ハーン
ハーン(汗、可汗、合罕、干、qaġan/qaγan、khaan)は、北アジア、中央アジア、西アジア、南アジアにおいて、主に東北に住む騎馬民族の君主や有力者が名乗る称号。古い時代の遊牧民の君主が名乗った称号カガン(古テュルク語: ![]()
![]()
- qaġan/qaγan)はその古形である[1]。
カン(ハン)とカアン(ハーン)は異なる
[編集]12世紀のモンゴル高原では、「カン(Qan)」はモンゴル、ケレイト、ナイマンなど部族の長が名乗る称号(君主号)であり、モンゴル帝国を築いたチンギス・ハーンも、彼の在世当時はチンギス・カン(Čingγis Qan/Činggiz Qan)と称していた[2]。しかし、チンギス・カンを継いでモンゴル帝国第2代君主となったオゴデイは、モンゴル帝国の最高君主が他のカンたちとは格の異なった存在であることを示すために、古の「カガン」を復活させた「カアン(qa'an, qaγan)」という称号を採用し、のちにモンゴル帝国の最高君主が建てた元王朝も「カアン」の称号を受け継いだ[3][2]。帝国西部に位置するテュルク系国家や西遼などの旧領では、最高指導者を「カーン(khaqan、qa'an)」と呼ぶ慣習があったため、貨幣発行などの事例により、1220年代頃から「カン」と「カーン」の使い分けが次第にみられ、帝国東部でも1254年と1257年に印された『少林寺蒙漢合璧聖旨碑』のウイグル文字モンゴル語文/漢文が、それぞれ「カン/罕」から「カーン/合罕」へ切り替わっている事から、正式に大モンゴル国の最高指導者の呼称を「カアン」と定めたのは1250年代と考えられている[2]。
これに対して、モンゴル帝国西部のチャガタイ・ウルス(チャガタイ汗国)、ジョチ・ウルス(キプチャク汗国)、フレグ・ウルス(イルハン朝)系の地方の諸王には「カン(ハン)」号が使用された[4][5]。やがてこうしたモンゴル帝国の諸王国(汗国)の「カン(ハン)」号がペルシア語では「ハーン خان khān」(ペルシア語では長母音となる)と表記・発音されたため、アラビア文字使用圏では「ハーン(khān)」と「ハン(χan)」という2通りの表記が生まれ、現代の書籍においてもモンゴル帝国中央の「ハーン」と他地方の「ハン/ハーン」の混同がみられることがある。
なお、ペルシア語では、モンゴル帝国皇帝の称号である「カアン」を、「カーアーン( قاآن qā'ān)」あるいは「カーン( قآن qān/qa'ān)」と表記しており、モンゴル語の「カン(qan)」に由来する「ハーン( خان khān)」の表記とははっきり区別されていた。ティムール朝の史料では例外として「ハーカーン」という名称をチャガタイ・ウルスなどのチンギス家の君主たち、あるいはティムール朝の君主の雅称として形容的に使われるが、オゴデイ以下のモンゴル皇帝たるカアンに対しては、もちろん「カーアーン」という語を使用している[2]。例外を除き、ジョチ・ウルス系の君主を始め、西方のテュルク語・ペルシア語圏の君主に対しては「カーアーン」は使われていない[2]。
モンゴル帝国皇帝(カアン)としてのハーン
[編集]モンゴル帝国の皇帝号は第2代オゴデイの時に「チンギス・カン Činggis Qan」に代わって「カアン Qa'an」が採用され、第3代グユクを除く、以降のモンゴル皇帝すべてが「カアン」号を使用した[4][3][6]。しかし、14世紀の北元時代になるとモンゴル語が音声変化を起こし、「カアン」は「ハーン」のように発音されるようになり、現代に至っても「ハーン Khaan」と発音する[7]。
カン(ハン)のペルシア語発音としてのハーン
[編集]上記のようにカアン(ハーン)はモンゴル皇帝号、カン(ハン)はジョチ・ウルス、チャガタイ・ウルス、イルハン朝等の地方君主号であるが、ペルシア語においては長母音になるため、「カアン」は「カーアーン Qā'ān」、「ハン」は「ハーン Khān」と発音する。これらは通常、日本の書籍・研究書では長母音を除かれて表記するのがほとんどであるが、そうでないものもあるため注意が必要である。
ダライ・ラマから授与されたハーン号
[編集]上記のようにハーン号はチンギス・カン直系のモンゴル皇帝だけが使用する唯一無二の称号であったが[8][注釈 1]、16世紀にアルタン・ハーンがゲゲーン・ハーンになって以降、モンゴル皇帝(チャハル当主)ではないハーンが登場するようになり、研究者の間でも区別できない状況が生まれた。
この時代(北元時代)においても「ハーン」はモンゴル全体を統轄する最高の支配者であるとみなされ、他方「ハン」はその下に位置するチンギス・ハーン家の有力者の称号と位置づけられていた。しかしながら時代が下がるにつれてこの区別はあいまいになり、とりわけモンゴル文文献においては「ハン」の称号は「王子」程度の意味に用いられたり、大ハーン以外の有力者が「ハーン」の称号で呼ばれることが一般的になっている。ここではいちおう原則にしたがってハーン、ハンの呼び方を区別したが、原則を破ってハーンを自称する者も多くみられ、厳密にこれを区別することは困難である。 — 森川哲雄「明代のモンゴル」『世界歴史大系 中国史4』山川出版社、1999年,pp.292-293
17世紀以降、モンゴル王侯にとってのハーン号は ダライラマより授けられることでそれまでの、例えばチンギス直系に継承されるハーン号とはまったく異なる権威が具わっていった。(中略)アバタイにとってチベット仏教に入信することで得られる権威とは、当初はハーン号とはまったく異なる権威であったことも考えられる。それは、アルタンがダライラマより授けられた権威が、武力ではなく法輪(仏教)によって世界を統治する「転輪聖王」であって、いわゆるハーン号ではなかったからである。(中略)1586年にアバタイがダライラマ3世より授けられたハーン号は、チンギスの直系が継承していくハーン号とは異なり、チベット仏教に基づく、それまでには見られなかった形のハーン号であった。(中略)17世紀になって、ハルハの3ハーンやオイラトのハーンが、こうしたチベット仏教に基づく権威によって確立していったことを考えると、アバタイの事例はその嚆矢ともいえる。 — 新藤篤史『アバタイの「金剛(včir)」ハーン号と16世紀末ハルハのチベット仏教』
1586年にハルハのアバダイがノモン・イェケ・ワチル・ハーン(nom un yeke včir qaγan)となって以降、ハルハではライフル・ハーン、トシェート・ハーン、ジャサクト・ハーン、チェチェン・ハーン、オイラトではグーシ・ハーン、オチルト・チェチェン・ハーン、ガルダン・ハーンなどがダライ・ラマによってモンゴル皇帝位とは別のハーン位を授与されるようになっていった[9]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考資料
[編集]書籍
[編集]- 村上正二(訳注)『モンゴル秘史 チンギス・カン物語』 1巻、平凡社〈東洋文庫163〉、1970年5月。ISBN 978-4582801637。
- C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』 2巻、佐口透訳注、平凡社〈東洋文庫128〉、1968年12月。ISBN 4582801285。
- 宮脇淳子『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』刀水書房、2002年10月。ISBN 978-4887082441。
- 杉山正明『大モンゴルの世界 陸と海の巨大帝国』KADOKAWA〈角川ソフィア文庫〉、2014年12月25日。ISBN 978-4044092184。
- 杉山正明『モンゴル帝国と長いその後』講談社〈講談社学術文庫 2352 興亡の世界史〉、2016年4月12日。ISBN 978-4062923521。
- 白石典之『チンギス・カン: “蒼き狼”の実像』中央公論新社〈中公新書 1828〉、2006年1月1日。ISBN 978-4121018281。
- 森川哲雄『中国史』 4巻、山川出版社〈世界歴史大系〉、1999年6月30日。ISBN 978-4634461802。
論文
[編集]- 杉山正明「元代蒙漢合璧命令文の研究(一)」『神戸市外国語大学外国学研究』第21巻、神戸市外国語大学外国学研究所、1990年3月、1-31頁、ISSN 02899256。
- 新藤篤史「アバタイの「金剛(včir)」ハーン号と16世紀末ハルハのチベット仏教」『大正大学大学院研究論集』第37巻、大正大学、2013年、156-148頁、CRID 1050282677933752960、ISSN 03857816、NAID 120005536281。