金庸

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金庸
2007年・香港
プロフィール
出生: (1924-03-10) 1924年3月10日
死去: (2018-10-30) 2018年10月30日(94歳没)
出身地: 中華民国の旗 中華民国浙江省海寧県袁花鎮
職業: 作家
死没地:  香港湾仔区跑馬地
各種表記
繁体字 金庸
簡体字 金庸
拼音 Jīn Yōng
和名表記: きん よう
発音転記: チン ヨン
英語名 Louis Cha Leung Yung
各種表記(本名)
繁体字 查良鏞
簡体字 查良镛
拼音 Zhā Liángyōng
和名表記: さ りょうよう
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金庸(きんよう、1924年3月10日 - 2018年10月30日[1][2])は、香港の小説家。香港の『明報』とシンガポールの『新明日報』の創刊者。本名は査良鏞(さ りょうよう、拼音: Zhā Liángyōng)。金庸とは筆名であり、本名の「鏞」の字をに分けたものである。

武俠小説を代表する作家で、その作品は中国のみならず、世界の中国語圏(中華圏)で絶大な人気を誇る。

略歴[編集]

浙江省海寧県袁花鎮の出身[3]明末の文人で反運動に身を投じた査継佐一族を祖先に持つ。当初は外交官を目指し、中央政治大学(現・台湾の国立政治大学)で外交について学んだが、不正に抗議した舌禍事件が原因で退学を余儀なくされる。その後、杭州の『東南日報』で取材記者や英語の国際放送受信の担当を経た後、蘇州東呉大学法学院で国際法課程を修習した。

ほどなく金庸は、『大公報』の電気通信翻訳の試験を受けて採用され、香港支社に派遣される。『大公報』の娯楽紙面である『新晩報』が創刊されると、『下午茶座』の編集担当となり、林歓の筆名で映画評論の執筆を行った。

ちょうどその時、大陸では共産党政権の誕生を迎えた。金庸は単身北京に赴き、自分を外交官として採用するように申し出る。しかし、金庸の思想が共産党と相容れないものだったために、この申し出は拒否された。また、父が反動地主として逮捕される事件も発生する。

これによって外交官への夢を完全に諦めた金庸は香港に戻り、記者として復職した。その後、同僚であった梁羽生が武俠小説の執筆を始めた影響もあって、1955年、『新晩報』に第1作である『書剣恩仇録』を発表した。それを皮切りに、武俠小説の執筆を開始し、一躍人気作家となった。1959年には独立して『明報』を創刊する。当初は金庸の武侠小説を毎日読めるという宣伝文句を看板に香港の巷のゴシップ記事や競馬情報などを扱う商業紙であったが、1962年5月に中国大陸の難民が大量に香港に流入した事件を皮切りに中道の新聞へと徐々に脱皮し、香港の外省人に支持される新聞として成長を遂げていく。

以降、『明報』に社説と武俠小説を毎日執筆連載して、人気作家としての地位を不動のものとすると共に、かつて属した『大公報』などの左翼系各紙と、共産党の施政を巡って激烈な論争を繰り広げ、文化大革命勃発時には、その真の目的が劉少奇国家主席打倒にあることを、終末期には当時権力の絶頂にあった林彪の失脚をそれぞれ予言し、政治評論家としての才能も遺憾なく発揮した。1972年には『鹿鼎記』の連載終了と共に、突如作家としての断筆宣言を行って世間を驚かせた。

香港の中国への返還が決まると、香港基本法起草委員会の委員に、中国側の推薦で任命されたが、返還後の香港の政治体制について、金庸が示した方案は、香港の政治的安定を優先させ、中国側の意向に沿ったものだったために、民主派から激しい非難を浴びた。ところが、1989年に天安門事件が発生するや、金庸は抗議して即座に委員を辞し、再び世間を驚かせた。

その後、金庸は『明報』を辞し、持ち株の大半を売って引退した。しかし、引退後もオックスフォード大学の客員教授に選ばれたり、香港特別行政区準備委員会に香港側の委員として参加するなど、その活動は衰えていない。1999年より浙江大学の人文学院長を務めた。2002年には、15作品ある自身の武俠小説の改訂を開始した。

2018年10月30日、香港養和病院で死去。94歳没[4]

金庸の武俠小説[編集]

1955年に処女作『書剣恩仇録』の連載を開始して以来、1972年に『鹿鼎記』を最後の作品として断筆するまでに、長編を中心に15作の武俠小説を書き上げた。それらの作品群は、文学的な表現と巧みな展開の物語で、爆発的な人気を引き起こし、香港中国のみならず、台湾や華人の多い東南アジア各国でも広く読まれている。その浸透ぶりは、「中国人がいれば、必ず金庸の小説がある」と言われるほどで、中華圏における民族作家として確固たる地位を確立している。

金庸の武俠小説は動乱の時代を舞台としたものが多く、壮大な歴史背景に、実際の歴史上の人物も多数登場して虚実入り混じった世界を形作り、武俠小説の枠を超えた壮大な歴史叙事文学と呼ぶに相応しいものとなっている。また、作品の中では、民族間の葛藤が描かれることが多いが、それらの関係は伝統的な中華思想によっては捉えられておらず、諸国家・民族が客観的かつ平等に描かれているのが大きな特徴となっている。

武俠小説はそれまで低俗な大衆小説として知識人からは軽蔑される傾向が強かったが、豊かな教養に裏打ちされ、また西洋小説の影響も受けた金庸の作品は知識人の間でも好評を博し、金庸の作品の主題や物語、登場人物を研究する「金学」なる学問まで生まれた。武俠小説を文学としても評価される域にまで引き上げたことで、金庸は、「武俠小説の第一人者」との呼び声も高い。また、作品の多くは映画やドラマ、漫画、ゲームなど様々な媒体に進出して大衆に広く愛され、中華圏における広範な娯楽文化の一翼を担っている。1995年に、現代中国の代表的な作家を選んだ「二十世紀中国文学大師文庫」で、金庸は、魯迅沈従文巴金に続く、第4位に置かれている。

文学以外の活動[編集]

金庸は、香港を代表する名士の1人であり、小説の執筆は多彩な活動の一部に過ぎない。

1959年5月20日に創刊した『明報』は中国語圏のみならず、世界的にも影響力を持つ新聞で、金庸は創刊以来、武俠小説の連載と共に社説の執筆も手がけてきた。中国で文化大革命が行われていた時期、金庸は共産党の施策に反対する態度を明らかにし、左派の論客たちと紙上で激しい論戦を繰り広げた。一時は身の危険を感じ、香港を離れたこともあったほどである。

香港の中国返還が決まるや、返還後の香港の政治体制を決める香港基本法起草委員会に、中国側の推薦で選ばれた。一貫して共産党を批判してきた金庸が中国の推薦を得たのは、香港内外でのその影響力が考慮されたことに加え、中国の政治指導者層内部にも、金庸の武俠小説の愛読者が少なくなかったからと言われる。金庸の提出した香港の政治体制についての法案は、現実を直視して香港の政治的安定を優先し、中国の許容範囲内での民主主義と自由を認めるというものだったために、香港では不評で、特に民主派からは総攻撃を浴び、香港の初代行政長官を狙う野心家との非難も出た。だが、1989年に天安門事件が発生すると、即座に中国への抗議声明を発して委員を辞したことで、世間を驚かせた。法案自体は、その後紆余曲折を経たものの基本的には金庸の草案に沿ったものとなっている。

その後、『明報』を辞して引退したものの、各方面での活発な活動を続けており、中華圏において、大きな影響力を持っている人物の1人である。

主な栄誉、勲章[編集]

金庸の業績に対して、相当な数の栄誉、勲章が授与されている。

作品一覧[編集]

これら武俠小説作品の題名の頭文字を組み合わせると、次のような対聯になる。

飛雪連天射白鹿 笑書神俠倚碧鴛

これは金庸が『鹿鼎記』の後書きで披露したものである。『越女剣』はその後に書かれた短編であるために含まれない。

  • 随筆集
    • 『三剣楼随筆』(金庸、梁羽生、百剣堂主の3人による随筆集)
  • 伝記
    • 『袁崇煥評伝』(袁崇煥の伝記)伝記作品でありながら、『碧血剣』の関係作品でもある。
  • 対談集
    • 『旭日の世紀を求めて―探求一個燦爛的世紀』(池田大作との対談集)

日本語訳について[編集]

徳間書店は90年代中期に市場調査を行い、その結果金庸が世界で最も売り上げのある作家の一人であることを知った。元々、徳間書店は社長の徳間康快が中国との交流が深く、中国関係の書籍も多数刊行していた。そのため、日本ではまったく無名だった金庸の全ての版権を買い取り、日本語訳の出版を決定。1996年4月、来日した金庸と徳間書店社長(当時)である徳間康快が契約を交わし、1996年に第一弾『書剣恩仇録』が発売された。「金庸武俠小説集」と名付けられたこのシリーズは、2004年3月までにすべて翻訳刊行され、2011年現在、文庫化が進められている。

  • 徳間書店金庸武俠小説集
    • 第1回配本『書剣恩仇録』(全4巻、原題:書劍恩仇録、訳:岡崎由美
    • 第2回配本『碧血剣』(全3巻、原題:碧血劍、監修:岡崎由美、訳:小島早依)
    • 第3回配本『俠客行』(全3巻、原題:俠客行、監修:岡崎由美、訳:土屋文子)
    • 第4回配本『秘曲 笑傲江湖』(全7巻、原題:笑傲江湖、監修:岡崎由美、訳:小島瑞紀)
    • 第5回配本『雪山飛狐』(全1巻、原題:雪山飛狐、監修:岡崎由美、訳:林久之)
    • 第6回配本『射鵰英雄伝』(全5巻、原題:射鵰英雄傳、監修:岡崎由美、訳:金海南
    • 第7回配本『連城訣』(全2巻、原題:連城訣、監修:岡崎由美、訳:阿部敦子)
    • 第8回配本『神鵰剣俠』(全5巻、原題:神鵰俠侶、訳:岡崎由美・松田京子)
    • 第9回配本『倚天屠龍記』(全5巻、原題:倚天屠龍記、監修:岡崎由美、訳:林久之・阿部敦子)
    • 第10回配本『越女剣』(全1巻、原題:白馬嘯西風、鴛鴦刀、越女劍、監修:岡崎由美、訳:林久之・伊藤未央)
    • 第11回配本『飛狐外伝』(全3巻、原題:飛狐外傳、監修:岡崎由美、訳:阿部敦子)
    • 第12回配本『天龍八部』(全8巻、原題:天龍八部、監修:岡崎由美、訳:土屋文子)
    • 第13回配本『鹿鼎記』(全8巻、原題:鹿鼎記、訳:岡崎由美・小島瑞紀)

日本での講演活動[編集]

  • 2001年11月5日 神奈川大学浙江大学「第11回日中交流シンポジウム」基調講演(当時は浙江大学人文学院院長)。当時のインタビューは『金庸は語る 中国武俠小説の魅力』(神奈川大学評論ブックレット、述:金庸 著:鈴木陽一)に掲載。
  • 2007年9月30日 立命館大学映像学部「国際クロスメディアシンポジウム」(会場:京都太秦映画村内中村座)。直前に体調不良のため出席できず。側近で香港天地図書副総編集長の孫中川が原稿を代読。

作品とリンクしている史実[編集]

映像化作品[編集]

中華圏(中国大陸中国香港台湾シンガポールなど)で数え切れない程のテレビドラマ、映画、ゲーム、マンガなどが製作されている。

金庸の作品は中華圏で多くの人に読まれており、ほとんどのファンが原作を熟知している。そのため、映像化作品は脚色が求められる傾向にある。しかし、その結果、原作とかけ離れたものに仕上がる場合が多く、そのため金庸自身は映像化作品のほとんどに不満を持っている。時には厳しく抗議するときもある。

映像化作品については、各項目の節、及びCategory:金庸原作のテレビドラマCategory:金庸原作の映画作品を参照。

家族[編集]

金庸の妻は朱玫、二人の間に四人の子を育ていました。

  • 長男:査伝侠:若い時から優れた青年のでその将来は期待された、19歳の時うつ病を患って、自殺した。
  • 次男:査伝倜:料理職人、料理と美食の評論家。
  • 三女:査伝詩
  • 四女:査伝訥

金庸の母の徐禄は徐志摩の父の徐申如の従妹。

脚注[編集]

  1. ^ 武俠小說泰斗金庸逝世 享年94歲”. Apple Daily 蘋果日報. 2018年10月30日閲覧。
  2. ^ 金庸度過92歲生日:身體硬朗思維敏捷”. 中國新聞網 (2016年3月11日). 2018年10月5日閲覧。
  3. ^ 金庸故居在鄉村,在田園/霍無非 大公網 2023年3月22日閲覧。
  4. ^ “著名作家の金庸氏が死去 94歳”. 新華社通信社. (2018年10月30日). https://web.archive.org/web/20181031005317/https://this.kiji.is/429990977073071201 2018年10月30日閲覧。 

参考文献[編集]

  • 『武俠小説の巨人 金庸の世界』(徳間書店、監修:岡崎由美
  • 『きわめつき武俠小説指南―金庸ワールドを読み解く』(徳間書店、監修:岡崎由美)
  • 『漂泊のヒーロー―中国武俠小説への道』(アジアぶっくす、著:岡崎由美)
  • 『金庸は語る 中国武俠小説の魅力』(神奈川大学評論ブックレット、述:金庸 著:鈴木陽一
  • 『旭日の世紀を求めて―探求一個燦爛的世紀』(金庸・池田大作 潮出版社)

外部リンク[編集]

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