周羣

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周羣
蜀漢
儒林校尉
出生 生年不詳
益州巴西郡閬中県
死去 没年不詳
拼音 Zhōu Qún
仲直
主君 劉璋劉備
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周 羣(しゅう ぐん、生没年不詳)は、中国後漢末期の政治家。仲直益州巴西郡閬中県の出身。父は周舒。子は周巨。

経歴[編集]

幼い頃より、父から図讖の術を教わった。周羣は自邸の庭に櫓を建て、奴僕たちに天空の異変を観察させた。少しでも異変があるとすぐに報告させ、昼夜を問わず自ら確かめた。その結果、予言はよく的中したという。劉璋に召し出され、師友従事に任命された。

建安7年(202年)、越巂郡に変わる事件があった。周羣は、前漢哀帝の時にも同じ出来事があったとして、王朝交代の予兆であると主張した。それから18年後の建安25年(220年)、後漢は滅びが興った。

建安12年(207年)12月、彗星鶉尾星官に入ったのを見て、劉表の死を予言した。劉表は翌年8月に死去した。

建安17年(212年)12月、彗星が五諸侯の星官に出ると「西方で土地を占拠している軍閥は、みな領土を失うだろう」と予言した。西方に割拠していた益州の劉璋、漢中張魯涼州韓遂枹罕宋建は、2年のうちに降伏するか敗死した。

建安19年(214年)、劉備が益州を平定すると、儒林校尉に任命された。

劉備は曹操から漢中を奪おうと出兵を企て、周羣に占わせた。周羣は「土地を手に入れても住民は手に入らないでしょう。また、一部隊しか出さないのであれば必ず負けます」と答えた。劉備は進言を聞かず、呉蘭雷銅を出撃させたが二人とも敗死した。その後、漢中攻略には成功したが、住民の多くは曹操によって移住させられた後だった。このように多くの予言を的中させたことから、茂才に推挙された。

子の周巨も図讖の術を受け継いだという。

参考文献[編集]