ノート:関羽

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中国版のウィキペディアによると、関羽は160年生まれらしい。

ソースはこれ。--以上の署名のないコメントは、124.144.47.149会話/Whois)さんが 2006年5月7日 (日) 16:36 (UTC) に投稿したものです(Hansa 2010年1月3日 (日) 16:12 (UTC)による付記)。[返信]

  ↓

http://www.gggl.gov.cn/gggl/guangongwenhua/guanyusp.htm

ソースはこれなどと提示する前に、史料批判をなさってください。正史(『三国志』)には不記載で、それから1500年から1600年も経って作った碑文や書籍、さらに民間伝承ににわかに生年月日まで掲載されているという話に過ぎません。確かに学者の研究はありますが、到底あてになるという内容ではありません。これが覆るには、同時代性のある出土文献や碑文が出るしかないでしょうがね。Aboshi 2006年5月8日 (月) 04:50 (UTC)[返信]

今泉恂之介『関羽伝』を買って読んでみました。
問題の生年についてですが、現地の研究者の見解は「清乾隆帝期に編纂された『関帝誌』なる本」が第一の根拠とのことです。清代の本が根拠などとは「根拠なし」と言っているのと同じです。どういう理屈でこれを歴史的事実と看做したのやら。
また現地の研究者として名前が挙がっている孟海生という人は「関公文化研究会」なる会を主催しているそうですが、歴史学者と言う訳ではなく新聞記者のようです。もちろん歴史学者じゃないからウソだなどと言うつもりはありませんが、胡散臭さは拭えません。
この本自体、ちょこちょこ間違いや意味の通らない部分もあり、全体として信用は置けないという印象が強いです。
以上のようなことから「常平郷での伝説」の節は削りたいと思います。一週間程度待ってから実行します。らりた 2006年5月21日 (日) 12:24 (UTC)[返信]

らりたさんに同意します。ただ、今後のこともあるので内容をノートに残しておき、一項を設けて「以下の内容についてはこれこれの理由につき削除した」とただしをつけておきましょう。こういう信憑性の薄い民間伝承は今後も(特に日中韓で)多く出てくるでしょうし、その際の様式をここで作ってしまいませんか?Aboshi 2006年5月21日 (日) 16:30 (UTC)[返信]
そうですね。ノートに残しておく方が良いでしょう。追検証が出来るのなら関羽に関する伝説として本文に残しておいても良いのですが、さすがにこれは難しい・・・。らりた 2006年5月25日 (木) 11:57 (UTC)[返信]

関羽の生年に関する伝説[編集]

以下は関羽2006年6月13日 (火) 14:07より移してきた記述です。上記のような理由により、これらは信頼性に欠けると考えられたためです。らりた 2006年6月17日 (土) 13:01 (UTC)[返信]

劉備の項によると、劉備の生年が161年となっているため、義理の弟である関羽は、少なくとも161年以降の出生になると思います。ユーリィズ 2007年8月25日 (土) 18:15 (UTC)[返信]

義兄弟になったということ自体が演義の創作なのですが。らりた 2007年9月7日 (金) 11:37 (UTC)[返信]

ご教授ありがとうございます。そうなんですか、浅学ですいません。ユーリィズ 2007年9月8日 (土) 07:42 (UTC)[返信]

常平郷での伝説[編集]

以下、今泉恂之介『関羽伝』(新潮社 新潮選書2000年 ISBN 4-10-600595-6)による。

山西省の研究家の間では、関羽の生年を160年とする説が有力である(『三国志演義』では162年が生年)。元のは管、馮、常、柁、封など諸説あるが不明。生家は鍛冶屋、木こり、豆腐売りなど諸説あるが、いずれにせよ下層階級(庶人)の出であるという。家業に励む一方、『春秋左氏伝』に親しむなど勉学にも励み、文武に優れた若者として一目置かれていた。177年、胡氏と結婚し、178年、長男の関平が生まれた。

黄巾の乱のころ、塩商人の呂熊は、呂布と結託して、暴利をむさぼっていた。常平村では干魃が続き、飲み水にも欠くありさまだった。呂熊のような富裕な者は深井戸を持ち、水を自給していた。村人が呂熊に水を求めると、呂熊は若い女性を汲みに来させ、次々と手込めにした。しかし村人たちは逆らえなかった。一人の美女が呂熊に逆らい、逃れられぬと知って自殺した。関羽はこれを聞くと、ある日刀を帯びて呂熊の自宅に乗り込み、呂熊と一族郎党を誅殺した。関羽が故郷を去ったのはこのためという。両親は関羽の行動を義によるものと認めたが、逃亡に同行して足手まといになるよりはと自殺した。関羽は官吏に追われて各地を放浪し、また、この時初めて関羽と名乗った。

188年幽州の涿(たく)郡で劉備・張飛と出会ったという。この後劉備の元で義勇軍を結成し、黄巾軍と戦った。時期的には張角は既に病死しており、黄巾軍の残党と戦っていたことになる。

神になった人物[編集]

崇敬を受けているわけですが、中国の人物神というカテゴリはないのですかね。日本だと[[Category:日本の神 (人物神)]]があるじゃないですか。中国はこういう人物は少ないのかな。--Alexander Poskrebyshev会話2016年10月20日 (木) 15:13 (UTC)[返信]

47人目の神[編集]

「悲劇的な死を遂げたが、後世の人間に神格化され関帝(関聖帝君・関帝聖君)となり、47人目の神とされた」の「47人目の神」とは何の序列における47人目なのか、出典含めまったく不明です。ひとまず「要検証」としました。--Greywagtail会話2017年8月10日 (木) 00:48 (UTC)[返信]

Greywagtailさんの仰る通り、全く不明です。すでに3年間全く返信が無いので、問題の記述は消しておきます。--喜寿会話2020年11月28日 (土) 05:01 (UTC)[返信]

出奔の経緯について[編集]

可変IPユーザーが「故郷で悪人を殺した為」の出典とする渡邉義浩『三国志事典』では確かにそう断じられていますが、その根拠は示されていません。「そのような逸話(伝説)も残る」という形では既に本項で記されており(→[1] 出典は今泉恂之介『関羽伝』。藤井勝彦『三国志合戦事典』でもそれに近い記述を確認)それで十分と、これを断定形に書き換えるには相応の根拠と議論が必要と提言します。--鳴海会話2023年12月15日 (金) 09:35 (UTC)[返信]