趙雲
趙雲 | |
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清代「三国志演義」趙雲 | |
蜀漢 鎮軍将軍・中護軍・永昌亭侯 | |
出生 |
?(生年不詳) 冀州常山国真定県 |
死去 | 建興7年(229年) |
拼音 | Zhào Yún |
字 | 子龍 |
諡号 | 順平侯 |
主君 | 公孫瓚→劉備→劉禅 |
兄弟 | 兄(名は不詳) |
子 | 趙統、趙広 |
趙 雲(ちょう うん、拼音: 、?(生年不詳) - 建興7年(229年)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢にかけての将軍。字は子龍[注 1](しりゅう[2]・しりょう[3])。冀州常山国真定県(現在の河北省石家荘市正定県)の人。封号は永昌亭侯。諡は順平侯。
正史における趙雲
[編集]以下は正史『三国志』(蜀書)趙雲伝(裴松之注『趙雲別伝』を含む)より。『三国志演義』の趙雲については『三国志演義における趙雲』を参照。
若き頃
[編集]冀州常山国真定県の出身。身長八尺(約185cm)[注 2]、姿や顔つきが際立って立派だったという。故郷の常山郡から推挙され、官民の義勇兵を率いて幽州の公孫瓚の配下となった[5]。
事前の経緯として、中平元年(184年)に始まった大規模な農民反乱である黄巾の乱が起こると、当時常山国の王だった劉暠は国を棄てて逃走した。この反乱に乗じて少年や山賊、犯罪者などを集め盗賊団を結成した張燕率いる黒山軍(黒山賊)の襲撃により、冀州は甚大な被害を被った。その後は冀州の支配権をめぐって韓馥、公孫瓚、袁紹らの対立と、冀州では大きな社会混乱が続いていた。
初平2年(191年)頃、当時袁紹は冀州牧を称していた為、公孫瓚は冀州の人々が袁紹に従うことを憂いていた。公孫瓚は義勇兵を引き連れた趙雲の来付を喜び、趙雲を嘲笑して「聞くところでは君の州の人々はみな袁紹に付くことを願っているという。君はどうしてひとり心をめぐらせ、迷ったのちに正道に戻ることが出来たのか?」と言った。これに対し、趙雲はこう応えた。
「天下はがやがやと勝手なことを言っていますが、未だ何が正しいのかを知ることができず、民には逆さ吊りにされるような災厄があります。
わたしの州の議論は、仁政のある所に従います。袁紹殿を軽視し、個人的に将軍(公孫瓚)を尊重したわけではありません」
劉備との出会いと別れ
[編集]この時、公孫瓚の元に身を寄せていた劉備と出会い、これが二人を結びつける機縁となる。劉備は趙雲と接するたびに受け入れ、趙雲も劉備に好感を持ち、次第に二人は仲を深めていった[8]。青州で袁紹と戦っていた田楷の援軍として、公孫瓚が劉備を派遣した際に趙雲も随行して劉備の主騎(騎兵隊長)[注 4]となった。その後、趙雲の兄が亡くなり、服喪のために公孫瓚の下を辞して故郷へ帰ることになった。劉備は、趙雲が自らの下にもう二度と戻って来ることはないだろうと悟り、趙雲の手を固く握って別れを惜しんだ。趙雲は別れの挨拶をして、「絶対にあなたの御恩徳に背きません」と答えた[9]。
劉備と別れた時期や、そこから建安5年(200年)頃までの趙雲の行動は『正史』にも裴注『趙雲別伝』にも記述がないため不明である[10]。
劉備との再会
[編集]建安5年(200年)頃、曹操に敗北し、追われた劉備が冀州の袁紹を頼って来ると、趙雲は鄴で久しぶりに劉備に目通りした。再会を喜んだ劉備は、趙雲と同じ牀(ベッド)を共にして眠った。劉備は趙雲を派遣して秘かに募った数百人の兵を連れ、みな劉備左将軍の部曲(私兵)と称したが、袁紹はこの動きに全く気付かなかった。こうして趙雲は劉備の配下になり、荊州へ随行した[11]。
博望坡の戦い
[編集]建安8年(203年)、趙雲は博望坡の戦いで敵将の夏侯蘭を生け捕る武功を挙げたが、彼が小さい頃からの同郷の友人であることから劉備に助命嘆願し、法律に明るい人物として軍正に推挙した。夏侯蘭は無事登用されたが、趙雲は以降、降将の夏侯蘭が無用の疑いをかけられぬように自分から彼に接近しないよう気遣った[12]。
長坂坡の戦い
[編集]建安13年(208年)、荊州の当陽長坂で曹操自ら指揮を執る精鋭5,000の兵に追いつかれた劉備は、妻子を捨てて臣下数十騎と逃走した。劉備の娘2人は曹純に捕らえられたが、趙雲が劉禅(阿斗)を身に抱え、更に甘夫人を保護したので、無事二人は危機を免れることができた。この戦いの後、牙門将軍に昇進した。
この時、趙雲が北に逃げ去ったと言うものがいた。劉備は手戟を投げつけて、「子龍はわたしを棄て逃げることはない!」と怒った。ほどなく趙雲が到着した[13]。
荊州平定戦
[編集]同じく建安13年(208年)、荊州平定に参加し、偏将軍・桂陽太守になった。この桂陽攻略時に降伏した太守の趙範が、自らの兄嫁の樊氏(未亡人)を趙雲に嫁がせようとした。趙雲は「わたしとあなたは同姓ですから、あなたの兄ならわたしの兄のようなものです」と同姓を理由に断わった。樊氏は絶世の美女であったので、なおも趙雲に娶るように薦める者がいた。趙雲は以下を述べて、これを固辞した。
「趙範は追い詰められて降ったに過ぎず、内実は判った者ではありません。それに天下に女性は少なくありません」
その後、趙雲の警戒通り趙範は逃亡したが、趙雲は樊氏に何の未練も持たなかった[14]。
阿斗奪回
[編集]劉備は趙雲を留営司馬に任じた。そのころ、同盟国である呉の孫権の妹・孫夫人(孫尚香)は劉備の正妻になっていた。孫夫人は孫権の妹であることを鼻にかけ、呉の官兵を率い、侍女には武装させ軍法を無視するわがままぶりを発揮し、劉備は手を焼いていた。劉備は趙雲が厳格で公私をわきまえ、全体を引き締めるに最適の人物であると判断し、趙雲を目付役(監視役)としてこの役に任命した[15]。孫権は劉備が益州入りしたことを知ると、船を出し孫夫人を呉に帰らせたが、その際に孫夫人は劉禅を連れて行こうとした。趙雲は張飛と共に長江を遮り、劉禅を奪回した[16]。このエピソードは『漢晋春秋』にも載っているが、そちらでは「諸葛亮の命を受けて趙雲が奪回した」とある[17]。
益州平定戦
[編集]益州の劉璋と不仲になった劉備は、劉璋の攻撃を決定する。荊州に留まっていた諸葛亮たちを援軍として召し出し、荊州の留守を関羽にまかせ、建安18年(213年)、趙雲は諸葛亮・張飛・劉封と共に長江を遡って入蜀し、各郡県を平定した。趙雲は江州から別の川に沿って西進し、途上で江陽を攻略し、成都にて諸葛亮らと合流した。益州が平定された後、翊軍将軍に任ぜられた[注 5]。益州平定後、劉備が益州に備蓄してあった財産や農地を分配しようとしたが、趙雲は劉備にこう反対した。
劉備はこの意見に賛成して従った[18]。この趙雲の諫言は、三国時代の人物の言動などを収集した『全三国文』に採用されている[19]。
定軍山の戦い
[編集]益州北部の漢中を巡って曹操と劉備の間で戦いが起きる。建安24年(219年)定軍山の戦いにて、曹操軍の兵糧を奪うため、黄忠は趙雲の兵を借り出陣したが約束の時間を過ぎても戻ってこなかった。趙雲は少数の兵を率いて軽装で偵察へ向かったところ曹操の大軍と出くわしたが、見事な撤退戦で無事に自陣へ戻った。この際、敵陣に取り残された張著を救出するため、取って返している[20]。
しかし曹軍は再び盛り返し、趙雲らの陣まで追撃してきた。陣には沔陽長の張翼がおり、張翼は門を閉じ拒守しようとしたが、趙雲は陣に入ると門を開かせ、旗を伏せて戦鼓を止めさせた。曹軍は趙雲に伏兵があると疑い引きあげたところを、趙雲は雷のように戦鼓を天を震わせるほどたたき、後から弩で曹軍を射た。曹軍は驚き、混乱の中互いに蹂躙し漢水の中に落ち大勢が死んだ[21][注 6]。劉備は翌日の朝、趙雲の陣に自ら視察に向かい、
「子龍の一身はすべてこれ肝である(子龍一身都是膽也、子龍は度胸の塊の意)」
と称賛した。楽を演奏し、宴会は夕方にまで至ったという。軍中は趙雲を号して虎威将軍とよんだ[23]。このエピソードは『資治通鑑』にも載っている。後に空城計と呼ばれる心理戦で、『三国志演義』では諸葛亮が空城計を用いて司馬懿ら魏軍を退けるエピソードがあるが、趙雲のこのエピソードがモデルとなっている。『太平広記』にも採用されている[24]。
対呉戦争
[編集]漢中を手に入れた劉備は漢中王を称する。この直後、関羽は荊州から魏に侵攻するも、曹操と同盟を結んだ孫権の裏切りによって荊州を奪われる。退路を失った関羽らは捕らえられて孫権に処刑された。建安25年(220年)には、死んだ曹操の子曹丕が献帝に禅譲を迫って皇帝に即位し、後漢は滅びた。これを機に劉備は蜀漢の皇帝を称し、ここに魏・呉・蜀の三国鼎立となる。
章武元年(221年)、多くの臣下に諫められるも、劉備は呉に殺された関羽の仇を討とうとした。趙雲はこう諫言した。
「国賊は曹魏であり、孫権ではありません。魏を撃つことが先であり、魏が滅べば呉はおのずと降伏するでしょう。
曹操は死にましたが、子の曹丕は漢室を簒いました。このときをはずさず、これを良しとしない民心に寄り添い、早く関中を経略し、黄河・渭水の上流を確保して凶逆を討伐するならば、関東の義士は必ず兵糧を持ち、馬に鞭あて王師を歓迎するでしょう。
魏をおいて先に呉と戦ってはなりません。一旦戦端を開けば、それは終結させがたいものではありませんか」[注 7]
しかし劉備には聴き容れられず、趙雲は江州督として留まることになった。夷陵の戦いで劉備が大敗すると、趙雲は永安まで兵を進め劉備を救援した[26]。
劉禅の即位
[編集]その後、病を発し病床に臥せた劉備は、章武3年(223年)4月に白帝城にて崩御した。同年5月、元号を建興に改め、子の劉禅が即位すると中護軍・征南将軍(四征将軍)へ昇進[注 8]し、永昌亭侯に封じられた。後、鎮東将軍に昇進した。
第一次北伐
[編集]建興5年(227年)、諸葛亮と共に曹魏への侵攻(北伐)に備えて漢中に駐留した。建興6年(228年)、諸葛亮が斜谷街道を通ると宣伝すると、魏の曹叡は曹真を郿に派遣し、曹真は箕谷に大軍を派遣してこれに当たらせた。趙雲と鄧芝に別動隊を率いて囮としてその相手をさせ、その間に諸葛亮は本隊を率いて祁山を攻撃した。この蜀軍の侵攻に動揺した南安・天水・安定の三郡が寝返った。その後、箕谷では曹真の兵は強く、趙雲と鄧芝の兵は弱小だった[注 9]ので敗北したが、兵をよく取りまとめて固守したので大敗にはいたらなかったが、街亭では馬謖が張郃に撃破され大敗し、蜀軍は敗戦。手に入れた三郡を手放し、全面撤退となった。軍が撤退すると諸葛亮は「街亭では命令に背かれる誤ちを犯し、箕谷では不謹慎のための失策を犯し、その責任は任命した私にあります」と上奏し、諸葛亮は自身の位階を三階級下げ右将軍に降格、趙雲は鎮軍将軍に降格された[注 10]。一方で、『華陽国志』では位階ではなく「禄を貶した」との記録がある[32]。『水経注』によると、この撤退戦の際、赤崖より北の百余里に渡る架け橋を焼き落すことで、魏軍の追撃を断ち切っており、その後しばらくは鄧芝と共に赤崖の守りにつき、屯田を行っている[33]。
この退却時、趙雲が自ら殿(しんがり)を務め、兵を巧みに取りまとめたので軍需物資を殆ど捨てずに済んだ。諸葛亮は、副将の鄧芝に「街亭の戦いでは、わが軍が撤退するとき将兵はばらばらになったが、箕谷の戦いでは撤退するときでも纏まることができた。これはどういうわけか?」と尋ねた。鄧芝は「それは趙雲将軍自らが殿となり、軍需品や器物をほとんど捨てずにすみ、わが部隊は纏まりを失わず済んだのです」と答えた[34]。諸葛亮は恩賞として、趙雲が持ち帰った軍需品の絹を将兵に分配しようとした。しかし趙雲は以下の進言をして、敗戦の責任を明らかにした。
「敗軍の将に恩賞があってはなりません。どうかそのまま赤岸(赤崖)の倉庫におさめ、10月になるのを待ち、冬の下賜とされますようお頼みします」
この進言に諸葛亮は大いに喜んだ[35]。
最期
[編集]死後
[編集]32年後の景耀4年(261年)3月、趙雲は順平侯の諡を追贈された。法正・諸葛亮・蔣琬・費禕・陳祗・夏侯覇は死後すぐに、関羽・張飛・馬超・龐統・黄忠は景耀3年秋に追贈されており、趙雲は12人目である。時の論はこれを栄誉とした。諡を追贈される前、劉禅は詔勅で「趙雲はかつて先帝に従い、その功績はすでに顕かである。朕は幼いときに困難に直面しながらも、彼の忠誠と従順を頼りに危険から身を救うことができた。諡号とは、大きな功績を記す英雄を指す。世間では趙雲に諡号を贈るのは当然のことだと取り沙汰している」と述べた[36]。大将軍の姜維たちは会議を行い、以下を上奏した[37]。
「趙雲はむかし先帝に従い、その労苦・功績はすでに顕かであります。天下を巡り働き、法律を遵守し、功績は記録すべきものがございます。陛下をお救いした当陽の役では、義は金石を貫き、忠は至上を守るに十分なものでした。君主がそれを賞することを思い、礼により下に厚くすれば、臣下はその死を忘れます。死者であり知覚があれば、それは不朽とするに足ります。生者であり恩に感じいれば、それは身を投げ出すに足るものです。
謹んで諡法を調べますに、柔順・賢明・慈愛・恵愛にあふれることを『順』といい、仕事を行う際に秩序のあることを『平』といい、災禍や反乱を打ち勝ち平らげることを『平』といいます。趙雲に諡して順平侯というべきです」
逝去時期の違い
[編集]正史では「建興7年(229年)卒」となっているが、諸葛亮が建興6年(228年)11月に上奏したとされている『後出師表』では、「漢中に至ってより一年、趙雲・陽羣・馬玉・閻芝…(略)…を失った」[38]とあり、228年11月以前に趙雲が亡くなっていることになっている。そのため『後出師表』について真作か偽作かの結論が出ていない。
墓地
[編集]正史には趙雲がどこに葬られたのか記録はないが、以下に趙雲墓とされている墓が3か所ある。
- 大邑趙雲墓:趙雲の墓としてもっとも有力視されている墓。錦屏山(銀屏山とも)の南麓に位置する[39][40]。趙雲が晩年、この地に駐屯、または領地とし、土城や羌族を監視する台(望羌台)を築き、羌族の侵入を防いだとされる[41][42]。墓の前に建てられた子龍廟は明末の戦争で破壊された。1665年、大邑知県の李徳耀が趙雲墓のために祠堂と碑を建て[43]、その後も何度かの改修、拡張工事が行われて1930年には大邑県長・解汝襄が県民と一緒に子龍廟を拡張し、前殿、本殿、拝殿などからなる壮観な建造物になった。その後は社会混乱や四川地震で深刻な被害を受けたが、現在政府により修復作業が進められており、2025年下半期に一般公開が予定されている[44]。
- 南陽趙雲墓:南陽市南三十里に存在した墓。もっとも古い記録で明の天順5年(1461年)『大明一統志』に記述がある[45]。盗掘に遭い、現在は碑文の拓本が残っている。以下は墓にまつわる伝説[46]である。
清の順治帝は自身を劉備の生まれ変わりだと名乗り、二弟の関羽が夢に現れ、「三弟の張飛は遼陽に、四弟の趙雲は南陽にいると告げた」と大臣たちに言い、三種の神勅を発した。第一は全国の関帝廟を大改修すること、第二は遼陽で張飛の生まれ変わりを探すこと、第三は南陽で趙雲の生まれ変わりを探すことであった。南陽の知県は3か月間、趙雲らしき人物を探したが見つけられなかった。この時、偶然にも南陽市の南三十里の村で、誤って人に怪我を負わせてしまった罪で役所に送られた趙走軍(あだ名:趙大個)という農民がいた。 知県は趙大個の濃い眉、大きな目、長身で整った容姿を見て趙雲に違いないと思い、趙大個の名前を聴いた知県は「”走”に”軍”を足すと、”運(运)”(うん)=”雲(云)”(うん)ではないか? 彼は間違いなく趙雲の生まれ変わりだ!」 と喜んだ。知県は縛られていた趙走軍を解き、服を着替えさせ、食事をするように命じ、明日都へ向かうことを告げた。事情を知らない趙走軍は、都に行くということは傷害の罪で処刑されるのだと思い、恐ろしくなった彼はその夜、首を吊った。
趙走軍が自害したと聞いて、知県は急いで都に戻って皇帝に謝罪した。 順治帝は一部始終を知ると、彼を責めることなく、ただただ四弟に永遠に会えなくなったことに激しく涙を流し、趙走軍を王侯として手厚く南陽に葬り、子龍祠を建てて永遠に偲ぶようにとの詔を発し、これが南陽の趙雲墓になった。
- 臨城趙雲墓:2005年5月19日、臨城県麒麟崗から光緒・戊戌(24年(1898年))の『漢順平侯趙雲故里』の碑が発見され、2009年に河北省政府によって無形文化遺産リストに含まれた[47]。 この臨城県の動きは正定県との趙雲の故郷をめぐる論争を引き起こし、学界でも議論を巻き起こした[48][49]。地元の伝説によれば、臨城県には3つの趙雲故里の碑があったとされている[50]。臨城の趙雲墓については、1982年に臨城県文化管理局が行った文化財調査の際に臨城県澄底村の西1.3キロで発見された[51]が、大邑趙雲墓や南陽趙雲墓が、明代に遡る『大明一統志』や現地の年代記に記録されているのに対し、臨城趙雲墓は年代記や歴史書には見つかっていないため、研究者は趙雲の墓である可能性は低いとみている。 民間伝承によると、趙姓の人々がこの墓前で千年以上にわたって春と秋に祭祀を行ったというが、墓石や記念碑はなく、墓の近くに廟も建っていない。 以下はその理由[52]とされている。
家族
[編集]- 兄:名は不詳。『趙雲別伝』に記載。趙雲が公孫瓚の配下時代に亡くなっている。『三国志演義』には登場しない。
- 趙統:長子。趙雲の死後、後を継いだ蜀漢の武将。『三国志演義』では弟と共に趙雲の墓守を命じられる。
- 趙広:次子。蜀漢の武将。沓中での戦いにて戦死。『三国志演義』では兄と共に趙雲の墓守を命じられる。
- 関樾:趙雲の娘(趙氏)と、関羽の長男である関平との間に生まれたとされる人物。
- 正史では妻の名は不詳だが、民間伝承や『演義』関連作品では様々な妻が登場する。(詳細は#演義関連作品、#民間伝承・伝統芸術参照)。
官職の変化
[編集]正史(別伝含む)での官職の変化 | |||||
元号年 | 西暦 | 役職・官職 | 注釈 | 他の就任者 | 出典 |
初平3年-?年 | 192年-? | 主騎 | [注 4] | 不明 | |
建安13年-18年? | 208年-213年? | 牙門将軍 | 魏延 | [53] | |
〃 | 〃 | 偏将軍 | 関羽 | [54] | |
建安13年-?年 | 208年-? | 桂陽太守 | 趙範 | [55] | |
〃 | 〃 | 留営司馬 | なし | ||
建安18年-章武3年 | 213年-223年 | 翊軍将軍 | [注 5] | 霍弋 | [56] |
章武元年-建興元年 | 221年-223年 | 江州督 | 李福 | [57] | |
建興元年-7年 | 223年-229年 | 中護軍 | [注 8] | 費禕 | [58] |
建興元年-?年 | 223年-? | 征南将軍 | [注 12] | 劉巴、姜維 | [59] |
建興?年-6年 | ?-228年 | 鎮東将軍 | 劉備、劉琰 | [60] | |
建興6年-7年 | 228年-229年 | 鎮軍将軍 | 許靖、陳祗 | [61] |
趙雲別伝について
[編集]「別伝」についての解説
[編集]「別伝」とは、主に後漢時代から東晋時代までにおける、単独の人物に関する伝記である。その多くは名士を中心とした知識人層の名声を高める目的を持っていたが、中にはあまり重要視されなかった人物に焦点を当てるためや[62]、あるいは晋代以降に世家の子弟が多く就任していた秘書郎や佐著作郎の課題として書かれた[63]。後漢時代から続く人物評の流行のみならず、魏晋時代における名士層の気風の発達に伴い盛んに製作された別伝は、対象の人物に関する雑多な内容が盛り込まれており、「正統」である史書とは異なる視点や性質を有するほか[64][65][66]、表現に小説的技法が見られるのが特徴である[67]。裴媛媛によれば、別伝の作者名が往々にして無記載である理由としては、単なる佚名によるもの以外では、別伝が成立する初期段階では書面ではない逸聞の寄せ集めに過ぎなかったために、それを引用する後世の歴史家たちが便宜的に「別伝」という通称を用いたこと、またそれらの逸話が単独の人物ではなく複数人から伝わったことも挙げられる[68]。だが時には、『孫資別伝』に対して裴松之が指摘しているように[69]、家伝由来の伝記であるために該当する人物の失点を隠して記されたものも存在した[70]。また顔師古が『東方朔別伝』について「みな実際の出来事ではない」と難じたように、怪奇現象などの確証に欠ける逸話が載せられることもあった[71]。とはいえ、全ての別伝がそれらと同様に信憑性が低いとは限らず、依然として別伝の史料的価値は高いといえる[72][73]。
史書は後漢時代まで国家が編纂するものであった(ただし、国家が編纂することにより偏向が生まれることもある)。裴松之が『三国志』に注をつけて引用した数々の書物を批判し、史実を確定しようとしたのは、不確実な内容を記す史書が増えたためであった[74]。『趙雲別伝』には趙雲が活躍する記述が多いのに対し、陳寿による本伝の記述は簡素[注 13]であることから、その信憑性を疑う声も少数ある。しかし、引用した作品を厳しく批判したり矛盾を指摘する裴松之が、『趙雲別伝』には一切疑問を呈しておらず、また三国志研究者の論文や著作物でも、史書を補う資料として扱うのが通例である。
採用者および肯定派の見解
[編集]- 裴松之:『三国志』の注釈として引用し、内容について批判・指摘をしていない。
- 司馬光:『資治通鑑』を編纂するにあたって、『趙雲別伝』の記述を採用している。
- 渡邉義浩:「裴松之は、『趙雲別伝』については、内容的な誤りなどを指摘することはない。裴松之は、『三国志』を補うことができる史料と認定していたと考えてよい」と述べている[75]。
- 矢野主税:対象の人物の功績を残すのみならず、その人物周辺の政治的動向が反映されていることから、別伝は「一般史書の欠を補う貴重な史料」だと論じ、その一例として、『趙雲別伝』内に「蜀の後主が〔趙〕雲の死後賜った詔をのせているが如きにも見られる」ことを挙げている[76]。また、家伝に依拠した可能性も踏まえつつ、「当時、世上に流布していた人物評を基として書かれた」という作品的性質から、別伝とは「ある個人の作というよりも、当時の社会の作というべきもの(中略)換言すれば、門閥社会の、その人物に対する評価」ではないかとも述べている[77]。
否定派の見解
[編集]- 何焯:趙雲が劉備に仕えた時期が本伝と異なることを指摘し、また第一次北伐で降格された趙雲が褒賞を受けたことには「諸葛亮は賞罰が厳粛であるのに、趙雲を降格する一方で、どうして妄りに報奨を与えられるものだろうか。そうでないことは明らかだ。別伝の類はみな子孫が美辞で飾り立てたものであるため、承祚(陳寿)は採用しなかったのだ」と述べており、『趙雲別伝』の記述を批判する傾向にある[78]。劉備の呉討伐に対する諫言については、国家経営は諸葛亮の担当であり、彼が諫めるのは当を得ているが、趙雲のような武臣が口を挟むのは分不相応である[注 14]として、「〔趙雲の〕家伝は〔他人の〕美談を奪い取っているのだ」と主張する。また劉備の大敗を受けて諸葛亮が想起したのが法正だったことに触れながら「雑号将軍〔である趙雲〕の及ぶところではない」とし、さらには、『趙雲別伝』は諸葛瑾の書状や孫権が帝位を称した際の諸葛亮の言葉を模倣したのだろうとも述べている[81]。
その他
[編集]人物
[編集]正史『三国志』趙雲伝は約400字ほどの簡素な記述しかなく、蜀の記録の抜けもあり、趙雲の事跡や人物についての推測は正史のみでは難しいところがあったが、裴松之注『趙雲別伝』には、趙雲について正史のおよそ3倍の量の記述が残されており、正史では分かりづらかった趙雲の事跡(公孫瓚から劉備の配下へと変わった経緯など)や人柄について詳細が描かれており、そこから以下の推論がされている。(別伝については前述の#趙雲別伝についてを参照)
- 出自:南越王の趙佗は趙雲と同じく常山国真定県の出身者であり、趙雲と同姓でもある。前漢時代、趙国の国相・陳キが反乱を起こし、高祖・劉邦がこれを鎮圧した後に東垣県を「真定県」と改名すると、南越を支配していた趙佗はすぐに劉邦に服従した。 劉邦の死後、漢の文帝と趙佗は和睦を続け、「趙佗の親族の墓のために真定に守邑(警備や世話をする人々が住む集落)[83]を設け、毎年祭祀を行った」と『漢書』に残されている[84]。
これらの事実から、趙春陽は真定に趙家の郡望(郡中の名望の族)[85]があったことを指摘し、趙雲もこの真定の郡望の出であろうと論じている[注 15]。その論拠として、『別伝』に記述されている趙雲の会話内容から語彙の多さと明確な論理が見られることから、幼少期に優れた文化教育を受けていた[注 16]と考え、また、劉備の主騎(騎兵隊長)を担当することになったのも、後漢末時代の貴族の子供たちは家族と国を守る義務があるため、幼少期から厳しい乗馬や射撃の訓練を受けていた[注 17]ので、趙雲も彼ら同様に幼少期から訓練を受け、馬術に優れていたからであろうと述べている[91]。
ただし、趙佗と趙雲の関係について記された史書は見つかっていない点に注意が必要である。
- 字:字(あざな)は成人時に実名以外につけた名で、本名(諱)と関係があり、曹操の「孟徳」は荀子の言葉から、周瑜の「公瑾」は『楚辞』の「九章·懐沙」からなど、古典から取られることが多い。趙雲の字は「子龍」で、「子」は男子の尊称、「龍」は『易経(周易)』の「乾」"雲は龍に従い、風は虎に従う"[92]から取られたと考えられ、「相似た性質を持つ者同士は互いに求め合う。立派な君主のもとには優れた臣下が現れることのたとえ」[93]といった意味がある。
また、「龍」から干支の辰年生まれと推測も出来るが、陸遜の孫の陸雲の字は「士龍」だが、生まれは262年の午年、陸雲公・字「子龍」は511年の卯年生まれで、このように名前と干支の間に必然的な関係はない[94]。
評価
[編集]歴史的評価
[編集]後世、中国では趙雲を、目上に対して臆せず諫言する勇敢さに加え、文官的な知性、大臣の気質を持つ儒将として高く評価した。清代に作られた成都武侯祠の趙雲の塑像が、文官の服を着せられているのはこのためである。清代は『三国志演義』の流行により、更に高まった趙雲の人気もあり、蜀漢の武将としては、武将廊に筆頭の位置に置かれている。
康熙61年(1722年)には歴代帝王廟に趙雲が従祀名臣の列に加わっている[注 18]。小林瑞恵は、趙雲が従祀名臣に列したことについて、趙雲を不忠者と評しなかった『三国志演義』の版本の流行による影響の可能性を指摘している[96][注 19]。
個人の評価
[編集]- 劉備:「子龍の一身はすべてこれ肝である」[97]
- 陳寿:「①黄忠・趙雲は共に彊摯壮猛、揃って軍の爪牙となった。灌嬰・滕公の輩であろうか?」[注 20]
「②陳到は名声・官位ともに常に趙雲の次にあり、どちらも忠節勇武な人物として称えられた」[99] - 楊戯:「征南(趙雲)は厚重、征西(陳到)は忠克、共に選り抜きの兵を指揮し、勲功をあげた猛将であった」[100]
- 朱黼:「(対呉戦争の諫言について)それは深く明確であると言える。 天下の全体を知っている」[101]
- 盧弼:「絶世の美女の樊氏を子龍が受け入れなかったのは、関羽が秦宜禄の妻との結婚を懇願したのに対して賢明な行いだ」[102]
- 郝経:「趙雲は忠誠を尽くし、君主への愛情深く、外敵から国を守った。その志は初めから終わりまで変わることがなく、漢の忠義の士であった。功績と志は曹樊の輩のようである。趙雲は特に博識で先見の明がある。勇ましいが注意深い。たびたび忠言を献じ、その度に時勢を的中させた」[103]
- 薛登:「武芸に関しては、趙雲は勇気があるが、諸葛亮の指揮を必要とした。周勃は偉大な人物だが、彼には陳平の策略はない。もし樊噲が蕭何の役目を担ったならば、必ず状況を見極めて適切な指示を出すという機会を逃してしまっただろう。逆に、蕭何が前線に赴いたとしても、君主を危機から救うような効果はなかったであろう。武勇に優れた武将は敵の攻撃を打ち砕くことに長け、謀略に優れた武将は事態を的確に予測することに長けている」[104]
- 楊時偉:「子龍の心は金石を貫き、その義理堅さは関張に劣らない」[105]
- 范光宙:「趙雲の一部始終の見解は大臣の器量であり、ただの名将ではない」[106]
- 黄彭年:「趙雲は数十騎で敵に遭遇し、門を開けて旗を伏せ戦鼓を止め、勇気を示した」[107]
- 李景星:「関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲はいずれも蜀の名将である。故に合伝されている」[108]
- 趙作羹:「(益州農地分配の諫言について)趙雲の提案を見るに、これは統治の基礎と言える」[109]
- 林暢園:「孫夫人の横暴は趙雲と法正によって制御できた。このように賢者は国にとって非常に有益である」[110]
- 李光地:「趙雲と張嶷は偉大な将軍であるだけではなく、明決で思慮深く、成熟した人物であり、古の重臣に選ばれるだろう」[111]
- 陳允錫:「(東征に対する趙雲の諫言について)これは素晴らしい戦略だ。劉備はそれに従わず敗れた。天は漢に味方しなかった」[112]
- 計大受:「(東征に対する趙雲の諫言について)この時点で彼は諸葛亮の大節に値する人物だ。そこには古代の大臣たちの遺風がある」[113]
- 梅公毅:「将軍になるためには、大胆にして細心であること。大胆であれば勇気があり、細心であれば賢明なので敵を倒すことができ、たとえ不利な状況であっても完全に敗北することはない。三国時代の将軍の中でこれができるのは、魏の張遼と漢の趙雲だけだ」[114]
- 易中天:「建安二十四年、劉備は漢中王を称し、四将を封じた。前将軍関羽、右将軍張飛、左将軍馬超、後将軍黄忠。趙雲はいない。 歴史上、五虎大将軍はなく、四虎大将軍だけで趙雲はいつも雑号将軍だった。 趙雲はとても悔しいですね。それは間違いなく悔しいことですね」[115]
- 李澄宇:「長坂の戦いで趙雲が後主を抱いて保護し、甘夫人もみな難を逃れた。孫夫人が呉に戻ると、趙雲と張飛は河を遮って後主を奪回した。この二つの出来事は今でも私たちの心に鮮明に残っている。彼の逝去後、関羽・張飛・馬超・龐統・黄忠と同じく美諡を与えたのは良い考えだ」[116]
- 陳淡野:「人もまた器であり、各々にはそれぞれの器量がある。 天地のごとき器量は聖人や皇帝がそれに倣うのと同じである。 山・川・海の器量は貴人の定めである。 古夷齊には他人を許容する器量あり、孟夫子には剛健の器量あり、范文正には世を救う徳の器量あり、郭子儀には福の器量あり、諸葛亮には智の器量あり、歐陽永には才の器量あり、呂蒙正には寛容の器量あり、趙子龍には勇の器量あり、李德裕には力の器量あり。これらはすべて偉大な器である」[117]
- 王復禮:「①順平(趙雲)はまさに儒将であった。自己を律するは厳しく、人との接し方は慎重であった。道理を見る目は明晰で、私心を捨てる力は強かった。当陽で後主を救い、奮って身を顧みず、漢水で功績を立て、その威勢は虎のようであった。ことわざにあるように、「胆欲大而心欲小。志欲圓而行欲方。(胆は大きく、心は小さくあれ。志は円く、行いは方正であれ。)」。まさに順平のことである」[118]
「②当陽の戦いと孫夫人の帰郷。趙雲が弱ければ後主を助けられない。したがって功績や才能に関係なく、彼は三国の全ての人々よりも優れている」[119] - 王夫之:「猇亭で敗れ、先主(劉備)が亡くなり、国の精鋭は夷陵で尽きた。趙雲のように公(諸葛亮)の志に共感する老将もいなくなった。公は疲弊した残りの民を率い、愚かな君主を支えながら北伐を志したが、為す術がなかった。そのため公はこう言った。「鞠躬尽瘁,死而後已。唯忘身以遂志,而成敗固不能自必也。(深く謹み、全身全霊で事業にあたり、最後まで力を尽くして志を遂げるのみで、成否は必ずしも自分で決めることはできない。)」。もし先主が、関羽を信頼したように公を信頼し、趙雲の言葉を聞き入れて東征をやめ、曹丕が天下を簒奪したばかりで人心も定まっていないときに、孫権と手を結んで中原を問いただしていたならば、国力もまだ十分で、士気もまだ盛んだった。漢の運が衰えていたとしても、なぜ英雄の血が許昌と洛陽に流されず猇亭にのみ流される必要があったのか?」[120]
- 李紀:「昭烈(劉備)は趙雲を使って漢中を奪い、関羽を遣わし樊城を攻めた」[121]
- 呉雲:「天性の勇毅、将軍として自分の命を危険にさらし兵の為に戦う。これは趙順平(雲)、常開平(遇春)の遺風だ」[122]
- 陳造:「趙子龍が魏軍を退けた時、劉備は彼を勇敢な男だと言った。いわゆる死から生へ、敗北を成功へと変えたのだ」[123]
- 張溥:「(対呉戦争の諫言について)(趙雲は)大義を理解し政策を決定するという点で魯粛と同じだったが、劉備は彼の言うことを聴かなかった」[124]
- 蕭常:「趙雲は勇猛の臣でありながら、田畑や家屋を返還して民心を大切にしたり、軍資を冬の下賜にしたり、呉を赦免して魏を重視したり、国家に対する明確な理論を築き上げたが、これは諸葛亮でも考えに至らないことだ。同姓を理由に趙範の兄嫁を受け入れないなど、己への厳しさは当時の武将の中でも随一ではないか?」[125]
- 李榘:「蜀の猛将といえば、世の中では必ず関羽と張飛を最初に挙げるだろう。彼らの勇猛果敢な気概と、忠義を貫く節操は、古今を通じて傑出した人物と言える。しかし、彼らが欠けていたのは智謀であり、それが原因で敗れてしまった。私が思うに、趙雲は武将として、一万の敵にも恐れられる勇気を心に宿し、その胆力は君主に称賛され、関羽や張飛にも引けを取らない。さらに、賞の辞退や呉への出征を諫めるなど、謙虚で深く考え、時勢を見極める能力は、関羽や張飛には及ばない。まさに真の良将である。劉備、諸葛亮、関羽、張飛、そして趙雲は力を合わせて蜀の復興を目指した。しかし、関羽と張飛が亡くなり、その後劉備も世を去り、趙雲が亡くなり、諸葛亮もまもなく世を去る。蜀には君臣ともに優れた人物がいなくなり、滅亡を免れることはできなかった」[126]
- 易佩紳:「趙雲は武臣であったが、儒臣としての性格も併せ持っていた」[127]
- 鄭元佑:「趙雲が蜀で民を安んじたように、無限の需要を限られた家で共有するのは得策ではない」[128]
- 魏裔介:「順平(趙雲)の言葉を用いて孫権を捨て、関中を奪えば長安と涼州が呼応し、漢王朝は興隆したであろう」[129]
- 厳如熤:「褒斜道の桟道、桟閣は趙雲と王平が忠実で慎重な将軍としてそれらを担当した。その意図が内在している」[130]
- 沈国元:「趙雲の田宅の辞去と魏滅亡の請願は、すべて古代の大臣の識見を持っている。名将として律することを望む」[131]
- 王士騏:「明るい洞察力は過剰な褒賞への戒めになる。趙雲を見ていると、彼は単なる名将ではなく大臣の器量である」[132]
- 宋徵璧:「張遼と趙雲は敵の要塞に出入りし、英雄的な精神と猛々しさで敵を抑止、危害を阻止した。これは将軍のやり方ではない」[133]
- 牛運震:「趙雲別伝には、劉備との係わり、田宅贈与の辞退、東征に関する助言などの経緯が記されているが、いずれも全体的な情勢把握という点で注目に値する」[134]
- 朱可亭:「①趙雲と関張、そして馬超・黄忠は五虎将と呼ばれた。陳寿はその強摯壮猛によって灌嬰・滕公と比較した」[135]
「②孫臏は竈の数を減らし、虞詡は竈の数を増やした。趙奢は陣を増やし、趙雲は陣を開いた。虚実を強弱の形にすることで軍事情勢は常に変化する」[136] - 大唐平百済国碑銘:『趙雲は一身全て胆、勇敢三軍。関羽は万人の敵、名声は百代に渡る』[137]
- 同治桂陽直隷州記:『順平(趙雲)は勇猛の臣、土地を平定し、城塞を守備した。婚姻を拒み田宅を辞退、果断な志は一層勇気で奮い立つ』[138]
- 愛新覚羅·弘暦(乾隆帝):「趙雲が言ったように渭水の上流から逆賊を討てば、漢王朝は何一つ失敗しなかったかもしれない」[139]
三国志演義における趙雲
[編集]『三国志演義』とは、『三国志』や元雑劇、『三国志平話』などを基にして、中国の明代に書かれた長編白話小説。著者は羅貫中の手によるものと伝えられている。趙雲に関しては、正史『三国志』趙雲伝および裴松之が注釈に引く『趙雲別伝』のエピソードからそのまま採用、または引用されており、キャラクター造形もこの『別伝』を元とし、そこに武力面が更に強調され、「知勇兼備の槍の使い手」として活躍する。初登場時はまだ少年で、「身長八尺、濃い眉に大きな眼、広い顔に重なった顎、容貌は立派で、威風があり凛々しい姿」[140]となっている。「義に厚くプライドの高い関羽」「乱暴者の張飛」と比べ、「冷静沈着な趙雲」は、諸葛亮から与えられる任務を素直に着実にこなすので、劉備、諸葛亮の双方から信頼され、物語中の重要な任務では特に重用されている。関羽・張飛・馬超・黄忠と並んで五虎大将軍(五虎上将・五虎将とも)の一人となっている。
『演義』を元にした後世の創作作品では、清代の京劇で確立した『白袍を着た若い美形の儒将』のイメージが多大な影響を与え、張国良長編平話『三国』などの小説・説話内での描写や、TVドラマ『三国志演義』『三国志 Three Kingdoms』の趙雲像にも見られる。元の『演義』では英雄的な男性らしさを強調した偉丈夫の設定だったのが、時代推移によって美的概念が変わっていき、これら趙雲のイメージ像は現代まで連綿と続いている。(詳細は#演義関連作品を参照)
主なあらすじ
[編集]為求仁君
[編集]正史とは違い、少年・趙雲は最初袁紹に仕えていたが、国や民を救済する心がない人物だと判り、公孫瓚の元へ向かう。公孫瓚が袁紹配下の文醜に襲われていたところに遭遇し、公孫瓚を助けるため文醜と五、六十合渡り合ったが決着はつかず、文醜は退却した。公孫瓚は趙雲の元に駆け寄り感謝し、臣下に迎えた。
界橋の戦いにて袁紹軍の追撃に遭ったところ、劉備・関羽・張飛たちが加勢にやってきた。公孫瓚は劉備に礼を言い、趙雲を引き合わせた。この時、劉備と趙雲はお互い惹かれあい離れがたく思った。別れの日、二人は互いの手をとり、涙を流しながらいつか再会できるようにと挨拶を交わす。その後、公孫瓚は袁紹に敗れ、趙雲は袁紹からしきりに臣下になるよう招かれるが、固辞して各地を放浪の末、ついに再会した劉備と趙雲は大いに喜ぶ。こうして趙雲は正式に劉備軍の配下となった。
単騎救主
[編集]曹操の大軍に攻め寄せられた劉備軍は慕う民衆と共に逃げ出すが、長坂坡で追いつかれ趙雲は劉備の妻子を見失ってしまう。戦場を駆け回ると敵将の夏侯恩に遭遇する。これを討ち取り、夏侯恩が曹操から預かっていた宝剣『青釭剣(せいこうけん)』[注 21]を手に入れた。さらに戦場深く入ると阿斗(劉禅)と糜夫人を発見する。糜夫人は足手まといになることを恐れ趙雲に阿斗を託し、井戸に身投げしてしまう[注 19]。曹操軍に糜夫人の亡骸を盗まれないよう土塀を崩して井戸を覆い、阿斗を懐に抱えて曹操の大軍の中を単騎で駆け抜けた。
曹操はひとりの将が戦場を駆け巡る姿を眺め、あれは誰かと側近に聴いた。曹洪が大声で問うと、趙雲は「我こそは常山の趙子龍だ!」と答えた。曹操は趙雲を手に入れたくなり、「矢を射てはならぬ、生け捕りにせよ!」と命じた。これが幸いして、趙雲はこの難から逃れることができた。
それでもまだ追ってくる敵将を次々に青釭剣で討ち取り、無事に劉備の元へ戻ることができた。劉備の前にひざまずいて、趙雲は泣きながら糜夫人の死を告げ阿斗を差し出す。劉備は阿斗を受け取ると地に放り投げ、「おまえのような子供のために大事な将軍を失うところであった!」と言った。趙雲は劉備の言葉に感激し、「肝脳地にまみれさせても、このご恩に報いることはできません」と涙した。
計取桂陽
[編集]劉備は荊州南部の攻略へ動き出す。趙雲は桂陽攻略を志願するが、張飛も名乗りを上げたので喧嘩になる。くじ引きの結果、趙雲が出撃する。降伏を考えた桂陽太守の趙範は、臣下の陳応が反対したので趙雲にあたらせるが、あっさり撃退されてしまう。趙範は降伏を願いでた。
趙範は趙雲と同姓で真定出身、同年生まれで趙雲の方が4か月生まれが早かったので、趙雲を兄として二人は義兄弟のちぎりを結ぶ。趙範は一人の美しい女性を呼び入れ、趙雲がこの女性は誰なのかと問うと、趙範の亡くなった兄嫁の樊氏と言う。樊氏は再婚するには名声を轟かせ、文武両道で容貌が優れ、亡き夫と同じ姓を望んでいるといい、趙範は趙雲に娶るよう勧めたが、趙雲は「おまえの兄嫁ならわたしの兄嫁でもある。何故道理に背くことができるか!」と大いに怒り、趙範を殴り倒して城を出て行った。
趙範は臣下の陳応と鮑隆を呼びつけ、偽りの投降をして隙をついて趙雲を捕らえるよう命じた。しかし趙雲に見抜かれ斬り捨てられ、趙範は城から逃げ出すが捕縛された。桂陽の陥落を知った劉備たちは、趙範がやったことは好意からで、敵意がなかったことを知ると樊氏を娶るよう趙雲に薦めるも、劉備の名声が落ちることを理由にこれを固辞したので劉備は感嘆した。そして趙範を解放してそのまま桂陽太守にし、趙雲を賞した。
甘露寺
[編集]劉備は孫権の妹(孫夫人・孫尚香)との縁談を孫権から薦められて、この申し出を受けることにした。趙雲は呉に向かう劉備の護衛として同行することになった。諸葛亮から三つの錦袋(錦嚢の計)を授かり、困ったときに順番に開けるように命じられる。この婚姻話は周瑜・孫権による、劉備を暗殺するための罠であったが、三つの錦袋の中の指示に従って、数々の困難から趙雲は劉備を守りぬき、呉国太にもふたりの婚姻を認められ、無事に劉備と孫夫人は夫婦となって荊州へ戻ることができた。
截江救主
[編集]孫権は劉備が益州に入ったと知ると、呉国太が危篤であると偽りの書状を孫夫人に届けて江東に連れ戻そうとした。同時に阿斗も連れ出して荊州と交換させようと考えていた。趙雲は孫夫人とともに阿斗がいないことに気付き、慌てて孫夫人の船を追いかけた。呉兵から抵抗され孫夫人に罵られるも、隙をついて趙雲は阿斗を奪い返した。見回りから帰ってきた張飛も慌てて駆けつけて、呉の船に飛び乗って阿斗だけは返してもらって孫夫人は見逃すことにした。こうして無事に阿斗を連れ戻すことに成功した。
虎威将軍
[編集]諸葛亮は曹操軍の輜重を奪うため黄忠と趙雲を派遣する。くじを引いて黄忠が先鋒、趙雲が陣営の守りについた。約束の時刻になっても黄忠が戻ってこないので探索に向かうと、黄忠たちが張郃と徐晃に囲まれていたので救出した。曹操は諸将にあの将は何者かを問い、趙雲だと知ると「長坂の英雄は健在だったか。あの者を軽んじるな!」と伝令を出す。
曹操軍が本陣に迫ってくると、趙雲は張翼に門を開けたままにさせ、弓弩兵を陣営外の壕に伏せ、陣営内の旗を倒してひとり槍を手に門外に出た。張郃たちは開かれた門の前にただ一人、馬に乗った趙雲が陣営の外に構えて立っているという異様なありさまに警戒した。そこへ曹操自らやってきて前進するよう促し、兵が陣営前に大声で走り出るも趙雲は動じない。逃げようとした曹操軍に趙雲が合図すると、弓弩がいっせいに放たれ曹操軍は混乱して踏みつけ押し合い、漢水に落ちて多数の死者が出た。こうして蜀軍は曹操陣営を占領、輜重を奪うことができた。劉備は諸葛亮に喜んで言った。「趙子龍は全身肝っ玉である!」
諫阻東征
[編集]関羽が呉に殺されたため、劉備は弔い合戦をすると詔を下した。趙雲と諸葛亮は共に諫めて止めようとするも、劉備はこれを聴きいれず、対呉戦争へと行ってしまう。その途中、張飛は苛烈な私刑でむち打ちにした部下二人に恨まれ暗殺されてしまった。さらに夷陵にて劉備軍は陸遜の火計で大敗を喫するが、江州にいた趙雲が救援に来たので陸遜は軍を撤退させた。劉備を救った趙雲は白帝城へ逃走した。この戦いで多くの将兵が戦死し、劉備は心労から病にかかってしまう。ある晩、夢の中に死んだ関羽と張飛が現れた。死期を悟った劉備は諸葛亮と趙雲を呼び寄せて後事を託す。趙雲は涙を流して地に拝し、生涯忠誠を誓った。
力斬五将
[編集]諸葛亮は北伐を進める前に、度々反乱が起きる南蛮の地を平定すべく征伐を開始し、趙雲も同行する。馬謖の心を攻める案を採用した諸葛亮は、南蛮王孟獲を七度捕らえ七度目も解放しようとしたところ、孟獲はようやく心服して蜀に降伏し、南蛮を平定することができた。
帰還した諸葛亮は劉禅に出師表を奏上、ついに北伐に取り掛かる。この時老兵となっていた趙雲は人選から漏れ抗議の声をあげた。諸葛亮は高齢を理由に説得するも、趙雲は戦場で死ぬことに後悔はないと聞かない。鄧芝が共に先鋒に行くことに名乗りをあげたので二人を出発させた。趙雲は韓徳の八万の軍勢とぶつかり、その息子たちをつぎつぎに討ち取る。鄧芝は「まさかすでに七十歳になっているとは思えません」[注 22]とその猛将ぶりを称えた。韓徳からの報告を受けた夏侯楙は自ら軍勢を率いて攻め込んだ。趙雲は韓徳を討ち取ると夏侯楙の軍勢は撤退したが、趙雲は深追いして程武の計略にはまってしまう。孤立し老いを実感した趙雲の元へ張飛の息子張苞、関羽の息子関興が助けに現れる。若い二人のお蔭で趙雲は窮地を脱した。
失街亭
[編集]馬謖の敗北により退却命令を受けて、魏軍の猛追を抑えるため鄧芝が本隊を率いて先に退却、趙雲は別動隊を率いて殿になる。魏軍は山坂の後ろから現れた趙雲の軍勢に驚き、蘇顒他、次々に敗れ残兵も散り散りになった。趙雲は無事に諸葛亮の元へ帰還したが、趙雲の軍が一人も失っていないことを不思議に思った諸葛亮が鄧芝に問うと、「将軍が一人で殿となられ、わたしは兵を率いて先行しましたので、わが軍は物資を放棄しなかったのです」と答えた。諸葛亮は庫から金を趙雲に、絹を兵たちへ褒美としたが、趙雲はそれを辞退し、「三軍に何ら功はなく、褒美を受け取ると丞相の賞罰が明確でなくなります。ひとまず庫におさめ、冬になってから配ってください」と述べた。諸葛亮は劉備がよく趙雲の徳を称えていたことを思い出し、今改めて敬服するのだった。
一陣大風
[編集]再び北伐を進めるべく、諸葛亮は宴会を開き諸将と打ち合わせをしていた時、突然一陣の風が吹き、庭の松の樹が折れてしまう。不吉な予感がした諸葛亮の元に、趙雲の息子の趙統と趙広がやってきて、父が昨晩病没したと拝して泣きながら言った。諸葛亮は「国家は棟木と梁を失い、わたしは片腕を失ってしまった」と泣いて言った。劉禅もまた、その言葉を聞くと声をあげてひどく泣いた。「朕は幼いころ子龍がいなかったら乱軍の中できっと死んでいたであろう」劉禅は趙雲に大将軍・順平侯の爵位を贈り、成都の錦屏山の東に埋葬し、廟堂を立て春夏秋冬、祭りを行うよう命じた。
解説
[編集]上野隆三は、『演義』における趙雲像について、『三国志』趙雲伝の注に引く『趙雲別伝』の記述から見出される知的な印象に、勇猛さが新たに多く書き加えられたことで、文武両道の儒将のイメージが作り上げられたと述べている[146]。また五虎大将の序列について、先述した『演義』の操作により趙雲は馬超や黄忠よりもめざましい活躍を見せたため、毛宗崗本とも呼ばれる『演義』で最も普及する版の編者である毛宗崗が、史書では5番手の趙雲を3番手まで引き上げたのではないかと論じている[147]。
『演義』では武将が一騎打ちを行うシーンが頻繁に描かれるが、趙雲は一騎打ちでの勝利数が最も多い25勝となっており、次いで関羽16勝、張飛14勝、呂布7勝となっている。『演義』は蜀勢力を善玉とし、物語の主人公として描いているため、蜀の武将で他の五虎大将より長生きだった趙雲が、結果的に最多勝利者となったと推測される[148]。
演義関連作品
[編集]以下は主な『演義』を元にした関連作品。
演劇
[編集]- 京劇:清代に北京で生まれ発展した演劇・戯曲(詳細は該当記事を参照)。『演義』も演目として取り上げられた。趙雲は小武生、武生、武老生(立ち回りを得意とする武将)として登場し、髭のない端正な容姿(『失街亭・空城計・斬馬謖』[149]では武老生(老兵)なので髭をつける)、性格は胆大心小(大胆であるが、慎重で几帳面)、演者は力強く安定した姿と大きな声で演じる。白と青を基調とした衣装に、赤を用いているのが特徴。桃園の四番目の兄弟「四弟」と呼ばれる。主な登場演目は『磐河戦』『借趙雲』『長坂坡』『甘露寺』『截江阿斗』など。趙雲役の演者として有名なのは、父の楊月楼と親子二代で趙雲を演じた京劇巨匠の一人楊小楼で、銀槍を持ち『長坂坡』での華麗な立ち回り姿から「活趙雲」「活子龍」と呼ばれ絶賛された。
この京劇の趙雲のイメージ像(白靠(白い鎧)、白袍といった「白」のイメージカラーや、銀槍を抱えた若い美形の儒将)は後に各地の民間伝承や創作作品に多大な影響を与え、趙雲の愛馬とされる白馬(白龍、または白龍駒)の伝承にも影響を与えたと考えられる[150]。(詳細は#民間伝承・伝統芸術の白龍参照)
元雑劇では趙雲の慎重さと几帳面さが強調され、趙雲の演者には特にその大胆さと几帳面さを示すことが求められたという[151]。初期に広まった物語では、趙雲は諸葛亮よりも慎重な性格をしており、「城攻めの際に、いつ出発し、いつ食事をし、いつ川を渡って城を攻めるか、諸葛亮が用意した綿密な計画通りに従うよう求められ、趙雲は兵を率いて出発する。直後、諸葛亮はその計画の時刻では、川が満潮の影響で増水し、渡れないという重大なミスに気づいた。しかし趙雲は川の増水の事を知っていたので、事前に筏を用意し、計画通りに問題なく完了した」[152]となっている。
以下は京劇の主な登場演目とその内容。
京劇・主な演目 | ||
演目名 | 役割 | 演目内容 |
磐河戦 | 小武生 | 『演義』第7回「袁紹磐河戦公孫 孫堅跨江撃劉表」より。 趙雲が袁紹の下を去り、公孫瓚を助ける話。 |
借趙雲 | 〃 | 『演義』第11回「劉皇叔北海救孔融 呂温侯濮陽破曹操」より。 劉備が援軍として趙雲を借りることに張飛が不満を漏らす[153]。 |
長坂坡 | 武生 | 『演義』第41回「劉玄徳携民渡江 趙子龍単騎救主」より。 曹操の大軍から単騎で阿斗を救う、趙雲の代表的な演目。 |
甘露寺 | 〃 | 『演義』第54-55回より。甘露寺(美人計)・回荊州を総称して『龍鳳呈祥』とも。 劉備の結婚に趙雲が護衛で従う話。場面によって鎧姿から白の衣装に着替える。 |
截江阿斗 | 〃 | 『演義』第61回「趙雲截江奪阿斗 孫権遺書退老瞞」より。 阿斗を連れ呉に帰ろうとする孫夫人から阿斗を奪回する。趙雲の代表的演目。 |
その他『取桂陽』『黄鶴楼』『子龍護忠(陽平関)』『鳳鳴関(斬五将)』『天水関(収姜維)』『失空斬』[149] |
- 「甘露寺(美人計)」「回荊州」を総称した演目『龍鳳呈祥』に「取桂陽」(趙範と樊氏の話)を取り組み、整理改定された新しい『龍鳳呈祥』が2001年に日本で公演され、この2001年の演目でのみ趙雲と樊氏(今作での名は樊玉鳳)が結ばれる。(詳細は樊氏#京劇を参照)
このように、同じ演目名でも内容に違いがある場合がある。
小説・説話
[編集]- 反三国志演義:周大荒が新聞『民徳報』にて連載した作品。趙雲と馬超の二人が主人公。蜀漢が三国を統一するという話になっており、作品内で趙雲と、馬超の妹の女武将・馬雲騄が結婚し妻となる。
- 説話三国演義:袁闊成による三国志演義の説話作品。『三国志』『三国志演義』の他、全国の三国故事などを研究した重厚な作品になっている。京劇のように張飛らから「四弟」と呼ばれたり、中性的な白面の美丈夫になっている。
- 長編平話三国:張国良による平話作品。1983年から全20巻を予定されていたが、作者の体調不良により14巻で終了となった。袁闊成の作品と同様、白馬(鶴頂白龍駒)と銀槍(亮銀槍)を持ち、趙雲の容姿の良さについての描写がさらに強調されている。劉備の結婚話(甘露寺)で護衛の趙雲を見た呉国太が、もう一人娘を生んでいたらこの若くて美しい将軍にも娶らせたのに、と、娘を二人産まなかった自分に腹を立てるといったように、作者による独自展開や解釈、設定が盛り込まれている。
民間伝承・伝統芸術
[編集]古跡などは南宋以前からのものがあるが、民間伝承は主に清代以降の物が多く、内容も『演義』の影響が色濃く見受けられる。
人物
[編集]- 孫軟児:民間伝承に登場する妻(詳細は該当記事を参照)。映画『三国志』(2008年)で軟児の名前が採用されており、塚本靑史の小説『趙雲伝』では正妻の名に採用されている。
- 李翠蓮:河北梆子劇『青釭剣』の演目にて趙雲の妻として登場する。長坂坡の戦いで劉備達とはぐれた趙雲が、迷い込んだ村で出会い結婚する。塚本靑史の小説『趙雲伝』では趙雲の妾の名に採用されており、正妻の孫軟児からは愛称「翠翠」(スイスイ)と呼ばれ、趙雲が困惑するほど仲睦まじい二人が描かれる。
- 関銀屏:関羽の娘がモデルの人物。趙雲に弟子入りし、師事して武術を習う。
愛馬
[編集]- 白龍:(はくりゅう)、もしくは白龍駒(はくりゅうく)という名の白い駿馬を愛馬にしていたという。『子龍池』という話では、この馬は昼は千里を、夜は五百里を走ることができ、趙雲とは意思疎通ができたといわれるほど愛されたという。「白龍(駒)」の名は1980年代前後の創作で、『三国志平話』『演義』では白馬に乗る趙雲像もまだ確立されていなかった。京劇で確立された趙雲の『白』のイメージが民間伝承や創作作品に影響を与え、趙雲の愛馬=白馬となり、「白龍(駒)」の名が作られ広まったと考えられる[150][注 23](詳細は#演義関連作品の京劇参照)。白龍の話が映画レッドクリフで採用されている。
- 子龍池:または洗馬池。四川省成都にかつて存在した、趙雲が住んだと伝わる官邸裏にあった池。「子龍洗馬池」とも。白龍とともに趙雲が傷を癒したという。その後は邸宅の所有者が何度も変わり、その都度改築などを経て、1950年頃には池は埋め立てられ、「子龍塘街」から現在の「和平街」に改名された。跡地にある和平街小学校に『漢順平侯洗馬池』の碑がある。以下は子龍池にまつわる伝承[155]。
南宋時代、蒙古の襲撃を受けて成都は大きな被害に遭い、蒙古の皇太子・闊端はこれを誇らしげに眺めていた。そこへ白袍姿に銀槍を抱え、白馬に乗った将軍が現れた。英気あふれる彼は、常勝将軍・趙雲にとても良く似ていた。彼は「兵よ集え、賊に抗え! 我と国を守れ!」と大喝して兵を鼓舞し、蒙古兵に突撃した。蒙古兵は次々に槍で突かれ、死体は山のように築かれた。白袍の将軍に従った兵たちは、ついに蒙古兵を成都から追い出すことができた。
後日、成都の人々はみな、「あれは趙子龍が顕聖して蒙古を倒してくれたのだ」と言った。人々は子龍池で馬を洗い、その池の横に楼閣と塔を建て、馬に乗り跳躍した趙雲の塑像を祀った。毎日絶え間なく香が焚かれ賑やかだったという。
長槍
[編集]- 涯角槍:(がいかくそう)。『三国志平話』に書かれる。長さ九尺(約3メートル)あり、「生涯に敵う者なし」という意味で名付けられている。同説話ではこの槍で、張飛と互角に一騎討ちをしている。『演義』では採用されていない。元雑劇では「牙角槍」または「牙角長槍」、「鴉脚長槍」と記され、「牙角」は陳寿が趙雲を評した「強摯壮猛、併作爪牙」[156]が由来と考えられ、「鴉脚」は槍の形状を差しており、「涯角」「牙角」「鴨脚」は全て発音が似ている。そのため「涯角槍」という呼称は当時の民間の口承で広まったものが、説話者や雑劇作家それぞれが表記や解釈を加えた可能性が高いと考えられる[157]。
- 亮銀槍:(りょうぎんそう)。涯角槍以外に近代の民間伝承で一般的になった槍の名称。京劇の銀槍の影響を受けて創作されたと考えられ、民間伝承と芸術分野で相互に影響を与えあい、趙雲の標準武器として「銀槍」のイメージが定着した。趙雲の武術の師匠の話に関連しており、正定県・臨城県・その他民間伝承を扱った書籍にさまざまな物語が語られている。
- 正定版:
語り部が異なる2つの物語①[158]②[159]が存在し、内容に若干の違いはあるが、「趙雲が両親に別れを告げ、太行山で武術の師匠(老人)を数日掛けて見つけだすが、老人は大木の上でいびきをかいて眠っており、趙雲は辛抱強く跪いて待ち続ける。目覚めた老人はその誠意に感動して弟子入りを認め、趙雲は3年武芸を学ぶ。師匠は趙雲に銀の槍(亮銀槍)を与え、世の苦しんでいる人々を救うために旅立つように、と告げる」といった内容。
共通点は、趙雲が二種類の武術を習得して曹軍と戦う時にそれぞれの武術を駆使し、ひとつは師匠から与えられた「亮銀槍」を使って長坂坡の戦いにおいて活躍し、「山のように積みあがった曹軍の死体の血が、川のように流れた」と書かれ、もうひとつは「破堅拳」という拳法で、「漢中の戦いで曹軍を散々に打ちのめした」と書かれる。
特徴として、師匠が「亮銀槍」を贈る過程が詳しく書かれ、さらに師匠が趙雲に得物に大刀を選ばせなかった理由として「赤ら顔(関羽)の兄弟子がすでに大刀を習得しているためだ」と説明しており、関羽と趙雲が兄弟弟子であることが示唆されている。
- 臨城版:
趙雲が槍を手に入れる物語が複数あり、共通して「趙雲が長い蛇を見つけ、その蛇を掴んで振り回したところ、槍に変化した」[160]といった内容で、張飛の蛇矛の伝承(張飛が修行中に大蛇を見つけ、尾を99回振り回すと蛇矛になった)[161]と類似している。張飛の蛇矛の伝承は古くからよく知られており、この伝承を元に趙雲に置き換えて作られた可能性が高いことが指摘されている[162]。
- その他書籍:
弟子入りの過程、師匠の名前などが正定の物語に由来しており、これらは最初に正定で広まった物語が他の伝承に影響を与え、発展したと考えられる[163]。
刀剣
[編集]- 青釭剣:(せいこうけん)。『演義』に登場。元は曹操が所有する宝剣(倚天剣と青釭剣)のひとつ。敵将の夏侯恩が曹操から預かっていたのを趙雲が奪い取った。物語中では阿斗の危機の際にのみ使用される。
軍需品
[編集]- 常山戦鼓:戦国時代に始まり、明時代に隆盛した戦鼓。正定の人々に広く流通した。正定県は歴史的に「常山」と呼ばれていたため「常山戦鼓」と呼ばれる。現在はパフォーマンスで使用される。伝承では趙雲が出陣する際、常山の戦太鼓を戦場で叩くことで士気を高め、兵たちを鼓舞し、常に敵を打ち破り勝利を収めたので「常山戦鼓」と呼ばれたという。2008年、国の無形文化遺産に登録。(詳細は常山戦鼓を参照)
装飾品
[編集]- 戒指:趙雲が指輪を身につける文化を広めたとの伝承がある。『益州』と『荊州』で幾つかの違った話がある他、趙雲の故郷・河北省正定出身の語り部・周四成の『趙子龍与戒指』の話に見られる内容では、『益州』の話に京劇や他の語り部に見られる「徐庶が趙雲を救う」エピソードが加えられ、詳細が語られている。
- 益州版:
趙雲が長板坂で阿斗を救出して包囲を突破したとき、張郃と曹洪から薬指に深い傷を負った。傷痕はかなり目立ち、醜く感じたので、趙雲は職人に傷を隠すための金の輪(蓋指)を作らせた。
- 荊州版:
荊州版は2種類あり、共通点として「趙雲の死後、彼の生前着飾った姿の像が作られ、その指には金の輪をはめていた。人々はそれを真似て身に着け、その習慣が今日、指輪として民間に広まった」[165]とされている。 相違点は、像の由来が『戴戒指的来歴』では「後主・劉禅は趙雲が命を救ってくれたことに感謝し、趙子龍の像を作った」と書かれている点と、『荊州人戴戒指的来歴』では「荊州の関帝廟にある趙雲の像」[166]に基づいている。
- 正定版:[167]
(趙雲が長坂坡で徐庶に助けられ窮地を脱したが、その時、張郃・曹洪から指に傷を負ったので指輪で傷を隠した。)その後、劉備の軍隊が四川に入城すると、益州の人々は趙雲が手に輝く指輪をしているのを見て、彼らも指輪をつけるようになった。今日、指輪をつける習慣が四川省の成都と綿陽の人々の間で今も伝承されている。
食べ物
[編集]- 長坂坡花飯:当陽名物の趙雲由来の炒飯(チャーハン)。伝承によると、唐・宋時代に長坂坡の語り部が趙雲が阿斗を救った話を語り、その横で炒飯の屋台主たちが趙雲の槍や剣さばきをヘラに置き換え、「七進七出」(詳細は#故事・ことば・関連人物の七進七出を参照)を七度の作業工程に例えて調理したことに由来する[168]。
- 子龍片:乾燥させたタケノコを薄く切ったもの。桂陽の関口・営盤嶺地区でこう呼ばれている。伝承では、軍隊を率いての出征で、冬から春の食料が乏しい時期にタケノコを掘って食べる習慣が身についた趙雲が、保存が効くよう天日干しにした。趙雲がこの地を去ったあと、人々はそれに倣い、のちに乾燥させたタケノコを「子龍タケノコ」、「子龍片」と呼ぶようになったという[169]。
- 肉丸子:「再会」を意味する桂陽名物料理。肉団子。桂陽旧正月三大料理のひとつ。伝承によると、趙雲が桂陽を占領した時、率いた兵は統率が取れ、民衆を慈しんだことから桂陽の人々は趙雲を称賛して迎えた。駆け付けた劉備たちと趙雲は再会を喜び、祝宴が開かれると、桂陽の人々から黄金色の丸い揚肉団子が献上された。これを食べた趙雲らは手を打って絶賛し、それ以来、桂陽の人々のお祭りを祝う名物料理になった[170]。この他、「肉丸子」とよく似た伝承を持つ「子龍郡壇子肉」[171](別名:桂陽壇子肉)[172]という桂陽名物の肉料理があり、趙雲から献上され、劉備が「子龍郡壇子肉」と名付けたという。
その他
[編集]- 少年期の伝承:正定県と臨城県で趙雲の少年時代の逸話が語られており、正定県では石臼を持ち上げる、牛と相撲を取ったなど、幼少の頃から力が強かったことを示す話のほか、悪人の富豪の子息を懲らしめる、狼を退治して仲間を助けるなど、智略で窮地を脱するといった知勇にまつわる逸話が残されている[173]。臨城県では趙雲が天から降りてきた龍や星とするなど、運命づけられた神秘面が強調された逸話が残されている[174]。双方の地域の物語は趙雲の身分もさまざまで、貧しい平民の子、牧童、宦官の乱政を嫌い官を辞めた名門の出身、学堂に通う学生、など。以下は正定県の『夜走酸棗嶺』[175]。
少年趙雲は祖母の家から自宅へ帰る途中、酸棗嶺という峠道で大男の強盗に遭遇した。趙雲は怖がるふりをして荷物を落とし、荷物に気を取られた強盗の隙を見て、懐に隠していた秤鉈(はかりの重りを吊るす道具)で強盗を殴りつけ、その場から逃げ出した。逃げ延びた趙雲は、ある一軒家で一晩泊めてもらうことになり、女主人は趙雲と息子を一緒に寝かせることにした。
夜中に激しい戸叩きの音が聞こえて趙雲が目を覚ますと、それは先ほど襲った強盗が帰ってきたのであった。包丁を研ぐ音が聞こえ、趙雲は急いでその家の息子を担いで場所を入れ替わった。女は「外側にいるのが趙雲だ」と指差し、強盗は外側にいた息子の首を斬り落とした。二人が死体を玄関から運び出している隙に、趙雲は逃走したのだった。
- 墓にまつわる話:(詳細は#墓地を参照)
- 最期にまつわる話:四川省大邑県と河北省正定県ほか複数の伝承がある(孫軟児#趙雲の死と刺繍針を参照)。
湖北省咸寧地方の『趙雲得意笑死』[176]という話は、これらとは違う内容になっている。
『三国志演義』には、趙雲は老衰で死んだと書いてある。私たちは、年配の人たちから「趙雲は笑い死にした」という違う話を聞いたことがある。 「周公瑾(周瑜)は怒って死んだが、趙子龍は笑って死んだ」という古い話。趙雲の72歳の誕生日を祝いに来た親戚や友人らは、老将軍に乾杯してその生涯の功績を称える歌を詠んだ。「20歳、先帝(劉備)に従い、命懸けで戦い続けた。30歳、当陽の地にて単騎で後主(劉禅)を救って名を揚げた。40歳、長江を渡りて後主を連れ戻した。50歳、南蛮征伐に向かい、軍の柱となった。60歳、祁山に出でて曹軍の五将軍を斬った。70歳、あなたは元気そのもので、優れた馬と槍を持ち、将軍は全身が肝っ玉、百戦百勝、世の無双!」これを聞いた趙雲は手を振って言った。「いやいや、今日の常山の趙子龍があるのは、我が君と、皆様の支えがあったからこそです!」
宴会が終わり、招待客がみな帰ったあと、趙雲は突然筋肉と骨が腫れているのを感じた。「長い間戦場にいなかったから、違和感があるのだろうか?」そこで風呂に入ろうと思い、一人部屋に閉じこもって服を脱ぎ、裸になった。この身体は何百回の戦いを経ても、一度も怪我をしたことがなく、傷一つない。皆が詠った言葉を思い出す。 「将軍は全身が肝っ玉、百戦百勝、世の無双!」
「はははははは…」思わず大声で笑うと、息が切れた。こうして彼は名誉の死を遂げた。
日本の伝統芸術
[編集]- 孔明祈水山:(こうめいきすいざん)。重要無形民俗文化財大津祭のからくりのひとつ。孔明が魏との合戦に際し、水神に祈り大勝した故事に因む。趙雲が鉾で突いた岩から水が溢れだし、魏軍が押し流されて孔明が扇子を上下させ喜ぶ場面になっている[177]。
その他、古くから端午の節句に関羽や趙雲がモチーフとして好まれて使用され、ねぶたなどの祭でも三国志が題材に使用されている[178]。
故事・ことば・関連人物
[編集]故事成語
[編集]- 満身是胆:(まんしんしたん)。一身是胆の類義語[180]。
- 偃旗息鼓:中国の故事成語。軍隊が旗を降ろして軍鼓を止め、所在を明らかにしないことを表す。趙雲が定軍山の戦いにて使った『空城計』に由来。 ある出来事が中断したり、勢いが弱まることを表す比喩としても使われる[181]。
ことば
[編集]- 七進七出:『三国志演義』にて、長坂坡で趙雲が阿斗(劉禅)たちを救うために、曹操の陣営に何度も侵入して退出したこと(七度侵入・七度退出)に由来。京劇などの演劇作品が起源の言葉[182]。「何度も出入りする行動」の例えで使用される。
- 子龍任務:2015年頃から台湾で使用されはじめたスラングの一種。当時、ASUSのスマートフォン「Zenfone」を購入後にしばしば修理に見舞われるユーザーが多発し、ASUSの修理店に何度も出入りすることになったことから、上述の「七進七出」に例えられ、「子龍任務」と呼ばれ始めた(「Zen」と劉「禅」が同音異義語になっている)[183]。現在でもASUS製品を購入後、修理に出すことになると「子龍任務開始」「子龍任務(3/7)達成」(3回修理に出した、の意味)といった使用例がXなどのSNSやブログで確認される。ASUS製品に限らず、家電製品の修理全般に対しての使用例も見られる。
人物など
[編集]- 文鴦:三国時代から西晋の軍人。上述の「七進七出」を実際に行い戦った人物として『資治通鑑』に記述がある[184]。『三国志演義』第110回では、たった一人で魏軍の包囲を蹴散らす勇猛な戦いぶりから「趙雲の再来」と称えられている[185][注 24]。
- 国民革命軍第95師団:中華民国時代の河南省の国民党地方部隊。攻防に秀で、「趙子龍師団」と呼ばれた(あるいは自称した)(詳細は該当記事参照)。
古跡・施設
[編集]主な趙雲にまつわる古跡、遺跡、公園、テーマパークなどの施設、地名など。
中国
[編集]名称 | 場所 | 説明 |
趙雲故里 | 河北省正定県 | 趙雲を祀った廟。趙雲の末裔が建てたもの[188]。1997年、県級重点文物保護単位指定。 廟門・四義殿・五虎殿・君臣殿・順平侯殿(正殿)があり、趙雲の二人の息子の趙統、趙広の他、劉備や諸葛亮などの像も祀られている。そのほか、清代の『漢順平侯趙雲故里』碑、大邑趙雲墓と長坂坡の土、壁画や「趙子龍飲馬槽」の展示など。 (詳細は趙雲廟を参照) |
子龍広場 | 〃 | 庁舎前にある広場。
巨大な趙雲像があり、台座の背面に趙雲を賛辞する言葉が刻まれている。 |
常山公園 | 〃 | 「常山東路」にある公園。趙雲の騎馬像が設置されている。 |
子龍桟橋 | 〃 | 一角に趙雲が故郷の人々と別れを告げる場面の彫像が設置されている。 その他「正定城」「常山陵園」など街の至る所に趙雲像が設置されている。 |
臨城趙雲墓 | 同省邢台市 | 臨城の趙雲の墓。(詳細は#墓地臨城趙雲墓を参照) |
中国馬鎮 | 同省承徳市 | 豊寧満族自治県にある馬文化をテーマにした観光リゾートパーク。アトラクションや乗馬を楽しめる。「戦神 趙子龍」では、長坂坡の戦いを再現した馬上パフォーマンスを観覧することができる[189]。 |
後趙雲堡村 | 同省邯鄲市 | 辛安鎮鎮にある趙雲の名が由来の村。創建年代不明。趙雲が軍を率いてこの村に駐屯したと伝えられている[190]。 |
長坂坡公園 | 当陽市 | 「長坂坡古戦場」に整備された趙雲を顕彰する「長坂坡公園」がある。趙雲を称えた『長阪雄風』の石碑や『演義』の名場面を再現した壁画や像が展示されている。「長坂路」ロータリーには阿斗を抱え、槍を構えた趙雲の大きな騎馬像がある。近くには「子龍路」「子龍村」[191]など趙雲にちなんだ地名や村名がある。その他、「子龍畈」と呼ばれる丘の近くに、糜夫人が阿斗を抱えて避難したという「太子橋」や、糜夫人が身投げした「娘娘井」(井戸)と、『演義』にまつわる遺跡が存在する。 |
荊州古城 歴史文化旅遊区 |
湖北省荊州市 | 関羽関係の展示が多いが、「荊州古城」「関帝廟」に劉備、趙雲らの像が展示されている。 |
南陽趙雲墓 | 湖南省南陽市 | 南陽の趙雲の墓。(詳細は#墓地南陽趙雲墓を参照) |
関口趙侯祠 | 桂陽県 | 北橋市郷関口村。趙雲が営盤嶺に兵を置いたという伝承があり、塑像が祀られている。2018年、第四批市級文物保護単位指定[192]。 |
白帝城 | 重慶市奉節県 | 長江三峡。夷陵の戦い後、劉備が没した場所。劉備、趙雲らの塑像が展示されている。 (詳細は白帝城を参照) |
大邑趙雲墓 | 四川省大邑県 | 大邑の趙雲の墓。(詳細は#墓地大邑趙雲墓を参照) |
静恵山公園 | 〃 | 山上に「子龍祠」があり、羌族を監視するために趙雲が築いたという「望羌台」の他、石碑や像がある。そのほか「子龍街路」「白馬溝」など、趙雲にまつわる地名が複数存在する。 (詳細は静恵山公園を参照) |
成都武侯祠 | 〃 | 諸葛亮、主君劉備とその臣下を祀る霊廟。 (詳細は成都武侯祠を参照) |
和平街 | 〃 | 旧称「子龍塘街」。趙雲の居宅があったと伝わる。(詳細は#民間伝承の子龍池を参照) |
富楽山公園 | 同省綿陽市 | 五虎大将軍(五虎上将)の像が設置されている。 |
台湾
[編集]名称 | 場所 | 説明 |
佳里子龍廟 | 台南市佳里区 | 趙雲(趙聖輔天帝君)を主神として祀った廟。 台湾にはこの子龍廟の他に、趙雲を祀った廟が主に島の西側に複数存在する。 (詳細は佳里子龍廟を参照) |
日本
[編集]名称 | 場所 | 説明 |
八坂神社 | 栃木県益子町 | 劉備の「檀渓を跳ぶ」シーン、趙雲の「長坂坡の戦い」をモチーフにした彫刻がある。 |
宝登山神社 | 埼玉県長瀞町 | 本殿に三国志をモチーフにした極彩色の彫刻があり、関羽や趙雲が描かれている。 日本ではこの他にも三国志をモチーフにした彫刻が全国の神社に点在している。 |
KOBE鉄人三国志 ギャラリー |
神戸市長田区 | 『鉄人28号』『三国志』で知られる漫画家・横山光輝の故郷、神戸市長田区にある展示施設。横山作品の他にもさまざまな三国志(演義)関連作品の展示や中国輸入雑貨、グッズ販売、正子公也デザインの趙雲フィギュアや、巨大な趙雲の銅像が展示されている。定期的に三国志イベントも開催されている。施設内で撮影した写真はネット掲載禁止のため注意。 (詳細は該当記事を参照) 同商店街には三国志をテーマにしたカフェ「Cha-ngokushi(ちゃんごくし)」のほか、長田区には街の至る所に三国志の人物たちの像が設置されている。 |
マレーシア
[編集]名称 | 場所 | 説明 |
北海船仔頭 天福宮 |
北海 船仔頭 | 1871年前から存在するマレーシアの子龍廟[193]。北海最大の神廟の一つ。 ほかに「順平宮」[194]など、マレーシアでも趙雲を祀った廟が存在する。 |
趙雲を主題とした作品
[編集]- 映画
- テレビドラマ
- 小説
-
- 大場惑『放浪の子龍◆趙雲(三国志武将列伝)』(1992年、光栄、全4巻)ISBN 4906300731。
文庫版タイトルは『三国志武将列伝 趙雲伝』(全4巻) - 伴野朗『三国志英傑列伝「火龍の槍(趙雲編)」』(1997年、実業之日本社。)ISBN 4408590924。
- 加野厚志『趙雲子竜 中原を駆けぬけた三国志最強の戦士』(2001年、幻冬舎文庫。)ISBN 9784344400818。
- 万城目学『悟浄出立「趙雲西航」』(2016年、新潮社、新潮文庫。)ISBN 9784101206615。
- 塚本靑史『趙雲伝』(2022年、河出書房新社。)ISBN 9784309030258。
- 宮城谷昌光『三国志名臣列伝 蜀篇「趙雲」』(2023年、文藝春秋、文藝春秋BOOKS。)ISBN 9784163916613。
- 奈々愁仁子『精恋三国志 I』(2010年、アスキー・メディアワークス、電撃文庫。)ISBN 4048684582。
- 大場惑『放浪の子龍◆趙雲(三国志武将列伝)』(1992年、光栄、全4巻)ISBN 4906300731。
- 朗読CD
-
- 三国志 Three Kingdoms 公式朗読CDシリーズ "夷陵に燃ゆ" / 趙雲篇(2012年、主演:KENN)
- 漫画
-
- 陳某『火鳳燎原』(2001年-連載中、東立出版社、メディアファクトリー)
- 黄十浪『雲漢遥かに-趙雲伝』(2008年-2009年、メディアファクトリー全3巻)ISBN 9784840122542。
- ゲーム
その他関連作品
[編集]- 映画
- テレビドラマ
- アニメ
-
- 三国志 (日本テレビ)(1985年、日本、趙雲(声):佐々木功(ささきいさお))
- 横山光輝 三国志(1991年-1992年、日本、趙雲(声):小杉十郎太)
- 三国志_(アニメ映画)(1992年-1994年、日本、趙雲(声):堀秀行)
- 蒼天航路(2009年、日本、趙雲(声):森川智之)
- 最強武将伝 三国演義(2010年-2011年、日本・中国、趙雲(声):載寧龍二(さいねい龍二))
- SDガンダムワールド 三国創傑伝(2019年-展開中、日本、趙雲ダブルオーガンダム(声):池田恭祐)
- ゲーム
-
- 三國志シリーズ(1985年-展開中、コーエーテクモゲームス)
- 真・三國無双シリーズ(2000年-展開中、コーエーテクモゲームス、趙雲(声):小野坂昌也)
- Wo Long: Fallen Dynasty(2023年、コーエーテクモゲームス、趙雲(声):日野聡)
- Fate/Samurai Remnant(2023年-展開中、コーエーテクモゲームス、趙雲(声):阿座上洋平)
※DLCコンテンツ(第三弾:断章 白龍紅鬼演義)
- 漫画
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 日本では子竜[1]とも。
- ^ 尺は時代によって長さが違うため、書籍によっては約190cm[4]を採用している。
- ^ 『趙雲別伝』には何年の出来事かの記述はないが、袁紹が韓馥を脅し冀州牧を譲らせたのが初平2年の出来事[7]のため、191年頃と推測される。
- ^ a b 「主騎」を「護衛隊長」と訳している書籍があるが、『新唐書』巻135哥舒翰伝に見られる「使王思禮主騎(騎兵の主),李承光主步(歩兵の主)」や、『資治通鑑』第六十巻の「為備主騎兵」などのように、「騎兵隊長」と訳すのが正しい。
- ^ a b 『華陽国志』によると、翊軍将軍への昇進は劉備の漢中王即位後であり「關羽為前將軍,張飛為右將軍,馬超為左將軍,皆假節鉞。又以黄忠為後將軍,趙雲翊軍將軍。」と四将と並んで昇進したと記録されている。
- ^ 渡邉義浩は趙雲が冀州出身で幽州の公孫瓚に仕えていたため、「冀州強弩」「幽州突騎」の戦法、双方に通じていたであろうと指摘している[22]。
- ^ 宮川尚志は「この意見は、新たに興った蜀漢のまさに進むべき国策を明確に認識したもの」と評し、「魏の領土となった華北を久しく放置すれば、民心はいつとはなしに漢の故土であったことを忘れ、魏政権を正しいものとみなしてしまうであろう。民心なおひそかに漢を思う間にこそ、堂々と実力に訴え、名分に正し漢の正統の権利を主張すべきである」と述べている[25]。
- ^ a b 『華陽国志』では“封丞相亮武郷侯。(中略)中護軍趙雲〔為征南將軍,封永昌亭侯。〕(中略)中部督襄陽向寵,及魏延、吳懿皆封都亭侯。”とあり、建興元年以前に中護軍になっている。
- ^ 『三国志』諸葛亮伝、および『華陽国志』によると、趙雲たちの軍は疑軍(少数の兵を多数に見せかけること)であった[27][28]と記録されている。 また、『漢晋春秋』には「祁山、箕谷では蜀軍の方が曹軍より多かったが撃破できなかった」とも記述がある[29]。
- ^ 胡三省は、『晋書』職官志を根拠にすると鎮軍将軍は四征将軍・四鎮将軍の上位であるため、鎮東将軍から鎮軍将軍へとなるとむしろ昇格になることを指摘し、「思うに、蜀漢の制度では鎮東将軍は方面の鎮圧を専らにするものだから、鎮軍将軍は雑号将軍だった。それゆえ降格となるのだろう」と述べている[30]。しかし蜀の鎮軍将軍は四征将軍や四鎮将軍同様に上位職の鎮軍大将軍の位が置いてあり、雑号将軍であるとは考えづらい。盧弼は「『宋書』百官志では、鎮軍将軍は四鎮将軍と比較すると、四鎮将軍に次ぐ。『晋書』のいう鎮軍将軍は鎮軍大将軍のことであるから、四征将軍・四鎮将軍よりも上位なのだ」と述べている[31]。
- ^ 成都から臨城に至るまでには魏の領域が含まれるため、実際には実現不可能である。
- ^ 他の就任者の劉巴は、劉巴とは同姓同名の別人。
- ^ これは趙雲に限らず、蜀の人物が書かれた『蜀書』は『魏書』が全30巻なのに対して全15巻しかなく、武官は記述量が全体的に少なめである。
- ^ ただし趙雲以外にも多くの臣下が諫めた[79]とあり、そのうちの一人である秦宓は諫言により一時投獄された[80]。
- ^ その他に劉邦の側室になり、劉長を生んだ趙姫も同真定県の出身者で同姓であり、死後真定に葬られている[86]。
- ^ 夏侯惇は14歳の時[87]に、劉備は15歳で盧植の元で学んでいた記述があり[88]、後漢末時代の良家の子はおよそ15歳前後から教育を受けさせていたことが分かる。
- ^ 曹丕は6歳の時に射撃の訓練を受け、8歳の時には騎乗での射撃が出来た[89]とあり、孫権は淩統の死後、淩統の2人の息子を8、9歳のときに養子に迎え、10日ごとに乗馬の訓練を受けさせた[90]とある。
- ^ この時、他に増祀された従祀名臣は、倉頡、仲虺、畢公高、周呂侯、仲山甫、尹吉甫、劉章、魏相、丙吉、耿弇、馬援、狄仁傑、宋璟、姚崇、李泌、陸贄、裴度、呂蒙正、李沆、寇準、王曾、范仲淹、富弼、韓琦、文彦博、司馬光、李綱、趙鼎、文天祥、呼嚕、博果密、托克托、常遇春、李文忠、楊士奇、楊榮、于謙、李賢、劉大夏[95]。
- ^ a b 嘉靖版『三国志通俗演義』では、趙雲が逃げようとしない麋夫人を怒鳴ったことをきっかけに麋夫人が井戸に身を投げたことについて、趙雲は不忠者であるという註がつけられている[143]。これに対し、王長友は『嘉靖本』の割注が『毛宗崗本』では省かれていることに触れ、またその割注について、思想が陳腐で融通のきかない文人によるものだと推測している[144]。
- ^ 李光地によれば、趙雲が幼い後主(劉禅)を拾ったことが、夏侯嬰が幼い恵帝を拾ったことに対応している[98]。
- ^ 諸刃の「剣」は春秋戦国時代に多用された武器で、漢の時代になると片刃の「刀」の普及により剣の使用は少なくなった。それにより剣の神秘性が増し、尊重されるようになった[141]ので、この青釭剣は趙雲の英雄性を高めるための武器として登場させたと考えられ、また青釭剣は劉禅を救う場面でのみ趙雲が用いており、劉禅と趙雲の絆を表している[142]。
- ^ 登場時は少年だったので、北伐のこの時点で七十歳だと計算が合わない。少年=十九歳だとしても六十歳前になる。羅貫中の計算ミスか、あるいはこのような『演義』内でのやや唐突な時間経過の描写は、山本健吉が「物語作者が読者をあざむいていたことをこういうときほど痛感することはない。(中略)物語の時間は、極度に圧縮された時間である」と述べているように[145]、時代の移行を示す物語的表現手法とみられる。
- ^ 趙雲の最初の主君である公孫瓚は、白馬で揃えた騎兵『白馬義従』を率いていたことで有名で、趙雲が劉備の主騎になったことから馬術に優れていたことが推測され、そのため『白馬義従』に選ばれていた可能性があり、そこから白馬に乗るイメージに繋がったとも考えられる[154]。
- ^ 毛宗崗本の前の版である嘉靖本では張飛になぞらえられていた[186]。
出典
[編集]- ^ TVドラマ『三国志 Three Kingdoms』字幕表示など。
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- ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "雲別傳曰:雲身長八尺,姿顏雄偉,為本郡所舉,將義從吏兵詣公孫瓚。"
- ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "時袁紹稱冀州牧,瓚深憂州人之從紹也,善雲來附,嘲雲曰:「聞貴州人皆原袁氏,君何獨回心,迷而能反乎?」雲答曰:「天下訩訩,未知孰是,民有倒縣之厄,鄙州論議,從仁政所在,不為忽袁公私明將軍也。」遂與瓚征討。"
- ^ 『三國志』巻1 魏書•武帝紀. "二年春,紹、馥遂立虞爲帝,虞終不敢當。(中略)秋七月,袁紹脅韓馥,取冀州。"
- ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "時先主亦依託瓚,每接納雲,雲得深自結託。”
- ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "雲以兄喪,辭瓚暫歸,先主知其不反,捉手而別,雲辭曰:「終不背德也。」”
- ^ 『三国志』巻36趙雲伝(裴松之注・雲別伝)
- ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "先主就袁紹,雲見於鄴。先主與雲同床眠臥,密遣雲合募得數百人,皆稱劉左將軍部曲,紹不能知。遂隨先主至荊州。”
- ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "先是,與夏侯惇戰於博望,生獲夏侯蘭。蘭是雲鄉里人,少小相知,雲白先主活之,薦蘭明於法律,以為軍正。雲不用自近,其慎慮類如此。”
- ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "雲別傳曰:初,先主之敗,有人言雲已北去者,先主以手戟擿之曰:「子龍不棄我走也。」頃之,雲至。”
- ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "從平江南,以為偏將軍,領桂陽太守,代趙範。範寡嫂曰樊氏,有國色,範欲以配雲。雲辭曰:「相與同姓,卿兄猶我兄。」固辭不許。時有人勸雲納之,雲曰:「範迫降耳,心未可測;天下女不少。」遂不取。範果逃走,雲無纖介。”
- ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "先主入益州,雲領留營司馬。此時先主孫夫人以權妹驕豪,多將吳吏兵,縱橫不法。先主以雲嚴重,必能整齊,特任掌內事。"
- ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "權聞備西徵,大遣舟船迎妹,而夫人内欲将後主還呉,雲與張飛勒兵截江,乃得後主還。”
- ^ 『三國志』卷34「先主穆皇后」『漢晉春秋』 "云:先主入益州,吳遣迎孫夫人。夫人欲將太子歸吳,諸葛亮使趙雲勒兵斷江留太子,乃得止。”
- ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "雲別傳曰:益州既定,時議欲以成都中屋舍及城外園地桑田分賜諸將。雲駮之曰:「霍去病以匈奴未滅,無用家為,令國賊非但匈奴,未可求安也。須天下都定,各反桑梓,歸耕本土,乃其宜耳。益州人民,初罹兵革,田宅皆可歸還,今安居複業,然後可役調,得其歡心。」先主即從之。”
- ^ (中国語) 『全三國文』 巻60 趙雲, ウィキソースより閲覧。 「駁成都屋舎園田分賜諸将議」 "霍去病㠯匈奴未滅,無用家爲。今國賊非但匈奴,未可求安也。須天下都定,各反桑梓,歸耕木土,乃其宜耳。益州人民初罹兵革,田宅皆可歸還,令安居復業,然後可役調,得其歡心。《蜀志‧趙雲傳》注引《雲別傳》。"
- ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "夏侯淵敗,曹公爭漢中地,運米北山下,數千萬囊。黃忠以為可取,雲兵隨忠取米。忠過期不還,雲將數十騎輕行出圍,迎視忠等。值曹公揚兵大出,雲為公前鋒所擊,方戰,其大眾至,勢偪,遂前突其陳,且鬥且卻。公軍散,已復合,雲陷敵,還趣圍。將張著被創,雲復馳馬還營迎著。”
- ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "公軍追至圍,此時沔陽長張翼在雲圍內,翼欲閉門拒守,而雲入營,更大開門,偃旗息鼓。公軍疑雲有伏兵,引去。雲雷鼓震天,惟以戎弩於後射公軍,公軍驚駭,自相蹂踐,墮漢水中死者甚多。”
- ^ 渡邉 2020, pp. 243–245.
- ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "先主明旦自来至雲営囲視昨戦處,曰:「子龍一身都是膽也。」作楽飲宴至暝,軍中號雲為虎威将軍。”
- ^ (中国語) 『太平廣記』 巻第一百九十一 「驍勇一」, ウィキソースより閲覧。 "蜀趙雲,字子龍,身長八尺,姿容雄偉。居劉備前鋒,為曹公所圍,乃大開門,偃旗鼓。曹公引去,疑有伏兵。雲於後射之,公軍大駭,死者甚多。備明日自來,視昨日戰處,曰:「子龍一身都是膽也。」(出《趙雲別傳》)"
- ^ 宮川 1988, p. 125.
- ^ 『三國志』卷36趙雲伝(裴松之注・雲別伝), "孫權襲荊州,先主大怒,欲討權。雲諫曰:「國賊是曹操,非孫權也,且先滅魏,則吳自服。操身雖斃,子丕篡盜,當因眾心,早圖關中,居河、渭上流以討凶逆,關東義士必裹糧策馬以迎王師。不應置魏,先與吳戰;兵勢一交,不得卒解。」先主不聽,遂東征,留雲督江州。先主失利於秭歸,雲進兵至永安,吳軍已退。”
- ^ 『三国志』巻35諸葛亮伝, "六年春,揚聲由斜谷道取郿,使趙雲、鄧芝為疑軍,據箕谷,魏大將軍曹真挙衆拒之。"
- ^ (中国語) 華陽國志/卷七, ウィキソースより閲覧。 「劉後主志 二」 "六年春,丞相亮揚聲由斜谷道取郿,使鎮東将軍趙雲,中監軍鄧芝據箕谷為疑軍,魏大將軍曹真挙衆當之。"
- ^ 『漢晋春秋』”或勸亮更增兵者,亮曰:「大軍在祁山,箕穀,皆多於賊,而不能破賊為賊所破者,則此病不在兵少也,在一人耳。」”
- ^ (中国語) 『資治通鑑』巻71太和二年胡注, ウィキソースより閲覧, "據《晉書‧職官志》:鎭軍將軍在四征、四鎭將軍之上。今趙雲自鎭東將軍貶鎭軍將軍,蓋蜀漢之制,以鎭東爲專鎭方面,而以鎭軍爲散號,故爲貶也。"
- ^ 『三国志集解』巻36趙雲伝, "《宋書· 百官志》鎭軍將軍比四鎭,在四鎭之次。《晉志》 之鎭軍將軍為鎭軍大將軍,故在四征、四鎭之上也。"
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- ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "亮曰:「街亭軍退,兵將不復相錄,箕穀軍退,兵將初不相失,何故?」芝答曰:「雲身自斷後,軍資什物,略無所棄,兵將無緣相失。」”
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- ^ (中国語) 『旧唐書』巻101 薛登伝, ウィキソースより閲覧。 "至如武芸,則趙雲雖勇,資諸葛之指捴;周勃雖雄,乏陳平之計略。若使樊哙居蕭何之任,必失指縦之機;使蕭何入戯下之軍,亦無免主之効。斗将長于摧鋒,謀将審于料事。"
- ^ 『狂狷裁中』 "子龍心貫金石,義薄雲天,不減関張。"
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- ^ 『選将論』 "趙雲以数十騎遇敵,開軍門偃旗息鼓,勇在胆也。"
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- ^ 『易中品三国』 "建安二十四年劉備称漢中王,然後封了四大将軍:前将軍関羽,右将軍張飛,左将軍馬超,後将軍黄忠,没有趙雲。所以,在正史上従来没有什麽五虎上将,只有四虎上将,趙雲一直是雑号将軍。趙雲是很委屈的,確実是很委屈的。"
- ^ 『読三国志蠡述』 "趙雲於長阪一役,抱後主保護甘夫人皆得免難,又孫夫人還呉,雲与張飛截江奪後主,此両事至今赫赫在目,卒与関羽張飛馬超龐統黄忠同獲美謚,有以哉。"
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- ^ 『季漢五志』 "当陽之戦、孫夫人之帰,微子龍則後主将不免矣,故無論功烈才品逈出三国諸人之上。"
- ^ 『読通鑑論』 "迨猇亭敗矣,先主殂矣,国之精鋭尽于夷陵,老将如趙雲与公志合者亡矣; 公収疲敝之余民,承愚暗之沖主,以向北方,而事無可為矣。 公故曰:鞠躬尽瘁,死而後已。唯忘身以遂志,而成敗固不能自必也。 向令先主以笃信羽者信公,聴趙雲之言,辍東征之駕,乗曹丕初篡、人心未固之時,連呉好以問中原,力尚全,気尚鋭,雖漢運已衰,何至使英雄之血不灑于許、雒,而徒流于猇亭乎?"
- ^ 『詳註史略補遺大成』 "(昭烈)用趙雲而取漢中,遣関羽而攻樊城。"
- ^ 『両罍軒尺牍』 "天性勇毅,身為大帥仍復/複親冒矢石,為士卒先,此趙順平,常開平之遺風。"
- ^ 『江湖長翁文集』十四. 中国哲学書電子化計画. "趙子龍退魏兵玄徳謂,一身是胆署,皆可為法矣,彼皆大不得已,所謂出死入生転敗為功者。"
- ^ 『歴代史論』(論趙雲伐呉之言), "其明大義,断大策,同於魯粛,然度先主不能聴也。"
- ^ 『蕭氏續後漢書』巻九. 中国哲学書電子化計画. "雲雖虎臣,其所建明,通達國體,如還田宅,以繫民心,留軍資以須冬賜,赦吳而專事魏,有諸葛亮念所不到者,若其不納趙範之兄嫂,以遠同姓之嫌,律己之嚴如此,方時諸將,其最優乎?"
- ^ 『活齋集』 巻5,(看史剰語, 趙雲爲將) "蜀之虎臣,世必以關張爲稱首, 其䧺猛氣槩,忠義節行,果可謂古今傑然者也。然其所短者智畧,皆以此見敗。吾觀子龍之爲將,萬夫之勇,固已負於其心,一身之膽, 宜見稱於其君,足以上下於關張。而況其辭第分賞及諫伐吳等事,謙退深遠,識機明分,又非關張之所及,眞良將也。先主武侯與關張子龍,勠力以圖興復,關張亡而先主繼崩,子龍逝而武侯且卒,蜀之君臣上下無人焉。雖欲不亡得乎。"
- ^ 『通鑑触緒』 "雲固武臣之有本末者,而兼有儒臣体用矣。"
- ^ 『鄭元佑集』 "如趙雲之安民于蜀,亦豈宜以有限之屋共無窮之求。"
- ^ 『兼済堂文集』 "倘用順平之言,舎孫権而取関中,秦陇響応,漢室可興矣。"
- ^ 『三省山内辺防論』 "褒中桟道桟閣,用趙雲王平輩忠謹慎密,良将専司之。其意固有在也。"
- ^ 『二十一史論賛』 "而趙雲之辞田宅請滅魏,皆有古大臣識量,寧得僅以以名将律之。"
- ^ 『諸葛忠武侯全書』 "光明洞達,可為濫賞之戒。観雲本末,自是大臣局量,不但名将而已。"
- ^ 『左氏法測要』十一. 中国哲学書電子化計画. "張遼、趙雲出入敵塁,使敵披靡,以英風猛気自足慑敵,敵不敢害也,然非大将之道。"
- ^ 『読史糾謬』 "趙雲別伝載雲従先主本末及辞賜田諫東征,皆卓然識大体。"
- ^ 『歴代名臣録』 "雲与関張及馬超黄忠。号五虎将。陳寿以其強摯壮猛。比於灌滕。"
- ^ 『史傳三編』 "故孫臏減竈而虞詡増竈,趙奢増壘而趙雲開壘,虛實強弱之形,兵事固倏忽而異變也。"
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- ^ 『同治桂陽直隷州記』卷1至卷7. 中国哲学書電子化計画. "順平虎臣,略地領鎮。却婚辞宅,毅志彌奮。"
- ^ 『乾隆御批通鑑』 "使如趙雲所言,居河、渭上流,以伐逆寇,漢事未必無成。"
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参考文献・関連書籍
[編集]正史
[編集]- 『華陽国志』
- 陳寿撰、裴松之注『正史 三国志 5 蜀書』井波律子訳、ちくま学芸文庫、1993年。ISBN 4480080457。
- 「中国の思想」刊行委員会編訳『正史 三国志英傑伝III 貫く 蜀書』徳間書店、1994年。ISBN 4198600864。
- 宮川尚志『諸葛孔明 「三国志」とその時代』光風社選書、1988年。ISBN 487519014X。
- 坂口和澄『三国志人物外伝 亡国は男の意地の見せ所』平凡社新書、2006年。ISBN 4582853250。
- 渡邉義浩 著「趙雲 主君の子を守り抜く」、鶴間和幸 編『侠の歴史・東洋編(上)』清水書院、2020年、240-249頁。ISBN 9784389501228。
- 石川夏子 著、渡邉義浩監修 編『三国志 英傑完全ランキング』宝島社、2020年。ISBN 9784299010926。
演義
[編集]- 『三国志演義(毛宗崗本版)』
- 董毎戡『三国演義試論』上海古典文学出版社、1956年。ISBN 9787200148374。
- 廬盛江『原来三国是這様』知本家文化事業有限公司、2007年。ISBN 9789867315564。
- 小林瑞恵(後藤裕也、高橋康浩、中川諭)「関羽・趙雲 崇拝・愛される武将」『武将で読む三国志演義読本』勉誠出版、2014b、147-261頁。ISBN 9784585290780。
- さくら剛『三国志男』幻冬舎文庫、2014年。ISBN 4344422201。
- 武田靖彦 著、渡邉義浩監修、株式会社コーエーテクモゲームス企画協力 編『三国志ビジュアル百科』講談社、2018年。ISBN 9784065135808。