関羽
| 関羽 | |
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メトロポリタン美術館蔵(作者不詳・1700年代頃) | |
| 後漢 前将軍・仮節鉞・漢寿亭侯 | |
| 出生 |
生年不詳(→#人物) 司隷河東郡解県 (現:山西省運城市) |
| 死去 |
建安24年12月初旬(220年1月) 荊州南郡臨沮県 (現:湖北省襄陽市南漳県) |
| 字 | 長生→雲長 |
| 諡号 |
壮繆侯 忠義侯(→#追封と栄誉) |
| 廟号 | 関林 |
| 別名 |
渾名: 髯(『三国志』) 美髯公(『三国志演義』) 神号: 協天大帝関聖帝君(道教) 伽藍菩薩(仏教) 文衡聖帝(儒教) |
| 主君 | 劉備 |
| 氏族 | (→#家族) |
| 関 羽 | |
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| 各種表記 | |
| 繁体字: | 關 羽/關 羽 |
| 簡体字: | 关 羽 |
| 拼音: | Guān Yǔ |
| ラテン字: | Kuan1 Yu3 |
| 注音符号: | ㄍㄨㄢ ㄩˇ |
| 和名表記: | グァン・ユー |
| 英語名: |
Guan Yu Kuan Yu |
関 羽(かん う、?[注釈 1] - 建安24年12月初旬〈220年1月〉[1])は、中国後漢末期の武将。字は雲長(うんちょう)。もとの字は長生。
司隷河東郡解県(現:山西省運城市)の人(→#人物)。封号は漢寿亭侯、諡は壮繆侯(→#諡号)。子は関平・関興・女子、孫は関統・関彝(→#家族)。
生涯、蜀漢の創始者・劉備への忠義を貫き、人並み外れた武勇を持ち、義理を重んじたことから曹操など同時代の多くの人々から称賛された。死後には歴代王朝から爵諡を多数贈られ(→#評価)、のちに関帝(関聖帝君・関帝聖君)として神格化されると、中国国内に留まらず世界各地の華人・華僑から厚く信仰されるようになった(→#関羽信仰)。
小説『三国志演義』では蜀漢の「五虎大将軍」の筆頭として描かれる。作中ではその神聖視から諱で呼ばれることが避けられ、史実で美しいひげをたくわえていたことに由来する「
生涯
[編集]若き頃
[編集]出奔と出会い
[編集]家族や身分に関する背景情報は史伝に記されていない。もとの字は「
劉備に従う
[編集]劉備が故郷で挙兵すると[注釈 3]、関羽は劉備と同郷の琢郡の人・張飛とともにその護衛となり、のちに劉備が平原相に就任すると、2人は別部司馬に任じられ、それぞれ部曲(軍団)を統率した[4][8]。張飛は関羽が数歳年長であったことから兄のように慕い[9][10]、劉備は2人に兄弟のような深い恩愛を与え、寝台をともにする仲であった[11]。しかし、関羽と張飛は公の場においては劉備を主君として立て、常に側近くに仕えた[4][12]。こうした3人の関係性について、複数の研究者は彼らが「侠(義を重んじる者)」としての強い絆で結ばれていたと指摘するように[13][14]、関羽・張飛はいわば任客のような関係にあった[注釈 4][15]。
そののち功績により徐州を得た劉備は袁術との争いの最中、曹操に敗北して頼ってきた呂布の裏切りに遭い、本拠地を奪われたため曹操を頼ることとなった[16][17]。建安3年(198年)、曹操と劉備らが呂布を撃破すると、関羽は張飛とともに戦功を認められ、曹操から中郎将に任命された[18]。
曹操から厚遇された劉備であったが、建安4年(199年)、劉備は後漢の献帝から曹操暗殺の密命を受けた董承らと結び、曹操に叛旗を翻して徐州刺史の車冑を殺害し、徐州を占拠した[16][19]。劉備は関羽を派遣して徐州の中心都市にある下邳城(現:江蘇省邳州市[3])の守備および太守の事務代行を任じ[注釈 5]、自身は下邳の西にある小沛(現:江蘇省沛県)へ駐屯し[16][4][20]、挟撃の陣形で曹操へ備えた[3]。
曹に降り劉に帰る
[編集]曹操に降る
[編集]しかし建安5年(200年)正月、激怒した曹操が自ら東征して劉備を攻撃し、小沛を攻め落とされた劉備は袁紹を頼って逃走した[16][4][21]。このとき下邳にいた関羽は、夏侯博や劉備の妻子とともに曹操軍に捕らえられたが[22][16][4][23]、曹操は関羽を手厚く遇し、偏将軍に任命した[4][24]。
顔良を斬る
[編集]同年2月、曹操と袁紹が敵対する中、袁紹は先鋒に黄河を強渡させ、曹操軍の前線拠点である白馬(現:河南省安陽市滑県東)を包囲するよう命じた[3]。このとき曹操の主力軍は白馬から200里離れた官渡(現:河南省中牟県北東)に集中していたため[3]、関羽は曹操の配下である張遼(もとは呂布の配下)とともに、白馬にいた劉延を救援するため袁紹配下の先鋒・顔良の迎撃を命じられた[22][4][25]。
関羽は敵軍の陣中において顔良の旗印と車蓋(車の上の覆い)を見とめると、そのまま馬を走らせて突撃し、顔良の首級を挙げた。このとき袁紹軍の中で関羽の猛攻に対抗できる者はなく、白馬の包囲網はついに解かれた。この大功に対し、曹操は即座に関羽を漢寿亭侯(爵位)に封じた[注釈 6][4][24]。
忠義を貫く
[編集]曹操は関羽の人柄と武勇を高く評価していたが、関羽は劉備への忠義を貫き、曹操の陣営に帰順する見込みはなかった[4][24]。張遼を遣わしてその真意を問わせたところ、関羽はこう答えた。「わたしは劉将軍と生死をともにすると誓った仲であり、その恩義を裏切ることはできません。ただし、曹公からの厚遇には感謝しておりますので、必ずや功績を立てて報恩いたします」。この返答を聞いた曹操は、関羽の義理堅さに深く感心した[4][24]。その後、関羽が袁紹軍の顔良を討ち取って大功を立てたので、曹操は彼が劉備のもとへ去ることを予期しつつも、あえて厚い恩賞を与えた[4][26]。関羽はこれらの賜り物に一切手を付けず封印し、曹操へ書状を捧げて別れを告げると、劉備のもとへ出奔した。曹操はその義侠心を称賛し、関羽を追撃しようとした配下たちを制止して、「追ってはならない」と言い聞かせた[4][27]。その後、関羽は劉備と再会し[16][21]、劉備が袁紹のもとを去って荊州の劉表を頼ると、これに同行した[4][28]。
荊州を鎮守する
[編集]

(1853年・大英博物館蔵)
7年もの間、居候として無為に過ごした劉備だったが[3]、建安13年(208年)、襄陽の諸葛亮を三顧の礼で迎え入れて重用するようになると、関羽は張飛とともに強い不満を覚えた。しかし劉備は、「わたしと諸葛亮の関係は魚が水を得たようなものである(水魚の交わり)」と2人を諭した[29][30]。
同年、劉表が病死し、曹操が荊州へ侵攻すると、樊城(現:湖北省襄陽市[3])から南下して江陵(現:湖北省荊州市荊州区[3])を目指した劉備の指示により、関羽は数百隻の船団からなる別働隊の指揮を執った[4][27]。途中、長坂の当陽で曹操軍の追撃を受けた劉備は敗北したものの、漢津で関羽の船団と合流して危地を脱し、ともに夏口へ向かった[4][27]。その後、諸葛亮と魯粛の仲介によって孫権が劉備へ援軍を派遣すると、孫権・劉備連合軍は赤壁の戦いで曹操軍を破り、曹操は荊州制圧を断念して撤退した[4][31]。
建安14年(209年)、孫劉連合軍と曹操軍の間で南郡攻防戦が始まる。関羽は北道を封鎖して曹操軍の援軍を防ごうとしたが、李通率いる曹操軍に突破され、包囲されていた曹操の従弟・曹仁は救出された。しかしその後、曹仁らは江陵を放棄して撤退したため、周瑜らは江陵を占拠し、南郡の平定に成功した。その隙に劉備は江南の諸郡(武陵・長沙・桂陽・零陵)を平定し、公安(油江口)を本拠地とした[32][33]。そして関羽を襄陽太守・盪寇将軍に任命、長江北方の守備を任せた[注釈 7][4][34]。しかし、この荊州における所領の拡大と布陣は、のちに孫権との間で深刻な争いの火種となる[3]。
劉備が益州へ進出して劉璋と敵対すると(劉備の入蜀)、諸葛亮・張飛・趙雲らは益州へ向かい、荊州の留守は関羽が単独で預かることとなった。この頃、襄陽に駐屯していた曹操配下の楽進と襄陽郊外の青泥で対峙したが、その攻撃を受けて蘇非と共に敗走している。このとき、文聘に関羽の輜重や軍船を焼かれたという[16][35]。その後、荊州刺史・傅羣の主簿であった楊儀が関羽のもとに降ってきた。関羽は楊儀を功曹に任命して劉備のもとへ使者として派遣し、劉備はその才能を認めて手元で重用した[36]。のち劉備が益州を平定すると、関羽は張飛・諸葛亮らとともに多大な恩賞を受け[9]、荊州の軍事総督に任命された[4][34]。
孫権軍との衝突
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(1836年頃・大英博物館蔵)
建安20年(215年)、荊州領有の正当性を主張する孫権は、問題が解決しないことに業を煮やして呂蒙らに命令を出し、長沙・桂陽・零陵の三郡を襲撃させた。呂蒙の謀略により零陵太守の郝普は降伏し、これを受けて関羽は3万の兵を率いて益陽へと布陣した。さらに劉備も自ら大軍の指揮を執って関羽の助勢に駆けつけ、一時は孫劉同盟の崩壊の危機に至った[16]。しかし、これを打開するため、関羽は背後で工作を行い、長沙郡の安成・攸・茶陵の三県や、揚州廬陵郡の永新県の官吏らが桂陽の陰山城で謀反を起こし、さらに長沙郡の安成県令・呉碭と中郎将の袁龍も関羽と気脈を通じ、再び反乱を起こした[37]。
こうした情勢に加え、この年に関羽が陣取る北で曹操が自ら大軍を率いて漢中の張魯を攻撃したことから、両陣営に和平の機運が高まった。結果として関羽と魯粛の会談が実現したが、会談は孫権側の魯粛のペースで進み、関羽はしばしば論破された[38]。最終的に、湘水を境界として長沙・江夏・桂陽を孫権領とし、南郡・武陵、そして一度は奪われた零陵を劉備領とすることで合意に至った[16][3]。
建安22年(217年)の魯粛の死後、陸口に赴任した呂蒙はひそかに計略をめぐらせ、表面的にはこれまで以上に関羽と親密に接した[39]。だが、関羽の荊州統治は恩徳と威信がよく行き渡っていたため、呂蒙はなかなか隙を見出すことができなかった[40]。あるとき孫権から自身の子と関羽の娘との婚姻を申し入れる打診があった。しかし、関羽はこの使者を罵倒して縁談を拒絶したため、孫権を激怒させた[注釈 8][4][41]。
威を華夏に震わす
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(1854年・大英博物館蔵)
建安23年(218年)、曹操配下の侯音は関羽に備えていたが、宛で曹操に対して反乱を起こし、関羽と気脈を通じた。また魏に従わない反乱者や盗賊の中には、弘農郡陸渾県の孫狼のように関羽から印綬や称号を受けて魏に反抗する者たちもいた。建安24年(219年)春正月、曹操の部将である曹仁と龐徳は宛を陥落させ、侯音を斬った。
秋7月、劉備が漢中王に即位すると、関羽は前将軍・仮節鉞に任じられた[3]。この直後、関羽は子の関平や都督の趙累らと共に樊城を守る曹仁を攻撃・包囲した。翌8月、豪雨によって漢水が氾濫し、水深は5〜6丈(10m以上)にも及んで樊城一帯を覆いつくした[3]。樊城北に駐屯していた[3]于禁率いる七軍はすべて水没し[4][42]、これを好機と見た関羽は船団を率いて攻撃をかけ、于禁を降伏させると[3]、さらに龐徳をも斬った[注釈 9][4][43]。関羽はさらに別将を派遣して呂常が守る襄陽までも包囲し、曹操から派遣された地方官たちは相次いで投降した[3]。関羽が周辺各地へ印綬を配って工作したこともあり、梁・郟・陸渾といった曹操領内の群盗が一斉に蜂起し[4][41]、関羽の威武は中原を大いに震わせた[注釈 10][4][43]。
この事態に狼狽した曹操は臨時の首都を許県(現:河南省許昌市東)から黄河北へ遷都させようと考慮したが[3]、司馬懿と蔣済は「于禁らの敗北は天災によるものであり、国家の基盤が揺らいだわけではない」と諫めた。さらに、孫権を利用して関羽を背後から攻撃させる策を提案したため、曹操はこれを受け入れた[注釈 11][4][41]。その一方で徐晃を派遣して曹仁を救援させ、さらに董昭の進言により「孫権が関羽の背後を攻撃する」という情報をあえて樊城の守備軍や関羽軍に漏らさせた。この情報により樊城の曹操軍の士気は大いに上がることになる。
関羽は当初、孫権に対する備えとして長江沿いに守備兵を置いていた。しかし、病気と称して前線を離れた呂蒙の後任として、陸口に赴任してきた陸遜の謙った手紙にあっさり油断して警戒を解き、江陵や公安の守備兵を前線へと送ってしまった[注釈 12][39][46]。これを見た孫権は呂蒙・陸遜らに命じて関羽への攻撃を開始した[注釈 13]。当時、劉備は南郡を糜芳に、公安を士仁に守備させていたが、両者は日頃から関羽との折り合いが悪かった。そこに着目した呂蒙は巧みに誘いをかけて両者を寝返らせ、関羽の重要拠点である江陵・公安を無血で奪取した[4][41]。その後も陸遜らの働きによって荊州の劉備領は次々と攻略されていった。
最期と死後
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(桜井雪館・フィールド自然史博物館蔵)
襄陽・樊城を落とせなかった関羽は、やがて徐晃の攻撃を受けて敗北し、樊城の包囲を解いた[注釈 14][4][41]。拠点陥落の報が届くと、関羽軍の士気は完全に動揺し[3]、襄陽の包囲も解いて撤退を余儀なくされた[47]。
関羽は呂蒙のもとへ何度も使者を送り、状況を探ろうとした。しかし呂蒙は、使者に対して関羽の部下たちの妻子を厚遇している様子をわざと目撃させた。その使者の口から家族の無事を知った関羽の将兵たちは戦意を失い、やがて軍は四散して大半が孫権軍へと降伏していった[39][4][41]。孤立した関羽は当陽まで引き返したものの、孫権が自ら江陵に軍を率いてきていることを知り、江陵の北西100里に位置する麦城(現:湖北省当陽市南東[3])へと逃走した[1][39]。孫権から降伏を勧告する使者が派遣されてくると、関羽は偽りの降伏を見せかけて脱出した[1]。しかし建安24年12月初旬(220年1月)、臨沮県の章郷(現:当陽市北東)において退路を断たれると[3]、関平らと共に捕らえられ、ついに処刑された[注釈 15][注釈 16][4][49]。『呉歴』によれば、関羽の首級は孫権の使者によって曹操のもとへ送られ、曹操はこれを諸侯の礼をもって洛陽に葬った[52][53]。
章武2年(222年)、関羽を失い激怒した劉備は呉征討を決意したが、その出兵準備の最中に張飛は部下に暗殺された[9][54]。その後、劉備率いる蜀軍は夷陵の戦いで呉軍に大敗を喫し、章武3年(223年)6月、劉備は白帝城で病没した[16][55]。
人物
[編集]出自・容貌
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- 出自に関する情報は「河東郡解県の人」であること以外は史伝に記されず、家族や身分については記されていない[56][3]。歴史学者の渡邉義浩は、劉備・張飛と「侠」としての強い繋がりがあったことを理由として庶民の出と見なす説をとっており[57]、他の研究者間でも庶民とする見解が有力である[58][59][3]。
- 関羽の本来の字は「長生」であり、のちに「雲長」へと改名した。
- 渡邉は、古代の命名には諱と字に関連性を持たせる慣習があったことを指摘し[注釈 17]、「長生」では「羽」との関連性が見出せないことから、関羽が当初は命名の慣習を知らない庶民の出であった根拠とし、のちにそれを学んで改名したと推測している[56]。
- これに対し、歴史学者の方北辰は異なる解釈を提示する。中国の伝説における神仙は不老不死(長生)の存在であり、羽毛を生やして自在に飛翔することから、「長生」と「羽」の間には明確に関連性があるという。そして、「雲長」とは「広大な雲海を、羽毛を生やした神仙が飛翔する」という詩的なイメージを表現したものであり、改名の理由は命名慣習の無知ではなく、「(長生では)率直すぎて風情に欠けると感じ」たからではないかと推測している[3]。
- 故郷を出奔して涿郡へ亡命した理由は史書に記されていないが、出身地が中国最大の塩湖である「解池」の近郊であったことから、「暴利をむさぼる塩商人(あるいは悪人)を殺害して官吏に追われ、幽州へ亡命した[62]」といった、殺人の罪にまつわる民間伝承[63]が存在する(→#民間伝承)。
- 年齢は不詳[注釈 18][注釈 19]。『三国志演義』では「58歳で没[65]」、「身長9尺(約208cm)」、「赤ら顔」、「得物は青龍偃月刀」などと描かれるが、これらはすべて正史に記述のない後世の創作である(→#創作上の関羽)。しかし史実においても美しい鬚髯(しゅぜん:あごひげとほほひげ)をたくわえており、諸葛亮からは親しみを込めて「
髯 ()」と呼ばれていた[66]。
性格・逸話
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(葛飾応為『関羽割臂図』・1840年代)
- 虞溥『江表伝』によると、『春秋左氏伝』を好み、ほぼ暗誦することができた[68][10]。
- 敵味方に分かれながらも張遼や徐晃とは深い親交があったという。『傅子』では張遼が関羽を「兄弟」と呼んでおり[69][27]、『蜀記』では徐晃を「大兄」と呼んでいたとされる[70][71]。
- 王隠『蜀記』には関羽に関する逸話が多く記されている。
- 劉備が曹操と共に呂布を包囲した際、関羽は呂布の部将である秦宜禄の妻(杜氏)を娶ることを曹操に願い出ると、これを認められた。そして呂布を撃破すると、関羽は何度も曹操に願い出たが、その美貌に目を留めた曹操が自らの側室としてしまったため、関羽は心中動揺したという。この逸話は『魏氏春秋』にも記されている[72][73]。
- かつて劉備らが許昌にいたころ、曹操とともに狩猟へ出向いたことがあった。その最中、曹操の護衛らが散らばった隙に、関羽は劉備に対して曹操を暗殺するよう進言したが、劉備はこれを受け入れなかった。のちに長坂での敗戦を経て夏口へ落ち延び、川のほとりで身を寄せ合っていた際、関羽は「あのとき私の進言に従っていれば、このような窮地に陥ることもなかったものを」と不満を漏らした。これに対し劉備は、「あのときは国家の大事のために彼の勢力を利用する必要があったのだ」と諭したという[注釈 21][76][34]。
- 関羽が樊城を包囲したとき、豚に足を噛まれる夢を見た。そして関平に「わたしも老いたが、しかし、もう引き下がるわけにはいかない」と語ったという[77][10]。
- 蜀漢の滅亡時、龐徳の子が関羽の一族を滅ぼしたという(後節)。
- あるとき流れ矢が左腕に当たり、傷が癒えた後も骨が疼痛するので医者に見せたところ、矢じりの毒が骨にまで染み込んでいたため、関節を切開させて骨を削り取らせることにした。関羽は部下たちと宴会の最中で手術を受け、痛むそぶりも見せずに酒を飲んで肉を喰らい、平然と談笑していたという[注釈 22][4][79]。
- 自負心が強く傲慢な面があり、同僚を軽んじる傾向があった。
- 糜竺の弟で糜夫人の兄である糜芳や、将軍の士仁とは折り合いが悪く、荊州治中の潘濬とも親交を結ぼうとしなかった[4][80][81]。
- 張飛とともに、劉備が諸葛亮をあまりに厚遇していることに嫉妬したが、劉備に諭されると態度を改めた[82][83]。
- 馬超が劉備に帰順した際、諸葛亮へ手紙を送り「馬超の力量はどの程度か」と尋ねたところ、「馬超は張飛と並び立つ者だが、髯の絶倫には及ばない」との返信をもらい、大いに喜んでその手紙を客人に見せびらかしたという[66][34]。
- 関羽が前将軍に、黄忠が後将軍に任じられると知ると、「あんな老兵と同格になれるか!」と激怒して就任を拒否しようとした。しかし、使者の費詩から君臣のあり方を説かれて諫められると、深く反省して即座に拝命した[84][85]。
家族
[編集]系図・血縁関係
[編集]小説『三国志演義』では劉備・張飛と義兄弟になっているが、史実ではそれぞれ世代を超えて姻戚関係が築かれている[86]。
子孫・系譜・異説
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三義廟の関羽像
『三国志』には3人の子(二男一女)と、孫2人が記されている。
- 関平は関羽と共に処刑された[4][41]。
- 関興は蜀漢の官僚として将来を嘱望されたが、20数歳で早世している[注釈 23][49][4]。
- 関羽の娘(名は不詳)は、民間伝承に登場する「関三小姐[93]」、「関銀屏」のモデルとされる(→関銀屏)。
- 孫の関統は劉禅の娘(生母不詳)を娶っている[4][49]。
- 王隠『蜀記』によると、炎興元年(263年)、蜀漢の滅亡の際、関羽に殺された龐徳の子である龐会が、関羽の一族を皆殺しにしたという記録が残る[94][10]。一方で、『三国志』を著した陳寿や、蜀の地誌『華陽国志』を著した常璩らは、いずれも「関羽の一族が皆殺しにされた」という話を記していない[注釈 24]。
後世の系譜や記録では以下の人物が関羽の子孫とされる。
正史に記載のない人物は以下のとおり。
『関侯祖墓碑記』
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関羽の曽祖父、祖父、父の塑像
清代の解州州守・王朱旦の『関侯祖墓碑記』によると、康熙17年(1678年)に解州で井戸を浚えていた作業員たちが断碑を発見し、そこには関羽の一族に関する名前や生没年が記録されており、さらに墓道も発見したという。その内容は次のとおり[64]。
学者である馮景 (清)はこれらの記録を信憑性のあるものとして重んじたが[97]、考証学者の趙翼は次のように数々の矛盾を指摘し、「果たして本当に信じるべきか、それとも虚偽か。とりあえず一説として備えておく」と慎重な姿勢を示している[98]。
『関氏家譜』
[編集]2008年8月下旬、関羽の家系譜とする『関氏家譜』が発見されたと香港の新聞社・大公報が報道した。家譜を管理する鄭州市檔案館によれば、清の康熙帝の時代(1684年)に編纂されたものだという。なお、1988年に当該家譜を保管していた一族の者が、そうと知らずにトイレットペーパー代わりにページをちぎり破ったため、一部が破損している[99]。
祠墓
[編集]関羽の墓は主に以下の3か所が知られる。詳細は各記事を参照。
評価
[編集]同時代の評価
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(明代・平原博物院蔵)
曹操からは劉備に対する揺るぎない義理立てを高く評価された。関羽の死後、劉備が呉に対して報復を行うかどうかを曹丕が臣下に諮った際、臣下たちは「蜀は小国にすぎず、名将といえば関羽だけです。その関羽が死んで軍も敗北したのですから、国内は不安と恐怖に包まれており、再び打って出るわけがありません」という意見で一致した[100]とあるように、その武勇は当時の諸勢力からも、たびたび張飛とともに称えられた。
その一方で、元部下であった廖立からは「自分の勇名を恃んで猪突猛進したため、前後の戦役(樊城の戦い)でたびたび兵を失う原因となった[111]」と批判されるなど、その傲慢な性質は評価の分かれるところでもあった。蜀漢の楊戯も『季漢輔臣賛』において、張飛と共にその気宇の大きさと危うさを並び称している。
『三国志』を著した蜀漢・西晋の陳寿は、関羽・張飛の人物評をこうまとめている。
陳舜臣はこれを、関羽も張飛も、共に低い身分から士大夫に出世したが、関羽の場合は今や同じ身分となった士大夫に対しての傲慢な振る舞いとなり、張飛の場合は士大夫に出世したことを喜んで同じ身分の者には敬意を払ったが、下の者に対して傲慢になるという正反対の行動になったと解釈している[59]。
後世の評価
[編集]唐代には、唐朝以前の中国史を代表する名将64人の一人として、蜀漢から張飛と共に「武廟六十四将」に祀られている。さらに宋代に朱子学が興隆すると、道徳秩序の再構築と忠孝節義の奨励が進められたことから、蜀漢の諸葛亮・関羽・張飛は「三英」として顕彰される重要人物に位置付けられた[116]。以降、「義」の体現者として広く評価・神格化が行われ、「関聖帝君」として民衆の間でも厚く祀られるようになっていく(→#追封と栄誉、#関羽信仰)。
- (呉~西晋)陸雲:「関羽は滔天の勢いを誇り、雲のごとく西土に作興した。帝は将軍に詔し、その熊虎の如き猛き軍勢を整えしめた」[117]
- (西晋)張輔:「張飛・関羽は、みな人傑である」[118]
- (西晋)趙廞:「李玄序(李庠)は、まさに一時代の関羽・張飛のような人物である」[119]
- (西晋~東晋)葛洪:「皆が勇力がずば抜けている者を、上将の器であると言う。治乱をよく聞き知る者を、三九の才であると言う。しかし、張飛や関羽は万人敵であったが、みな首を喪い主君を辱め、しかるべきでない場所で首を差し出した」[120]
- (南涼)禿髪傉檀:「臣子が君父のもとへ逃げ帰ることは、古来より変わらぬ大義である。それゆえ魏武(曹操)は関羽の帰順を称賛したのだ」[121]
- (西涼)李暠(武昭王):「群雄の優れた足跡を讃え、関羽・張飛の卓越した気風を嘉みする。曹公に報いることを誓って劉備のもとへ帰還した、その義勇のなんと超越していることか! 断橋に拠って矛を横たえる姿もまた、雄々しく壮大な発露である」[122]
- (東晋)常璩:「初め、張飛の勇猛さは三軍に冠し、関羽と共に万人敵と称された。羽は小人をよく待遇したが士大夫には驕り、飛は君子を愛し敬ったが小人を顧みなかった。これこそが皆、敗れた所以である」[123]
- (前涼)張茂:「劉曜は呂布や関羽に匹敵しうるというのに、曹操には及ばないと論じるのは、どうして誤りではないと言えようか」[124]
- (北魏)宣武帝:「卿は進みては陳平が漢に帰順したような智謀もなく、退いては関羽が節義をまっとうして殉じた忠義に欠けている。窮城に閉じこもって長沔の地で憂悶するのみであり、機知も勇気も両方欠如している。なんとも嘆かわしいことではないか!」[125]
- (北魏)崔鴻:「劉淵の別将である劉翼は、驍勇さが人並み優れ、片手で殿の柱を持ち上げ、平陽門を跳び越えた。時の人は彼を張飛・関羽になぞらえた」[126]
- (南朝梁・北周)庾信:「公(田弘)は仕官すること45年、身に106回の戦いを経た。身体を貫く戦傷や刃に冒されるさまは曹参をはるかに超え、骨を削って薬を塗る治療は関羽の故事に多く重なる」[127]
- (南朝陳)呉明徹:「君(蕭摩訶)には関羽や張飛の名声があるのだから、あの顔良を斬るようなものだ」[128]
- (隋)虞世南:「利に動かず、爵位に縛られず、威に屈せず、害に折れず。心はきわめて誠実にして、義烈はきわめて激しい。偉大なる丈夫、真の豪杰。綱常はすべて備わり、古今これに絶ゆ」[129]
- (初唐)王勃:「先主(劉備)の寛仁にして衆を得たこと、張飛・関羽が万人敵であったこと、諸葛孔明が管仲・楽毅に比すべき傑物であったこと。この三者が力を合わせれば、天下を取ることも可能であっただろう」[130]
- 劉知幾:「関・張は傲誕をもって将軍とし、桑弘羊・霍光は満盈をもって職に居る」[131]
- 賀遂亮:「趙雲は一身全て胆、勇敢三軍。関羽は万人の敵、その声名は百代にわたって雄々しい」[132]
- 楊炯:「城を攻め野戦に臨むにあたっては張飛・関羽、奇策密謀においては荀攸・賈詡」[133]
- 杜甫:「誰が関羽・張飛と並び称されるだろうか。功績は耿弇・鄧禹の功臣に臨る。天資に応じること小さくなく、士を得るにあたって比類なき契りがあった」[134]
- 趙蕤:(虞世南は言う)あの孔明(諸葛亮)は、時代に命じられた稀代の奇才であり、伊尹や呂尚(太公望)の匹敵者であった。(中略)もし、彼を曹公(曹操)と地を換えて処り、その長算を存分に振るい、関羽・張飛の武略をほしいままにし、諸葛の文徳を尽くさせれば、覇王の大業は成し遂げられていたであろう」[135]
- 岑参:「敵騎が無数に襲来すれども、君を見ては敢えて対当することなし。漢の将軍ならば小衛青・霍去病であり、蜀の将軍ならば関羽・張飛を凌駕する」[136]
- 王維:「関羽の絶倫さによらずして、どうして虎臣の間に身を置き閣にその形を儀形することができようか」[137]
- (中唐)李徳裕:「蜀の先主は、関羽・張飛と寝起きを共にしたが、大勢の人の集まる場所では、彼らは終日そばに侍立していた。皆、この道を用いたからこそ、成功を収めることができたのだ。そもそも英傑を御し、猛将を使うのは、道徳を身につけた人物と会い、方正な士と交わるのとは違う。煩雑な礼儀で外見を飾り、浮ついた言葉で繕ってはならない。胸襟を大きく開き、肝肺を見せるべきである。気迫でその勇猛さを畏縮させ、恩愛でその心を結びつけるのだ。たとえ裸足で座って召し寄せたとしても、粗略とはならない。安禄山は、夷狄(異民族)の中の狡猾な者であって、将門の英豪や、在野の奇傑ではなく、その戦闘の気概、撃刺の才は、関・張からは遥かに遠い」[138]
- 郎士元:「将軍は天性の資質を秉り、義と勇は今昔に冠たり。馬を走らせて百戦の場を駆け、一剣をもって万人の敵たり。誰ぞ感恩の者と言うべきか、意は故郷へと思いを馳せる帰郷の客にある。流落して荊州・巫山の間にあり、徘徊して故郷とは隔てられている。別れの宴でこの宮宇に向かい、暮れゆく青天のもとで酒を洒ぐ。去りゆくのみで語る言葉もなく、悲しみを抱いて昔日の跡地へと向かう」[139]
- 元結:「いかなる人の恩信が田横を過ぎており、いかなる人の壮勇が関羽に等しいであろうか」[140]
- (晩唐)杜牧:「天下に双璧なき将軍、関西第一の雄。黄石公より兵符を受け、白猿翁より剣術を学ぶ。矯々たる雲長の勇気と、恂々たる郄縠の風範」[141]
- (晩唐〜前蜀)徐夤「雖も関張を倚みて萬夫を敵とするも、豈恩信を良図と作すに勝得んや。能く漢祚の三分せる業を均し、荊州の六尺の孤に背かず。緑水に魚有りて賢已に得られ、青桑蓋如くにして瑞先づ符す。君王幸いに是れ中山の後なるに、国を建つるに如何ぞ蜀都と号する」[142]
- 貫休:「龔遂や劉寛のように慈しみに満ちていようとも、張飛や関羽のようにはやたらに駆け回りはしない」[143]
- 皇帝僖宗:「前左武軍大将軍の宋皓は、関羽・張飛の勇気と智略を負い、韓信・白起の英雄の気風を有し、累次して戦功を著し、ふたたび宿衛の官に任じられた」[144]
- (五代十国) 後晋の出帝・石重貴:「(張彦沢を評して)猛きこと関羽・張飛のごとく、気概は荊軻や聶政を呑み込み、重要な任務を任されては常に多大な功労を著した」[145]
- (新羅)崔致遠:「いわゆる〈非常の人ありて、のちに非常の事あり〉という。絳侯(周勃)や灌嬰もまた一時の俊傑であり、関羽・張飛も累代の功名にあらずして、その氏名を金鼎や玉鐘に刻み、その儀形を雲台や煙閣に飾る。永くそのすべてを語り尽くして、誰ぞあえて先を争う者があろうか」[146]
- (北宋)徐鉉:「唐室は崩壊し、諸侯が角逐した。呉武王は春秋五覇の桓公・文公のような挙兵を行い、我が先君は関羽・張飛の用兵にならった。敵陣を打ち破り地を掠め、向かうところ前に行く手を阻むものなし。功績は時代に加わり、慶事は後代に鐘まった」[147]
- 孔平仲:「狄青、字は漢臣。李元昊が叛いた際、たびたび兵を率いて出陣し、四年の間に大小二十五度の陣を交え、流れ矢に当たることは八回に及んだ。人々は彼を〈狄天使〉と呼び、皇帝がその儀表をご覧になって言われた。〈朕の関羽・張飛である〉」[148]
- 陳淵:「当時、先主は関羽・張飛を得たればこそ、西川の弱を以て強に勝たしめることができたのだ」[149]
- 李邦直:「天下の義士たちは、雲長の徒が腕をまくって徐々に去っていくように、管寧の属が海に浮かんでこれを避けた」[150]
- 張士貴:「これこそ絳州の義軍都頭目である薛懐玉である。この人は勇ましきこと関羽・張飛のごとく、智謀は伊尹と同じくし、大任を担うにふさわしい」[151]
- 曹勛:「帝は関羽・張飛の勇を認め、その気概は豺虎の群れをも呑み込む。忠誠は白日に照り輝き、終始一貫して明君を輔翼した。その功績は星辰の如く耀き、哀悼と栄誉は鳳口の墳墓に集まる。家を伝えて賢嗣あり、血の涙は江上の雲に入る」[152]
- 張商英:「月は欠けても光を改めず、剣は折れても鋩を改めず。月は欠けても白く満ち易く、剣は折れてなお霜を帯びる。勢利は尋常の事なれば、志士の腸を屈せしむること難し。男児に死節あり、殺すべしにして量るべからず」[153]
- 朱熹:「ちょうど関羽が顔良を擒にしたようなもので、ただこの人の存在しか知らず、他に誰も目に入らず、まっすぐにその首を取って帰ったのである」[154]「関羽は才能を恃み気性が疎略であったため、自らその敗北を招いた」[155]
- 洪邁:「古来より威名ある将軍にして、蓋世の功勲を立てながらも、晩年に過ちを犯して全うできず、多くは功績を恃み能力を誇り敵を軽んじたことに失着している。関羽は万衆のなかにあって袁紹の二将・顔良と文醜をその手で斬り殺した[注釈 26]。そして曹仁を樊城に攻めたときには、于禁ら七軍をみな没し、関羽の威武は華夏を震わし、曹操は許都の遷都を議してその鋭鋒を避けようとした。その功名は盛大であった。しかしながら、呂蒙や陸遜の詐術を悟らず、竟に孫権の計略に堕ち、父子ともに囚われの身となり、大事を敗るに至った」[156]
- 陳亮:「そもそも関羽は勇を好みにして謀がなく、気概を恃みにして功績に驕っていた。このゆえにその形勢は極めて計略にかけやすかったのである」[157]
- 陳元靚:「剣気は雲を凌ぎ、実をこれ虎臣と曰う。勇は一国のごとく、万人の敵たり。蜀はその翼を展べ、呉はその鱗を折る。惜しいかなその中庸ならざる勇は、前後を通じて比類なきものであった」[158]
- コルイ:「崇宁廟に参謁すれば、遺容古貌は寒々たり。戈を奮って漢の王祚を扶け、将を斬って曹瞞(曹操)に報ゆ。忠烈は条山と並び、英霊は土を解して安んず。未だ呉・魏を雄にすることができずとも、常に後人に嘆息せしむ」[159]
- 迺賢:「昔、玉泉寺に遊び、馬を松樹の林に系ぐ。大影の上に独り坐し、浩歌して梁父吟す。老衲林の下より来たり、我に三古の印を示す。連環は螭紐を絡み、篆画は蒼暈を蝕む。将軍の筋は敵なく、勁気は九州に横たわる。志は漢の鼎を復することにあり、豈に身の封侯を事とせんや?昭烈の勢いは孤危にして、侯を恃みて堅塁と為す。威は曹家の阿を震わし、胆は中夜に起きて落つ。浮雲は幾たびか変滅し、瑑刻は実に模すべし。今人の千載の下、拂拭して空しく嗟吁す」[160]
- 李廌:「英雄を並べれば、関・張はその武を奮い、俊良を登用すれば、龐統や蒋琬はその職をよく務める」[161]「三方は各々虎視眈々と踞り、猛将みな群れをなす。屹然として万人の敵、唯だ髯(関羽)のみ絶倫と称す。節を仗じて気は世を蓋い、矟を横たえて勇は冠を競う」[162]
- 黄履翁:「古の烈士の才略といえば、向寵、柳渾、蔡道貴、鮑昭である。あるいは軍事に明るく、敵を万里の外から見抜き、あるいは勇猛さが関・張に比し、あるいは太原での治績が顕著である」[163]
- 汪藻:「重囲を決して勝ちを制す、張飛・関羽の万人の敵のごとくである」[164]
- (金)趙秉文:「壮なること敵を破るが如く、勢いはことさら賊を擒にするが如し。関羽の義勇や、張綱の奮烈に至っては、堅陣より鯨鯢(大魚・大悪人)を取り、進路に立ち塞がる豺狼を叱咤する」[165]
- (南宋)岳飛:「一死など取るに足らない。後世の書物に岳飛の名を知らしめ、関・張ら輩の不朽の功烈に我も連なることを望むのみ」[166]
- 劉克荘:「骨はすでに黄泉の下に朽ち果てたが、その伝記はいまだに青史の中に列せられている。猛き朴の時代に到りては相となり、関・張の運が去りては英雄となる」[167]「甘寧や関羽は今に至るまで伝えられ、名将が神となることは古来より然りである。生きて三万戸の封侯を受けずとも、死してなお数千年にわたり祭祀を受ける」[168]
- 陳著:「厦は傾き木は支えにならず、鼎は重く足が先に折れる。関羽や張飛も天寿を全うせず、儀秦や秦開もまた舌を失う」[169]
- 賈似道:「勝負どころでの関・張の勇猛さを知るべし、頭は小さく牙は長く、体は金の如し」[170]
- 陸游:「顔良や文醜を知って何ほどの益があるだろうか。関羽や張飛の死は痛ましい。同じく人中の驍将と称されながらも、太山は一筋の毛先にも及ばない」[171]
- 葉適:「耿豪はたとえ凶暴粗暴であって取るに足りないとしても、これに関張を比擬するのは、またしてもその細事にすぎない」[172]
- 員興宗:「我が故郷より遣わした騎馬兵は、斥候騎兵にすぎない。どうして誰でも彼でも関・張のようであろうか!」[173]
- 蕭常:「関羽や張飛は万人の敵たる勇猛さには富んでいたが、その行いを慎重に探ることを知らなかった。彼らは皆、国士としての風格を持っていたが、しかし羽は剛情で驕り、飛は暴虐で恩に乏しかった。これこそが彼らが敗れた所以である」[174]
- 胡琦:「孰れか雲長の大勇憤発し、心に義を忘れず、漢の昭烈に事え、生死を同じくすることを誓うに如かん。荊州を守ること九年、賊はこれを虎の如く畏れ、討樊の挙は、忠烈の気宇を鼓し、奸雄の胆を破る、壮なりと謂わざるべけんや! 惜しいかな事機垂成にして、禍は所忽するに生じ、乃ち其の志を守り、終始回らず、卓然として漢の忠臣たり、独り後世に称せらる。玉泉に廟食し、今に至って絶えず。四方の祈謁、霊応は響くが如し、亦た盛んならずや? 及んで其の事迹本末具存するを考うれば、国志の載せざる所は衆籍に散在し、文字交錯し、検尋を用い難く、これを覧る者病まざるはなし」[175]
- 張珣:「憶ふ昔の天下初めて三分し、猛将并び駆りて誰か群を軼する。桓々たる胆気は万人の敵、臥龍は独り髯将軍を許す。威は曹瞞を呑み込んで許を遷さんとし、中興の当日は元勲を推す。惜しいかな我が壮繆の功は就ならず、竟に豺兕をして還りて紛紛たらしむ。血食千年廟貌古く、歳時歌舞今だに勤む。君見ずや天都・霊武の巣いまだ覆らず、髀を撫でて常に漢寿君を思ふ」[176]
- 方回:「万人が翰墨を執れども、一人の曹思王(曹植)なし。万人が干殳を握れども、一人の関雲長なし」[177]
- 龔開:「大刀の関勝は、どうして雲長の孫と言えようか。雲長の義勇、汝はその子孫なり」[178]
- (元)郝経:「関羽と張飛は昭烈と血を啜って義をもって立ち上がり、早くから君臣の分を定め、漢室の回復を期し、百度折れながらも王業を興した。唸るさまは二虎が風に嘯き、龍に従うがごとく、張飛がこれを挟み、雄猛さは一世を震わせ、「万人敵」と号された。関羽は曹操に報恩の書を送り去り、張飛は瞋目して矛を横たえて曹操と決した。その義烈は天に届き、漢はこのためにも滅びなかった」[179]
- 「羽の儀状は雄偉にして、岳々として義を尚び、厳として神人のごとし」[180]
- 「昔の魏武(曹操)の関侯に対するに、梁の髙祖(蕭衍)の賀抜勝に対するに、孔明の徐庶に対するに、みな謀臣猛将にして、反覆して去就し、その留まらざるを知り、意なお固く止むることなし」[181]
- 「雲長は万人の敵にして、而るに呂蒙がこれを襲取す。昭烈は一世の雄にして、而るに陸遜がこれを摧破す。漢の義師は、復た東征せず。ただ梁・益を保ち、呉は遂に荊・揚を蹈み跨ぐ。操は図るべからず、丕は乃ち曹氏より禅代す。遂に中国を有し、而して天下三分す、殆ど人謀にあらずして亦た天意なり」[182]
- 「馬を躍らせて将を万衆の中に斬り、侯印賜金は自ら封を還す。刀を横たえ書を拝して曹公を去り、千古凛々たる国士の風。荊・益を跨有して戦攻を事とし、許・洛を直指して一戎を期す。操は喘ぎ気うせて鋒を避けるを謀り、権は鯨梟にして象恭を示す」[183]
- (明)朱元璋:「常遇春に戒めて言った。〈敵を克つは勇に在り、全勝は謀に在り。昔、関羽は万人之敵と号されたが、呂蒙に破られたのは無謀であったればこそである。汝らは宜しく深くこれを戒むべし〉」[184]
- 李卓吾:「雲長は信義にして計略を設けず、その徐晃を待つを観れば明かなり。到底これ君子にして小人の如く、外はその貌を厚くして衷は甚だ薄き者にあらず」[185]
- 王夫之:「呉と蜀の友好関係は長く続かず、関羽はすでに死亡し、荊州も失われた。曹操は二国の亀裂に乗じ、憚ることなく矢継ぎ早に簒奪を進めた。この事態において、関羽がその責任を逃れることができようか、いや、できない。関羽が江陵を守っていた頃、たびたび魯粛と疑心暗鬼を生じさせていた。その結果、諸葛亮の(呉と蜀の同盟という)方針は十分に発揮されず、魯粛もまた苦悩させられたのである。魯粛が親善をもって関羽をなだめたのは、果たして関羽びいきであったからか、あるいは劉備を恐れてのことだったのだろうか。彼が求めていたのは(呉と蜀が)力を合わせて曹操に対抗することであり、その言葉はただ外交辞令として発せられたわけではない。しかし関羽はそれを理解しようとしなかったため、魯粛の心労がいかに並大抵のものでなかったかが知られるのである」[186]
- 「関羽は、可用の材なり、其の可用を失いて卒に敗亡に至るは、昭烈のこれをおごらせ、これに私したればなり、将を将とするの道にあらざるなり」[187]
- (清)趙翼:「漢以後、勇者を称える者は必ず関・張を推す」[188]
- 乾隆帝:「関帝は傾きかけた漢王朝を全身全霊で支え抜き、その強い意志と節義は冷徹なまでに気高い。しかし、陳寿が『三国志』を編纂した際には、私見や感情が多く挟まれている。正史に残された諡号でさえ、未だに批判や批評の含意を帯びている。これではどうして真の事実を後世に伝えられようか。今まさに『四庫全書』の編纂にあたり、(関羽の諡号を)改めて〈忠義〉と称することとする。武英殿においてはこの帝室の旨を(『三国志』の)伝の末尾に刊刻させ、もって天下に対する大いなる公平無私の心を示すものである」[189]
- (中華民国)盧弼:「樊氏は国色を持つ美女であったにもかかわらず、趙雲は彼女を娶らなかった。これは、関羽がかつて呂布の部下である秦宜禄の妻(杜氏)を自分の妻にしたいと曹操に幾度も願い出たことと比べても、はるかに賢明で優れていたと言える」[190]
- (現代中国)方北辰:樊城の戦いにおける関羽の指揮は天時・地利を活かした卓越したものであり、彼が「主帥型(指揮官型)」の名将としての才能を備えていた証左であって、孫呉の奇襲がなければ樊城と襄陽を攻略していた可能性は極めて高く、敗北の責任を「関羽個人の傲慢さに帰すのは妥当ではない」と指摘する。敗因の本質は孫呉との利益の衝突にあり、むしろその責任は劉備の身内びいきによる無能な麋芳の起用や戦局への盲目的楽観、さらには補佐役である諸葛亮の注意不足にあると分析する。こうした「戦将型(猛将型)」の猛さと「主帥型」の資質を総合すれば、関羽は蜀漢においてトップクラスの名将として「評価するに十二分に値する人物」と結んでいる[3]。
- (日本)井波律子:その傲慢さに起因して身を滅ぼした気性上の問題点を指摘しつつも、そうした気質に根ざす自尊心と意志の強さや劉備への献身を、任侠の理論を体現した「男伊達の典型」と高く評価している。また、諸葛亮からの手紙(馬超は髯には及ばない)に大喜びするような無邪気な性質は「劉備にとって何物にも代えがたい心の支えだった」とし、のちに関羽が呉に殺害された際、劉備が抱いた喪失感は「想像を絶するものがあった」と推測している。一方で、数々の戦場での武勇に加えて『春秋』を暗唱できたというエピソードから知性を持ち合わせていたことを認めながらも、樊城での戦いなどの経緯から、戦略面については「いくぶん欠けるところがあったといわざるをえない」と評している[191]。
- 渡邉義浩:史実の関羽を『三国志演義』のような「義絶(義の極み)」の人ではなく、「傲岸な人物」であったと評し、知識人への対抗意識から部下の糜芳や士仁を軽んじたことが荊州陥落を招いたと指摘する。その一方で、『演義』において様々な「義」を体現する存在として描かれる中、特に華容道で曹操を見逃したエピソードに見られる「利他の義」は、史実の関羽が持っていた「侠」の精神の表れであり、それこそが現代まで関帝信仰が途絶えない「魅力の根源」であると評価している[192]。
追封と栄誉
[編集]王朝からの追封
[編集]
(韓美林作・荊州区関公義園)
政治面から見ると、乱世の中で主君に対して終始一貫して忠誠を尽くした関羽は、為政者にとって絶好の模範(賞賛すべき人物)であった。そのため、歴代王朝から次々と追封を受けることになった。
- 北宋:徽宗皇帝より「忠恵公」、「武安王」、「崇寧真君」
- 南宋:「義勇武安王」
- 明初:神号「協天護国忠義関聖大帝」
- 熹宗皇帝より「三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君」
- 清代:順治帝より「忠義神武関聖大帝」
- 宣統帝より「忠義神武霊佑仁勇威顕関聖大帝」
- 光緒帝より「忠義神武霊祐仁勇威顕護国保民精誠綏靖翊賛宣徳関聖大帝」
多くは王朝初期と末期に追贈がされており、政策の一環や国内外の情勢が垣間見える。なお、清朝が公認した後述の関帝信仰は、満洲を劉備、蒙古を関羽に準えた兄弟結盟を背景とし、蒙古との関係を維持する目的もあった[193]。
諡号の諸問題
[編集]景耀3年(260年)、蜀漢は建国の功臣に追諡を行い、関羽には「壮繆侯」が贈られた。しかし「壮繆」の「繆」とは、「評判(名誉)と実態が一致しない」という意味を持つ悪諡(不名誉な諡号)である。しかし「繆」は「穆」とも書かれることがあり、「穆」の場合では「人徳を広く施し義を守る。心中の誠実な気持ちが相貌に表れている」という意味を持つ美諡となる[194]。後世、これを悪諡と見なした清代の乾隆帝は、諡号を「忠義」に改めさせている[189]。関羽の諡は美諡か悪諡か、しばしば研究者間で議論となり、以下の見解が知られる。
- 美諡:明代の政治家・程敏政「古代において〈繆〉と〈穆〉は通じて用いられており(例:秦の穆公を「繆公」と表記するなど)、『左伝』や古本『礼記』でも同様である。したがって〈壮繆〉の〈繆〉は〈穆〉と同義であり、徳を称える美諡である。『三国志』によれば、当時の世論もこれを名誉[195]と見なしており、後世の学者が悪諡と決めつけるのは道理に合わない」[196]
- 悪諡:清代の学者・梁章鉅「〈壮〉〈繆〉はどちらも決して美諡であるはずがなく[注釈 27]、当時なぜこのような諡号が贈られたのか理解に苦しむ。実際、のちに「武英殿本」などの官版書籍では〈忠義〉に改められ、乾隆帝の諭旨も刊載されている」[198]
- 中華民国の学者・盧弼は、「程敏政の説は極めて妥当であり、梁章鉅の説は正しくない。後代になって諡号を改めること自体はともかく、本来の歴史書の伝記本文まで改変してしまうことは決してあってはならない」として、程敏政の説を支持している[199]。
関羽信仰
[編集]| 道教 |
|---|
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| 聖地 |
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鬼神から善神へ
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(作者不詳・1736年 - 1795年頃)
関羽の死後から唐代以前までの約400年の間、人々からの注目はさほど高くなかった。例えば六朝時代の『神仙伝』、『捜神記』、『拾遺記』、『世説新語』や殷芸『小説』などといった小説は三国時代の人物に多く触れているが、関羽への言及は皆無に等しい。唐代になると詩文の中に詠われるようになるが、なお一般的な賛美にとどまっていた[200]。また荊州地区における怨霊伝説の一種ともなっている。関羽は「関三郎」という祟りをなす鬼神として范攄『雲渓友議』や孫光憲『北夢瑣言』といった筆記小説に登場しており、後者においては「関妖」という呼称も見られる[201][202]。
しかし、宋代になると政治的理由(前節)と庶民文化の隆盛に伴って人気が徐々に上昇し、元代では数多くの雑劇の演目で主役となった[203]。明清代にはさらに美化が進み、歴史上の実像から文化上の「関公」へと劇的な変貌を遂げた。この変遷は、主に「外見と内面の完美化」「身分と称号の帝王化」「位置づけと能力の神霊化」という3つの側面に集約され、それぞれの過程で朝廷、宗教、民間が異なる役割を果たしながら関羽の神格化を加速させていく[204]。
「外見と内面の完美化」においては、元末明初頃に成立した歴史小説『三国志演義』が果たした役割は決定的である(後節)。『演義』において、関羽の描写には群を抜く紙面が割かれ、彼を主人公にした回は14回に及ぶ。完璧な容姿と揺るぎない忠義心、圧倒的な武勇をもって描かれ、他の武将を遥かに凌駕する完全な存在(完美)として、全面的に美化が施された[204]。
「身分と称号の帝王化」では、歴代の君主たちが統治秩序の安定や「忠義」の教化を目的として関羽の格上げを積極的に推し進めた[204]。特に非漢族である満洲族が統治する清王朝においては、多数派である漢民族からの支持(民族的同一性)を獲得し、民族間の矛盾を緩和して統治基盤を固めるために、関羽の帝王化を強力なソフト・パワーとして利用した[204]。その結果、関羽は清代において、ついに「関聖大帝」として聖賢の列に加わえられ、天子(皇帝)と同様に避諱の対象となった[205]。
「位置づけと能力の神格化」においては、元来は悪神であったイメージが士大夫階級や[205]、宗教勢力(仏教の伽藍神や道教の大神など)の操作により一転した(後述)[204]。さらに、皇室が国家鎮護の神として祀る一方で、庶民はそれぞれの切実な願いを関羽に託し、財運の神、学問の神、果ては縁結びの神に至るまで、あらゆる現世利益を叶える万能神へと変化させていった[204]。
こうして「完美化」「帝王化」「神格化」の3つの側面から変遷を経て[204]、関羽は一武将から天祐を民に授ける「関公」へと昇華したが[204][205]、しかし神格化を推進した朝廷、宗教、民間の動機は必ずしも一致していなかった。朝廷は神霊の加護による統治の長久に加え、民衆の反乱に対する武力鎮圧を「天罰」にすり替え正当化する政治的意図があった[204]。宗教勢力は教義の円滑な布教が主目的であり、特に外来宗教の仏教は中国本土への適応を図るため、儒教的「忠義」の象徴である関羽を取り込んだ[204]。一方、民衆は生活苦や災害から救ってくれる「身近な神霊」を求め、信仰運動へ積極的に加わっていった[204]。北宋の徽宗期から清朝滅亡に至るまで、約800年に及ぶ時間的・階層的な広がりの中で形成された「関公文化」は、社会のあらゆる階層を網羅し、中国本土のみならず華人・華僑の海外移住先にまで広く波及して独自の地位を築いていった[204]。
三教での扱い
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後殿「青雲寺」が祀る、伽藍護法姿の関羽泥塑立像(劉来宝作・1960年)
- 道教:道教では、六朝時代における神格化された人間の一覧『真霊位業図』には曹操・劉備が確認できるが、関羽はいない。六朝時代ではまだ関羽の評価は固まっていなかった証拠といえる。北宋期『漢天師世家』で張天師が関羽を呼び出す話があり、この頃には人間に呼び出される程度の扱いであった。明初に書かれたとされる『道法会元』には「関元帥」と記されており、この時点でかなりの地位の向上がある。その後に「協天大帝関聖帝君」として神格化された。神格化されたのは仏教よりも後なのは確かである。
- 仏教:その仏教では唐代の『荊南節度使江陵尹裴公重修玉泉関廟記』に、隋代の智顗禅師の元に関羽が現れて、僧坊を提供し守護神となったとする話が載り、南宋期に書かれた『仏祖統紀』には智顗禅師の元に関羽の霊が訪れ、仏法に帰依したいと請われた禅師が煬帝に奏して、関羽を「伽藍神(伽藍菩薩)」に封じたとしている。現在では「関帝菩薩」とも呼ばれる。
- 儒教:儒教では五文昌の一人「文衡聖帝」とされて、「山西夫子」と呼ばれている。封じられた時期ははっきりしない。武より文の面が強調されており、台湾などでは受験の際に礼拝される。
関帝廟
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- 山西省:解州関帝廟
清代には県に必ず孔子を祭る文廟と、関帝を祀る武廟を建立させた。孔子廟が中華人民共和国初期に多数破壊された結果、現在では関帝廟が単独で多く各地に残る結果となっている。一方、民衆の人気も高く、各地の中華街には関帝廟が建立されており、日本においては横浜中華街と神戸南京町の関帝廟が著名である。また民間伝承では玉帝に比する「左玉皇」とされていて、「関恩主」とも敬称される。なお、民間では関帝の聖誕日を旧暦5月13日もしくは旧暦6月24日としており、台湾では旧暦6月24日に祭りが行われる。
その他
[編集]創作上の関羽
[編集]『三国志演義』
[編集](頤和園長廊・19世紀末)
『三国志演義』とは、羅貫中が元末明初頃に編纂したとされる、『三国志』を基にした歴史小説(フィクション)である。さまざまな刊本が存在し、一部内容に相違がみられるが、現在広く知られる『演義』の内容は、清代に毛宗崗が校訂した『三国演義』(通称:毛本)に依拠している[206]。
『演義』において、関羽は次のように描写されている。
『演義』の設定
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延津で文醜を斬る関羽
作中、関羽の名は「雲長」、「関雲長」あるいは「関公」、「関某」と呼ばれ、一貫して諱を名指しされることはない。また、その活躍が壮麗に描かれるなど、関帝信仰(前節)に起因すると思われる特別扱いを受けており[207][208]、「義」を体現する「三絶」の一人「義絶(義の極み)[209]」として描写されている。
版本やテクストによって相違がみられるが、関羽の設定は概ね以下のとおり。
- 字:「李卓吾本」と「毛本」では、もとの字は「壽長(じゅちょう)」。
- 身長:「李卓吾本」9尺5寸(約220cm)、「毛本」9尺(208cm)[注釈 28]。
- 容貌:2尺(約46cm)の髭、熟した棗(ナツメ)の実のような紅顔、唇は脂を塗ったように艶やか、鳳凰の眼に臥せた蚕の眉、相貌は堂堂にして威風凛凛[210]。
- 得物:重さ82斤(約18kg)の青龍偃月刀と呼ばれる大薙刀。
- 愛馬:赤兎馬。

関羽の特徴的な「紅顔」について方北辰は、漢代以降に隆盛した「五徳終始説(五行説と政治思想の結合)」が深く関係していると指摘する。古代中国では、五行(木・火・土・金・水)が相生(生み出し合う)関係をもって王朝に対応するとされ、火徳を正統とする漢朝のシンボルカラーは「赤」であり、後漢の軍服も赤(絳衣)であった[注釈 29][67]。当時の人々が漢朝への忠誠を表して「赤心[211]」と称したように、関羽の赤い顔は、彼が「漢朝の正統」を受け継ぐ勇将であり、漢室へ無限の忠誠を捧げる「最大級の忠臣」であることを示す二重のシンボルであるという[67]。

(黄亀理「関聖帝君」木雕)
関羽の象徴のひとつ「青龍偃月刀」は後漢当時にはまだ存在していない[3]。当時、馬上の長兵器には長矛や大戟が用いられており、張飛[212]、呂布[213]、典韋[214]が長矛を使用していたことが史書に記されていることからも、馬上で顔良を刺殺した[215]関羽も、長矛を使用していたと考えられる[3]。
もうとつの象徴である愛馬の「赤兎馬」は、史実では呂布が所有していたことが記されているが[216][3]、『演義』では李粛の提案で董卓が呂布を懐柔するために贈っている[217]。呂布の死後には曹操が所有し、降伏した関羽の心を得るべく譲ろうとする。曹操からの贈り物は全て封印した関羽であるが、「この馬は一日に千里を駆けると知っております。今幸いにこれを得たならば、もし兄者(劉備)の行方が知れました時、一日にしてお会い出来ましょうぞ」として、唯一これを喜んで受け取り、以降は関羽の愛馬として活躍する[218]。
また、養子として関平[注釈 30]、次男として関興、三男として関索が登場する。関興は史実では早世しているが、『演義』では張飛の息子の張苞とともに武将として活躍する。一方で関索については正史や裴松之の注にも一切記載が無いことから、後世に作られた架空の人物だと考えられている[219]。
『演義』の事績
[編集]劉備が故郷の琢郡で、黄巾軍に抵抗するための義勇兵募集の高札を眺めていたところ、同郷の張飛に「一緒に立ち上がろう」と声を掛けられ、酒場へ入った。そこで酒を飲んでいると、赤ら顔の男・関羽が入店する。劉備はその尋常ではない風采に惹かれて関羽に同席を勧めると、3人はたちまち意気投合し、張飛の家の桃園にある

張遼の説得に条件を出す関羽
以降は劉備に付き従い、蜀漢の5人の将軍「五虎大将軍」の筆頭に位置付けられるなど、華々しく活躍する。
- 曹操に勧められた酒が冷めないうちに董卓配下の華雄を斬って戻ってくる[221]。
- 袁紹配下の顔良のみならず、文醜をも討ち取る[222]。
- 張遼に説得され曹操へ投降する際、3つの条件[注釈 31]を出す。
- 曹操の元を去るとき、検問で手形がないことを見咎められ、将軍6人[注釈 32]を斬り殺して劉備の二夫人(甘・糜)を守りながら5つの関所を突破する[223]。
- 赤壁の戦いに敗走した曹操を華容道で待ち伏せるが、憔悴した曹操を見兼ねて旧恩により見逃す。このことを諸葛亮に咎められ死罪を言い渡されるが、劉備のとりなしで事なきを得る[224]。
- 魯粛との荊州返還の会談に単身薙刀を持って現れ、呉兵を恐れさせる[225]。
- 孫権軍に処刑されたあと、呂蒙を祟り殺す(後述)。
『演義』の基になった元代の小説『三国志平話』、講談や元雑劇、民間伝承などの創作が積極的に取り入れられている。華容道のエピソードは史実にはない創作であるが、関羽の「義」を極限まで表現した名場面として、毛宗崗が絶賛している[226]。『演義』の人物描写における「作者の意図のねじれ[227]」を指摘した魯迅でさえも、関羽の描写については高く評価している[228]。

6人の将軍を斬り、5つの関所を突破する
関羽が死後に呂蒙を呪い殺すエピソードは「義理堅い関羽の印象にそぐわない」「非現実的である」などの理由から削除されることもある。その内容は次のとおり。
孫権は関羽を処刑した後、祝宴を開いて呂蒙を第一の功労者として上座に座らせ、呂蒙に親しく杯を渡す。呂蒙は恭しく杯を受け取るが、突然その杯を地面に叩きつけるなり、孫権の胸倉を掴んで押し倒し「碧い眼の小童、紫の髯の鼠め!このわしが誰か解るか?」と言い放つや、「黄巾賊を破って以来、天下を縦横に駆け巡る事三十余年、今、貴様の奸計にかかり、わしは最早生きて貴様の肉を食らう事はできぬが、死してこの呂蒙の魂を道連れにしてくれようぞ。我こそは漢の寿亭侯、関雲長なり!」と大喝。祝宴に列席していた一同が顔色を変えて平伏すると、呂蒙はばったりと倒れ、全身の穴という穴から血を吹き出して死んでしまう、といったように、関羽の魂が乗り移ったように描かれている[229]。またその首を贈られた曹操が戯れに「別れて久しいが、お変わりなかったか?」と声をかけると、眼と口を開いて睨み付け曹操を驚かせ、その後、曹操は関羽の亡霊を恐れ衰弱・病死したと語られ、曹操は死後、関羽を恐れ荊王の位を与えている[230]。
関羽が斬首された後、その霊が玉泉山の普浄という僧の前に、同じくして死んだ関平と関羽の従者・周倉(架空の人物)、家臣の霊と共に現れ、呉や呂蒙に対する恨みを綴るが、普浄の説得により成仏する[231]。しかしその後も関羽は顕聖(亡霊や神としての出現)して物語に登場し、劉備の夢枕に立って「恨みを晴らしてくれ」と訴えたり、のち白帝城で病床に伏せる劉備の前に張飛の霊と共に現れて死が近いことを予見させ、関興が越吉との戦いで追い詰められた際には救出に現れているが、それを最後に登場しなくなる[232][233]。
京劇
[編集]
(俳優・殷秋瑞:2011年)
- 『古城会』
- 『漢津口』
- 『水淹七軍』
役柄・設定
[編集]京劇での関羽役は、主な四つのキャラクターのうちの生(Sheng、ション:男役の総称。男役の中でも武人・英雄などは「武生(ウーション)」と細分化して呼ばれる)に分類されるが、特に「紅生(ホンション)」と呼ばれ[234]、「浄(ジン:剛直・粗暴な役)」と「武生」の両方を演じることが出来る[235]。顔は造作の線を除いて、忠義を示す赤一色に塗り、完璧な忠義を表現する[236]。
その一方、関羽を演じる役者は、化粧のとき故意にその顔に黒子や黒い線をつけるなど、完璧な隈取になることを避ける。これは神として扱われる存在に対して、劇中の関羽は人間の行う模倣であり、関帝そのものではないと言う、京劇関係者の関羽に対する礼儀と遠慮を表すための伝統である[237]。
主な登場演目
[編集]民間伝承
[編集]
明代から続く地方劇・安順地戯で使用される
- 関羽が紅顔の理由
- 関羽が故郷で人を殺して役人に追われていた際、通りがかりの老婆に助けを求めた。老婆は追っ手をごまかすため、関羽の顔を力任せに殴って鼻血を出させ、顔を真っ赤に染め上げた。さらに、抜いた髪の毛をあごに貼り付けてひげに見せかけた。この急ごしらえの変装のおかげで、関羽は追手の役人を煙に巻いて逃げ延びることができたという[63]。
- 青龍偃月刀の伝承
- 関羽が若い頃、思うような大刀が手に入らなかったので、近隣の刀鍛冶の名人を村に招いて作らせることにした。関羽は「費用はいくらでも負担するから」と、高度な技術と費用を要する宝刀を所望した。何十本もの失敗を重ね、ついに光り輝く青鋼の大刀「青鋼刀」が完成した。しかし関羽はこれに満足しなかった。刀鍛冶は「これは〈青釭剣[注釈 33]〉と同様に、稀少な青鋼で作られたじゅうぶん見事な宝刀ですよ」と説明したが、関羽はこれを聴き容れなかったので、刀鍛冶は再び鍛え直すことにした。最後の火入れのとき、満月が輝いて突然炉の中から眩い光が空に放たれ、上空を飛んでいた青龍を斬ってしまった。すると光は刀の中に戻って、龍の血が刀の先端を染めて焼入れとなり、ついに宝刀が完成した。関羽は大いに喜んで刀鍛冶に手厚い謝礼を与えると、宝刀が半月形をしていたので、「青龍偃月刀」と名付けた[243]。
日本での受容
[編集]関羽を主題とした作品
[編集]映画
[編集]テレビドラマ
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ↑ →詳細は「#人物」参照。
- ↑ 亡命理由については、後世さまざまな説や民間伝承が存在する(→#人物)。
- ↑ 劉備に従った時期は中平元年の黄巾の乱(184年)の平定戦とするものや[3]、初平3年(190年)頃とする研究がある[7]。
- ↑ 小説『三国志演義』では、桃園で義兄弟の契りを結んだ(桃園結義)ことが描かれるが、史伝には記されない創作である[3]。
- ↑ 『魏書』によると、関羽が徐州を治めたという。
- ↑ 漢寿県は三国時代は呉の支配下にあったため「呉寿」と改称され、西晋で「漢寿」に戻された。蜀漢の「漢寿」は益州広漢郡の葭萌県を改称したもので、別の地名。
- ↑ 実際は襄陽には楽進が駐屯しており、関羽は赴任していない。
- ↑ 関羽がこのとき「虎の娘を犬の子にやれるか!」と発言したことは、小説『三国志演義』等に見られるが、正史には見られない。ただし、注に引かれた『典略』(『魏略』)によると、孫権は関羽に救援を申し出た際、わざとゆっくり兵を進めさせた。そこで関羽は「狢子」と孫権を罵倒したため、孫権は下手に出て陳謝したという。「狢子」は江東など南方の住人に対する蔑称の一つである。なお裴松之は、関羽を襲撃した呂蒙は密かに兵を進めており、援軍を送る約束をしていたならそのようにする必要はなかったとして、この記事の信憑性に疑問を呈している。
- ↑ 『三国志』「呉主伝」の記述によれば、関羽は「于禁の歩騎3万を俘虜にし、江陵へ送った」とある[1]。また、このとき荊州刺史の胡修や南郷太守の傅方らが関羽に降っている。
- ↑ 同時に、勢いに乗じた関羽は上庸を攻略した劉封・孟達に対して援軍を求めたが、上庸の統治がまだ安定していないことを理由に拒絶されている[44]。
- ↑ 『三国志』呉書の「呉主伝」によると、曹操から頼んだのではなく、むしろ孫権の側から曹操に対して関羽を討つ申し出があったとされている[45]。
- ↑ さらに呉側の記録によれば、関羽は于禁ら降伏した3万もの捕虜を養うため、勝手に孫権側の軍需物資を強奪したとある[39]。
- ↑ 『三国志』「呉主伝」によると閏10月[1]。
- ↑ 『蜀記』によると、関羽と徐晃は旧知の間柄で、再会して世間話を交わしたという(後節)。
- ↑ 『三国志』「呂蒙伝」によると、孫権は朱然と潘璋に命じて関羽の退路を塞がせたとある[39]。また「呉主伝」によると、章郷で潘璋の部下の馬忠が関羽・関平・趙累を捕虜としたという[1]。
- ↑ 『蜀記』によれば、孫権は関羽を家臣として登用したいと考えたが、側近から「曹操は彼を生かしたために遷都を考えるほどの事態を招いた」と進言されたため、これを断念したという[48][49]。だが裴松之は、正史の記述から「関羽は臨沮で即座に斬殺されており、当時江陵にいたはずの孫権に伺いを立てる時間的・物理的余裕はなかったはずである」と、この説に疑問を呈している[50][49]。また、同じく『三国志』「諸葛瑾伝」裴松之の注釈によれば、「孫権が魏に加担して関羽を討ち取った行為は、結果的に漢王朝を救済する計画を頓挫させ、曹操の思う壺になっただけであり、劉備の激怒は当然である」と手厳しく評している[51]。
- ↑ 例えば、諸葛亮の諱「亮」は「明らか」、字の「孔明」は「甚だ明らか」[60]。趙雲の諱の「雲」と字の「子龍」は『周易』「雲は龍に従う」[61]。
- ↑ 清代の政治家・宋犖が『筠廊二筆』の中に引く、学者・馮景 (清)の記録によれば、康熙17年(1678年)に解州で関羽の一族に関する断碑が発見され、そこには延熹3年(160年)6月24日に関羽が生まれたと刻まれていたという[64]。馮景はこの記録を重んじたが、一方で考証学者の趙翼は、一族の記録にさまざまな矛盾点があることを指摘している(詳細は→#家族を参照)。
- ↑ 清代の政治家・潘眉は、後世の星占術書が伝える関羽と張飛の生年説(関羽を178年、張飛を183年とする説)を「根拠のない言説」と退けている。その根拠として、劉備が挙兵した初平元年(190年)当時の年齢を当てはめると、関羽は13歳、張飛は8歳で従軍し、のちに15歳、10歳で別部司馬に任じられるのは「到底信じがたい。初平3年の時点で劉備は32歳であり、彼らの年齢も劉備とおおむね同世代であったに違いない」と推測している[7]。
- ↑ 史実では執刀医の名は不詳[67]。
- ↑ 裴松之は、この逸話について「もし劉備が本当に国家のために曹操を生かしておこうとしたのであれば、のちに董承らと計画した曹操暗殺の企てと、この発言はどう辻褄を合わせるというのか!」と矛盾を指摘し、さらに「仮に関羽の進言が事実であったとしても、当時の曹操の周囲には多くの腹心や親族が控えており、そのような重大事がその場の思いつきで行えるはずもなく、仮に討ち取れたとしても劉備自身が無事で済むはずがない!したがって、劉備が暗殺を見合わせたのは危険を避けるための計算であり、国家のために惜しんだというのは後付けの言い訳にすぎない」と述べている[74][75]。
- ↑ 『三国志』巻36「関羽伝」には「
言笑自若 ()」との表現があり、これは「泰然自若」の同義の四字熟語になっている[78]。 - ↑ 後世の研究では関平を長男、関興を次男とする説もあるが[90]、『三国志』「関羽伝」にはどちらが長男であったのかは記されていない[91][92]。
- ↑ しかし、『蜀記』の記述にたびたび批判的な注釈を加えている裴松之は、この事件に関しては一切言及していない[95]。
- ↑ 渡辺精一によれば、諸葛亮が馬超を例えた英布と彭越は、ともに前漢建国の功労者でありながらのちに誅殺されていることから、関羽に対して「あなたは彼(馬超)と違って、国が興っても誅殺されるような人物ではない」という含みを持たせていたと指摘している[110]。
- ↑ 文醜を斬殺したのは『三国志演義』の創作。
- ↑ 「壮」には「戦乱が頻発する、英知をもって困難を克服する、戦場(原野)で討ち死にする、たびたび遠征や討伐をおこなう、勇名を馳せながらも覇業を全うし得ず」といった意味を持つ[197]。
- ↑ 後漢三国時代の尺度からの計算。
- ↑ この思想は三国時代の諸政権の選択にも反映されており、王朝交代を主張した曹魏や孫呉が土徳(黄)を掲げて「黄初」「黄武」などの年号を用いたのに対し、漢室復興を掲げた蜀漢は、火徳の継承を示す「章武」や「炎興」を選んでいる[67]。
- ↑ 史実は実子[4]。
- ↑ 「曹操にではなく漢に降る」「劉備の家族に一切手出しをしない」「劉備の消息が分かり次第直ちに帰参する」
- ↑ 韓福・王植・秦琪・孟坦・孔秀・卞喜
- ↑ 日本語表記では「青釭の剣」とも。『演義』にて、曹操が所有する対の宝剣(倚天剣と青釭剣)の一振り。のち趙雲が長坂坡の戦いで曹操配下の夏侯恩を倒した際に手に入れる[242]。
出典
[編集]- 1 2 3 4 5 6 『三国志』巻47「呉主伝」
- ↑ 井波 1993, p. 165; 渡邉 2020, p. 214.
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- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 『三国志』巻36「関羽伝」
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- 1 2 『三国志集解』蜀書6『三国志』36「張飛伝」"潘眉曰:近世星家書推關羽以四戊午生,張飛以四癸亥生,此無稽之言。考先主起兵,在鄉里合徒衆,關張往從之,時獻帝初平元年。若關戊午生,是年十三歲,張止八歲。至初平三年,關張爲别部司馬,是年關十五歲,張十歲。如星家言,是飛以八歲從軍,十歲爲别部司馬也,殆不足據。關僅長張數歲,張非癸亥,關亦必非戊午。初平三年,先主已三十二歲,關、張與先主年當相若耳。"
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- ↑ 井波 1993, p. 167; 方 2014, 「戦将型名将第一名——関羽」一:歴史関公.
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- ↑ 『三国志』巻三十二「先主伝」注引『江表伝』"《江表傳》曰:周瑜為南郡太守,分南岸地以給備。備別立營於油江口,改名為公安。"
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- ↑ 『三国志』巻17「楽進伝」、巻18「文聘伝」
- ↑ 『三国志』蜀志「楊儀伝」
- ↑ 『三国志』巻60「呂岱伝」
- ↑ 『三国志』巻54「魯粛伝」
- 1 2 3 4 5 6 『三国志』巻54「呂蒙伝」
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- 1 2 井波 1993, p. 170; 方 2014, 「戦将型名将第一名——関羽」一:歴史関公.
- ↑ 『三国志』巻40「劉封伝」
- ↑ 『三国志』巻47「呉主伝」
- ↑ 『三国志』巻58「陸遜伝」
- ↑ 『三国志』巻23「趙儼伝」
- ↑ 『三国志』巻36「関羽伝」注引『蜀記』"蜀記曰:權遣將軍擊羽,獲羽及子平。權欲活羽以敵劉、曹,左右曰:「狼子不可養,後必為害。曹公不即除之,自取大患,乃議徙都。今豈可生!」乃斬之。"
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- ↑ 『三国志』巻36「関羽伝」注引『蜀記』"臣松之按吳書:孫權遣將潘璋逆斷羽走路,羽至即斬,且臨沮去江陵二三百里,豈容不時殺羽,方議其生死乎?又云「權欲活羽以敵劉、曹」,此之不然,可以絕智者之口。"
- ↑ 『三国志』巻52「諸葛瑾伝」"臣松之云:以為劉後以庸蜀為關河,荊楚為維翰,關羽揚兵沔、漢,志陵上國,雖匡主定霸,功未可必,要為威聲遠震,有其經略。孫權潛包禍心,助魏除害,是為翦宗子勤王之師,行曹公移都之計,拯漢之規,於茲而止。義旗所指,宜其在孫氏矣。瑾以大義責備,答之何患無辭;且備、羽相與,有若四體,股肱橫虧,憤痛已深,豈此奢闊之書所能回駐哉!載之於篇,實為辭章之費。"
- ↑ 『三国志』巻36「関羽伝」注引『呉歴』"吳曆曰:權送羽首於曹公,以諸侯禮葬其屍骸。"
- ↑ 井波 1993, p. 172; 方 2014, 「戦将型名将第一名——関羽」一:歴史関公.
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- ↑ 渡邉義浩『三国志事典』 大修館書店、2017年、p.138.
- 1 2 王登雲 編『三国伝説故事365(上)』中国国際広播出版社、1991年。ISBN 7507803805。pp.185-186.
- 1 2 『筠廊二筆』巻上・15「附記」、中国哲学書電子化計画。2026年8月12日閲覧。"附《記》:天之生聖賢也,必鐘祥於世德之家,故大孝尊親,成思貽父母令名。予嘗慨漢壽亭候,生而忠貞,沒為明神,廟貌遍宇內,血食綿千古,而其祖若考名氏獨闕軼無考,侯在天之靈必有?然隱痛者。予每遇河東博聞之士,必周咨之,不可得。康熙十七年戊午,解州有常平士于昌者,讀書塔廟。塔廟,侯故居也。昌晝夢侯授以「易碑」二大字,驚而寤,見濬井者得巨磚碎之,磚上有字,昌急合讀,乃紀侯之祖考兩世,諱字生卒甲子大略,循山而求得墓道焉,遂奔告解州守王朱旦。朱旦作《關侯祖墓碑記》,記中載候祖石磐公諱審,字問之,和帝永元二年庚寅生,居解州常平村寶池里。公沖穆好道,以《易》、《春秋》訓其子。卒於桓帝永壽三年丁酉,享年六十八。子諱毅,字道遠,性至孝,父沒廬墓三年,既免喪。于桓帝延熹三年庚子六月二十四日生侯,侯長娶胡氏,於靈帝光和元年戊午五月十三日生子平,其大略如此。"
- ↑ 毛宗崗『三国演義』第77回「玉泉山関公顕聖 洛陽城曹操感神」"關公卒年五十八歲。"
- 1 2 『三国志』巻36「関羽伝」"羽聞馬超來降,舊非故人,羽書與諸葛亮,問超人才可誰比類。亮知羽護前,乃答之曰:「孟起兼資文武,雄烈過人,一世之傑,黥、彭之徒,當與益德並驅爭先,猶未及髯之絕倫逸群也。」羽美鬚髯,故亮謂之髯。羽省書大悅,以示賓客。"
- 1 2 3 4 方 2014, 「戦将型名将第一名——関羽」三:謎団関公.
- ↑ 『三国志』巻36「関羽伝」注引『江表伝』"江表傳曰:羽好左氏傳,諷誦略皆上口。"
- ↑ 『三国志』巻36「関羽伝」注引『傅子』"《傅子》曰:遼欲白太祖,恐太祖殺羽,不白,非事君之道,乃歎曰:「公,君父也;羽,兄弟耳。」遂白之。太祖曰:「事君不忘其本,天下義士也。度何時能去?」遼曰:「羽受公恩,必立效報公而後去也。」"
- ↑ 『三国志』巻36「関羽伝」注引『蜀記』"蜀記曰:羽與晃宿相愛,遙共語,但說平生,不及軍事。須臾,晃下馬宣令:「得關雲長頭,賞金千斤。」羽驚怖,謂晃曰:「大兄,是何言邪!」晃曰:「此國之事耳。」"
- ↑ 井波 1993, p. 171.
- ↑ 『三国志』巻36「関羽伝」注引『蜀記』"蜀記曰:曹公與劉備圍呂布於下邳,關羽啟公,布使秦宜祿行求救,乞娶其妻,公許之。臨破,又屢啟於公。公疑其有異色,先遣迎看,因自留之,羽心不自安。此與魏氏春秋所說無異也。"
- ↑ 井波 1993, pp. 165–166.
- ↑ 『三国志』巻36「関羽伝」注引『蜀記』"臣松之以為備後與董承等結謀,但事泄不克諧耳,若為國家惜曹公,其如此言何!羽若果有此勸而備不肯從者,將以曹公腹心親戚,實繁有徒,事不宿構,非造次所行;曹雖可殺,身必不免,故以計而止,何惜之有乎!既往之事,故讬為雅言耳。"
- ↑ 井波 1993, pp. 168–169.
- ↑ 『三国志』巻36「関羽伝」注引『蜀記』"蜀記曰:初,劉備在許,與曹公共獵。獵中,眾散,羽勸備殺公,備不從。及在夏口,飄颻江渚,羽怒曰:「往日獵中,若從羽言,可無今日之困。」備曰:「是時亦為國家惜之耳;若天道輔正,安知此不為福邪!」"
- ↑ 『三国志』巻36「関羽伝」注引『蜀記』"蜀記曰:羽初出軍圍樊,夢豬齧其足,語子平曰:「吾今年衰矣,然不得還!」"
- ↑ “言笑自若”. 四字熟語辞典オンライン. JITENON. 2026年8月16日閲覧。
- ↑ 井波 1993, p. 169.
- ↑ 『季漢輔臣賛』「贊糜芳、士仁、郝普、潘濬」陳寿注"糜芳字子方,東海人也,為南郡太守。士仁字君義,廣陽人也,為將軍,住公安,統屬關羽;與羽有隙,叛迎孫權。[...]潘濬字承明,武陵人也。先主入蜀,以為荊州治中,典留州事,亦與關羽不穆。孫權襲羽,遂入吳。"
- ↑ 井波 1993, p. 480.
- ↑ 『三国志』巻35「諸葛亮伝」
- ↑ 井波 1993, p. 106.
- ↑ 『三国志』巻41「費詩伝」
- ↑ 井波 1993, pp. 320–321.
- 1 2 方・譚 2018, pp. 67–68, 81–83, 102–107.
- ↑ 『三国志』巻32「先主伝」、巻36「関羽伝」「張飛伝」
- ↑ 『関侯祖墓碑記』
- ↑ 『(光緒)江陵県誌』巻5「世系」" 關平聚鎮東將軍女趙氏,生子樾,世居江陵。"
- ↑ 趙翼『陔餘叢考』巻35、[中国哲学書電子化計画]。2026年8月12日閲覧。"壯繆尚有子曰興,碑既載其兄(關平),何不載其弟?"
- ↑ 『三国志』巻36「関羽伝」"權遣將逆擊羽,斬羽及子平於臨沮。[...]子興嗣。興字安國,少有令問,丞相諸葛亮深器異之。弱冠為侍中、中監軍,數歲卒。"
- ↑ 井波 1993, pp. 170, 172.
- ↑ 王登雲 編『三国伝説故事365(下)』中国国際広播出版社、1991年。ISBN 7507803805。pp.247-252.
- ↑ 『三国志』巻36「関羽伝」注引『蜀記』"蜀記曰:龐德子會,隨鍾、鄧伐蜀,蜀破,盡滅關氏家。"
- ↑ 『三国志』巻36「関羽伝」注引『蜀記』"蜀記曰:龐德子會,隨鍾、鄧伐蜀,蜀破,盡滅關氏家。"
- ↑ 『新唐書』巻75下「宰相世系表」"關氏出自商大夫關龍逢之後。蜀前將軍漢壽亭侯羽,生侍中興,其後世居信都。裔孫播,相德宗。關氏宰相一人。播。"
- ↑ 『筠廊二筆』巻上・15「附記」、中国哲学書電子化計画。2026年8月12日閲覧。"昔趙宋時劉廷翰官貴,當追封三代,少孤,其大父以上皆不逮事,忘其家諱,太宗為撰名,親書賜之,載在《宋史》,以為美談,亦以教孝也。而況侯之祖若考皆有名氏載壙石,章章可考者,顧忍軼之哉?朱旦又言桃園結義之俗說宜闢,伏魔大帝之稱號宜更,其論甚正。商丘宋公嘗言壯繆惡謚,當易以嘉名,候既殺身成仁矣,尚可以成敗論乎!予並存斯盲也,以俟議禮君子。錢塘馮景敬記。"
- ↑ 『陔餘叢考』巻35、中国哲学書電子化計画。2026年8月12日閲覧。"又按宋牧仲《筠廊偶筆》載馮景所記解州斷碑一事,謂壯繆生辰,世皆以為五月十三日,不知乃其子平生日也。康熙十七年,解州常平村人于昌者,讀書塔廟,廟壯繆故居也。晝夢壯繆授以「易碑」二字,驚悟。適見浚井者得巨碑數段,昌合而讀之,乃記壯繆之祖考諱字生卒。遂奔告州守王朱旦,朱旦因據碑作記。侯祖石磐公,諱審,字問之,和帝永光二年庚寅生,居解州常平村寶池里,卒于桓帝永壽三年丁酉,享年六十八。子諱毅,字道遠,桓帝三年庚子六月二十四日生侯。侯長娶胡氏,靈帝光和元年戊午月十三日生子平云云。然則侯之生以六月二十四日也。亦見吳青壇《讀書質疑》。按東漢人尚無別號,今既名審字問之,則石磐乃別號,一可疑也。名審則字問之,名毅則字道遠,皆取《論語》、《中庸》之文。其時《中庸》雜在《禮記》中,何以兩代名字恰用《中庸》、《論語》二書?二可疑也。壯繆尚有子曰興,碑既載其兄,何不載其弟?三可疑也。壯繆沒後,子孫在蜀,解州故鄉尚屬魏、晉,此碑何時何人所立,並不附見。四可疑也。馮景所記,其信然耶否耶?姑存之以備一說。"
- ↑ 本郷: “学者真っ青!発見の「関羽の家系譜」、子孫がトイレ紙に使用―河南省鄭州市”. レコードチャイナ (2008年9月6日). 2024年9月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年8月11日閲覧。
- ↑ 『三国志』巻14「劉曄伝」"詔問羣臣令料劉備當為關羽出報吳不。眾議咸云:「蜀,小國耳,名將唯羽。羽死軍破,國內憂懼,無緣復出。」"
- ↑ 『三国志』巻14「程昱伝」"劉備有英名,關羽、張飛皆萬人敵也,權必資之以禦我。"
- ↑ 『三国志』巻14「郭嘉伝」注引『傅子』"嘉言於太祖曰:「備有雄才而甚得眾心。張飛、關羽者,皆萬人之敵也,為之死用。"
- ↑ 『三国志』巻14「董昭伝」"太祖令劉備拒袁術,昭曰:「備勇而志大,關羽、張飛為之羽翼,恐備之心未可得論也!」"
- ↑ 『三国志』巻35「諸葛亮伝」注引『袁子』"《袁子》曰:或問諸葛亮何如人也,袁子曰:張飛、關羽與劉備俱起,爪牙腹心之臣,而武人也。"
- ↑ 井波 1993, pp. 153–154.
- ↑ 『三国志』巻32「先主伝」注引『傅子』"徵士傅幹曰:「劉備寬仁有度,能得人死力。諸葛亮達治知變,正而有謀,而為之相;張飛、關羽勇而有義,皆萬人之敵,而為之將:此三人者,皆人傑也。以備之略,三傑佐之,何為不濟也?」"
- ↑ 井波 1993, pp. 51–52.
- ↑ 『三国志』巻54「周瑜伝」"劉備以梟雄之姿,而有關羽、張飛熊虎之將,必非久屈為人用者。愚謂大計宜徙備置吳,盛為築宮室,多其美女玩好,以娛其耳目,分此二人,各置一方,使如瑜者得挾與攻戰,大事可定也。"
- ↑ 『三国志』巻58「陸遜伝」"蒙曰:「羽素勇猛,既難為敵,且已據荊州,恩信大行,兼始有功,膽勢益盛,未易圖也。」"
- ↑ 渡辺 1989, p. 97.
- ↑ 『三国志』巻40「廖立伝」
- ↑ 『三国志』附楊戯『季漢輔臣賛』"關、張赳赳,出身匡世。扶翼攜上,雄壯虎烈。藩屏左右,翻飛靈發。濟于艱難,贊主洪業。侔跡韓、耿,齊聲雙德。交等無禮,并致奸慝。悼惟輕慮,隕身匡國。〈贊關雲長、張益德〉"
- ↑ 井波 1993, p. 461.
- ↑ 『三国志』巻三十六「関張馬黄趙伝」「評」"關羽、張飛皆稱萬人之敵,為世虎臣。羽報效曹公,飛義釋嚴顔,並有國士之風。然羽剛而自矜,飛暴而無恩,以短敢敗,理數之常也。"
- ↑ 井波 1993, p. 192.
- ↑ 蔡東洲「民間文化与張飛形象的演変」『西華師範大学学報(哲学社会科学版)』第5号、2008年、7–14頁、doi:10.16246/j.cnki.51-1674/c.2008.05.002。p.8.
- ↑ 『呉故丞相陸公誄』"關羽滔天,作雲西土。帝曰將軍,整爾熊虎。"
- ↑
(中国語) 『全晋文』巻一百五「名士優劣論」, ウィキソースより閲覧。"張飛關羽,皆人傑也。" - ↑ 『晋書』巻120「李庠伝」"至蜀,趙廞深器之,與論兵法,無不稱善,每謂所親曰:「李玄序蓋亦一時之關、張也。」"
- ↑
(中国語) 『抱朴子』「外篇」巻二十一「清鑒」, ウィキソースより閲覧。"抱朴子曰:鹹謂勇力絕倫者,則上將之器;洽聞治亂者,則三九之才也。然張飛關羽萬人之敵,而皆喪元辱主,授首非所;" - ↑ 『晋書』巻126「禿髪傉檀伝」"臣子逃歸君父,振古通義,故魏武善關羽之奔。"
- ↑ 『晋書』巻87「涼武昭王伝」"詠群豪之高軌,嘉關張之飄傑,誓報曹而歸劉,何義勇之超出!據斷橋而橫矛,亦雄姿之壯發。"
- ↑
(中国語) 『華陽国志』巻六「劉先主志」, ウィキソースより閲覧。"初,飛勇冠三軍,〔與關羽〕俱稱萬人「之」敵。羽善待小人而驕士大夫,飛愛敬君子而不卹小人,是以皆敗。" - ↑ 『十六国春秋』巻71「張茂伝」"曜可方呂布、關羽,而雲孟德不及,豈不過哉。"
- ↑ 『南斉書』巻30「曹虎伝」"卿進無陳平歸漢之智,退闕關羽殉節之忠,嬰閉窮城,憂頓長沔,機勇兩缺,何其嗟哉。"
- ↑ 『十六国春秋』巻8「劉翼伝」"劉淵別將劉翼,驍勇過人,能一手舉殿柱,跳過平陽門,時人擬之張關。"
- ↑ 『周柱国大将軍紇幹弘神道碑』"公入仕四十五年,身經一百六戰。通中陷刃,疾甚曹參;刮骨傅藥,事多關羽。"
- ↑ 『陳書』巻31「蕭摩訶伝」"及將戰,明徹謂摩訶曰:「若殪此胡,則彼軍奪氣,君有關、張之名,可斬顏良矣。」"
- ↑ 『烏磁鼎銘』"利不動,爵不縶,威不屈,害不折,心耿耿,義烈烈,偉丈夫,真豪傑,綱常備,古今絕。"
- ↑
(中国語) 『三國論』, ウィキソースより閲覧。"以先主之寬仁得眾,張飛、關羽萬人之敵,諸葛孔明管、樂之儔,左提右挈,以取天下,庶幾有濟矣。" - ↑
(中国語) 『思慎賦』, ウィキソースより閲覧。"殊不知關、張以傲誕爲將,桑、霍以滿盈居職;" - ↑ 『大唐平百済国碑銘』"趙雲一身之膽,勇冠三軍;關羽萬人之敵,聲雄百代。"
- ↑ 『瀘川都督王湛神道碑』"攻城野戰,張飛、關羽;奇策密謀,荀彧、賈詡。"
- ↑
(中国語) 『成都文類』(四庫全書本)巻六「詩」「陵廟:謁先主廟」, ウィキソースより閲覧。"孰與關張並,功臨耿鄧親。應天才不小,得士契無鄰。" - ↑
(中国語) 『長短経』「君徳第九」, ウィキソースより閲覧。"彼孔明者,命世之奇才,伊、呂之儔匹。[...]若使與曹公易地而處,騁其長算,肆關、張之武,盡諸葛之文,則霸王之業成矣。" - ↑ 『東歸留題太常徐卿草堂』"虜騎無數來,見君不敢當。漢將小衛霍,蜀將凌關張。"
- ↑ 『為曹将軍謝写真表』"非關羽之絕倫,何以廁跡虎臣、儀形麟閣?"
- ↑
(中国語) 『英傑論』, ウィキソースより閲覧。"蜀先主與關羽、張飛同臥起,而稠人廣坐,侍立終日。皆用此道,故能成功。夫禦英傑,使猛將,與見道德之人,接方正之士不同也,不可以繁禮飾貌,以浮辭足言,宜洞開胸懷,令見肝肺。氣懾其勇,恩結其心,雖踞洗召之,不為薄矣。祿山,夷狄之譎詐者也,非將門英豪,草萊奇傑,其戰鬥之氣,擊刺之才,去關張遠矣。" - ↑ 『関羽祠送高員外還荊州』"將軍稟天姿,義勇冠今昔。走馬百戰場,一劍萬人敵。雖為感恩者,竟是思歸客。流落荊巫間,裴回故鄉隔。離筵對祠宇,灑酒暮天碧。去去勿復言,銜悲向陳跡。"
- ↑ 『問進士』(永泰二年通州問)「第5」"何人恩信過於田橫?何人壯勇等於關羽?"
- ↑ 『全唐詩』巻521「題永崇西平王宅太尉愬院六韻」"天下無雙將,關西第一雄。授符黃石老,學劍白猿翁。矯矯雲長勇,恂恂郄縠風。家呼小太尉,國號大梁公。半夜龍驤去,中原虎穴空。隴山兵十萬,嗣子握雕弓。"
- ↑ 『全唐詩』巻710「蜀」"雖倚關張敵萬夫,豈勝恩信作良圖。能均漢祚三分業,不負荊州六尺孤。緑水有魚賢已得,青桑如蓋瑞先符。君王幸是中山後,建國如何號蜀都。"
- ↑ 『禅月集』巻24「賀鄭使君」"龔遂劉寛同煦嫗,張飛關某太驅馳。"
- ↑ 『討王郢詔』"前左武軍大將軍宋皓,負關張勇智,有韓白英雄,累著戰功,再居環衛。"
- ↑ 『親征契丹命将制』"猛若關張,氣吞荊聶,薦膺委寄,每著勤勞。鳴鏑離弦,既得吟猿之妙;青萍出匣,久彰斷兕之名。營陣之間,皆推果毅。"
- ↑
(中国語) 『桂苑筆耕集』巻八「徐州時溥司空・第二」, ウィキソースより閲覧。"所謂有非常之人。然後有非常之事。絳,灌亦一時俊傑。關,張非累世勳庸。鏤姓名於金鼎玉鍾。飾儀形於雲臺煙閣。永言盡美。孰敢爭先。" - ↑
(英語) 『騎省集』(四庫全書本)巻二十七「洪州豐城縣李司空廟碑文」, ウィキソースより閲覧。於時唐室崩離,諸侯角逐,呉武王奮桓文之舉,我先君效開張之用,摧兇略地,所向無前。功加於時,慶鍾於後。 - ↑
(中国語) 『談苑』巻三, ウィキソースより閲覧。狄青字漢臣,元昊叛,屢將兵出戰,四年間大小二十五陣,八中流矢,人呼為狄天使。上觀其儀表。曰:「朕之關、張也。」 - ↑ 『黙堂集』巻9"當時先主得關張,能使西川弱勝強。"
- ↑ 『淇水集』"天下義士,雲長之徒,掉臂而徐去,管寧之屬,浮海而避之。"
- ↑ 『薛仁貴征遼事略』"乃絳州義軍都頭目薛懷玉也!此人勇若關張,智同伊尹,堪當大用。"
- ↑ 『楊和王挽章五首』"帝謂關張勇,氣吞豺虎群。忠誠昭白日,始卒翊明君。滅沿台躔耀,哀榮鳳口墳。傳家有賢嗣,淚血入江雲。"
- ↑ 『題関公像』"月缺不改光,劍折不改鋩。月缺白易滿,劍折尚帶霜。勢利尋常事,難屈志士腸。男兒有死節,可殺不可量。"
- ↑ 『朱子語類』巻52「孟子2・問夫子加斉之卿相章」"正如關羽擒顏良,只知有此人,更不知有別人,直取其頭而歸。"
- ↑ 『朱子語類』巻136「歴代3」"此特關羽恃才疏鹵,自取其敗。"
- ↑ 『容斎隨筆』巻11「名将晚謬」"自古威名之將,立蓋世之勛,而晚謬不克終者,多失於恃功矜能而輕敵也。關羽手殺袁紹二將顏良、文醜於萬眾之中。及攻曹仁於樊,于禁等七軍皆沒,羽威震華夏,曹操議徙許都以避其銳,其功名盛矣。而不悟呂蒙、陸遜之詐,竟墮孫權計中,父子成禽,以敗大事。"
- ↑ 『龍川集』巻7「呂蒙」"夫關羽好勇而無謀,恃氣而驕功,此其勢甚易譎也。"
- ↑ 『事林広記』「纂図増新群書類要事林広記丙集下巻・聖賢類・武廟従祀」"。關羽劍氣凌雲,實曰虎臣。勇如一國,敵号萬人。蜀展其翼,吳折其鱗。惜乎中勇,前後絶倫。"
- ↑ 『解州志』巻17「謁解州関廟火魯忽達」"來謁崇寧廟,遺容古貌寒。奮戈扶寒祚,斬將報曹瞞。忠烈條山並,英靈解土安。未能雄吳魏,常使後人嘆。"
- ↑ 『金台集』巻1「賦関将軍印」"昔游玉泉寺,系馬松樹林。獨坐大石上,浩歌梁父吟。老衲林下來,示我三古印。連環絡螭紐,篆畫蝕蒼暈。將軍觔無敵,勁氣橫九州。志在復漢鼎,豈事身封侯?昭烈勢孤危,恃侯作堅壘。威震曹家啊,膽落中夜起。浮雲幾變滅,瑑刻良可摹。今人千載下,拂拭空嗟吁。"
- ↑
(中国語) 『済南集』(四庫全書本)巻五「武當山賦」, ウィキソースより閲覧。馭英雄則關張奮其武,登雋良則龎蔣善其職。 - ↑ 『関侯廟』"三方各虎踞,猛將皆成群。屹然萬人敵,惟髯稱絕倫。仗節氣蓋世,橫矟勇冠軍。"
- ↑
(中国語) 『古今源流至論』(四庫全書本)別集巻四「呉楚人才人」, ウィキソースより閲覧。古之烈士材畧,則向寵、柳渾、蔡道貴、鮑昭。或曉暢軍事,料敵萬里;或拳勇比關張,或治績顯太原。 - ↑
(中国語) 『浮渓集』(四庫全書本)巻11「韓世忠除両鎮節度使制」, ウィキソースより閲覧。決勝重圍,飛、羽有萬人之敵。 - ↑ 『滏水集』巻2「古賦・海青賦」"壯如破敵,勢甚擒賊,至如關羽義勇,張綱奮烈。取鯨鯢于堅陣,叱豺狼之當轍。"
- ↑ 『金佗續編』巻二十八、中国哲学書電子化計画。一死何足道,要使後世書策知有嶽飛之名,與關張輩功烈相仿佛耳。
- ↑ 『即事六言四首』"骨已朽黃泉下,傳猶列青史中。猛朴時來宰相,關張運去英雄。"
- ↑ 『霊著祠』"甘寧關羽至今傳,名將為神自古然。生不封侯三萬戶,死猶廟食數千年。"
- ↑ 『本堂集』巻二十九、中国哲学書電子化計画。廈傾木不支,鼎重足先折。關張不終身,儀秦亦無舌。
- ↑
(中国語) 『促織経』巻之下「琵琶翅・三首」, ウィキソースより閲覧。要知鬪處關張勇,頭小牙長體似金。 - ↑ 『読史二首』顏良文丑知何益,關羽張飛死可傷。等是人間號驍將,太山寧比一毫芒。
- ↑
(中国語) 『習学記言』(四庫全書本)巻三十五「後周書」, ウィキソースより閲覧。豪雖兇粗不足取,而以關張比之,則又其細爾。 - ↑
(中国語) 『九華集』(四庫全書本)巻二十四「劉海治平之役戦最力」, ウィキソースより閲覧。吾鄉所遣騎,乃探騎耳。豈人人關張乎! - ↑ 『蕭氏続後漢書』巻九、中国哲学書電子化計画。贊曰:羽、飛萬人之敵,勇有餘而知不足,迹其行事,皆有國士之風。然羽剛而自矜,飛暴而少恩,此其所以敗也。
- ↑ 『漢前将軍関公祠志』巻7「芸文志上・胡琦新編実録序」"孰若雲長大勇憤發,心不忘義,事漢昭烈,誓同生死。守荊州九年,賊畏之如虎,討樊之舉,鼓忠烈之氣,破奸雄之膽,可不謂壯哉!惜乎事機垂成,禍生於所忽,乃守其志,終始不回,卓然為漢忠臣,獨見稱於後世。廟食玉泉,至今不絕。四方祈謁,靈應如響,不亦盛乎!及考其事跡本末具存,國志所不載者散在眾籍,文字交錯,難用檢尋,覽之者無不病焉。"
- ↑ 『義勇武安王集』巻4「解州知州張柬之重修武安王廟記・義勇行」"憶昔天下初三分,猛將並驅誰軼群。桓桓膽氣萬人敵,臥龍獨許髯將軍。威吞曹瞞欲遷許,中興當日推元勛。惜我壯繆功不就,竟令豺兕還紛紛。血食千年廟貌古,歲時歌舞今猶勤。君不見天都、靈武巢未覆,撫髀常思漢壽君。"
- ↑ 『桐江続集』巻20「題来将軍括蒼送行巻」"萬人為翰墨,無一曹思王。萬人握干殳,無一關雲長。"
- ↑ 『宋江三十六賛並序』「大刀関勝」"大刀關勝,豈雲長孫。雲長義勇,汝其後昆。"
- ↑
(中国語) 『続後漢書』郝経(四庫全書本)巻十六「列伝第十三」, ウィキソースより閲覧。議曰:羽、飛從昭烈啑血起義,夙定君臣之分,期復漢室,百折興王。闞如兩虎嘯風從龍,夾之以飛,雄猛震一世,號稱萬人敵。羽報効於操,致書而去,飛瞋目横矛,而與操决。矯矯義烈,上通於天,漢于是乎不亾。 - ↑ 『続後漢書』巻16「列伝第13・漢臣・関羽」"羽儀狀雄偉,嶽嶽尚義,儼若神人。"
- ↑ 『郝文忠陵川文集』巻38「与賈丞相書」"昔魏武之於關侯,梁高祖之於賀拔勝,孔明之於徐庶,皆謀臣猛將,反覆去就,知其無留,意猶不固止。"
- ↑ 『続後漢書』巻56「呉臣・呂蒙、陸遜・謹案:呂蒙伝闕」"雲長萬人之敵,而呂蒙襲取。昭烈一世之雄,而陸遜摧破。漢之義師,不復東征。祗保梁益,吳遂蹈跨荊揚。操不可圗,丕乃禪代曺氏。遂有中國,而天下三分,殆非人謀亦天意也。"
- ↑ 『郝文忠陵川文集』巻33「漢義勇武安王廟」"躍馬斬將萬眾中,侯印賜金還自封。橫刀拜書去曹公,千古凜凜國士風。跨有荊、益事戰攻,直指許、洛期一戎。操為喘氣謀避鋒,權為鯨梟示象恭。"
- ↑ 『明実録』「大明太祖高皇帝実録」巻8"上戒之(常遇春)曰:克敵在勇,全勝在謀。昔,關羽號萬人敵,為呂蒙所破,為無謀也,爾宜深戒之。"
- ↑ 『李卓吾先生批評三国志』巻79「第76回・総評」"雲長信義,不設機械,觀其待徐公明可見也。到底是個君子,不比小人,外厚其貌而衷薄甚也。"
- ↑ 『読通鑑論』巻9「献帝」"吳、蜀之好不終,關羽已死,荊州以失,曹操以乘二國之離,無忌而急於篡,關羽安能逃其責哉?羽守江陵,數與魯肅生疑貳,於是而諸葛之志不宣,而肅亦苦矣。肅以歡好撫羽,豈私羽而畏昭烈乎?其欲併力以抗操,匪舌是出,而羽不諒,故以知肅心之獨苦也。"
- ↑ 『読通鑑論』巻9「献帝」"關羽,可用之材也,失其可用而卒至於敗亡,昭烈之驕之也,私之也,非將將之道也。"
- ↑ 『廿二史箚記』巻七「三国志・晋書」「関張之勇」、中国哲学書電子化計画。漢以後稱勇者必推關張。
- 1 2 『清史稿』巻84"關帝力扶炎漢,志節懍然,陳壽撰志,多存私見。正史存諡,猶寓譏評,曷由傳信?今方錄四庫書,改曰忠義。武英殿可刊此旨傳末,用彰大公。"
- ↑ 『三国志集解』蜀書6『三国志』36「趙雲伝」"樊氏國色,而子龍不取,賢于關羽之乞娶秦宜祿妻去遠矣。"
- ↑ 井波 1994b, pp. 87–88, 93–94.
- ↑ 渡邉 2020, pp. 224, 227.
- ↑ 徐珂『清稗類鈔』、喪祭類「以祀関羽愚蒙」
- ↑
(中国語) 『逸周書』巻六「諡法解」, ウィキソースより閲覧。"名與實爽曰謬。〈言名美而實傷。〉布德執義曰穆,〈穆,純也。〉中情見貌曰穆。〈任□(※判別不能)路也。〉" - ↑ 『三国志』巻36「趙雲伝」"於是關羽、張飛、馬超、龐統、黃忠及雲乃追諡,時論以為榮。"
- ↑ 『三国志集解』蜀書6『三国志』36「関羽伝」"程敏政曰:先主時,惟法正見謚。後主時諸葛功德蓋世,蔣琬、費禕亦見謚,至是關羽、張飛、馬超、龐統、黃忠、趙雲皆得追謚,時論以爲榮。按繆、穆古通用,若秦穆、魯穆,在孟子,漢穆生、晉穆彤,在史皆爲繆。宋岳飛謚武穆,意與此同。今乃以爲惡謚,如謚法:武功不成曰繆。蔡邕獨斷:名實過爽曰繆,豈理也哉?若果爲惡謚,則史不應云追謚之典,時論以爲榮矣。考謚法:布德執義曰穆,中情見貌曰穆。禮記大傳:以序昭穆。古本穆作繆,左傳穆多作繆。是穆、繆古今皆通。"
- ↑
(中国語) 『逸周書』巻六「諡法解」, ウィキソースより閲覧。"兵甲亟作曰莊,〈以數征爲嚴。〉睿通克服曰莊,〈通,達,使能服也。〉死於原野曰莊,〈非嚴,何以死難。〉屢征□伐曰莊,〈以嚴□之。〉武而不遂曰莊。〈武功不成。〉" - ↑ 『三国志集解』蜀書6『三国志』36「関羽伝」"梁章鉅曰:壯繆並非美謚,不知當時何以取此?今殿本改爲忠義傳,末刊載乾隆諭旨云云。"
- ↑ 『三国志集解』蜀書6『三国志』36「関張馬黄趙伝」"弼按:程説極允,梁説非是。後代易謚原無不可,更易,本傳則不可也。"
- ↑ 李 1993, pp. 41–42.
- ↑
(中国語) 『北夢瑣言』巻11, ウィキソースより閲覧, "唐咸通亂離後,坊巷訛言關三郎鬼兵入城,家家恐悚,罹其患者令人寒熱戰慄,亦無大苦。弘農楊玭挈家自駱谷路入洋源,行及秦嶺,回望京師,乃曰:「此處應免關三郎相隨也。」語未終,一時股慄,斯又何哉夫喪亂之間,陰厲旁作,心既疑矣,邪亦隨之。關妖之說正謂是也。愚幼年曾省故里,傳有一夷迷鬼魘,人,閭巷夜聚以避之,凡有窗隙悉皆塗塞,其鬼忽來即撲人驚魘,須臾而止。" - ↑ 林・黄 2022, pp. 94–96.
- ↑ 李 1993, pp. 42–43.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 方 2014, 「戦将型名将第一名——関羽」二:文化関公.
- 1 2 3 李 1993, pp. 45–47.
- ↑ 中川 2014, p. 20.
- ↑ 井波 1994a, p. 110.
- ↑ 渡邉 2011a, pp. 7–8.
- ↑ 渡邉 2020, p. 222.
- ↑ 毛宗崗『三国演義』第1回"玄德看其人:身長九尺,髯長二尺;面如重棗,唇如塗脂;丹鳳眼,臥蠶眉:相貌堂堂,威風凜凜。"
- ↑ 『三国志』巻14「董昭伝」"建安元年,太祖定黃巾於許,遣使詣河東。會天子還洛陽,韓暹、楊奉、董承及楊各違戾不和。昭以奉兵馬最強而少黨援,作太祖書與奉曰:吾與將軍聞名慕義,便推赤心。"
- ↑ 『三国志』巻36「張飛伝」"飛據水斷橋,瞋目橫矛曰:「身是張益德也,可來共決死!」敵皆無敢近者,故遂得免。"
- ↑ 『三国志』巻7「呂布伝」注引『英雄記』"汜、布乃獨共對戰,布以矛刺中汜,汜後騎遂前救汜,汜、布遂各兩罷。"
- ↑ 『三国志』巻18「典韋伝」"太祖募陷陳,韋先佔,將應募者數十人,皆重衣兩鎧,棄楯,但持長矛撩戟。[...]賊前後至稍多,韋以長戟左右擊之,一叉入,輒十餘矛摧。"
- ↑ 『三国志』巻36「関羽伝」"羽望見良麾蓋,策馬刺良於萬眾之中,斬其首還,紹諸將莫能當者,遂解白馬圍。"
- ↑ 『三国志』巻7「呂布伝」"布有良馬曰赤兔。"
- ↑ 毛宗崗『三国演義』第3回
- ↑ 毛宗崗『三国演義』第24、25回
- ↑ 中川 2014, p. 25.
- ↑ 毛宗崗『三国演義』第1回
- ↑ 毛宗崗『三国演義』第5回
- ↑ 毛宗崗『三国演義』第26回
- ↑ 毛宗崗『三国演義』第27回
- ↑ 毛宗崗『三国演義』第50回
- ↑ 毛宗崗『三国演義』第66回
- ↑ 毛宗崗『三国演義』第50回"或疑關公之於操,何以欲殺之於許田,而不殺之於華容?曰:吾為朝廷斬賊,忠也;華容之不殺,義也。順逆不分,不可以為忠;恩怨不明,不可以為義。如關公者,忠可千霄,義亦貫日,真千古一人。"
あるいはこうも疑えるだろう。「関羽はかつて、許で曹操を殺そうとしたのに、なぜ華容道では殺さなかったのか?」。私はこう答える。「朝廷のために国賊を斬るのは〈忠〉であり、華容道で曹操を殺さなかったのは〈義〉である。順と逆を区別できなければ〈忠〉とは言えず、恩と怨みを明らかにできなければ〈義〉とは言えない」。関公の如き人物は、忠は天を衝き、義は日をも貫く。まさに千古に一人の英雄である(渡邉 2011b, pp. 67–68)。 - ↑
(中国語) 『中国小説的歴史的変遷』第4講, ウィキソースより閲覧。"(三)文章和主意不能符合——這就是說作者所表現的和作者所想像的,不能一致。如他要寫曹操的奸,而結果倒好像是豪爽多智;要寫孔明之智,而結果倒像狡猾。"
(三)文章と主意が一致しない——これはすなわち、作者が表現しようとしたものと、心に思い描くものが噛み合わないということである。例えば、曹操の奸悪を描こうとしたのに、結果としてむしろ豪快で知謀に長けた人物のようになってしまったり、孔明の智略を描こうとしたのに、結果として狡猾な人物のようになってしまったりする場合である(渡邉 2011b, p. 61)。 - ↑
(中国語) 『中国小説的歴史的変遷』第4講, ウィキソースより閲覧。"——然而究竟它有很好的地方,像寫關雲長斬華雄一節,真是有聲有色;寫華容道上放曹操一節,則義勇之氣可掬,如見其人。"
——しかし、それでもなおこの作品にはすばらしい部分が確実にある。例えば関雲長が華雄を斬る場面などは、まさに有声有色(生き生きとして臨場感にあふれる)であり、華容道で曹操を逃がす場面では、義侠心と勇猛な気風が手に取るように伝わってきて、まるでその人物が目の前にいるかのように感じられるのだ(渡邉 2011b, p. 61)。 - ↑ 毛宗崗『三国演義』第77回
- ↑ 毛宗崗『三国演義』第77回
- ↑ 毛宗崗『三国演義』第77回
- ↑ 毛宗崗『三国演義』第77回、85回、94回
- ↑ 渡辺 1989, pp. 102–103.
- ↑ 趙・向田, pp. 43, 72–73.
- ↑ 趙・向田 1998, p. 43.
- ↑ 趙・向田, 巻頭カラーの紹介文.
- ↑ 魯 2020, p. 35.
- ↑ 趙・向田, pp. 72–73.
- 1 2 魯 2020, p. 123.
- ↑ 河野孝「京劇「趙雲と関羽」 立ち回りの極致を見せる」『日本経済新聞』2013年5月30日。オリジナルの2024年11月22日時点におけるアーカイブ。2024年11月22日閲覧。
- ↑ 趙・向田, p. 80.
- ↑ 毛宗崗『三国演義』第41回
- ↑ 王 1991, pp. 115–117.
- ↑ 長尾 2019, pp. 69–110(初出は長尾 2002)
- ↑ 長尾 2019, pp. 323–350(初出は長尾 1999a)
- ↑ 長尾 2019, pp. 351–388(初出は長尾 1999b)
- ↑ 長尾 2019, pp. 389–411(初出は長尾 2004)
- ↑ 長尾 2019, pp. 473–496(初出は長尾 2001)
- ↑ 中西進・厳紹璗編『日中文化交流史叢書 第6巻・文学』p349以降(大修館書店、1995年。ISBN 446913046X)
参考文献
[編集]原本
[編集]日本語文献
[編集]- 陳寿(撰)、裴松之(注) 著、井波律子 訳『正史三国志5:蜀書』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、1993年。ISBN 4480080457。
- 井波律子『三国志演義』岩波書店〈岩波新書〉、1994年8月。ISBN 9784004303480。
- 井波律子「蜀の五虎将軍 関羽・張飛・趙雲・馬超・黄忠」『反逆と反骨の精神 三国時代—南北朝』岩波書店〈中国人物伝 第II巻〉、2014年10月、82-96頁。ISBN 9784000267762。
- (初出)井波律子『三国志曼荼羅』岩波現代文庫、2007年。ISBN 9784006021191。
- 湖北省群衆芸術美術館 編、立間祥介、岡崎由美 訳『三国志外伝 : 民間説話にみる素顔の英雄たち』徳間書店、1990年。ISBN 9784192243315。
- 趙暁群、向田和弘『京劇鑑賞完全マニュアル』株式会社好文出版、1998年。ISBN 9784872200225。
- 長尾直茂『本邦における三国志演義受容の諸相』勉誠出版、2019年2月。ISBN 9784585291794。
- 長尾直茂「江戸時代の漢詩文に見る関羽像:『三国志演義』との関連に於いて」『日本中国学会報』51集、日本中国学会、1999年10月、223-239頁。
- 長尾直茂「江戸時代の絵画における関羽像の確立」『漢文學 解釋與研究』2輯、漢文学研究会、1999年11月、101-136頁。
- 長尾直茂「近世における『三国志演義』:その翻訳と本邦への伝播をめぐって」『國文學・解釈と教材の研究』第46巻第7号、学燈社、2001年6月、65-73頁。
- 長尾直茂「中世禅林における関羽故事の受容:「百万軍中取顔良」故事と関羽所用の大刀をめぐる一考察」『漢文學 解釋與研究』5輯、漢文学研究会、2002年12月、29-64頁。
- 長尾直茂「江戸時代の漢詩文に見る羽扇綸巾の諸葛孔明像:『三国志演義』との関連において」『漢文學 解釋與研究』7輯、漢文学研究会、2004年12月、73-103頁。
- 中川諭(後藤裕也、高橋康浩、小林瑞恵)『武将で読む三国志演義読本』勉誠出版、2014年。ISBN 9784585290780。
- 方北辰、譚良嘯 著、人見香緒 訳『蜀漢の謎100』大樟樹出版社〈史料で読み解く三国志の嘘と真実 第2巻〉、2018年。ISBN 9784909089137。「(原本)『走進成都武侯祠100問』成都時代出版社、2015年、ISBN 9787546413945」
- 宮川尚志『諸葛孔明 「三国志」とその時代』講談社〈講談社学術文庫〉、2011年。ISBN 9784062920759。
- 魯大鳴『京劇への招待』小学館、2002年。ISBN 9784093431064。
- 渡辺精一『三国志人物事典』講談社、1989年。ISBN 9784062022026。
- 渡邉義浩『三国志:演義から正史、そして史実へ』中央公論新社〈中公新書〉、2011年3月。ISBN 9784121020994。
- 渡邉義浩『関羽:神になった「三国志」の英雄』筑摩書房〈筑摩選書〉、2011年10月。ISBN 9784480015280。
- 渡邉義浩 著「関羽:神になった英雄」、鶴間和幸 編『侠の歴史・東洋編(上)』清水書院、2020年、214-227頁。ISBN 9784389501228。
中国語文献
[編集]- 方北辰『三国名将:一個歴史学家的排行榜』北京大学出版社、2014年。ISBN 9787301248133。
- テレビ番組用の原稿を改稿(→#テレビ番組)。電子書籍版につきページNo.なし。
- 林玲、黄景春「従関羽到関索:関三郎信仰的生成与転変」『広西民族大学学報(哲学社会科学版)』第2号、2022年、94-100, 105頁。
- 李恵明「伝神文筆写関公——関羽芸術形象神聖化之歴史変遷」『上海師範大学学報』2期、1993年、41-47頁。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]ウェブサイト
[編集]テレビ番組
[編集]- 『百家講壇』
- 中国の人気テレビ番組『百家講壇』において、歴史学者・方北辰が歴史と文化の側面から関羽について解説した動画。
- “『三国名将 関羽:1 歴史関公』”. 百家講壇 (中国語). 2015年3月15日. CCTV10.YouTube版 - YouTube。
- “『三国名将 関羽:2 文化関公』”. 百家講壇 (中国語). 2015年3月16日. CCTV10.YouTube版 - YouTube。
- “『三国名将 関羽:3 謎団関公』”. 百家講壇 (中国語). 2015年3月17日. CCTV10.YouTube版 - YouTube。