芹沢鴨

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芹沢 鴨(せりざわ かも、芹澤鴨、? - 文久3年9月16日1863年10月28日)もしくは9月18日10月30日))は、幕末水戸藩浪士、新選組壬生浪士)の初代筆頭局長(頭取)。前名は下村嗣次と推定されている。は光幹。本姓桓武平氏

生涯[編集]

出自の謎[編集]

出自、出生年には諸説ある。以前までは永倉新八の「常州水戸の郷士で真壁郡芹沢村の産」[1]、「芹沢村浪人」[2]という表現から、室町時代に常陸国行方郡芹沢村(現茨城県行方市芹沢)に定着した豪族で、江戸時代初期には戦功により徳川家康の命によって行方郡富田村(現行方市富田)に知行百石を与えられ[3]、後に水戸藩上席郷士(士分)となった芹沢家の出身で、芹沢外記貞幹の三男であり、幼名を玄太とし、文政9年(1826年)生まれとする説が流布されていた[4]

しかし近年、芹沢外記の四男に文政7年(1824年)[5]もしくは文政9年(1826年)[6]出生で、新徴組に入り、後に天狗党に加わって元治元年(1864年)8月16日、那珂湊で戦死した長谷川庄七(諱は健久)の存在が確認された[5]。鴨の生年は他に天保元年(1830年)、天保3年(1832年)とする説があり、外記の三男だとすれば計算が合わない。

また菩提寺の法眼寺過去帳に妻の名前が記された「芹沢玄太」は芹沢兵太の読み間違いであったことが判明し、この説は否定された[7]。兵太は外記の次男芹沢兵部成幹没後の慶応4年(1868年)時に芹沢家当主だった[8]人物であり、文化12年(1815年)から文政6年(1823年)の間に生まれた外記の三男と考えられている[7]

島田魁の『英名録』の末尾には鴨の名前の右横に「又左(右)衛門子」とあり、水戸藩士であった分家の出身ともいわれ、日置流雪荷派弓術の名人[9]芹沢又衛門以幹の子だとする説も存在している[10]。同家は以幹の次男で、後を継いだ芹沢平蔵義幹(前名は鴨と同じ光幹)の子供たちである又衛門孝幹、助次郎豪幹、亀三郎らの三名が、文久3年(1863年)3月、伊藤俊輔に伴われて上京していた[11]

その後多賀郡松井村(現北茨城市中郷町松井)の神官下村祐の婿養子となり、下村嗣次(継次、嗣司、嗣治とも)を称したとされるが不明点も多い。少なくとも石河明善『明善先生日記』には「手綱領松井村神官次郎八の倅 次郎八百姓より神官御取立の者也」とあり下村祐(次郎八)と親子関係であるとされている[12]。嗣次には常親という子供がいたと言われるも、下村家位牌には祐の子供と記されていた[13]

戸賀崎熊太郎から神道無念流剣術を学び、免許皆伝を受け師範代を務めたとされる(諸説あり)。

下村嗣次[編集]

前名とされる下村嗣次は安政5年(1858年)より始まる戊午の密勅返納阻止運動に参加したと見られ、万延元年(1860年)頃、玉造勢に入ったと考えられる。玉造村の文武館(現茨城県行方市玉造)を拠点として横浜攘夷を決行するため、豪商を周り、資金集めに奔走した。新見錦の前名とする説もある新家粂太郎が仲間にいた[14]。玉造勢は「無二無三日本魂」「進思尽忠」と大書した幟を掲げて調練を行っていた[15]。嗣次は佐原村(現千葉県香取市佐原)などで献金活動を行ったことが確認されている(伊能権之丞「水戸浪士佐原一件」)。

しかし、常総間の水戸藩領や天領に於いて強引な手法を使って資金の取り立てを行ったことにより、代官の佐々木道太郎から幕府に上申が行われ[15]徳川慶篤武田耕雲斎を江戸に呼び寄せて、在府の家臣と議論を行った結果、文久元年(1861年)2月9日、不法の者どもを召し捕らえ、場合によっては切り捨てても構わないという指令が下された[15]。これを受けて、玉造勢の主要メンバーであった大津彦五郎らは玉造を退去して、宝幢院(現東茨城郡城里町)に移り、自訴を行うが、評定所に拘引され[16]、後に細谷に新設された牢屋に移された[17]。同時に下村、新家らにも捕縛令が下った[18]

同年3月28日、遊女いろ八(色橋)と芹沢外記邸にいたところを捕縛され[19]、同日夜、赤沼獄に嗣次は入牢した[20]。6月24日、水戸藩は激派よりの武田らの政務参与を辞めさせ、謹慎を命じ、厳罰派を家老に復帰させたことから[21]、翌文久2年(1862年)9月16日に「引廻之上斬罪之所御大赦に付於牢屋斬罪梟首之事」との処分を受けたことが判明している[22]。口述書を聞き取った一人に吉成勇太郎がいた[22]

11月21日、武田らが執政に復帰し、厳罰派が退けられた[23]後、12月26日には慶篤から戊午の密勅を受納する旨を藩中一等に伝え、政治犯の釈放が行われた[24]

それでも甚だしい所業を鑑みて、なお水戸藩は下村らの釈放を躊躇していたが、翌文久3(1863年)年1月初旬には新家、同じく玉造勢の兜惣介らとともに嗣次は出獄することを許された[25]

芹沢鴨と同一人物であれば、これ以後に名を改めたものと考えられる。

壬生浪士頭取[編集]

約一ヶ月後の2月5日、清河八郎の周旋により江戸で結成された浪士組に新見錦・平山五郎野口健司平間重助等を伴い参加し、六番組小頭に任命された。その際に江戸の剣術道場試衛館近藤勇土方歳三沖田総司山南敬助らも加わり、京都まで行動をともにする。

23日、京都に到着。芹沢は近藤一派とともに壬生の郷士・八木源之丞の屋敷に分宿した。その頃、将軍の警固のため上洛した浪士組を、真の尊王攘夷の先鋒とするため、創設者である清河八郎は、朝廷に上奏文を提出して、浪士組を朝廷の直属にすることに成功した。29日、新徳寺に同志を集め攘夷の決行のため江戸帰還を宣言すると、芹沢と近藤はこれに反対し、京都残留を申し出て脱退。このときに残留を決めたのが芹沢の同志5人と近藤の同志8人の合計13人だった。これに殿内義雄根岸友山らも合流する。

3月10日、芹沢・近藤ら17人(24人ともいう)の連名で会津藩に嘆願書を提出。会津藩は彼らを「御預かり」とすることを決める。芹沢らは八木邸を屯所として(後に前川家と南部家にも寄宿)この前後より「壬生浪士」と称され始めた。その際、内部抗争が起き、26日に殿内が暗殺され、根岸も同志とともに離脱すると、壬生浪士は芹沢派と近藤派が牛耳ることになった。のちに芹沢・近藤・新見が局長となり、そのうちで芹沢が筆頭となった。

ただ、預かりとはなっていたが、当初は給金の支給がなかったため、4月になって芹沢・近藤らは大坂に下って商家から資金の提供を受けた。しかし、このような恐喝まがいの資金集めは会津藩の体面に関わることから、のちに藩より手当が支給された。

5月24日、中山忠能邸に参上した正親町公董の話の中で、「有志士」として、今泉与一太郎と共に言及される[26]。「芹沢カモ」と表記されており、名前の読み方が確定された史料でもある[26]。翌25日には、同志全員の筆頭として松平容保に攘夷実行の上書を提出した[27]

6月3日、芹沢・近藤ら10人が「不逞浪士」取り締まりのため大坂へ下った。途中、すれ違った力士が道を譲らなかったため、芹沢らは暴行を加えた。その行為に怒った力士の仲間が駆けつけ乱闘となり力士側に死傷者が出た。小野川部屋の年寄が詫びを入れてことは収まったが、大坂町奉行所与力内山彦次郎がこれを問題にして近藤を怒らせ、のちに新選組により暗殺されている(内山を暗殺した者については異説もある)。

同月、水口藩の公用方が壬生浪士は乱暴であると苦情を言ったことが会津藩を通して芹沢に知られ、激怒した芹沢は永倉新八井上源三郎らを水口藩邸に派遣し、担当者を脅迫して謝罪させ、詫び証文を取った。詫び証文は担当者の独断で書かれたものであったため、ことの露見を恐れた公用方は詫び証文を取り返そうと人を介して芹沢を説得し、芹沢は詫び証文を返すこととなり、嶋原角屋で宴会が開かれた。しかし酒乱の芹沢は大暴れをして店主の角屋徳右衛門に7日間の営業停止を一方的に申しつけている(角屋での暴挙)。

八月十八日の政変に際して御所の警備のために近藤とともに隊士を率いて出動するが、御門を固めていた会津藩士たちは壬生浪士を知らなかったためを構えて通そうとしなかった。「通せ」「通さぬ」と双方が怒鳴りあう中、芹沢が哄笑しながら進み出て来た。会津藩兵が槍を突きつけると、芹沢は鉄扇でその槍先を悠々と煽いで笑う。会津藩の軍奉行が駆けつけて壬生浪士を通してやり、芹沢は悠然と門を通った。人々は芹沢の剛胆さに驚いたという(『新選組遺聞』)。

この出動を機に会津藩は壬生浪士に新選組の隊名を与えたとされるが、確定的な史料は存在しない。

暗殺[編集]

文久3年(1863年)9月、芹沢が懸想していた吉田屋の芸妓小寅が肌を許さなかったため、立腹した芹沢が吉田屋に乗り込み、店を破壊すると主人を脅して、小寅と付き添いの芸妓お鹿を呼びつけ罰として2人を断髪させる狼藉を行っている[2]

朝廷から芹沢の逮捕命令が出た[2]ことから、会津藩は芹沢の所置を命じたと言われるが、確証はない。 また、同13日には土方、沖田らと有栖川宮家を訪れ、壬生浪士の「交名」と警衛の用があれば何事に限らず申し付けてくださいと記した書付を渡した[28]

9月16日あるいは18日、新選組は島原の角屋で芸妓総揚げの宴会を開いた。芹沢は平山五郎、平間重助、土方らと早めに角屋を出て壬生の八木家へ戻り、八木家で再度宴会を催した。その席に芹沢の愛妾のお梅、平山の馴染みの芸妓・桔梗屋吉栄、平間の馴染みの輪違屋糸里が待っており、宴席が終るとすっかり泥酔した芹沢らは女たちと同衾した。

大雨が降る深夜、突然数人の男たちが芹沢の寝ている部屋に押し入り、同室で寝ていた平山を殺害し、芹沢に斬りつけた。驚いた芹沢は飛び起きて刀を取ろうとするが叶わず、真っ裸のまま八木家の親子が寝ていた隣室に飛び込むが、文机につまづいて転び、そこを刺客たちがよってたかってずたずたに斬りつけた。このとき芹沢は八木家の息子・勇之助の上に倒れ込み、刺客たちはそこに斬りつけたため、刀の鉾先が寝相の悪かった勇之助の右足に当たり、怪我を負わせたという[29]

平山の死体は胴体と首が離れており、芹沢と同衾していたお梅も首を切られ惨殺された。別室にいた平間は逃亡。吉栄と糸里も難を逃れ姿を消したという。

『新選組遺聞』では、八木源之丞の妻・まさが土方歳三が夜中にしきりに様子をうかがっているのを目撃しており、現場には沖田総司と原田左之助は確かにおり、山南敬助もいたのではないかと記している。永倉の『浪士文久報国記事』によると暗殺は土方歳三・沖田総司・藤堂平助御倉伊勢武らが実行したとある。西村兼文(新選組が屯所を置いた西本願寺寺侍)の『新撰組始末記』では実行者は土方・沖田・山南・原田になっている。

事件は長州藩士の仕業とされ、9月18日(18日暗殺説によれば20日)に芹沢と平山の葬儀が神式に則り盛大に執り行われた。20日に近藤は芹沢と平山が「変死」したことを記した手紙を郷里多摩の佐藤彦五郎へ送っている[30]

芹沢の墓は京都市中京区壬生寺にある。

暗殺日に関して[編集]

芹沢鴨の暗殺日については墓碑に基づいて18日が通説となっていたが、16日が雨であることと、いくつかの風説書に基づき、16日説が主流となっている。しかし、まだ確固たる史料はなく意見は分かれている。

人物[編集]

  • 芹沢の人となりについては、子母澤寛の「新選組三部作(『新選組始末記』『新選組遺聞』『新選組物語』)」に詳しいが、いずれもかなりの創作が入っているとされ、史料的正確さには欠ける。
    • 芹沢は背が高くでっぷり太っており、色白で目は小さかった。豪傑肌の一廉の人物で、常に「盡忠報國の士 芹澤鴨」と刻まれた鉄扇を手にしていた。酒豪で、昼間から飲んでおり、酔っていないことはなかった。
    • 創作では手のつけられない凶暴な悪漢のように描かれることが多いが、会津藩主松平容保へ嘆願に行く際に、八木家から紋付を借りることになり、全員同じ家紋になってしまうことを八木源之丞が心配すると(公式の場ではかなり滑稽)、芹沢はまったく意に介せず笑っていたり、八木家から借りた火鉢をこっそり返しに来た際、火鉢に刀傷があったので問い質されると(隊士たちは酔って八木家の家財を手当たり次第に試し切りの材料にしていた)、「俺だ、俺だ」と頭をかいて逃げてしまうなど陽気でおどけた一面もあった。また、八木家の娘が夭折した際には、芹沢は近藤と帳場に立って進んで葬儀を手伝っており、暇潰しに面白い絵を子供たちに書いてやるなど好かれていたという。
  • 北野天満宮藤田東湖の「正気歌」と「述懐」として「霜雪に 色よく花の魁て 散りても後に 匂う梅が香」という歌を記した額を献じたとする風説が存在している[31]
  • 田尻佐が壬生寺を訪れた際、当時の芹沢を知る老婆が居り、彼の墓参りに来たことを告げると大変喜んだというが、真偽は定かではない。(「史談会速記録」)。
  • 永六輔『幕末の素顔 日本異外史』(毎日新聞社・1970年)では芹沢の写真とされるものが掲載されているが、別人のものである。また、同書では沖田とされる写真も収録されている(これも別人)。

脚注[編集]

  1. ^ 永倉新八『新選組顛末記』、新人物文庫 2009年5月 p84
  2. ^ a b c 永倉『浪士文久報国記事』
  3. ^ 「芹澤系図」『系図綜覧 第二巻』、国書刊行会 1915年9月 p47
  4. ^ 芹澤 鴨(光幹) 新選組を創った男
  5. ^ a b 箱根紀千也「新選組芹澤鴨と新見錦と水戸藩浪士」『霊山歴史館紀要 22号』、霊山歴史館 2015年5月 p47
  6. ^ 故 長谷川庄七(内務省二)」『昭和大礼贈位書類第二冊』、国立公文書館
  7. ^ a b 「新選組芹澤鴨と新見錦と水戸藩浪士」 p48~49
  8. ^ 「慶応四年周辺村々騒動につき東下村波崎名主石橋彦兵衛願書」『茨城県史料 近世社会経済編Ⅲ』、茨城県 p578~582
  9. ^ 小野崎紀男編著『弓道人名大事典』、日本図書センター 2003年5月 p305
  10. ^ 古賀茂作「芹沢鴨異聞」『新選組組長列伝』、新人物往来社 2002年7月 p200~205
  11. ^ 『水戸藩史料 下編全』、水戸徳川家 p284~285
  12. ^ 茨城新聞』2015年12月6日 14面「新撰組局長の芹沢鴨 出身地は北茨城か 幕末の日記新史料発見」
  13. ^ 長久保片雲「芹沢鴨と北茨城市との接点」『耕人 第11号』、耕人社 2005年5月 p81~89
  14. ^ 「常野集一」 茨城県立歴史館編『茨城県史料 幕末編 III』、茨城県 1993年 p50~56
  15. ^ a b c 『水戸藩史料 下編全』 p52
  16. ^ 『水戸藩史料 下編全』 p57~60
  17. ^ 『水戸藩史料 下編全』 p74
  18. ^ 『水戸藩史料 下編全』 p62~63
  19. ^ 石河幹修『石河明善日記十九』文久元年 水戸市立博物館
  20. ^ 『住谷信順日記九』、東京大学史料編纂所 3月29日の件
  21. ^ 『水戸藩史料 下編全』 p101~102
  22. ^ a b 坂井四郎兵衛編 『天保明治水戸見聞実記』、知新堂 1894年10月 p65
  23. ^ 『水戸藩史料 下編全』 p243
  24. ^ 『水戸藩史料 下編全』 p261~263
  25. ^ 石河幹修『石河明善日記二四』文久三年 水戸市立博物館蔵
  26. ^ a b 中山忠能 『中山忠能日記 原題・正心誠意 第三』、日本史籍協会 1916年7月 p644
  27. ^ 「近藤勇書状写帳」『佐藤彦五郎日記2』「日野宿本陣」文書調査団、2005年3月 p185~186
  28. ^ 『熾仁親王行実 第三冊 第六』、宮内庁 1898年7月 p25
  29. ^ 子母澤寛 「壬生屋敷」『新選組遺聞』、中公文庫 1977年 p138
  30. ^ 『佐藤俊正雑記 自文久3年至明治2年』、東京大学史料編纂所
  31. ^ 『風説都の錦 八』、早稲田大学図書館

関連項目[編集]