花谷正

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
花谷 正
Hqdefault-hanaya.jpg
生誕 1894年1月5日
大日本帝国の旗 大日本帝国 岡山県
死没 (1957-08-28) 1957年8月28日(63歳没)
所属組織 大日本帝国陸軍の旗 大日本帝国陸軍
軍歴 1914年 - 1945年
最終階級 帝國陸軍の階級―肩章―中将.svg 中将
テンプレートを表示

花谷 正(はなや ただし、1894年(明治27年)1月5日 - 1957年(昭和32年)8月28日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴[編集]

岡山県勝田郡広戸村村長・花谷章の息子として生まれる。津山中学校大阪陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉任官。歩兵第54連隊付となる。1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。

参謀本部付勤務、参謀本部員、参謀本部付(支那研究員、鄭州駐在)、関東軍参謀などを経て、1929年(昭和4年)8月、陸軍少佐に昇進し歩兵第37連隊大隊長に就任。

1931年(昭和6年)、関東軍司令部付(奉天特務機関)の時に、柳条湖事件を関東軍高級参謀板垣征四郎と関東軍作戦参謀石原莞爾と共に首謀。石原は、花谷の暴力を背景に、みずからの考えを通して行った。[1]その後参謀本部員を経て、歩兵第35連隊第1大隊長となる。1933年(昭和8年)には軍部批判をした北陸タイムス社を大隊を率いて独断で攻撃。同年8月、参謀本部付として済南武官となった。

1935年(昭和10年)8月、関東軍参謀となり、参謀本部付、第2師団司令部付、留守第2師団参謀長などを経て、1937年(昭和12年)8月、陸軍大佐に昇進。歩兵第43連隊長として日中戦争に出征。満州国軍顧問を勤めノモンハン事件で指揮をとる。1940年(昭和15年)3月、陸軍少将に進級。

歩兵第29旅団長、第29歩兵団長を歴任し、太平洋戦争第1軍参謀長として迎えた。1943年(昭和18年)6月、陸軍中将となる。同年10月に第55師団長に親補されビルマに出征し、第二次アキャブ作戦を指揮したものの無能で杜撰な作戦で大失敗となったが、責任を追及されることはなかった。

能力ばかりか人格面においても極めて問題のある人物で、第55師団長時代は部下の将校を殴り、自決を強要することで悪評が高かった[2]。また、日頃から陸大卒のキャリアを鼻にかけ、無天(陸大非卒業者)や専科あがりの将校を執拗にいじめ抜き、上は少将から下は兵卒まで自殺者や精神疾患を起こした者を多数出すなどしたため、部下から強い侮蔑と憎悪を買っていた。反面小心でもあり、行軍中も小休止の度に自分専用の防空壕を掘らせていた[3]

1945年(昭和20年)7月、第39軍参謀長に就任しタイ王国に赴任、第18方面軍参謀長として終戦を迎えた。1946年(昭和21年)7月に復員し予備役に編入された。戦後は軍人恩給で暮らしながら「曙会」という右翼団体を一人で運営した。

1955年(昭和30年)『満州事変はこうして計画された』(「別冊知性」 昭和30年12月号 河出書房)において秦郁彦の取材に答える形で、満州事変関東軍の謀略であったことを証言した。なお、満州事変は自衛であるとし、関東軍による謀略を否定していた当時の関東軍指導者である本庄繁板垣征四郎石原莞爾らは物故していた。

1957年(昭和32年)に病で倒れる。片倉衷が義捐金を募ったが、過去の悪行から花谷のことを嫌悪していた部下は一人としてこれに応じなかった。同年死去。旧満州関係者が列席して盛大な葬儀が営まれたが、部下は誰一人会葬しなかった。

親族[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 佐高信『黄沙の楽土』45頁
  2. ^ パチンコ文化史 「義父は無謀な命令に反し、退却を命じて、戦後自決 - 棚橋真作の精神に学んだ・岩下博明」日本遊技関連事業協会広報誌 2010年7月号
  3. ^ 詳細は高木俊朗『戦死 インパール牽制作戦』(文春文庫、1984年) ISBN 4-16-715103-0 を参照

参考文献[編集]

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  •  佐高信『黄沙の楽土』朝日新聞社 ISBN 4022575255