向寵

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向寵
成都武侯祠の向寵塑像
蜀漢
都亭侯・中領軍
出生 生年不詳
荊州襄陽郡宜城県
死去 延熙3年(240年
益州漢嘉郡
拼音 Xiàng Chǒng
主君 劉備劉禅
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向 寵(しょう ちょう)は、中国三国時代蜀漢の武将。荊州襄陽郡宜城県の人。弟は向充

生涯[編集]

三国志』蜀書に叔父の向朗の伝があり、向寵の伝もそこに付される。劉備の時代に牙門将となった。章武2年(222年[1]夷陵の戦いで蜀漢は大敗を喫するが、向寵の陣営だけは守備を全うした。

劉禅の時代に当たる建興元年(223年)、都亭侯に封じられる。後に中部督となり、近衛兵を指揮した。

建興5年(227年[2]諸葛亮北伐に先立って出師表を上奏したが、その中で向寵を「先帝(劉備)からも有能と称賛された」人物であるとし、「営中(軍事)のことは全て彼に諮問されれば必ずや協調を得られるでしょう」と推薦した。

中領軍に昇進した後の延熙3年(240年)、漢嘉郡の異民族を討伐した際に、殺害された。

三国志演義[編集]

羅貫中の小説『三国志演義』では第91回で名前のみ挙がり、正史同様に出師表の中で推薦され、宮廷を守る大将となる。

出典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『三国志』蜀書 先主伝
  2. ^ 『三国志』蜀書 諸葛亮伝