五虎大将軍

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五虎大将軍(ごこだいしょうぐん)は、小説三国志演義』および小説『水滸伝』、またはその派生作品に登場する架空の称号である。

名称[編集]

五虎を冠した称号は、15世紀にまとめられた小説『三国志演義』においては主に「五虎大将」という呼称で現れ、「五虎上将」、「五虎将」とも別称される。小説としてまとめられる前の講談『三国志平話』では「五虎将軍」、吉川英治の小説では「五虎大将軍」と呼称されている。

中国でも統一されておらず、四川省綿陽市の三国史跡である富楽山公園の像には「五虎上將」と書かれているが[1]、中国語版のウィキペディアの本項目名は「五虎将」となっている。

本記事では「五虎大将軍」で統一する。

三国志演義[編集]

富楽山公園の像(左から黄忠、趙雲、関羽、張飛、馬超)

五虎大将軍は、関羽張飛馬超黄忠趙雲の5名であり、その筆頭には関羽が任命された。漢中を平定し、漢中王となった劉備が、諸葛亮の進言により、信頼と功績のある武将五名に五虎大将軍の称号を授け、重要な軍事の際にはそれぞれ軍を率いて活躍し、軍事における中心的な役割を果たした。趙雲は他の四名より位が低く、関羽・張飛の2名は劉備の義兄弟であり、黄忠は老将、馬超は新参の武将と、地位・老若・経歴などは選出に問われなかった。

蜀志(三国志正史)での扱い[編集]

五虎大将軍の起源は、3世紀に書かれた歴史書『三国志』(「正史」)に遡る。

  1. 5人のが、『蜀志』第6巻 「関張馬黄趙伝」として、1巻にまとめて記述されている。
  2. 関羽、張飛、馬超、黄忠の4人が、それぞれ前将軍右将軍左将軍後将軍に任じられた。

趙雲はこのなかで比較的、昇進は遅く、新参の馬超、黄忠らに追い抜かれていた。ただし、これは劉備が漢中王に就任する前までの趙雲の任務が陳到とともに劉備の近衛部隊の指揮官であって、他の四人のように軍功を立てやすい前線で戦う武将でなかったことも影響している。

正史での評価
『蜀志』「関張馬黄趙伝」の「評」によれば、関羽・張飛は「万人之敵(一人で一万人と戦えるほどの猛者)」。また、『張飛伝』でも、程昱らが同様の賞賛をしている。
『馬超伝』本文では、馬超は「剛力(の持ち主)」、楊阜曹操に進言した際には、「韓信黥布の武勇」。「評」では「猛勇」。
『黄忠伝』本文では、「勇毅冠三軍(黄忠は三軍筆頭の勇者)」。
趙雲は、『季漢輔臣賛』に「忠義と勇猛さを兼ね備えていた」陳寿の評では黄忠とならび壮猛で軍の爪牙となった、と記述されている。
正史での関羽のプライド(馬超、黄忠に対するもの)
『関羽伝』には、馬超が劉備に下った際、「彼は誰に並ぶ者か?」と手紙で問いかけている。これに対し、諸葛亮が「張飛将軍には匹敵しますが、髯殿ひげどの関羽の見事な頬髯にちなんだあだ名)には及びません」と返信している。関羽は返信に喜び、来客に見せびらかした、とある。
劉備が黄忠を後将軍に任命する際、諸葛亮が「大抜擢であり、関羽将軍が納得しないのではないでしょうか?」と進言している。これに対し、劉備が「私自身が雲長に説明する」と答えている(『黄忠伝』)。
群雄との関り
関羽・張飛は劉備の旗揚げから付き添い、その死もほぼ同時期であった。また黄忠・馬超も同じ時期に死去した。
劉備と劉禅両方を君主としたことがあるのは趙雲だけである。
黄忠は劉琮が曹操に降伏した際にそれに従って裨将軍に任命されたため、曹操を君主としたことがある。関羽も暫定ではあるが、徐州が陥落して劉備が逃亡した際に、曹操に従っていた時期がある。馬超も曹操が袁紹残党と争っていた時期に、曹操側の戦力として戦っている。
独立した勢力のトップとなったことがあるのは馬超だけである。
人物 将軍位 封号 諡号 生存時期 君主
関羽雲長 偏将軍→盪寇将軍前将軍 漢寿亭侯 壮繆侯 ?年 - 220年 劉備
張飛益徳 征虜将軍右将軍車騎将軍 新亭侯>西郷侯 桓侯 ?年 - 221年 劉備
馬超孟起 偏将軍→征西将軍(自称)→平西将軍→左将軍驃騎将軍 都亭侯>斄郷侯 威侯 176年 - 222年 馬騰→独立勢力→張魯→劉備
黄忠漢升 裨将軍→討虜将軍→征西将軍→後将軍 関内侯 剛侯 ?年 - 220年 劉表劉琮曹操→劉備
趙雲子龍 牙門将軍→翊軍将軍→征南将軍→鎮東将軍→鎮軍将軍 永昌亭侯 順平侯 ?年 - 229年 袁紹公孫瓚→劉備→劉禅

水滸伝[編集]

梁山泊の役職。この上の役職は、総頭領と軍師のみで、軍人の中では最高の位である(水滸伝百八星一覧表)。編成は、左軍大将・大刀関勝、右軍大将・豹子頭林冲、先鋒大将・霹靂火秦明、合後大将・双鞭呼延灼、虎軍大将・双鎗将董平の5人。

なお、関勝は関羽の子孫という設定である(「大刀」とは、『三国志演義』での関羽の得物である青龍偃月刀を指す。青龍偃月刀を実際に使ったかどうかの記録は残されていないが、大刀の名手であったのは事実)。また、林冲は、得物が蛇矛であり、容貌が「豹頭環眼 燕頷虎鬚」と形容されている点から、張飛を元にしているとされる。

派生[編集]

『三国志演義』や『水滸伝』などの影響を受け、後世の他の演義小説にも、「五虎大将軍」と名付けられた組み合わせが数多く存在する。通常、『水滸伝』と同様に、他の小説の五虎将の中には、関羽(赤面、大刀を使い、仁義を重視する)と張飛(黒面、蛇矛を使い、暴れる勇猛さ)に似た人物もおり、残りの3人の設定は比較的自由である。

隋唐演義[編集]

瓦崗寨の役職。厳密に言えば、『隋唐演義』を基礎とした二次創作小説の中で、李密が瓦崗寨の主になってから、設置された職務である。しかし、小説から派生した他の作品では、程咬金(程知節が瓦崗寨で混世魔王と呼ばれていた時に設置され、秦叔宝(秦瓊は五虎将よりも地位の高い大元帥であったため、どちらの説も『演義』とは異なる。

『隋唐演義』などの小説の五虎将[編集]

飛虎将軍・秦瓊(左天蓬の転生)、螭虎将軍・程咬金(土徳星の転生)、雄虎将軍・王伯当(牛金牛の転生)、猛虎将軍・邱瑞(架空の人物、「昌平王」と冊封された隋の元老、イメージは老将)、烈虎将軍・単雄信(青龍星の転生)の5人。邱瑞が戦死した後、羅成(白虎星の転生)が空席を補充した。

『説唐演義』などの小説をもとにした三次創作の五虎将[編集]

最も人気のある説は、赤髪霊官(小霊官)・単雄信勇三郎・王伯当緑袍帥・王君可(歴史上の王君廓をモデルにしているが、基本的に名前だけが同じ、イメージは関羽を参考にした)、鉄面判官・尤俊達(歴史上の牛進達をモデルにしており、王君可/王君廓に似ている)、神矢将・謝映登(架空の人物で、最後に仙人となり、唐太宗・李世民の時代が終わった後も唐の影の守護者となった)の5人。[2]

月唐演義[編集]

有名な「安史の乱」という歴史的事件を中心に、白虎星の3度目の転生・郭子儀を描いた小説の中の5人の武将。安禄山は白虎星と代々宿敵である青龍星として描かれているため、彼ら5人が手を組んで安禄山を破ったシーンは「五虎縛蒼龍(五匹の虎が一緒に蒼龍を捕まえる)」と呼ばれている。白虎星・郭子儀(双頭五輪駒、定国粉龍鎗、粉龍兜、粉龍甲、玄武鞭、震天弓、穿雲矢などの宝物を持つ)、黒虎星・尉遅勃(唐初の名将・尉遅恭の後人)、飛大帥・劉蛟臥虎星・呉剛聚虎星・林沖の5人を含む。郭子儀以外は基本的に架空の人物である。また、実際に神(星君)として扱われているのは、西方の擬神化・白虎の民間での呼称に相当する白虎星だけである。黒虎星は明清の小説の中で、仁・智・勇を兼ね備えた白虎星の転生に対応するものとして登場し、「単純な蛮勇を備えた」架空の星君を代表する。他の3人の星君は完全に小説家の自作だ。

残唐演義[編集]

『混唐演義』や『残唐五代演義』などを含み、黄巣の乱に始まり、五代十国の歴史を描いた物語の中で、金統帝・黄巣地蔵王菩薩の神獣・諦聴の転生、残唐十六英雄の第四席、紫金藤槍を使い、「殺人八百萬、流血三千里[3]」という宿命を背負った神剣・混唐宝剣を持つ)が築いた大斉国の5人の武将。作品では基本的に十六英雄の第一席、十三太保勇南公・李存孝の引き立て役として存在する。[4]白玉将・葛従周(第十席、虎頭亮銀鎗を使い、兵法に精通した主帥と設定)、扯破天大刀将・孟絶海(第十一席、三停青龍偃月刀を使い、関羽をモデルとした架空の人物)、鉄天王・鄧忠(第十二席、鑌鉄力貫槊を使い、架空の人物、通称は「鄧天王」)、丑鬼賽瘟神・朱温(第十三席、鋸歯飛鎌大切刀を使い、九丑星の転生)、銀鎗将・張帰覇(第十四席、八宝盤龍亮銀鎗を使い)の5人を含む。[5]

狄青演義[編集]

『水滸伝』で武曲星の転生と呼ばれ、文曲星・包拯と並び称された宋の守護者・名将狄青を中心とした『狄青演義』(『狄青演義(万花楼)』『五虎征西』『五虎平南』を含む)では、5人の武将(狄青本人も五虎の一だ)。出山虎・狄青(宋太祖・趙匡胤伝来の定唐金刀と現月龍駒、血結鴛鴦、七星矢、人面金牌などの宝物を持つ)、爬山虎・張忠(関羽をモデルとする)、離山虎・李義(張飛をモデルとする)、飛山虎・劉慶(宝物「席雲帕」を持ち、空を飛ぶことができる)、笑面虎・石玉(仙人伝来の名槍と槍術を持ち、狄青と同様に仙術に詳しい)など5人が含まれる。[6]そのほか、『楊家将』シリーズで有名な英雄・焦貴と孟良の後裔、焦廷貴孟定国も、喜劇的な人物として狄青の手下として働いている。

大明英烈[編集]

『朱元璋演義』や『大明英烈伝』などの作品の中で、明太祖・朱元璋の部下である5人の武将。徐達(関羽をモデルとする)、常遇春(張飛をモデルとする)、湯和沐英胡大海の5人を含む。いずれも歴史上有名な武将だが、常遇春と沐英を除いた3人は小説の中では一流の実力者ではない(徐達は文武兼備の主帥と設定され、知将のイメージに重点を置いている)。『大明英烈伝』による二次創作で、実際に明の主戦力を担当したのは、常遇春の子・常茂、胡大海の子・胡徳継などの後輩英雄だった。

台湾外志[編集]

上巻の『台湾外志刺繍像五虎闹南京伝』と下巻の『台湾外志後伝刺繍像五虎将掃平海氛記』からなる『台湾外志五虎伝』では、鄭成功の配下にある10人の武将(上巻と下巻にそれぞれ1組、福建・台湾一帯ではそれぞれ「前五虎」と「後五虎」と呼ばれている)がいる。「前五虎」は飛山虎・陳魁奇鑽地虎・陳豹穿石虎・陳典翻江虎・甘輝巡夜虎・萬禮、「後五虎」は柯彩許鳳陳龍藍理呉田である。[7]陳魁奇が歴史上の武将・陳魁をモデルにしている以外は、歴史上の実在の人物である。また、周全斌甘輝馬信劉国軒施琅を鄭成功の五虎将と見なす説もある。

蜀漢四英[編集]

蜀の将軍である五虎大将軍とは別に、諸葛亮蒋琬費禕董允の四人の政治家は「蜀漢四英」と呼ばれる[1]

富楽山公園には蜀漢四英の銅像も建てられている[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 富楽山公園”. Ministry of Foreign Affairs of Japan. 2023年5月1日閲覧。
  2. ^ 瓦岗五虎”. 百度百科. 2022年10月22日閲覧。
  3. ^ 即、「八百万を殺し、三千里を流血する」
  4. ^ 元代の雑劇『鄧夫人苦痛哭存孝』で、李存孝が孟截海(孟絶海)、鄧天王、張帰覇を破ったエピソードは、すでに劇中の人物に取り上げられており、李存孝の架空の引き立て役としてかなり古い源流を持っている。
  5. ^ 《李存孝演义》第六回 长安城称帝”. 2022年10月22日閲覧。
  6. ^ 五虎征西”. daizhige.org. 2022年10月22日閲覧。
  7. ^ 漳州版“五虎将”_郑成功_历史_章回小说”. www.sohu.com. 2022年10月22日閲覧。

関連項目[編集]