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襄陽市

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中華人民共和国 湖北省 襄陽市
隆中
隆中
隆中
旧称:襄樊市
湖北省中の襄陽市の位置
湖北省中の襄陽市の位置
湖北省中の襄陽市の位置
中心座標 北緯32度01分 東経112度08分 / 北緯32.017度 東経112.133度 / 32.017; 112.133
簡体字 襄阳
繁体字 襄陽
拼音 Xiāngyáng
カタカナ転写 シアンヤン
国家 中華人民共和国の旗 中華人民共和国
湖北
行政級別 地級市
面積
総面積 19,724 km²
人口
総人口(2004) 578.8 万人
市区人口(2004) 219.23 万人
経済
電話番号 0710
郵便番号 441000
ナンバープレート 鄂F
行政区画代碼 420600
公式ウェブサイト http://www.xf.gov.cn/

襄陽市(じょうよう-し)は、中華人民共和国湖北省に位置する地級市2010年12月、襄樊市から襄陽市に改名された。旧名の襄樊の名は、襄陽・樊城から得ている。漢水(漢江)の重要な内陸河川港。

地理

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湖北省西北部に位置する。長江の最大の支流、漢水の中流域にあたる。北を河南省南陽市、東を随州市、南を宜昌市荊門市、西を十堰市神農架林区と接する。

歴史

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前漢の初期に襄陽県が設置されたのが行政区画の初見である。新朝に相陽県と改称されたが、後漢が成立すると再び襄陽県に戻されている。後漢末に荊州の治所が襄陽に定められて以来、この地の政治的、軍事的な重要度は高まり、三国時代には(蜀漢)の重要な係争地の一つとなり、襄陽の戦いがあった。なお、諸葛亮が当初寓居していたのは、襄陽西北郊外の隆中山である。

南宋には襄陽府が設置され、北方の金朝元朝に対する前線補給基地となり、激しい攻防戦が繰り広げられた。著名な回回砲が用いられたのは、元朝の南宋に対する、5年間にわたる襄陽攻略戦(襄陽・樊城の戦い)でのことであった。最終的には漢水封鎖により襄陽・樊城の連絡を絶たれた宋軍は襄陽を失っている。襄陽の河岸は船舶航行に不向きであり、商業は対岸の樊城の方が盛んであった。それに対して、襄陽は政治(行政)・軍事・教育の中心地となっている。元朝以降も政治的・軍事的重要性が認められ、元朝は襄陽路、明朝は襄陽府を設置している。

明末には李自成率いる反乱軍が襄陽を占領、襄京と改称し、ここで大順を建国している。まもなくして襄陽は明軍に奪還されたが、大順は新本拠地の西安に移り、やがて明朝を滅亡させる事になる。

中華民国建国当初は襄陽道の管轄とされたが、1927年民国16年)の道制廃止以降は湖北省直轄とされた。しかし1928年(民国18年)に行政督察区制度が施行されると北行政公署に、1932年(民国21年)には第八行政督察区、1936年(民国25年)には第五行政督察区の行政監督を受けた。また1930年7月から1932年6月にかけては中国共産党により黄竜壋一帯に襄陽県ソビエト政権が樹立され、鄂豫辺区の管轄とされた。

1948年(民国37年)1月、国共内戦により区域を実効支配した中国共産党は襄陽県愛国民主政府を設置、桐柏行政区公署第三専署及び漢南弁事処の管轄とした。1949年(民国38年)2月、襄陽行政区専員公署、中華人民共和国成立後は襄陽専員公署(1968年8月に襄陽地区革命委員会、1978年に襄陽地区行政公署と改称)の管轄とされた。

1983年10月、地級市の襄樊市に移管、2001年には襄陽県は廃止となり、襄樊市の市轄区としての襄陽区が成立した。2010年12月、襄州区に改名された。

行政区画

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3市轄区・3県級市・3県を管轄下に置く。

襄陽市の地図

年表

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この節の出典[1][2]

襄陽地区

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  • 1949年10月1日 - 中華人民共和国湖北省襄陽専区が成立。襄陽県棗陽県南漳県光化県穀城県自忠県保康県が発足。(7県)
  • 1949年10月 (8県)
  • 1951年6月 - 襄陽県の一部が分立し、地級市の襄樊市となる。(8県)
  • 1951年8月1日 - 光化県の一部が分立し、老河口市が発足。(1市8県)
  • 1952年1月7日 - 鄖陽専区鄖県均県房県竹山県竹渓県鄖西県を編入。(1市14県)
  • 1952年6月8日 - 孝感専区随県を編入。(1市15県)
  • 1952年8月7日 - 襄樊市を編入。(1市15県1鎮)
    • 襄樊市が鎮制施行し、襄樊鎮となる。
  • 1952年8月 - 老河口市が光化県に編入。(15県1鎮)
  • 1952年11月30日 - 襄陽県の一部が河南省南陽専区唐河県に編入。(15県1鎮)
  • 1953年4月25日 - 襄樊鎮が市制施行し、襄樊市となる。(1市15県)
  • 1955年2月15日 - 洪山県が棗陽県・宜城県・随県、荊州専区鍾祥県に分割編入。(1市14県)
  • 1960年11月17日 - 均県・光化県が合併し、光化県が発足。(1市13県)
  • 1962年6月1日 - 光化県の一部が分立し、均県が発足。(1市14県)
  • 1965年7月19日 - 鄖県・均県・房県・竹山県・竹渓県・鄖西県が鄖陽専区に編入。(1市8県)
  • 1970年 - 襄陽専区が襄陽地区に改称。(1市8県)
  • 1970年5月28日 - 保康県の一部が鄖陽地区房県、宜昌地区興山県恩施地区巴東県の各一部と合併し、省直轄県級行政区の神農架林区となる。(1市8県)
  • 1979年6月21日 - 襄樊市が地級市の襄樊市に昇格。(8県)
  • 1979年11月16日 (2市8県)
    • 光化県の一部が分立し、老河口市が発足。
    • 随県の一部が分立し、随州市が発足。
  • 1983年8月19日 - 随州市・老河口市・襄陽県・棗陽県・宜城県・南漳県・保康県・穀城県・光化県・随県が襄樊市に編入。

襄樊市(第1次)

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  • 1951年6月 - 襄陽専区襄陽県の一部が分立し、襄樊市が発足。(1市)
  • 1952年8月7日 - 襄樊市が襄陽専区に編入。

襄樊市(第2次)

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  • 1979年6月21日 - 襄陽地区襄樊市が地級市の襄樊市に昇格。(1市)
  • 1983年8月19日 (3市6県)
  • 1984年4月27日 (4区2市6県)
  • 1988年1月8日 - 棗陽県が市制施行し、棗陽市となる。(4区3市5県)
  • 1994年6月10日 - 宜城県が市制施行し、宜城市となる。(4区4市4県)
  • 1994年9月29日 - 随州市が省直轄県級行政区となる。(4区3市4県)
  • 1995年10月22日 (2区3市4県)
    • 襄城区および郊区の一部が合併し、襄城区が発足。
    • 樊東区・樊西区および郊区の残部が合併し、樊城区が発足。
  • 2001年8月31日 (3区3市3県)
    • 襄陽県・樊城区の各一部が合併し、襄陽区が発足。
    • 襄陽県の残部が樊城区・襄城区に分割編入。
  • 2010年11月26日 - 襄樊市が襄陽市に改称。

襄陽市

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  • 2010年11月26日 - 襄樊市が襄陽市に改称。(3区3市3県)

交通

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空路
鉄道

主な駅

観光

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文化

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言語

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言語では、主に西南官話鄂北片の方言が話されているが、1970年前後に呉語東北官話を話す人が多く移住してきたため、言語島が形成されている。西南官話を話す人の内、回族が1万人以上いる。

食文化

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食文化では、湖北料理の内の「襄鄖菜」が食べられている。辛い味付けの牛モツを入れた牛雑麺が有名。

襄陽を舞台とした作品

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小説

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映画

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友好都市

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脚注

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外部リンク

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