老子道徳経

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『老子』(馬王堆帛書乙本)
長春観太清殿の『老子道徳経』(武漢市

老子道徳経(ろうしどうとくきょう) は、中国春秋時代の思想家老子が書いたと伝えられる書。単に『老子』とも『道徳経』(繁体字: 道德經; 簡体字: 道德经; 拼音: Dàodéjīng Zh-道德經.oga 発音[ヘルプ/ファイル])とも表記される。また、老子五千言・五千言とも。『荘子』と並ぶ道家の代表的書物。道教では『道徳真経』ともいう。上篇(道経)と下篇(徳経)に分かれ、あわせて81章から構成される。

成立・伝来[編集]

伝説上の老子道徳経[編集]

老子はの人。隠君子として図書館司書をつとめていた。孔子洛陽に出向いて彼の教えを受けている。あるとき周の国勢が衰えるのを感じ、の背に乗って西方に向かった。函谷関を過ぎるとき、関守の尹喜(いんき、中文版)の求めに応じて上下二巻の書を書き上げた。それが現在に伝わる『道徳経』である。その後老子は関を出で、その終わりを知るものはいない。

文献学上の老子道徳経[編集]

しかし、現在の文献学では、伝説的な老子像と『道徳経』の成立過程は、少なくとも疑問視されている。

まず、老子が孔子の先輩だったという証拠はない。伝説では老子の年は数百歳だったというが、あくまで伝説である。前述の、孔子が老子に教えを受けたという話は『荘子』に記されている。しかし『荘子』の記述は寓話が多く、これもそのうちの一つである可能性が非常に高い。

『荘子』にたびたび登場している点から見て、老子の名は、当時(紀元前300年前後)すでに伝説的な賢者として知られていたと推測される。ただし、荘子以前に書物としての『老子道徳経』が存在したかは疑わしい。『道徳経』の文体や用語は比較的新しいとの指摘がある。たとえば有名な「大道廃れて仁義あり」の一文があるが、「仁義」の語が使われるのは孟子以降である。

一方で『韓非子』(紀元前250年前後)には、『道徳経』からの引用がある(ただしその部分については偽作説もある)。

現在有力な説では、『荘子』で言及されている伝説的な賢者の老子は『老子道徳経』の作者ではなく、『道徳経』はのちの道家学派によって執筆・編纂されたものであろうということである。

伝来[編集]

  • 出土資料としては、郭店一号楚墓から出土した残簡(郭店楚簡)が最古である。それに次ぐものとして馬王堆漢墓から出土した2種類の帛書(『老子帛書』甲・乙)がある。甲本は劉邦の「邦」を避諱しておらず、漢以前のものである。いっぽう乙本の方は破損が少ない。
  • 本文および注釈書としては、王弼による『老子注』と、漢の河上公(かじょうこう)によるものとされる(実際にはおそらく六朝時代のもの)『老子河上公注』が代表的なもの。王弼と河上公とは本文にも違いがある。唐代初めの傅奕(ふえき)による編集とされる老子古文も言及されることが多い。また、唐の玄宗皇帝による『開元御注道徳経』というのもある。部分的に残存しているものとしては漢代の厳遵によるとされる『老子指帰』がある。その他にも中国で歴史上多数の注釈書が作られ、近代以前に作られて名前だけでも伝わっている典籍が数百ある。近代、世界的に古典と認識されてからは更に多く作られている。

内容[編集]

形式[編集]

『老子道徳経』は5千数百字(伝本によって若干の違いがある)からなる。全体は上下2篇に分かれ、上篇(道経)は「道の道とすべきは常の道に非ず(道可道、非常道)」、下篇(徳経)は「上徳は徳とせず、是を以て徳有り(上徳不徳、是以有徳)」で始まる。『道徳経』の書名は上下篇の最初の文句のうちからもっとも重要な字をとったもの。ただし馬王堆帛書では徳経が道経より前に来ている。

上篇37章、下篇44章、合計81章からなる。それぞれの章は比較的短い。章分けはのちの注釈者によるもの。68章に分けた注釈もある。一方で、81章より多く分けた方が文意が取りやすいとの意見もある。

『道徳経』には、固有名詞は一つも使われていないことが指摘されている。短文でなっていること、固有名詞がないことから、道家の俚諺(ことわざ)を集めたものではないかという説がある。

老子思想[編集]

老子

老子の根幹の思想である無為自然とは、自然との融合を目指すという意味は持たず、「あるがままに暮らすべきだ」との思想。一部の偏った解釈ではこれは政治思想であり、以下に述べるように、「人民は無知のまま生かしておくのが最も幸せである」とする思想との解釈もある。

 不尚賢 使民不爭 (賢者を尊びさえしなければ、民を争いあわせることもない。)
 不貴難得之貨 使民不爲盗 (得がたい財貨に価値を与えなければ、民に盗みをさせることもない。)
 不見可欲 使心不亂 (欲しくなるかもしれない物も、見なければ心は乱れない。)
 是以聖人之治 (だから聖人の政治の下では、)
 虚其心 實其腹 (民は、空虚な意識しかなくとも腹は満腹で、)
 弱其志 強其骨 (心は弱くとも骨肉は頑強である。)
 常使民無知無欲 (常に民には何も知らせず、そして何も欲させるな。)
 使夫知者不敢爲也 (知識人は、政治に活用するのではなく、何もさせるな。)
 爲無爲 則無不治 (『何もしないこと』をすれば、必ず天は治まる。)(道徳経3章)

また、老子に於いては儒教的価値の批判ないし相対的視点の提示をこころみている。たとえば、以下にあげるように、仁義や善や智慧、孝行や慈悲、忠誠や素直さは、現実にはそれらがあまりに少ないからもてはやされるのであって、大道の存在する理想的な世界おいては必要のない概念であると述べる。

  大道廢 有仁義 (偉大な「道」が廃れてはじめて仁義が現れる。)
  智慧出 有大偽 (智慧がとりたざされるときには大いなる欺瞞がある。)
  六親不和 有孝慈 (父、母、叔父、伯父、叔母、伯母の六親の仲が悪いときに限って孝行や慈悲がもてはやされる。)
  國家昏亂 有貞臣 (国家が混乱し(皇帝の意見に雷同する臣下がはびこっ)ているときに限って、率直に皇帝を諫める貞臣が認識されるようになる。)(道徳経18章)

「飢饉というものは年のめぐり合わせによる異常気象で発生する自然現象である。しかし民衆の生活を破壊する飢饉は、君主が自分の消費のために税収の目減りを我慢できず、飢饉でみんなが困っている時に、税をさらに重くして、なお余計に奪い取ろうとする《食税》から発生するのである。これが民の飢饉の惨害の本当の原因なのだ(人之饑也 以其取食税之多 是以饑)」(帛書『老子・乙本』第七十七章)

の振る舞いに於いては、何か不足すれば、余っているところから補われて全体のバランスが保たれる。ところが人間の制度はそうではない。欠乏している人民から高い税を取り上げて、すでにあり余って満ち足りている君主に差し上げる。どこかの君主がそのあり余る財力で、天下万民のために何かをしてくれるとしたら、それこそ有道の君主と評価できるのにねえ(天之道 損有餘而益不足 人之道則不然 損不足以奉有餘 孰能有餘以取奉於天者 唯有道者乎)」(第七十九章)

「強大な覇権国家の君主は自分の言いなりに搾取できる家畜のような人間の数を増やしたいから、他国を侵略するのだ。弱小国家の君主は、せめて我が身、我が国を尊重してくれるならばと、超大国に屈従して、身売りの算段をしているだけだ。結局、戦争とか平和というものは君主たちの意地の張り合いだけで、民衆のことなんか何も思ってやしないんだから、まあ勝手にしたらよかろう(大國者不過欲兼畜人 小國者不過欲人事人 夫皆得其欲)」(第六十一章) 

「道義によって君主を補佐するならば、軍事力の強大さによって天下の人々を従わせようとはしないことだ。そうすれば天下の人々はきっと道義をもって応じてくれよう。軍事的な圧力をかけると周囲に茨が生えたように反抗する勢力も起きてくるようになり、戦争は結局、進めば進むほど自分も傷ついていく、茨の道だということがわかるようになる(以道佐人主 不以兵強於天下 其事好還 師之所處 荊棘生之)」(第三十章)

「戦争がうまい将軍は感情に左右されない。兵法がうまくて、いつも最善の勝利を確実にできる将軍は、戦争そのものをしない。人を使うことに巧みな人は、何ごとも謙遜してへりくだった姿勢をとる。これが何事も争わない『不争之徳』というものであり、人々の力を用いるコツであり、天道に配慮した方策で、聖人君子の政治理念である(善戰者不怒 善勝敵者弗與 善用人者爲之下 是謂不爭之徳 是謂用人 是謂配天 古之極也)」(第七十章)

「聖人はいつも私心を持つことがなく、民全体の心を自らの心と(して、政治の決断を)する。(聖人恒無心 以百姓之心為心)」(第四十九章)

「災禍の原因は、仮想敵国となるライバルがなくなって、油断しきってしまうことが最も大きい。強力なライバルがいなくなったら、本来活用すべき人材、提案、発明、万物を生かす知恵など、君主が宝とすべきものが時代にそぐわない無用の長物として排斥されて、回復できなくなってしまう(禍莫大於無敵 無敵近亡吾寶矣)」(第七十一章)

「知らないことを知ることは進歩であり、その積み重ねは立派なことだ。反対に、何も知らないくせに知ったかぶりしているというのは虚栄であり、精神の病理に由来する(知不知 尚矣 不知知 病矣)」(第七十三章)

「魚介類をたくさん水揚げしたからといって、集めておいても長く保存できるものではない。すぐ腐ってしまう。宮殿の部屋いっぱいに金器・玉器の宝物が並んでいても、それが代々にわたって受け継がれたという例はない。他の諸侯や盗賊が宝物を目当てに奪い取りに来るからだ。すでに地位も高く、十分に財産もできたというのに、驕りたかぶって、さらに欲望のかたまりになる、そんなことでは自分から墓穴を掘って、晩節を汚すことになろう。世の中で十分にやりたい仕事をしたと思ったら、その後は引退して世の人々の邪魔にならないように、恩返しのために生きるのが、天の定めた人生の道というものだ。(湍而群之 不可長保也 金玉盈室 莫能守也 貴富而驕 自遺咎也 功遂身退 天之道也)」(荊門郭店楚簡『老子・甲書』)

「世の中の肩書きと人生はどっちが大切か。自分の生命を犠牲にするほどのお金や品物があるものか。物欲を満たすこと、人生に挫折すること、どちらが大問題なのか。人や物事を非常に愛すると、必ず無理をして、たくさんの費用をかけることになる。多くの富を集めすぎると、必ずその富を奪い取られた人々の怨恨と憎悪も集中する。したがって物事は、ある程度で満足して、変な欲を出さないでおけば、めったに恥辱をうけることはないし、ある程度で見切りをつけて、あえて危険に踏み込まなければ、何も心配することはない。だから長く安定を維持できるのである(名與身孰親、身與貨孰多 得與亡孰病 甚愛必大費 多藏必厚亡 故知足不辱 知止不殆 可以長久)」(荊門郭店竹簡『老子・甲書』・帛書『老子・乙本』第四十四章)

古い老子の思想について[編集]

「老子帛書 甲・乙」では、「甲篇 」、「乙篇 道」の編名の順序となっている。「道」・「徳」の順番になったのは、一世紀から三世紀のころとされ、そのころ、章別も行われたとされる[1]。また、老子なる人物が生きたであろう時代と『老子道徳経』が作られた時代には開きがあり、この書は、その系譜に当たる弟子が後年に纏めたものという説や、老子は3人いたという説がある。「道」の内容についても、哲学的な句から、独断的な処世術の句までが混在している。そのため、老子なる人物が生きて著作したであろう時代よりも、もっと古くから伝わっていた名言を、『老子』の編集者は、その著作に取り入れた、とする見解がある[2]。また、古い老子道徳経は、五千字余りしかないにもかかわらず、「甲篇 徳」、乙篇 「道」の順序に分けられている。そのように構成されたのは、本の内容や本の章分けがその原因とはなっていない、と推察されている。老子道徳経が生まれた経緯について考えた場合、古くから伝わっていた諺や名言を作成した人物らがいて、その編集や解説をした人物が「徳篇」を形成し、そこで述べられた道の思想を、増幅した形で「甲篇 徳」、乙篇 「道」の形に編纂した人物らがいた、ということが考えられる。古い構成を逆転させ、現在のような「道」から始まり「下篇 徳」の形に定着させたのが、老子道徳経であると考えられる要因の一つには、第十八章の、「大道廃れて仁義あり」の句は、孟子と同時期か、あるいはその後輩と同時期の篇者が作成した、と見られていることがあげられる[3]

中国の古い書物はそのほとんどが、一人の著者のみで書いたものではなく、時代を変遷して、多数の著者の手により追記編集されていったものであるとされている。その門流の人々は、次々にその原本に書き足していったものを、全体として構成し直し、それをその発端者の名前で呼んでいるようである[4]。そのため、老子道徳経における「道」の概念について見る場合、最初の著者か、その思想に準じた別の著者の思想を合わせたものを、老子道徳経における「道」として検討してゆくことが妥当であるといえる。これを老子帛書にあてはめた場合、現行の「下篇 徳」を筆頭に考えることができる。そして、その中でも「建言よりの引用」と記されている部分が、かなり古い『老子』の思想であると見ることができる。

老子の「道」の区分[編集]

老子道徳経の場合、「道」についての記述は、四種の思想・人物に区分できる。

普遍的法則としての道[編集]

道と無為とを同一視して考える。また、道を「象」ではなく、「物」として見る。 第21章では、道は音もなく形もない、さわることもできない、とされている。そして、その目的とする「物」にゆきついたとき、人は忽然となり、それを何よりも大きく感じるのである[5]

根元的実在としての道[編集]

道は無と有の反復運動の中に、全体的な実在として表象される。 反とは道の動とされ(40章)、道は循環運動を永遠に続けているとされる[6]

処世術としての道[編集]

権謀的で、処世術でしかない道。 第3章の、「民の志を弱めることによって、彼らの骨を強固にしてやる。つねに民をして、無知無欲であるようにしてやる」という言葉は、したたかな権謀とも解せるものである。36章、48章、57章、59章にも同様な処世術がある[7]

政治思想としての道[編集]

他の政治思想と相対する、政治理念でしかない道。 第18章の、「大道廃れて仁義あり」の句は、孟子と同時期か、あるいはその後輩と同時期の篇者が、作成したと思われる[3]。また、第57章にある聖人は、「無私」によって聖人としての「私」を成就する、というこだわりが、無為自然と一体となるということと、別次元の関係にある。ここでは、事実上、聖人の存在などはほとんど必要ないといえる[8]

「上篇 道」にのみ特有の、諸家への対抗意識について[編集]

墨子は、天が意志を持つという「天志」説を主張した。老子は、「天地不仁」とし、天道自然説を考え出した[9]

常の道[編集]

第一章の、「道の道とすべきは常の道にあらず」という句は、儒家の説くような、仁義などの人のよるべき道を指すのではない[10]

鄭の子産は、「天道は遠く、人道は近し」と人道と天道を区別している。「論語」には、「父の道」、「先王の道」、「忠恕の道」、「天下の道」、「学の道」、「吾が道」などの用例がある[11]

天帝[編集]

第四章の、「道は、・・・万物の宗なるに似たり、・・・象は帝の先にあり」という句の、天帝は、ふつう万物を生成する造物主と考えられている[12]。帝は、一般に信仰されている神様のことを指す[13]。この神には、地上の支配者である王が仕えているとされる[14]

仁義[編集]

第五章「天地不仁」の句は、儒家の「仁義にもとづいて民衆を治めよ」という主張への反論となっている[14]

第十八章の、「大道廃れて仁義あり」の句は、孟子と同時期か、あるいはその後輩と同時期の篇者が、作成したと思われる。孟子はもっぱら仁義を主張した[3]

「上篇 道」にのみ特有の、思想上の矛盾点について[編集]

天地[編集]

上篇では、しばしば、「天地」と「道」を同一の概念として用いている[15]。冒頭の「無名は天地の始め」という句と比較した場合、無は道に該当し、天地は万物のこととなる。そのため、上篇における「天地」と「道」を同一とする思想には、矛盾が含まれていると見ることができる。

下篇には天地という語は出てきておらず、「万物」や、「天下」という語が用いられている。「天下」という語は、「世界」と訳されている。[16][注 1]

[編集]

第四章の、「道は、・・・万物の宗なるに似たり、・・・象は帝の先にあり」という句で、帝の字はこの部分以外には、出てこない[17]。帝は通常、「天帝」と訳される。この場合、「帝」と「天」が、同一となるという矛盾を含んでいる。

[編集]

第五章の、「聖人は仁あらず、百姓を非情に扱う」の句は、67章の「我に三宝あり、一にいわく慈」という言葉とくい違っている。また、49章の「聖人は、善人も不善な人もそれぞれに尊び、愛し、いずれも捨てない[18]、という言葉とは大きく異なっている。

[編集]

第十八章の、「大道廃れて仁義あり」の句で、「大道」という用例は下篇には出てこない。また、「大道」が「道」のことを言うのならば、道が廃れることはありえないので、この句には、内容がないといえる。

第七章の、「天は永遠であり、地はいつまでもある」[19]、という句を、「道」に照らして解釈すると、「天は永遠ではなく、地はいつまでもあるわけではない」という解釈になる。

第二十五章の、「道大、天大、地大、王大」の句において、政治に無為自然を言うにもかかわらず、君主を大として承認しているのは矛盾している、という見解がある[20]。また、「道」の観点からすると、「道大、天大、地大、王大」の中で大と名づけて意味があるのは、「道」のみであるということになる[注 2]

第二十五章の、「有物混成」において、道は物ではなく、象である。

「建言」に見る、実在としての道[編集]

道は、この現象界を超えたところで、現象界を生起させ変化させる一者として考えられている。それは、すべての現象をそうあらしめている原理としての性格と、宇宙生成論的な発生の根源者という性格の二面が融合していることが知られている[21]

「建言」というのは、下編の最初のほうに出てくる『老子道徳経』よりも古くからあったとされる、諺などを記した書物であるとされている。この諺や名言は、老子本文を構成するのに引用されているところからすると、「老子下編」を編集した人物にとっての、最古の老子の伝説の書のようなものであったということができる。「建言」とは、永久に記憶されるべきことば、という意味を持つ。[22] [注 3][注 4]

「建言」によると、実在としての道は、循環運動を永遠に続けている[6]。あらゆる存在は、「」として、「」から生まれている。「有」が「無」として、「無」が「有」として、運動して(生まれて)ゆく姿は、反(循環)である。(第40章)。

「道」は一を生み出す。一は二を生み出す。万物は陰(無為)を背負って、陽(有為)を抱える。沖気というのは、調和(均衡)の状態を維持することである。道は全体に対して、弱い力として働いている(42章)。

「道」は隠れたもので、名がない。大象(無限の象)は形がない。「道」こそは、何にもまして(すべてのものに)援助を与え、しかも(それらが目的を)成しとげるようにさせるものである[23]。この援助は、徳とも、慈悲とも言えるものである。

上徳(道の徳)は、徳のようには見えない。(第38章)。

不言の教について[編集]

不言の教と、無為の益とは、世の中でそれに匹敵するものはほとんどないとされる。(第43章)。

不言の教には次の三種類がある。

  • 権謀家による不言の処世術。自らを聖人とし、自分の態度を見て、人民は学ぶべきだと主張する。
  • 無為自然の生き方による、他者への不言の説教。施政者の立場にある者が無為自然の生き方を政治に取り入れ、自らの生き方を人民の見本とすること。
  • 道の働きの中に感得される不言の教え。例えば水を見て、人が何かを学んだとした場合、言葉によって水が無為の教えを教えたわけではないので、言葉を超越した教えであるという意味で、不言の教とする[24][注 5]
慈悲の教えについて[編集]

人々の心を心とする(第49章)、というのは、人々の苦しみの心を自分の心とするという意味がある。また、「聖人は、善人も不善な人もそれぞれに尊び、愛し、いずれも捨てない[18]、という言葉には、道の徳と合一した慈悲の教えが表されている。 第67章には、「我に三宝あり、一にいわく慈」という言葉がある。

「道」に想定される人格性[編集]

古代中国において、は超人的な宇宙の支配者として絶対視された。中国が天を畏敬するようになったのは、紀元前1700年頃よりのこととされる[注 6]。また、商時代(前1500年頃)には、人々は鬼神を崇拝していた。人は死んでも霊魂は滅びず、鬼神となるとされていた[25]

老子にとって、「道」と「天」とは、置き換えられないものであった[26]。しかし、老子は、第4章においてのみ、神格化された天帝の存在によって、世界の秩序が始まったとする見解を述べている[17]。そして、52章に言う「天下の母」は、「一」のことであるとされている[27]。「牝」ではなく、「母」とされているところから、ここには、何らかの人格的な意味合いが含まれていると見ることができる。また、39章において、「」はこの世界で働く妙なる「」であるとされている[28]。「鬼」は、死後に魂となった人間を指すとした場合、ここでの「神」は、ダルマに人格的な面を認めていた初期仏教[29]における「諸仏」に該当するようにも見受けられる。

影響[編集]

『道徳経』が荘子に影響を与えたかどうかは疑わしい。しかし、後の荘子学派(『荘子』外篇・雑篇)や、道家(『淮南子』など)には影響を与え、荘子と老子の思想は「老荘思想」として統合されることになった。

智の否定思想は韓非子などの法家の愚民政策に引用された。無為による治世の思想は、漢代の張良陳平曹参などに実践された。老荘思想は文化面で大きな影響を中国や日本に及ぼした。俳諧の分野では荘子に想を得る表現が多用された。19世紀以来『道徳経』は、ヨーロッパ各国語に相次いで翻訳。寺田寅彦のエッセイにドイツ語で『老子』を読んでの親しみやすさについて記載があり[30]、少数だが戦前は、インテリ層の間で欧文での訳注が認知された。戦後、英語圏の文献を通じタオブームが日本に伝わり、古典中国への新たな取り組みとして広く支持された。

井筒俊彦英訳で『老子 Lao-Tzu The way and its virtue』(慶應義塾大学出版会、2001年。日本語訳は下記)がある。

関連項目[編集]

道教

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 「世界」という語には、意識の無限に通じたところがあるが、「天地」には、身体的自己から解脱しきれていない限定観念がある。
  2. ^ 大がつくと無限の意味が加わる場合がある。(出典:蜂屋邦夫訳『老子』岩波文庫、2008年。P200 注11
  3. ^ また、古い本では、「建言」に言及している第41章は、現行の第40章(道の動について触れている核心部分)の前に来ている。(出典:蜂屋邦夫訳『老子』岩波文庫、2008年。P193 注1)
  4. ^ 「建言」による引用はどこまでを指すのかは不確実である(出典『中国古典文学大系4』金谷治訳、平凡社、1973年。P22 注2)。内容からすると、43章くらいまでが名言集であるように見える。42章には、「私もまた、教えの父として、凶暴な者はよい死に方をしない、という諺を語ろう」、と編集者自身のことを記している。吾という語は無為自然と一体となっていない感じがするし、よい死に方という価値観は、無為自然にかなった死に方と表現すべきところであるように見受けられる。
  5. ^ 大自然の法則は、無言の中にも、たえず人間に真理を教えているとする見解がある。(出典:高橋信次『心の発見 科学編』経済界、1971年。P138)
  6. ^ こうした天への畏敬は、儒教の時代に天道として発展した。(出典:林田慎之助『タオ=道の思想』講談社現代新書、2002年。P31)

出典[編集]

  1. ^ 蜂屋邦夫『老荘を読む』講談社現代新書、1987年(以下略)。P74
  2. ^ 世界の名著4 老子 荘子』小川環樹解説、中央公論社。P14
  3. ^ a b c 宇野哲人『中国の古代哲学』講談社学術文庫、2003年。P145
  4. ^ 森三樹三郎『老子・荘子』講談社学術文庫、1994年。P165
  5. ^ 『世界の名著4 老子 荘子』小川環樹解説、中央公論社。P17
  6. ^ a b 蜂屋邦夫『老荘を読む』、P114
  7. ^ 蜂屋邦夫『老荘を読む』、P134
  8. ^ 蜂屋邦夫『老荘を読む』、P116
  9. ^ 許抗生『老子・東洋思想の大河』除海訳、地湧社、1993年。P26
  10. ^ 『中国古典文学大系4 老子』金谷治訳、平凡社、1973年。P3 注1
  11. ^ 許抗生『老子・東洋思想の大河』除海訳、地湧社、1993年。P31
  12. ^ 『中国古典文学大系4 老子』金谷治訳、平凡社、1973年。P5 注3
  13. ^ 宇野哲人『中国の古代哲学』講談社学術文庫、2003年。P132
  14. ^ a b 野村茂夫『ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 老子・荘子』角川ソフィア文庫、2004年(以下略)。P45
  15. ^ 野村茂夫『ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 老子・荘子』、P48
  16. ^ 『中国古典文学大系4 老子』金谷治訳、平凡社、1973年。P43章
  17. ^ a b 小川環樹訳『老子』中公文庫、1973年(以下略)。P13 の注
  18. ^ a b 小川環樹『老子』、P96 の注
  19. ^ 小川環樹『老子』、P18
  20. ^ 宇野哲人『中国の古代哲学』講談社学術文庫、2003年P155
  21. ^ 『中国古典文学大系4 老子』、平凡社、1973年。P488、金谷治解説
  22. ^ 『世界の名著4 老子 荘子』中央公論社。P117の注
  23. ^ 『世界の名著4 老子 荘子』小川環樹・注、中央公論社。P114
  24. ^ 蜂屋邦夫『老子』岩波文庫、2008年。P207 注5
  25. ^ 許抗生『老子・東洋思想の大河』除海訳、地湧社、1993年。P112
  26. ^ 『世界の名著4 老子 荘子』小川環樹解説、中央公論社。P22
  27. ^ 小川環樹『老子』中公文庫、1973年。P101 の注
  28. ^ 蜂屋邦夫訳『老子』岩波文庫、2008年。P187 注2
  29. ^ 中村元訳『仏弟子の告白 テーラガーター』岩波文庫、1982年。P252・注303
  30. ^ 変わった話」―「電車で老子に会った話」、岩波版『寺田寅彦全集 第四巻』所収

参考文献[編集]

  • 『老子』武内義雄訳注、岩波書店岩波文庫〉、1943年。 復刊1988年ほか。
  • 『老子』木村英一訳注・野村茂夫補注、講談社講談社文庫〉、1984年10月。 
  • 『老子』阿部吉雄・山本敏夫訳注、明治書院新書漢文大系2 新版〉、2002年7月。ISBN 4625663113 渡辺雅之編、元版は『新釈漢文大系7 老子・荘子 上』。
  • 『老子』小川環樹訳注、中央公論社〈中公文庫 改版〉、1997年3月。ISBN 4122028140 
  • 『老子』小川環樹訳注、中央公論新社中公クラシックス〉、2005年4月。ISBN 4121600770 
  • 『老子』蜂屋邦夫訳注、岩波書店〈岩波文庫〉、2008年12月。ISBN 4003320514 
  • 『老子』蜂屋邦夫訳注、岩波書店〈ワイド版岩波文庫〉、2012年4月。ISBN 4000073494 
  • 『老子』福永光司訳注、筑摩書房ちくま学芸文庫〉、2013年1月。ISBN 4480095136 
     元版は『世界古典文学全集17 老子・荘子』筑摩書房
  • 『老子 全訳注』池田知久訳注、講談社〈講談社学術文庫〉、2019年1月。ISBN 4065131596 
※以上は原典訳・注解

外部リンク[編集]