霍弋

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姓名 霍弋
時代 三国時代
生没年 〔不詳〕
字・別号 紹先(字)
本貫・出身地等 荊州南郡枝江県
職官 太子舎人〔蜀漢〕→丞相記室〔蜀漢〕

黄門侍郎〔蜀漢〕→太子中庶子〔蜀漢〕
→参軍・庲降副貳都督〔蜀漢〕
→護軍〔蜀漢〕→永昌太守〔蜀漢〕
→監軍・翊軍将軍・領建寧太守〔蜀漢〕
→安南将軍〔蜀漢〕→南中都督〔曹魏
→假節・交州刺史 〔西晋

爵位・号等 列侯〔曹魏〕
陣営・所属等 劉備劉禅曹奐司馬炎
家族・一族 父:霍峻 伯父:霍篤 孫:霍彪

霍 弋(かく よく、ピン音: Huò Yì、生没年不詳[1])は、中国三国時代から西晋にかけての武将。蜀漢・西晋に仕えた。紹先荊州南郡枝江県の人。父は霍峻。伯父は霍篤。子の名は不詳。孫は霍彪。

生涯[編集]

父と同様、劉備に仕えた。劉備が没する直前に太子舎人に任命され、劉禅が後を継ぐと謁者に登用された。諸葛亮にその才能を認められ、若い頃は諸葛亮の養子であった諸葛喬と共に、見聞を広めるため旅をした。

諸葛亮の死後に黄門侍郎となり、皇太子であった劉璿の太子中庶子(補佐役)にもなった。劉璿が、騎馬・射術を好み政務を省みなかったため、言葉を尽くしてこれを諌めた。

その後、永昌郡の獠族が要害に拠り反乱を起こすと、霍弋は永昌太守となり一軍を率いて討伐に向かった。首謀者を斬り殺し無事反乱を鎮圧すると、功績として監軍・翊軍将軍・建寧太守となり、益州南部の軍政を統括した。

263年、安南将軍となった[2]。この年、が蜀征伐のため大規模な軍を起こすと、霍弋は成都に駆けつけようとした。しかし劉禅は、既に備えは十分だとしてそれを許可しなかった。その後、蜀が滅亡したことを知ると、霍弋は喪服を着て哭礼を行ない、三日間の喪に服した。諸将が皆、早く魏に帰順すべきだと述べたが、霍弋は劉禅の安否が分かるまで決して動こうとはしなかった。劉禅の降伏が容れられ東に移ったと聞くと、南中6郡の太守・大将を率いて魏に降伏した。

降伏後は、司馬昭にもその才能を認められ信任を受けた。羅憲とともに呉との国境を守り、南中都督・護軍[3]に任じられ南蛮の地の平定に尽力した。このころ、霍弋は強卒を率いて夜郎を鎮めた[4]

交州平定[編集]

264年交州交趾郡呂興に対して反乱を起こし、魏・呉の間に緊張が起きた。霍弋は呂興を救援すべきであると洛陽に上表文を送り、呂興を救うために出兵したが到着する前に彼は部下に殺されてしまった。そこで朝廷は霍弋に節を假し、領交州刺史として官吏の任用を便宜させることにした。霍弋は爨谷を交阯太守にするよう推薦した。彼が没すると馬忠の子馬融をさらにその死後に楊稷に後を任せるよう上表した。 霍弋は自ら寧州に入り楊稷ら遣わして交、広二州を奪う計略を巡らせた。楊稷に、将軍毛炅・九真太守董元・牙門孟幹・孟通らを付けて水、陸二路から進軍させた。彼らは古城において呉軍を破り、大都督脩則・交州刺史劉俊の首を斬った。そこで呉は虞汜を監軍、薛珝を威南将軍・大都督、陶璜を蒼梧太守に任じ、楊稷を防がせ、分水で戦わせた。陶璜は敗走して合浦に楯籠り、配下の将軍二人を失った。こうして交州(交趾・九真日南の3郡)は平定され、霍弋は列侯に封じられた。

その死後、呉は交州奪回に陶璜らを派遣し、楊稷・毛炅らは城を包囲された。霍弋は生前「もし賊軍に包囲されて百日未満で降服した者は家族を誅殺する。もし百日以上して救援軍が到着しなかったら私自身が罪を引き受けよう」と言い含めていた。霍弋は既に没しており楊稷らは期日になって食糧が底を突き、救援軍も到着しなかったので、271年、呉に降伏した。霍弋の死はそれ以前ということになる。

孫は後に越巂太守となったという。

東晋の時代になっても南中は官吏と夷民族が融和しており、刑罰は適切に行われた,これはみな霍弋の故事に従ったものであった。

三国志演義[編集]

蜀の滅亡に際して登場し、亡国の喪に服したあと劉禅の安全を見届けてからに魏に降伏するという史実同様の行動をとっている。

脚注[編集]

  1. ^ 271年前後に死亡
  2. ^ 景耀六年、進号安南将軍。『三国志』蜀書 霍峻伝
  3. ^ 『三国志』魏書4陳留王紀
  4. ^ 是時羅憲以重兵據白帝、霍弋以強卒鎭夜郎。『三国志』蜀書 譙周伝注

参考文献[編集]