荀惲

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荀惲
後漢[1]
虎賁中郎将
出生 生年不詳
豫州潁川郡潁陰県
死去 没年不詳
拼音 Xún Yùn
長倩
主君 曹操
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荀 惲(じゅん うん)は、中国後漢時代末期の人物。長倩(ちょうせん)[2]豫州潁川郡潁陰県(現在の河南省許昌市)の人。

曹操の右腕を務めた荀彧の長男。妻は安陽公主[3]。子は荀甝・荀霬。

生涯[編集]

建安17年(212年)、父の荀彧が亡くなると、万歳亭侯の爵位を継いだ。

当時、では曹丕曹植の兄弟間で太子の座を巡る争いが展開され、曹丕は荀惲に対しへりくだったが、荀惲の側は父の没後、曹植と交友を結んだ。また荀惲は曹丕の盟友の夏侯尚と不和だったこともあり、曹丕からは恨みを買った。

官位は虎賁中郎将に上り、若死した。子の荀甝・荀霬は曹丕の外甥であることから寵遇を受けた。

羅貫中の小説『三国志演義』では、荀彧が曹操の意を受けて自殺した後、その死を曹操に報告する場面で名前のみ登場する(第61回)。

出典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 極官・没年が後漢時代か、曹丕が禅譲を受けた後の魏の時代かは定かではない。
  2. ^ 『三国志』荀彧伝注『荀氏家伝』
  3. ^ 曹操の娘。