李典

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李典
後漢 
都亭侯、破虜将軍
出生 生年不詳
兗州山陽郡鉅野県
死去 没年不詳(215年以降)
ピン音 Li Dian
曼成(まんせい)
諡号 愍侯
主君 曹操

李 典(り てん、生没年不詳)は、中国後漢末の武将。字は曼成兗州山陽郡鉅野県[1]の人。子は李禎その他1名。曹操に仕えた。『三国志志「二李臧文呂許典二龐閻伝」に伝がある。

生涯[編集]

李乾・李整の代[編集]

李典の従父の李乾には雄気があり、食客数千家を擁して済陰郡乗氏県にいた。初平年間に曹操に付き従い、初平3年(192年)に寿張で黄巾賊を破り、初平4年(193年)の袁術攻撃、徐州征伐にも従った。

興平元年(194年)、張邈ら兗州の諸将が呂布を招き入れて曹操に反旗を翻すと、曹操は李乾を乗氏県に帰し、諸県を慰労させた。李乾は呂布の将である兗州別駕の薛蘭・兗州治中の李封から共に叛くよう促されたが、拒んだために殺害された。

呂布が乗氏に攻め込んできたが、県人の李進[2]がこれを撃破し、呂布を山陽に敗走させた(『武帝紀』)。

曹操は李乾の子の李整に李乾の兵を率いさせ、興平2年(195年)夏に李整は諸将と共に薛蘭・李封を破った。続いて兗州諸県の平定に従って功績をあげ、やがて青州刺史になった。

李典の代[編集]

李整が亡くなると、李典は潁川郡潁陰の県令に異動になり、中郎将となって李整の軍を率いた。李典は若いころ軍事に興味を持たず、学問を好み、先生について『春秋左氏伝』をはじめ多くの書物に親しんだ。曹操はそれを好ましく思い、試しに人民を統治する職につけてみたという(『魏書』)。離狐の太守に昇進した。

建安5年(200年)、官渡の戦いでは李典は一族と部下を引き連れ、食料や絹などを曹操軍に輸送し供給した。袁紹が敗れると裨将軍に任命され、東平国の安民に駐屯した。

建安7年(202年)、曹操は黎陽に袁譚袁尚を攻撃した際、李典と程昱に船で兵糧を輸送させた。袁尚は魏郡太守の高蕃に命じて水路を遮断させていた。曹操はあらかじめ「船が通れないならば陸路を行くように」と命じていたが、李典は諸将と相談して「高蕃の軍はよろいをつけた兵が少なく、水に頼りきって油断をしているから攻撃すれば必ず勝てる。軍は朝廷に統御されず、国家の利益になるならば専断は許される。速やかに攻撃すべきだ」と主張した。程昱は同意し、高蕃に急襲をかけて打ち破り、水路を回復させた。

博望坡の戦いでは、夏候惇に従って劉備を防いだ。急に退却した劉備を夏候惇は追撃しようとしたが、李典は反対して「敵が理由もなく退いたからには伏兵がいる疑いがある。道は狭く草木は深いので追ってはいけない」と止めたが、夏侯惇は聞き入れず于禁を従えて追撃した。李典は留守を任されたが、夏候惇が伏兵により不利な状態に陥いると、李典が救援に駆けつけたので劉備は退却した。

建安9年(204年)、の包囲に参加した。

建安10年(205年)8月、高幹が壺関で挙兵すると、楽進と共に討伐した。

建安11年(206年)8月、海賊の管承を楽進と共に破り、敗走させた。捕虜将軍に昇進し、都亭侯となった。

その後、拠点としていた乗氏から三千家余りの一族郎党を魏郡県に移住させた。移住することを願い出た時、曹操は笑いながら「耿純にならうつもりか[3]」とたずねると、李典は「私はのろまで臆病、功績もわずかですのに、厚い待遇を受けており、一族を挙げて仕えるのは当然です。それに征伐はまだ終わっておりませんから、まず都の周辺を充実させ、その勢いをもって四方を制すべきと考えます。耿純にならったわけではありません。」と答えた。この行為は曹操に喜ばれ、破虜将軍に昇進した。

建安13年(208年)、曹操が荊州を征伐する際、于禁・張遼張郃朱霊・李典・路招・馮楷の7将軍は、章陵太守・都督護軍となった趙儼に統括された(「趙儼伝」)。

建安16年(211年)、曹操が関中馬超韓遂らと対峙した際、李典も駐屯したとある(『水経注』)。[4]

建安20年(215年)、李典は張遼・楽進とともに七千人余りの兵を連れて合肥に駐屯していた。合肥の戦いの際、孫権が十万の軍で合肥を包囲すると、張遼は曹操の命令(「張遼と李典は城を出て戦い、楽進はともに戦ってはならない」)を奉じて出撃しようとした。楽進・張遼・李典は普段から仲が悪かったので、張遼は二人が従わないことを恐れたが、李典は張遼の懸念を嘆き、「これは国家の大事であり、個人的恨みによって公義を忘れるべきではない」として、張遼と共に孫権軍を破って敗走させた。100戸の加増を受け300戸となった。

李典は学問を好み、儒家やその思想を貴んだ。諸将と功績を争わず、士大夫を敬い、慎み深く誠実であったので、軍中では長者として称えられた。

36歳で逝去し、子の李禎が後を継いだ。

曹丕(文帝)が帝位に就くと、合肥の功績を思い起こし、李禎に100戸が加増され、さらに李典の一子に関内侯と領邑100戸が与えられた。愍侯と諡された。

243年秋7月、曹芳(斉王)は詔勅を下し、曹操の廟庭に功臣20人を祭った。その中には李典も含まれている(『斉王紀』)。

陳寿は、李典が儒者を尊重し、義によって個人的な仲違いを忘れたことを立派であると評している。

『三国志演義』における李典[編集]

小説『三国志演義』では、曹操が反董卓の兵を募ったときから仕え、黄巾の黄邵を生け捕ったり、呂布との戦いや華北4州平定にも参加し、武将として早くから武功を挙げた。

非常に慎重な性格でもあり、呂布が守る濮陽城を攻めた時には、危険だから城外で待つよう曹操を制止したり、また曹仁とともに新野にいる劉備を攻撃した際には、勝算なしとみて援軍を要請し大軍であたること、樊城を守備すべきことを主張し、功を急ぐ曹仁と対立している。曹仁は李典の進言を聞かず、徐庶の采配に翻弄されて樊城を奪われてしまう。

博望坡の戦いでは、夏侯惇が諸葛亮の計略にかかって深追いしたが、後方にいた李典は前方の地形を分析して火攻めに用心するよう夏侯惇に知らせた。しかしそれと同時に火の手が上がり、攻撃を受けて大敗を喫した。

長坂の戦いでは、張飛が長坂橋を焼き払ったことをいぶかしみ、諸葛亮の罠だと進言する。曹操は張飛には策略などないと断言して再追撃を命じるが、途中で伏兵の関羽に出会い、驚いて撤退した。

以上のように、意見が通ることは少ないものの、冷静に敵状を察知して助言をする副将として描かれることが多い。

209年の合肥の戦いでは、張遼の副将として登場し、呉の宋謙を射殺した。その後、張遼・楽進と協力して太史慈に重傷を負わせている。

215年の合肥の戦いでは、10万の敵軍に対して討って出よとの君命に従おうとする張遼に対し、彼と不仲の李典は押し黙ったままで賛成しなかった。しかし張遼に叱咤されて決心し、奇襲を仕掛ける。小師橋を破壊し、張遼・楽進と共に孫権軍を撃退した。

墓所[編集]

『嘉慶合肥県志[5]』によると、李典が合肥に駐留していた頃、先祖である李陵をまつるために合肥市肥西県の紫蓬山に李陵廟(現在の西盧寺)を建て、李典もこの地に葬られたと伝えられている。その由縁で現在、紫蓬山には李典の墓がある。

また、山東省菏沢市鉅野県でも李典の墓とみられる石室が見つかり、菏沢市博物館に収容されているという。

注釈[編集]

  1. ^ 資治通鑑』巻64には巨鹿の人であると記述されている。
  2. ^ 李典の一族であるかどうかは不明。
  3. ^ 耿純が劉秀に付き従う時、一族からの寝返りを防ぐために屋敷を焼き払って後顧の憂いを絶った逸話をいう
  4. ^ 『水経注』巻4「《記》曰:漢末之亂,魏武征韓遂、馬超,連兵此地。今際河之西,有曹公壘。道東原上,云李典營。」
  5. ^ 合肥の歴史・風土を記した清代の書物。