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張飛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
張飛
明代に描かれた張飛
代に描かれた張飛
蜀漢
仮節・車騎将軍司隷校尉・西郷侯
出生[注釈 1]
幽州涿郡涿県
死去 章武元年(221年)6月
益州巴西郡閬中県
益徳[注釈 2]
諡号 桓侯
主君 劉備
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張 飛
各種表記
繁体字 張 飛
簡体字 张 飞
拼音 Zhāng Fēi
ラテン字 Chang1 Fei1
注音符号 ㄓㄤ ㄈㄟ
和名表記: ヂャン・フェイ
英語名 Zhang Fei
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張 飛(ちょう ひ、拼音: Zhāng Fēi、?[注釈 1] - 章武元年〈221年〉6月[1])は、中国後漢末期から三国時代蜀漢将軍政治家あざな益徳(えきとく)、『水経注』などの一部の史料[2]や、歴史小説『三国志演義』では翼徳(よくとく)[注釈 2][4]

幽州涿郡涿県(現:河北省保定市)の人。封号は新亭、のち西郷侯[注釈 3]諡号桓侯。子は張苞張紹敬哀皇后張氏張皇后。孫は張遵[6]

後漢末の群雄の一人である、蜀漢初代皇帝・劉備の挙兵に当初から付き従った人物で、その人並み外れた勇猛さは関羽とともに、その名を中原に轟かせた(→評価)。その武勇は当代だけには留まらず、後世ではさらに大いに称えられ、『三国志演義』では五虎大将軍の一人に数えられる。『演義』を始めとしたさまざまな文学・演劇などの創作作品においても、多くの脚色を加えて取り上げられており、現在でも中国や日本を中心にその人柄を親しまれている(→創作上の張飛)。

生涯

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劉備に従う

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劉備黄巾の乱に臨んで郷里の涿郡で義勇兵を集めようとした時、他所から流れてきた関羽と共に、張飛もその徒党に加わり、腹心の配下となった[6][7][8]。以後は関羽と共に劉備から兄弟のような親愛の情を受けることとなり、大勢の前では劉備を主君として立て、命がけで護衛の任務を務めたという[7]。また、関羽の方が数歳年長であったため、関羽を兄のように敬愛して仕えていた[6]

初平2年(191年)、劉備が公孫瓚に採り立てられて平原となると、関羽と共に別部司馬に任じられ、それぞれが一軍の指揮を執る将となった[6][7][8]

各地を転戦

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故郷・涿州の三兄弟の像

興平元年(194年)、劉備は身を寄せていた徐州陶謙に位を譲られ、徐州となる[1]建安元年(196年)、劉備が徐州に侵攻した袁術と戦っている最中、張飛は本拠地である下邳の留守を任されていたが、そこで下邳相の曹豹と対立した。『英雄記』によると、張飛が曹豹を殺害しようとしたという[9]。劉備と袁術が1か月睨みあっている隙に、劉備に身を寄せていた呂布が下邳を攻撃した。曹豹が寝返り呂布に呼応したため、張飛は敗北[10]、劉備の妻子を捕虜にされてしまった。劉備と呂布は一旦は和睦したが再び仲違いを起こし、劉備は曹操の元に身を寄せた[1]

張飛は曹操の呂布討伐に劉備と共に従軍し、その戦いでの功績を認められ、曹操から中郎将に任命された[6]。そののち劉備が曹操に背き、袁紹劉表に相次いで身を寄せると[1]、それにも付き従い各地で転戦した[6]。『魏略』によると、建安5年(200年)、薪を伐採していた夏侯覇の13歳の従妹夏侯氏 (蜀漢)中国語版を捕えたところ、良家の娘だったことから妻とした[11]

長坂橋大喝

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勝川春亭による長坂橋の張飛

建安13年(208年)、荊州牧の劉表が死去し、曹操が荊州へ進軍すると劉備は江南へと逃げた。曹操は昼夜をかけてこれを追い、当陽県の長坂まで到着した。劉備は曹操がやってきたと聞くと妻子を棄てて逃走し、張飛は20騎ほどを従えて殿軍を引き受けた。張飛は川に拠って橋を落とし、目を怒らせ矛を横たえ「張益徳、これにあり!命を惜しまん奴からかかって来い!いざ生死を決さん!」[注釈 4]と曹操軍に向けて言い放ったところ、誰もあえて近づこうとしなかった。これによってついに劉備は落ち延びることができた[6][12]

劉備が赤壁の戦いの後、『呉録』には、周瑜が江陵を攻めたとき、張飛の援軍1000人が加勢したという記述がある[15]。荊州南部を攻略すると、張飛は宜都太守征虜将軍に任命され新亭侯(爵位)に封じられた。しばらくして張飛は南郡に転任することになった[6]

劉備軍の大将

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歌川芳梅:張飛

建安16年(211年)、劉備が劉璋に招かれて益州入りした。建安17年(212年)、劉備が法正らと謀って益州攻略を企てると、張飛は諸葛亮趙雲劉封らと共に援軍として益州に攻め込み、手分けして郡県を平定した[6][1][16]

江州では巴郡太守厳顔を生け捕りにした。このとき、張飛は自身が大軍でやってきたのに、厳顔が少数で抗い、降伏しなかった事に腹を立て、厳顔を詰問した。厳顔は「お前達は無礼にも、我が州(益州)に武力をもって侵略した。我が州には断頭将軍(首をはねられる将軍)はいても、降伏する将軍はおらぬ!」と張飛を面罵した。腹を立てた張飛は、部下に彼の首を切らせようとしたが、厳顔がそこでさらに「匹夫め、さっさと斬れ!怒るだけ無駄だ」といったので、張飛は厳顔を見事だと思い彼を釈放し、以後は賓客として扱った[6]

張飛は劉璋軍との全ての戦いで勝利し[注釈 5]成都で劉備と落ち合った。劉備は益州奪取における張飛の功績を評価し、諸葛亮・法正・関羽[1][7]と同等に金五百斤・銀千斤・五千万両・千匹の褒賞を与えた。張飛は巴西太守に任じられた[6]

建安20年(215年)、曹操は漢中張魯と戦って降伏させると、配下の夏侯淵張郃に漢中を守備させた。張郃は巴東・巴西に攻め込みその住民を漢中に移住させた。その後さらに渠宕・蒙頭・蕩石に軍を進めたところ張飛に拒まれ、張飛は、張郃の軍と50日あまり対峙した後、精鋭の1万人ほどを率い山道の隘路を利用し、迎え撃つ作戦を立てた。張郃は狭い山道の中で軍が前後で間延びしたために各個撃破され、たった数十人の部下と共に脱出する羽目になった。張飛は張郃の軍を撃退することに成功し、これにより巴の地は安寧を取り戻した[6]

建安22年(217年)、張飛は劉備の漢中攻略戦に従軍し、下弁方面での作戦に馬超呉蘭らと共に参加したが、曹洪曹休らに阻まれ、目立った戦果を挙げることなく撤退した[18][19]

漢中王・劉備

建安24年(219年)春、劉備が漢中を攻略すると、成都に政庁を置くことにしたため、前線の漢中の守備を誰に任すべきかということになった。周囲は張飛が任されるものと思い、張飛自身もそう考えていた。しかし劉備は魏延を抜擢した[20]盧弼 (中華民国)中国語版によれば、張飛はその暴虐な性格によって兵卒から嫌われていたので、漢中の守備から外されたのだという[21]

同年秋、張飛は他の群臣達と共に劉備を漢中王に推挙した[1]。劉備が漢中王になると、張飛は仮節・右将軍に任命された[6]

最期

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成都武侯祠の張飛像

章武元年(221年)、劉備が即位し(蜀漢)を建国すると、張飛は車騎将軍司隷校尉に任命され、西郷侯に昇進した。同年、関羽がの裏切りにより殺されたことから[7]、劉備が荊州へ侵攻することになると、張飛は1万の兵士を率いて閬中を出発し、江州で劉備と合流することになった[6]

その準備をしている最中である同年6月[1]、張飛に恨みを抱いていた部下の張達范彊によって殺された。劉備はかねてより張飛が死刑を頻繁に行い、鞭打ちした部下を自分の近侍として仕えさせていることを戒めていたといい、この時、張飛の都督から上奏文が届けられたと聞くと、その内容を聞く前に劉備は、「ああ、飛が死んだ」と悟ったという[6]

長男の張苞は若死していたため、次男の張紹が跡を継いだ[6]

景耀3年(260年)秋、劉禅によって桓侯とされた[22]

人物

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背景・年齢

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台湾劉備廟の張飛像

出自に関する記録は「幽州涿郡の人」のみで、家族や背景については不明である[23]

正史『三国志』を基にした歴史小説『三国志演義』(以下、『演義』)や民間伝承、創作作品においては、「身の丈八尺」(約185cm)、「豹の頭に大きな目玉、燕の顎に虎髭」、「酒好きの乱暴者」、「肉屋を営んでいた」、「富貴」とするが、これらは全て史書にはない創作である[24]。研究者間では、劉備関羽との関係にみられる「」としての強いつながりから、平民の出だったと考えられている[23][25]

また、『演義』は55歳で死去したと記すが[26]、史書には「関羽の方が数歳年上だったため、兄事した」、「221年6月に死去」したことが記されるのみで、生年・享年ともに記述はない[注釈 6][6][28][29]潘眉中国語版は、「近世の星占師の書には、関羽は四戊午生まれ(178年)、張飛は四癸亥生まれ(183年)だと推測されているが、なんの根拠もない説である。先主(劉備)の郷里での挙兵は初平元年(190年)の時で、もし関羽が戊午生まれならば、関・張はそれぞれ13歳・8歳で劉備に従軍し、15歳・10歳で別部司馬に任じられたことになる。これはとても根拠とするには足らない」と否定し、二人が劉備から兄弟のような恩寵を受けていたことから、「先主は初平3年の時点で32歳であるから、関・張も先主と年齢が近かったに違いない」と推測している[30]

武勇・人柄

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五虎将における正史の文字数
※句読点を含めない文字数。参考資料:[31][32]
本伝 裴注 総計
関羽 955 758 1713
張飛 755 30 785
馬超 642 1140 1782
黄忠 243 0 243
趙雲 346 1120 1466
総計 2941 3048 5989

陳寿が記した正史本伝「張飛伝」は極めて簡素な記述に留まっている[注釈 7][35]。のちの時代に裴松之が正史を補完するためにさまざまな文献を引用して注釈(裴松之注、裴注)を付し、これにより黄忠を除いた他の五虎将(五虎大将軍:『演義』などの創作作品に登場する関羽、張飛、趙雲馬超、黄忠ら五名の架空の称号であるが、彼らを語る際に便宜上用いられる)の本伝が大幅に補強されたのに対し、張飛に関する追加はわずか30文字にすぎない(右表)[31]

張飛が参加した戦闘については、「張飛伝」は3つほど(長坂、益州、漢中)しか言及していないが[35]、しかしその少ない記述においても、陳寿は張飛の並外れた勇猛さや人となりを伝えている。『演義』と同じく兵卒には乱暴な一面があった一方で、敵将の厳顔を認めて解放する、知略で張郃を追い詰めるなど、けして武力一辺倒の人物ではなかったことが窺え[36]、また、自身の部下である功曹・馬斉の能力を認めて劉備に推薦し、その結果、馬斉は尚書郎に任命されている[37]

同時代の他の人物伝にも、たびたび関羽と共にその武勇が称えられ、後世には王に追封されるなど、神格化されるにまで至っている(後節:評価)。民間では『三国志平話』や『演義』などの文学作品、雑劇京劇などの演劇において、さらにその武勇と性格が誇張され、「暴れん坊・張飛」は人々に愛されるコミカルなキャラクターとして定着していくことになる(後節:創作上の張飛)。

逸話・異説

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零陵先賢伝
趙秩:張飛図
『三国志』蜀志「劉巴伝」が注に引く『零陵先賢伝』によると、庶民(当時の用語では庶人)上がりの張飛が士大夫劉巴の下に泊まった際、劉巴は話もしようとしなかった。さすがにその態度に腹を立て、諸葛亮もまた劉巴と張飛の間を取りなそうとしたが、劉巴は「大丈夫(立派な男)たる者がこの世に生を受けたからには、当然、天下の英傑とこそ交友を結ぶべきです。どうして兵隊野郎(張飛の事)と語り合う必要がありましょうか」と言い捨て、ついに張飛とは親交を結ぶことが無かった[38]。士大夫と庶民との間に、厳然たる身分差と、それによる差別があったことが窺える。
古今刀剣録
『古今刀剣録』によると、張飛は新亭侯(爵位)に封じられた際、職人に命じて赤朱山の鉄から一振りの刀を造らせ、「新亭侯蜀大将也」(新亭侯、蜀の大将なり)と銘を刻んでいた。のちに范彊らに殺された際、この刀は呉に持ち込まれたという[39]。また、同書には章武元年(221年)に劉備が皇帝に即位すると、金牛山の鉄から八振りの剣を鋳造し、一振りを張飛に与えたという逸話もある[40]
張飛立馬銘
代、八濛山(四川省渠県)の石壁に岩に刻まれた隷書の文章が発見された。「漢将軍飛率精卒萬人大破賊首張郃於八濛立馬勒銘」(漢の将軍張飛が精兵万人を率いて八濛において敵将張郃を大破する、ここに軍功を刻む)。後世の人々はこれを「張飛立馬銘」と呼び、張飛に優雅な一面があることに驚かされた。現在は摩耗により判読が難しくなっているが、清光緒年間の拓本がありその筆跡を堪能できる[41]。しかしこの銘文に関する最も早い言及は明の文人楊慎(蜀の出身)である。これは少なくとも三国時代1200年以後のことである。さらに古より書道に関する『四体書勢序』、『書物』、『文字志』、『書断』、『叙書賦』、『法書要録』、『歴代名画記』、『墨藪』、『宣和書譜』、『書史会要』などの著作は、一度も張飛の名前に触れたことがない[注釈 8]。近年においては、この銘文の「発見者」である楊慎が捏造したものだったと考えられているように[注釈 9]、張飛の作品とする書画自体も極めて少ないため、真偽を疑う学者もいる[45]

家族・子孫

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張飛
 
 
 
夏侯氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
張苞
 
張紹
 
敬哀皇后
 
張皇后
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
張遵
 
 
 

『演義』では劉備・関羽と義兄弟になっているが、史実ではそれぞれ世代を超えて婚姻が結ばれ、姻戚関係が築かれている[46]。張飛の娘二人は、ともに劉備の息子である蜀の二代皇帝・劉禅の皇后に立てられていることから、丹羽隼兵方北辰は、二人が美貌の持ち主であったと見なし、さらにその父である張飛も美男子であった可能性を指摘している[47][48]。また、張飛の妻夏侯氏 (蜀漢)中国語版夏侯覇の従妹であったため、魏で司馬懿による政権掌握の政争が起こったときには、夏侯覇がその伝手を頼って蜀に亡命してきている[49]

祠墓・信仰

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②張桓侯祠「正殿」張飛塑像

祠墓

主神として祀る祠廟

中国の民間伝承や古跡で伝わる三国時代の人物像や事績は、『三国志演義』や京劇などの演劇に強く影響を受けており[51]、張飛も例外ではなく、祠廟の塑像の造形や語られる事績も『演義』と混同されることが多い。19世紀末から20世紀初頭に海外華僑が設立した団体『龍岡親義公所』は、劉・関・張・趙の四姓による団結を起源とするが、この団結は正史にはない『演義』の虚構である「桃園の誓い」にちなみ、劉備・関羽・張飛に趙雲を加え、「四兄弟」として祖先祭祀の対象とした擬制的兄弟関係で成立する「四姓連合団体」となっている[52]

配祀として祀る祠廟

かつて存在した祠廟

評価

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同時代の評価

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成都武侯祠「三義廟」

劉備が皇帝に即位した直後の詔勅では、張飛の事を古代の召虎に喩えて、その武勇を賞讃している。また、魏の曹操の参謀であった程昱らから「張飛の勇猛さは関羽に次ぐ」、「1人で1万の兵に匹敵する」、郭嘉も同様に「張飛・関羽は共に1万の兵に匹敵する」、「劉備の為に死を以て働いている」[55]董昭は「関羽、張飛は劉備の羽翼であり恐れるべきである」[56]、また劉曄にも「関羽と張飛の武勇は三軍の筆頭である」と評され[57]周瑜からも「張飛と関羽を従えれば大事業も成せる」と評されるなど[58]、その武勇は当時から天下に広く評価されていた。

しかし、張飛は士大夫と呼ばれる知識人層には敬意をもって応対したものの、身分の低い者、兵卒などには暴虐であった。多すぎる死刑の数と、いつも兵士を鞭打っている上にその当人を側に仕えさせていることを、劉備からは常々注意されていた。しかし張飛は改めることができず、ついに死に直結する事態を招くこととなった[59]

『三国志』を著した陳寿は、巻36「関張馬黄趙伝」の「評」に、張飛と関羽の人物評を併せて載せ、このように括っている。

関羽・張飛の二人は、一騎で万の敵に対する武勇があると賞賛され、一世を風靡する剛勇の持ち主であった。関羽は顔良を斬ることで曹操に恩返しを果たして去り、張飛は厳顔の義心に感じ入ってその縄目を解き、両者並んで国士と呼ぶに相応しい気風を備えていた。しかし、関羽は剛毅が行きすぎて傲慢であり、張飛は乱暴で部下に恩愛をかける配慮が無く、これらの短所が仇となって、敢え無く最期を遂げることとなった。理数の常(=道理からして当然)である。 — 陳寿『三国志』巻三十六「関張馬黄趙伝」「評」[60]

陳舜臣はこれを、関羽も張飛も、共に低い身分から士大夫に出世したが、関羽の場合は今や同じ身分となった士大夫に対しての傲慢な振る舞いとなり、張飛の場合は士大夫に出世したことを喜んで同じ身分の者には敬意を払ったが、下の者に対して傲慢になるという正反対の行動になったと解釈している。

追封と栄誉

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  • 蜀漢景耀3年(260年)、蜀漢建国の功臣に追諡が行われ、張飛には「桓侯」が贈られた。「桓」は「疆土を拓き遠方を鎮める。克く敬み民に勤しむ。領土を併せ諸国を兼る」といった意味を持つ[61]
  • 史館が選んだ中国史上六十四名将に関羽と共に選ばれている(武廟六十四将)。
  • 前蜀天漢元年(917年)前蜀は国号を『漢』に改め、正月、張飛は「霊応王」に封じられた[62]
  • 順帝至元6年(1340年)には、張飛はさらに「武義忠顕英烈霊恵助順王」に加封された[63]
  • 嘉慶帝は、張飛の祠墓のひとつである『閬中張桓侯祠中国語版』(後節)を「四川省春秋祀典」に組み込み、張飛は公式に祭祀される大神となった[64]

個人の評価

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  • 張輔:「張飛・関羽は、みな人傑である」[65]
  • 葛洪:「張飛・関羽は万人敵であったが、二人とも命を落とし、主君を辱め、みずから首を差し出す結末となってしまった」[66]
  • 常璩:「元々、張飛は三軍に冠たる勇猛さを持ち、関羽と共に万人敵と称された。関羽は身分の低い者には良く接したが士大夫には傲慢であり、張飛は君子を愛し敬ったが身分の低い者を顧みなかった。これにより二人とも敗れた」[67]
  • 王勃:「先主(劉備)の寛容で慈悲深く人望を得た資質、張飛・関羽の万人敵たる力、諸葛孔明の管仲楽毅に並ぶ才が、互いに助け合って天下を取れば、成功する可能性があっただろう」[68]
  • 李徳裕:「蜀の先主は、関羽・張飛と寝起きを共にしたが、大勢の人の集まる場所では、彼らは終日そばに侍立していた。皆、この道を用いたからこそ、成功を収めることができたのだ。(中略)安禄山は、夷狄(異民族)の中のずる賢い者であり、将軍の家柄の英豪でも、民間出身の傑物でもない。その戦闘の気概や武術の才能は、関羽・張飛からはるかにかけ離れている」[69]
  • 殷堯藩中国語版:「その威名は万古に垂れ、勇力は当時において冠絶していた。義をもって巴東太守(厳顔)を解放したが、その身は皮肉にも帳下の部下により命を落とした。荒れた祠は深い谷間に面し、高木が軍旗のように立ち並んで囲んでいる。三国鼎立の時代に思いを馳せてみると、『黍離』の詩を詠む者は、今どこにいるのであろうか」[70]
  • 杜甫:「誰が関羽・張飛と肩を並べられようか。その功績は、耿弇鄧禹の親しい間柄に臨むようだ」[71]
  • 李亨:「張飛は万人敵であり、卻縠は三軍の将帥である」[72]
  • 趙蕤中国語版:(虞世南が言うには)あの孔明(諸葛亮)は、時代に命じられた稀代の奇才であり、伊尹や呂尚(太公望)の匹敵者であった。(中略)もし、彼を曹公(曹操)と場所を替えて配置し、その長計を存分に発揮させ、関羽・張飛の武勇をほしいままにし、諸葛亮の文才を尽くしたならば、覇王の業は成し遂げられていただろう」[73]
  • 張説:「思斉は忠義深く勇壮であり、非凡な才能を持つ。これを古の人物に求めるならば、張飛、許褚らであろう」[74]
  • 崔致遠:「いわゆる非凡な人物が存在してこそ、その後に非凡な事績が達成されるのである。絳侯(周勃)や灌嬰もまた一時代の傑物であり、関羽・張飛は代々の功績による貴族ではないにもかかわらず、その姓名を金鼎や玉鍾に彫り、その肖像を雲台や煙閣に飾っている。永久にその美点を尽くすならば、誰がその名誉を先に争うことができようか」[75]
  • 徐鉉:「唐の王室は崩壊し離散し、諸侯が競い合った。呉武王は春秋五覇桓公文公のような挙兵を行い、我が先君は関羽・張飛の役割を実践した。敵を打ち砕き、領土を攻略し、向かうところ敵対する者はいなかった。功績は当時の世にもたらされ、慶事は後世に集中した」[76]
  • 孔平仲中国語版:「狄青、字は漢臣。元昊中国語版が謀反を起こした際、たびたび軍を率いて出陣した。四年間で小規模・大規模を合わせて二十五回の戦闘を行い、流れ矢に当たることは八回に及んだ。人々は彼を「狄天使」と呼んだ。皇帝は彼の容姿を見て、「朕の関羽・張飛である」と述べた」[77]
  • 曾鞏:「侯(張飛)は智謀と勇気をもって将軍となり、万人敵と称された。蜀建国の初期に、魏将の張郃とこの地で対峙し、見事に敵軍を打ち破り、この土地を安定させた。その功績は人々に施されたものと言えよう。彼が死去した後も、また恩沢をもってこれを授ける。すなわち、彼が閬中の人々によって祭祀され続けることが廃れないのは、どうして当然ではないと言えようか」[78]
  • 岳飛:「一度の死が、語るに足るであろうか。肝要なのは、後世の書物や記録をして岳飛の名が存在することを知らしめ、関羽・張飛らの功績と互いに近似しているようにさせることだけだ」[79]

創作上の張飛

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川劇の張飛

明代に成立した『笑府』にも周倉同様に登場するなど、他の三国時代の人物に対し、より庶民に愛される存在として伝承されてきた。張飛が督郵を鞭打つ場面と長坂橋で曹操軍の前に仁王立ちする場面は、京劇などで特に人気が高く、大向こう受けするという。以降『演義』を下敷きにした各種創作では、こうしたコミカルさも取り入れた好漢として活躍している。

三国志平話

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三国志平話上巻』に「さて、ここに一人の男がいた。名は張飛、字は翼徳といい、の涿郡范陽の人である。その容貌は、豹の頭にぐりぐりの目、つばめの顎に虎の鬚、身長は九尺を超え、その声は大きな鐘のように響き渡った。家は裕福な大金持ちである。」と描写される[80]

三国志演義

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月岡芳年『張飛長坂橋百万勢睨返』

演義の設定

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小説『三国志演義』では、黄正甫本『三国志伝』と毛本『三国演義』では字は翼徳(よくとく)、嘉靖本『三国志通俗演義』では字は益徳五虎大将軍の一人と位置付けられ、身長八尺(約184cm)、豹のようなゴツゴツした頭にグリグリの目玉、燕の顎には虎髭、声は雷のようで、勢いは暴れ馬のよう(身長八尺 豹頭環眼 燕頷虎鬚 聲若巨雷 勢如奔馬[注釈 10]と表される容貌に、一丈八尺の鋼矛「蛇矛(だぼう)」を自在に振るって戦場を縦横無尽に駆ける武勇を誇る武将として描かれている。また、家柄は肉屋と設定されている。

元々身分の高かった劉備が洗練された書面語で話すのに対し張飛は乱暴な口語を使うが、これは出身地が北宋時代以降、騎馬民族のモンゴル族根拠地となった(燕雲十六州)ことがあり、「漢児言語」という一種のピジン語が話されていたことから、その影響ではないかという研究がある[注釈 11]。このため、日本語訳では張飛の言葉はべらんめえ調の江戸方言などで訳されることが多い[82]

演義の事績

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岳亭春信:劉備・張飛・関羽

後漢末、黄巾の乱が起こり、朝廷が義勇兵を募ったところ、劉備・関羽・張飛が偶然出会い、酒場で意気投合する。そして張飛の家の桃園で義兄弟の契りを結び、三兄弟になるところから張飛の物語が始まる[83]

『演義』における張飛は、劉備を高潔な君子としてアピールするために、粗暴な役回りを押しつけられている部分が多い。例えば、黄巾の乱の後、劉備が査察にきた郡の督郵(監察官の職)に面会を断られ鞭打ったことがあるが、『演義』では、聖人君子である劉備像を壊さない為に、劉備に賄賂を要求した督郵に腹を立てた張飛が暴行を加えたことにされている。

張飛は一騎討ちの名手であり、呂布とも三たび渡り合い、関羽と一騎討ちで互角に戦った紀霊を討ち取り、曹操軍屈指の武勇を持つ猛将である許褚に一騎討ちで勝利している。関羽は曹操に「我が弟、張翼徳の武勇は拙者以上でごさる」と語っており、呂布も泥酔して力を尽くせない張飛に対し、それでも剛勇さをよく知っていたため、むやみに近付こうとしなかった。

若い頃は、戦場では蛮勇を振るうものの戦の後の宴席では酒に任せて暴力を振るうために、部下達に信頼されていない情景が描かれている。極めつきは、劉備が朝廷の命に従って袁術へ軍勢を出した時、その留守役として下邳を守っていた際に起こった事件で、泥酔した隙をつかれ、呂布とその軍師の陳宮の計略に引っ掛かり、部下に反乱され、主君である劉備の妻子を城諸共に奪われ、曹操の下に身一つで転がり込む原因を作っている。その一方で劉備達同様子供や老人のように力を持たない民衆に対しては優しく接するなど、涙もろく義理人情に厚い人物としても描かれている。

呂布滅亡後、劉備が曹操と不仲になると、徐州に攻め入ってきた曹操部下の劉岱と合戦をする前に、張飛軍は兵の士気を上げるために酒盛りをするが、途中で張飛が暴れ部下に暴行するという策を実行している。このことで部下が劉岱の下へ走って逃げ、張飛軍の内情を暴露させることになる。その情報を信用し攻めてきた劉岱軍を攻撃し、劉岱を捕らえている。

曹操に敗北して劉備らは散り散りになると、張飛は山賊にまで成り下がり、劉備の下に戻ろうと合流を望む関羽を、曹操に降った裏切り者呼ばわりして襲いかかるなど、血の気が多く、短慮な所を見せている。そののち両者は和解し、義兄弟は古城で無事に再会した。

劉備が諸葛亮を迎えた時には、劉備が自分と彼を「水と魚のようなもの」と例えたことに嫉妬を覚え、後に諸葛亮が采配を振ることになった時には、関羽と共に反発している。しかし、博望坡の戦いで諸葛亮の采配が的中すると関張らはその鬼謀に心服し、以降信頼を寄せている。龐統が県令の職を怠けたときも、これに激怒して殺害しようとするが、見事な仕事ぶりを見せると感心し、無礼をすぐさま謝罪した。

范彊張達に暗殺される張飛

益州入りの後には張郃を相手に智謀を巡らして、勝利を得る張飛の成長した姿が描かれている。しかし最後には、義兄弟である関羽を失ったことで部下に対して当たり散らすことが多くなり、その結果破滅するという悲劇的な末路を描いた所で、『演義』は「張飛」という人物を締めくくっている。

このとき「五十五歳」と記され[26]167年の生まれと設定されていることがわかる。

花関索伝

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地戯中国語版の張飛の仮面

関羽の架空の息子・関索を主人公とした『新編全相説唱足花関索出身伝 前集』(花関索伝)に、青口桃源洞の子牙廟で桃園の誓いの際、関羽と張飛は後のために互いの家族を殺そうということになるが、張飛は関平を供とし、胡金定(関羽の夫人、関索の母)を殺さず逃がしている[84]

柴堆三国

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『歸田瑣記』(梁章鉅 )「關西故事」に肉屋であった張飛が肉を冷やすための重しの石を関羽が持ち上げたエピソードがある「張飛井戸[85][86]」などの桃園の誓い伝説が記述されている[87]

笑府

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末期の笑話集『笑府』に、楊貴妃と張飛の登場する笑話がある。

ある男が、野ざらしになっていた骸骨を見つけ、気の毒に思って供養をしてやった。その晩、男の家の戸を叩く者があり、「誰だ」と聞くと「フェイです」と答える。さらに訊ねたところ、「私は楊貴妃(ヤン・グイフェイ)です。馬嵬で殺されてから葬られることもなく野ざらしになっていたのを、あなたが供養して下さいました。お礼に夜伽をさせて下さい」と答え、その晩、男と夜を共にした。
これを聞いて羨んだ隣の男が野原を探し回って、野ざらしになった骸骨を見つけ供養したところ、その晩やはり戸を叩く者があった。「誰だ」と聞くと「フェイです」と答える。「楊貴妃かい」と聞くと「俺は張飛(ヂャン・フェイ)だ」という答え。仰天して「張将軍が我が家に何ゆえのお越しで」と訪ねると、張飛曰く「俺は閬中で殺されてから、葬られることなく野ざらしになっておったのをあんたに供養してもらった。その礼に夜を共にさせてくれい」 — 『笑府』巻八「学様」[88]

これが日本で翻案されたのが、落語野ざらし』となった。

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 生年についての詳細は「張飛#背景・年齢」を参照。
  2. ^ a b 字といみなには、関連性や同義性を持たせるという慣習がある。譚良嘯によると、字の「益徳」は「品行や道徳の向上」を意味し、諱の「飛」とあわせて、「品徳が高まり、事業が飛躍する」という儒教思想に基づく名であるという。その一方で、『三国志演義』(版本による。#三国志演義を参照)や一部史料に「翼徳」と記述された理由については、「飛ぶためには翼が必要」と、字面から安易に推測した者によって、戯曲や小説などを通じて民間に広まった可能性が指摘されている[3]
  3. ^ 爵位の「西郷侯」について、趙一清中国語版は「『漢書』によれば、涿郡の西郷侯国は、現在の涿州から西北へ十里の場所にある。張飛は涿郡の出身であるから、故郷の地名をもって劉備は彼を優遇し寵愛した」のだといい、また、潘眉中国語版は「涿郡には前漢の時代に「西郷」があったが、後漢の時代に廃止された。ここに西郷(侯国)があるのは、蜀漢の時代に再び設置されたからである」という。盧弼 (中華民国)中国語版は、「蜀漢は西方の僻地にあり、どうして遠く離れた(の領域にある)涿郡に「県」を置くことができようか。これは遥か遠くのこの地を侯国として封じたに過ぎず、嘉名(めでたい名)を彼に与えただけであろう」として、「西郷侯」は「郷侯」ではなく、それよりも格上の「県侯」であるが、しかし名目上の爵位(遥封)にすぎないと結論づけている(爵位に関しては中国の爵位中国語版も併せて参照)[5]
  4. ^ 『三国志』巻36「張飛伝」、本田済の訳文によった[12]。『百衲本』では、「身是張益德也,可來共決死!」とある。「燕人(えんひと)張飛、これにあり!」[13]と言ったというのは、『演義』の創作であり、正史にはない。「燕人」は上原究一の研究によれば、後世の金代にいたモンゴル人漢民族の混血の勇敢な「漢児」を表す言葉であったという[14]
  5. ^ 『三国志』巻41「張裔伝」によると、張裔は劉璋の命令で徳陽の陌下で張飛を迎撃しようとしたが、敗れている[17]
  6. ^ 銭大昕は、「蜀の臣下で、功績や徳の高い蒋琬董允費禕、武功や戦略に秀でた関羽、張飛、黄忠、趙雲といった者たちも、みな生年が記されていない」ことを指摘し、しかし史書に年齢が記された一部の人物たちは長寿、あるいは叙事において偶然そのことに触れられているだけであり、もともと生年を記すという編纂上の慣例とは関係がないとも述べている[27]
  7. ^ と比較して、蜀は巻数・記述量ともにもっとも少ないが、正史の著者・陳寿によると、蜀には史官が設けられていなかったという[22]。他の理由として、西晋王朝を正統とするためには、前身の魏王朝の正統性が求められたため、西晋・魏について不利益な内容などは書けないことが多かったという事情があり[33]方北辰によると、陳寿が魏の司馬懿へ配慮し、司馬懿と交戦した諸葛亮の軍略を低く評価したことにもそれが現れているという[34]
  8. ^ 蜀漢の文化的な有名人について、史書や書論などから確認できるのは、『三国志』にだけ「(諸葛)瞻工于書画」という記述がある。
  9. ^ この銘文に関する最も早い言及は楊慎『全蜀芸文志』に見えるものの、偽作だとする研究が複数存在する[42][43][44]
  10. ^ これらの容貌は正史には記述されていない。中野美代子は、8世紀ごろから中国の民衆の間で急激に人気の広まった鍾馗、または明王像のイメージが共に人気のあった張飛の外見に取り入れられたのではないかと述べている[81]
  11. ^ 上原究一によると、時代の燕の地域には張飛の子孫を称する人物が複数いたという[14]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h 『三国志』巻三十二「先主伝」
  2. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『水経注』巻三十二「沮水」, ウィキソースより閲覧。 其故城在東百四十里,謂之東城,在綠林長坂南,長坂,即張翼德橫矛處也。
  3. ^ 方・譚 2018, pp. 96–98.
  4. ^ 渡邉義浩オモコロ編集長・原宿【才能>人間性】「優秀なら悪人でもOK!?」「人材戦略が現代すぎる」早稲田大学教授・渡邉義浩 × オモコロ編集長・原宿が語る!儒教をぶっ壊した“最強のリーダー”曹操とは?(第1回/全2回)」『ダイヤモンド公式チャンネル(YouTube)』2025年7月26日https://www.youtube.com/watch?v=qgA8ETGZ51A2025年12月3日閲覧 (20:11の発言)
  5. ^ 三国志集解中国語版』蜀書六:三國志巻三十六「張飛伝」趙一清曰:漢書地理志:涿郡西鄉侯國,在今涿州西北一十里。張侯,涿郡人,故以本土寵之也。潘眉曰:涿郡前漢有西鄉,後漢省,此有西鄉者,蜀漢時復置。弼按:蜀、漢僻在西陲,相隔縣遠,安能於涿郡置縣?蓋遙封此邑,錫以嘉名耳。
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  9. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『英雄記』「劉備伝」, ウィキソースより閲覧。 備留張飛守下邳,引兵與袁術戰於淮陰石亭,更有勝負。陶謙故將曹豹在下邳,張飛欲殺之。
  10. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『英雄記』「劉備伝」, ウィキソースより閲覧。 豹眾堅營自守,使人招呂布。布取下邳,張飛敗走。
  11. ^ 『三国志』巻九「夏侯淵伝」注引『魏略』初,建安五年,時霸從妹年十三四,在本郡,出行樵採,爲張飛所得。飛知其良家女,遂以爲妻,產息女,爲劉禪皇后。
  12. ^ a b 本田 1968, 張飛伝「長坂の戦い」.
  13. ^ 『三国志演義』第四十二回「張翼德大鬧長阪橋」「燕人張翼德在此!誰敢來決死戰?」
  14. ^ a b 上原 2010, pp. 56–71.
  15. ^ 『三国志』巻五十四「周瑜伝」注引『呉録』《吳錄》曰:備謂瑜云:「仁守江陵城,城中糧多,足為疾害。使張益德將千人隨卿,卿分二千人追我,相為從夏水人截仁後,仁聞吾入必走。」瑜以二千人益之。
  16. ^ 『三国志』巻三十五「諸葛亮伝」、巻三十六「趙雲伝」、巻四十「劉封伝」
  17. ^ 『三国志』巻四十一「張裔伝」
  18. ^ 『三国志』巻一「武帝紀」
  19. ^ 『三国志』巻九「曹休伝」
  20. ^ 『三国志』巻四十「魏延伝」
  21. ^ 三国志集解中国語版』蜀書六:巻三十六「關張馬黃趙傳第六」(飛愛敬君子而不恤小人。)此漢中之守,所以捨益德而拔魏延也。
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  23. ^ a b 井波律子「蜀の五虎将軍 関羽・張飛・趙雲・馬超・黄忠」『反逆と反骨の精神 三国時代—南北朝』岩波書店〈中国人物伝 第II巻〉、2014年、82-96頁。「(初出)『三国志曼荼羅』岩波現代文庫、2007年。」 pp.82-83.
  24. ^ 丹羽 1990, p. 227.
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  26. ^ a b 毛宗崗本版『三国志演義』第八十一回「急兄讎張飛遇害:雪弟恨先主興兵」飛大叫一聲而亡。時年五十五歲。
  27. ^ 三国志集解中国語版』蜀書六:三國志巻三十六「張飛伝」勳德如蔣琬董允費禕,武略如關張、黃忠、趙雲,皆不書年。許靖譙周年逾七十,於敘事偶及之,初不關乎義例。杜瓊年八十餘,孟光年九十餘,以上壽故書。
  28. ^ 井波 2014, p. 82.
  29. ^ 渡邉 2020, p. 228.
  30. ^ 三国志集解中国語版』蜀書六:三國志巻三十六「張飛伝」潘眉曰:近世星家書推關羽以四戊午生,張飛以四癸亥生,此無稽之言。考先主起兵,在鄉里合徒衆,關張往從之,時獻帝初平元年。若關戊午生,是年十三歲,張止八歲。至初平三年,關張爲别部司馬,是年關十五歲,張十歲。如星家言,是飛以八歲從軍,十歲爲别部司馬也,殆不足據。關僅長張數歲,張非癸亥,關亦必非戊午。初平三年,先主已三十二歲,關、張與先主年當相若耳。
  31. ^ a b 陳香璉『(修士論文)《三国志演義》中「五虎将」結構之探討』、国立東華大学中国語文学系、2012年、1-176頁。「(初出)「「五虎将」結構下的趙雲形塑——従史料素材到演義小説的藝術軌跡」東華中国文学研究、第11期、2012年、pp.99-120.」pp.1-2.
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    國山休風,永南耽思。
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    孫德果銳,偉南篤常。
    德緒、義強,志壯氣剛。
    濟濟修志,蜀之芬香。
    〈贊王國山、李永南、馬盛衡、馬承伯、李孫德、李偉南、龔德緒、王義強〉
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参考資料

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中国語文献

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TV番組

日本語文献

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論文

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関連項目

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外部リンク

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