)
  11. ^ 秋の企画展「幕末の動乱と瀬戸内海」‐広島県立歴史博物館に於ける『骨董録』公開を告げる広島県「ブンカッキーネットひろしま(ひろしま文化・芸術情報ネット)」記事(2010年7月11日閲覧)

参考文献[編集]

関連項目[編集]