李典

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李典
後漢 
都亭侯、破虜将軍
出生 生年不詳
兗州山陽郡鉅野県
死去 没年不詳
ピン音 Li Dian
曼成(まんせい)
諡号 愍侯
主君 曹操

李 典(り てん、生没年不詳)は、中国後漢末の武将。字は曼成兗州山陽郡鉅野県[1]の人。子は李禎その他1名。曹操に仕えた。『三国志志「二李臧文呂許典二龐閻伝」に伝がある。

生涯[編集]

謙虚な人物で、若い頃は武芸よりも学問を好んだ(『魏書』)。

従父の李乾は食客数千家を擁して乗氏県にいたが、初平年間に曹操に付き従った。初平3年(192年)に寿張で黄巾賊を破り、初平4年(193年)の袁術攻撃、徐州征伐にも従った。

興平元年(194年)に兗州の諸将が呂布を招き入れて曹操に反旗を翻すと、曹操は李乾を乗氏県に帰還させて民心を落ち着かせようとした。李乾は呂布の将である兗州別駕の薛蘭・兗州治中の李封から帰順の催促を受けたが、断固として拒んだために薛蘭・李封に殺害された。

呂布が乗氏に攻め込んできたが、県人の李進がこれを撃破し、呂布を山陽に敗走させた(武帝紀)。

曹操は李乾の子の李整に李乾の兵を率いさせ、興平2年(195年)夏に李整は諸将と共に薛蘭・李封を撃った。続いて兗州諸県の平定に従って功績をあげ、やがて青州刺史になった。

李整が亡くなると李典は潁陰の県令に異動になり、中郎将となって李整の軍を率いた。曹操は、李典が若いころに先生の下で『春秋左氏伝』等に親しんでいたことを好ましく思い、試しに人民を統治する職につけてみたという(『魏書』)。離狐の太守に昇進した。

建安5年(200年)、官渡の戦いでは、李典は一族と部下を引き連れ、食料や絹などを曹操軍に輸送し供給した。袁紹が敗れると、裨将軍に任命され、安民[2]に駐屯した。

建安7年(202年)、曹操は黎陽に袁譚袁尚を攻撃した際、程昱と李典に船で兵糧を輸送させた。袁尚は魏郡太守の高蕃に命じて水路を遮断させていた。曹操はあらかじめ、水路を通ることが困難であるなら陸路を使うように指示を出していたが、李典は敵状を分析して諸将と相談し、「国家の利になるのならば専断は許される」として高蕃攻撃を主張した。程昱は同意し、かくて高蕃に急襲をかけて打ち破り、水路を回復させた。

博望坡の戦いでは、夏候惇に従って劉備を防いだ。劉備が退却すると夏候惇は諸軍を率いて追撃しようとしたが、李典は伏兵を予測して反対した。夏侯惇は聞き入れず、于禁を従えて追撃し、李典は留守を任された。果たして夏候惇は伏兵により不利な状態に陥ったが、李典が救援に駆けつけたので劉備は退却した。

建安9年(204年)、の包囲に参加した。

建安10年(205年)8月、高幹が壺関で挙兵すると、楽進と共に討伐した。

建安11年(206年)8月、海賊の管承を楽進と共に破り、敗走させた。捕虜将軍に昇進し、都亭侯となった。

その後、拠点としていた乗氏から三千家余りの一族郎党を魏郡鄴県に移住させた。厚い待遇への感謝と、鄴の充実のためだと口述している。この行為は曹操に喜ばれ、破虜将軍に昇進した。

建安13年(208年)、曹操が荊州を征伐する際、于禁・張遼張郃朱霊・李典・路招・馮楷の7将軍は、章陵太守・都督護軍となった趙儼に統括された(「趙儼伝」)。

建安16年(211年)、曹操が関中で馬超・韓遂らと対峙した際、李典も駐屯したとある(『水経注』)。[3]

建安20年(215年)、合肥の戦いでは、日頃から不和であった張遼に「国家の大事に私情で公義を忘れはしない」と言い切り、共に孫権軍を破って敗走させた。100戸の加増を受け300戸となった。

李典は学問を好み、儒学の素養もあり、諸将と功績を争わなかった。士大夫を敬い、謙虚に振舞ったので、軍中では長者として称えられた。

36歳で逝去し、子の李禎が後を継いだ。

曹丕(文帝)が帝位に就くと、合肥の功績を思い起こし、李禎に100戸が加増され、さらに李典の一子に関内侯と領邑100戸が与えられた。愍侯と諡された。

243年秋7月、曹芳(斉王)は詔勅を下し、曹操の廟庭に功臣20人を祭った。その中には李典も含まれている(斉王紀)。

陳寿は、李典が儒学を尊重し、義によって個人的な仲違いを忘れたことを、美であると評している。


注釈[編集]

  1. ^ 資治通鑑』巻64には巨鹿の人であると記述されている。
  2. ^ 荀彧伝によると東平国内か?
  3. ^ 『水経注』巻4「《記》曰:漢末之亂,魏武征韓遂、馬超,連兵此地。今際河之西,有曹公壘。道東原上,云李典營。」

『三国志演義』における李典[編集]

小説『三国志演義』では、曹操が董卓に反旗を翻し、軍を編成した時点で3千の兵を引き連れて参加し仕えている。黄邵を捕虜にするなど曹操の将として早くから武功を挙げ、呂布との戦いや華北4州平定にも参加。禰衡には他の曹操の部下とともに罵られている。

その後に曹仁の配下として樊城に駐屯している。206年、曹仁が劉表の客将として新野に駐屯する劉備を攻撃しようとした時、李典は曹操に援軍を要請するべきだと慎重策を述べ、曹仁と対立している。李典の懸念通り、曹仁は劉備の軍師である徐庶の采配に翻弄され、樊城を奪われてしまう。

207年に、劉備と諸葛亮打倒を曹操に志願した夏侯惇の配下として于禁と共に付けられ、新野付近の博望坡に攻め寄せる。この時も李典は劉備軍の撤退の様子を不審に思い、夏侯惇の追撃を諫めている。夏侯惇は李典の言葉を聞き入れず深追いしたため、案の定諸葛亮の火計に遭い大敗。しかし、李典は夏侯惇をあらかじめ諌めていたことにより曹操から賞賛されている(博望坡の戦い)。

208年、曹操が荊州など南方征伐を行った時も引き続き従軍する。長坂の戦いで長坂橋を陣取っていた張飛が橋を焼き払って去り、それをいぶかしんだ李典は諸葛亮の罠だと進言するが、曹操は橋を落としたのは伏兵のない証拠と判断して再追撃を命じる。だが途中で伏兵の関羽に出会い、驚いた曹操は撤退した。

以上のように相手の策を見破り進言する知性的な副将としての位置で描かれることが多い。

209年には、張遼の副将として合肥の守備を任され、呉の武将の宋謙を射殺した。その後、張遼・楽進と協力して太史慈を討ち取っている。

215年の合肥の戦いでは、10万の敵軍に対して討って出よとの君命に従おうとする張遼に対し、彼と不仲の李典は押し黙ったままで賛成しなかった。しかし張遼に叱咤されて決心し、奇襲を仕掛ける。小師橋を破壊し、張遼と楽進と共に孫権軍を撃退した。