孫皎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

孫 皎(そん こう、? - 219年)は、中国後漢末期の武将。孫静の三男。叔朗。子に孫胤・孫晞・孫咨・孫弥・孫儀。

はじめ護軍校尉に任ぜられ、2千の兵を預かっていた。曹操との濡須での戦いで奮戦し、精鋭であるという評判を得た。

都護征慮将軍に昇進し、程普に替わって夏口司令官になる。黄蓋と兄の孫瑜が死去すると、その配下の軍も併せて孫皎が指揮をすることとなった。沙羨・雲杜・南新市・竟陵を領地(奉邑)として与えられ、代官により統治させた。

人によく施しをし、諸葛瑾をはじめ名士達と交流が盛んで、また部下にも劉靖・李允・呉碩・張梁(の人物)といった優れた人物を取立てて適材適所で用いたため、彼等は力を惜しまず仕事に励んだ。ある時、兵士が敵地から女をさらってきて献上してきた際に、孫皎は女に衣服を与え丁重に送り返し、民衆を慈しむよう軍に徹底させ、名声を得るようになった。また酒席で強かに酔い、年長の甘寧を侮辱したため喧嘩になったが、孫権に譴責されると甘寧に謝罪し、以後は親しく付き合った。

219年劉備との荊州争奪戦において、当初孫権は軍を二つに分けて、呂蒙と孫皎にそれぞれ統率させようとしたが、軍の指揮系統の一本化を重んじた呂蒙に反対されたため、孫皎は後詰めの任にとどまることになった。孫皎は関羽を捕らえるのに大きい功績があったが、その直後に病死。役職と軍勢の多くは、弟の孫奐に受け継がれた。

なお、孫権は孫皎の生前の功績を評価して、子の孫胤を丹陽侯とした。孫胤に子がなく、その死後は弟の孫晞が継いだが、罪を得て自殺し領地は取り上げられた。その他の子である孫咨・孫弥・孫儀も将軍となり、侯に封じられたという。孫咨は羽林の督、孫儀は無難の督までなったが、呉末期の混乱に巻き込まれ、孫咨は滕胤、孫儀は孫峻に殺害されている。