ホンタイジ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
太宗 愛新覚羅皇太極
後金→清
第2代皇帝(フワンディ)
清 佚名 《清太宗崇德皇帝朝服像》.jpg
清太宗崇徳皇帝朝服像(北京故宮博物院蔵)
王朝 後金→清
在位期間 1626年10月20日 - 1643年9月21日
都城 盛京(Mukden)
姓・諱 愛新覚羅皇太極
蒙文尊称 セチェン・ハーン
満州語 ᡥᠣᠩ
ᡨᠠᡳᠵᡳ
hong taiji
諡号 文皇帝(genggiyen šu hūwangdi)
応天興国弘徳彰武寬温仁聖睿孝敬敏昭定隆道顕功文皇帝
廟号 太宗
生年 万暦20年10月25日
1592年11月28日
没年 崇徳8年8月9日
1643年9月21日
ヌルハチ(第8子)
側福晋葉赫那拉氏(孝慈高皇后)
皇后 ジェルジェル(孝端文皇后
陵墓 昭陵(eldengge munggan)
年号 天聡(sure han):1627年 - 1636年
崇徳(wesihun erdemungge):1636年 - 1643年

皇太極(ホンタイジ、満州語: ᡥᠣᠩ
ᡨᠠᡳᠵᡳ
 転写:Hong taiji)は、後金)の第2代皇帝。君主としての称号は満州語スレ・ハン(Sure han)、モンゴル語セチェン・ハーン。皇太極は皇太子黄台吉とも表記される。三田村泰助は明の陳仁錫『山海紀聞』や李朝の『朝鮮王朝實錄 仁祖實錄』などを根拠に、本名は「ヘカン」であったとする説を提示している[1]

皇太子とも表記されることから、ヌルハチの生前から後継者と目されていたと考える向きもあるが、ヌルハチが死の際にそれに触れていないことと矛盾する。ヌルハチは自分を部族連合体の長であるとしか考えていなかったので、後継者も自分と同じように周囲の推戴によって選ばれるべきである、と認識していたと考える方が妥当であろう。史書(『清実録』)にはホンタイジは順当に何事もなく即位したように書かれているが、このあたりの記述には潤色があると考えられる。

なお、「ホンタイジ」という単語は上述の通り「皇太子」や「王」、「福王」等の意を含んでおり、満州族以外のユーラシア大陸北方遊牧民の間で広く使われた君主号の一種であり、彼以外にも「ホンタイジ」を名乗った者は多く、同時代だけを見ても複数いる。例えば、ホンタイジの死後、乾隆帝によって滅ぼされたジュンガルの歴代王は「ホンタイジ」の称号を名乗っていた。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

ホンタイジは11歳の時に母が死にマングルタイ、デゲレの生母に面倒を見てもらった。マングルタイはヌルハチの五男なのでスンジャチ・アゲ(sunjaci age、五阿哥)と呼んで経緯を示した。[2]幼少の頃から文武に励み、騎射に熟慮し、経典を諳んじ何事も兄より優れていた。父に従い若い頃から戦場を駆け巡り、ウラ(鳥拉)部攻略では6つの城を落とすことに成功している。1615年に正白旗の旗主に取り立てられ、1616年には四大ベイレ(貝勒)となり金の最高指導者の一人となった。だがこの頃ヌルハチに兄の態度が尊大になったと叱責されている。[3] ヌルハチの後継者として長男チュイェン次男のダイシャンの二人は太子を外れていて、ヌルハチはその後正式な後継者を決めなかった。ヌルハチが死亡するとダイシャンの品性をホンタイジは批判した。またダイシャンの息子ヨトやサハリャンも積極的に協力し、結果的にダイシャンが折れてホンタイジは後を継ぐ。この二人はダイシャンから後継者候補から外されていた。[4]

ヌルハチの後継者[編集]

ホンタイジがヌルハチの後を継ぐと、朝鮮が後金に叛いて親明政策を取るようになった。また明の武将なども積極的に登用するようになった。後金は明と断交しているために、当然朝貢が出来なくなっていたが、朝貢の利益は後金にとって非常に重要だったので、それまでは朝鮮を抜け道として間接的に明と通商していた。しかし朝鮮が叛いたことによってこの道が絶たれ、後金の国内には出荷することのできない人参の毛皮などが山積みになってしまった。この状況を打開するため、1627年)1月に天敵であった袁崇煥と和議の交渉する161P、だが上手くいかず頓挫するが明には朝鮮を援助する力が無く[5]ホンタイジは天聡元年(1627年)に従兄のアミン(阿敏)3万の大軍率いさせを朝鮮へ遠征させた。朝鮮を弟、金を兄とする密約を結んだ。(丁卯の役)。

大凌河城の戦い[編集]

同じ年に1631年8月錦州の前線基地の大凌河城を攻めた。今まで梯子をかけて斬り込む作戦を取っていたが、今回は兵糧攻めを採用した。明軍は完全に身動きが取れなくなってしまい、敵将袁崇煥の部下の城主の祖大寿10月に清に投降した。この時ホンタイジは彼に抱擁して、籠城の苦労をいたわった。[6]ホンタイジは祖大寿に錦州城の攻め方を聞くと「自分が投降した事を極秘して錦州城に行き、金軍が攻めてきたときに城内で呼応する」と提案する。ホンタイジはそれを信じて祖大寿とその弟祖大楽を錦州城に行かせた。実はこれは策略であり、実はホンタイジを欺いていた。ちょうどその頃毛文竜の副将だった孔有徳耿仲明は大凌河城救援に朝廷から命じられた。彼らは毛文竜を敬愛しており、毛文竜を処刑した明に叛旗を翻した。しかし明に判明して、逆に撃退され、二人は逃亡した。1633年5月に船数百隻と共に二人は清に投降して、ホンタイジはこの知らせに大いに喜び、彼らに接見した時に抱き抱えて迎えた。[7]また1633年10月毛文竜の副将の尚可喜も帰順した。この三人は大砲、軍船を持参しており後金軍の作戦に大いに役に立った。この三将の舞台は朝鮮や、入関戦争でも活躍して後に三人は王爵位を当てられて、漢三王と呼ばれることになる。しかし敵将袁崇煥の知るところとなり、敗退した(後に宦官を買収して袁崇煥を誅殺させた)。

モンゴル遠征[編集]

西のモンゴルチャハル部も明と同盟を結び、後金に敵対するようになった。当時リンダン・ハーンは1927年カルカ部に侵入し、ナイマン部、アオハン部はホンタイジに助けを求めた、またカラチン部、オルドス部、アバイ部、アスド部など諸部は手を結びリンダン・ハーンと戦った。勝利はしたものの報復を恐れた諸部はホンタイジに救援求め、ホンタイジは満蒙の連合の盟主となった。1628年自ら兵を率いたホンタイジはトラド部の軍勢を破った。この年の秋カラチン部、ナイマン部、アオハン部などの諸部と連携してシルガ、シベトゥ、タントゥなどに進軍して、大興安嶺まで勢力を達した。それから数年間にらみ合いが続いたが、天聡5年(1631年)にはチャハル部のリンダン・ハーンに勝利し、[1632年]]3月にリンダハーンが明に投降した事を知るとホンタイジは激怒して、ドルゴン、アジゲ、ドドを連れてジョーウダ(昭鳥達)に着き、モンゴル諸部の兵と合流して総兵力は10万となった。しかしリンダハーンは捕まらず、6月に藩陽に帰途する。その途中でリンダン・ハーンが死去した事を知る。妻子がいる事を知ったホンタイジは次に妻子を捉えようと再び兵を進める。ドルゴン、ヨト、サハリャン、ホーゲはそれぞれ万騎を従え一ヶ月捜索を続けた。

逃亡生活に疲れた王妃とリンダンの息子エジェイ中国語版は、玉璽をホンタイジに献上して帰順を願った。この帰順を喜んだホンタイジはリンダン・ハーンの罪を許し、エジェイを外藩親王に封じた。明の「西遼」をもって「東夷」を制するは挫折したのだった。[8]またこの頃貂皮などの産物を朝貢する黒竜江下流地域の部族に1635年兵を派遣する。

清皇帝[編集]

1636年、ホンタイジは玉璽を手に入れたことを機に、満州族漢族モンゴル族の三族から推戴を受けた。 すなわち国王から正式に皇帝となり、国号を大清国(Daicing gurun)とし、併せて崇徳改元した。ヌルハチは金国を目指したが、既にその金国より広大になっており、単なる後継国で無い事を内外にアピールする狙いがあった。[9]また女真という呼称から満州と変更した。

丙子の役[編集]

ホンタイジは「北京を攻略することは今できない。北京攻略は大樹を切り倒すように両端を斧で切り込んで行くそうすれば大樹も倒れる」と言い目標を明から朝鮮に変更する。[10]1637年、12月2日ホンタイジの皇帝即位を認めないことを朝鮮は表明した。また朝鮮人の目には女真は政治、経済、文化は朝鮮より遥かに低く野蛮人と認識していた。[11]モンゴルや孔有徳、耿仲明と共に総勢12万の軍勢で親征した。清軍は次々に進軍して朝鮮国王の仁祖がいる南漢山城を包囲した。城にはわずか1万2千人しか兵士がいなかった。援軍は王を救出しようと援軍を送ったがその都度清軍に撃破された。城から出撃したりしたが成果は上がらなかった。ホンタイジは降伏を呼びかけ1月29日に降伏した。浦南の壇上の座るホンタイジに仁祖は三跪九叩頭をした。この戦いを丙子の役と言い、朝鮮と明の冊封関係を絶つことに成功し、朝鮮を清の冊封国とした。

明との攻防[編集]

1636年8月12日に明に再び攻め入る。アジゲ、アバタイに任命して関内に攻め入った。この時ドド、ドルゴンに山海関方面を攻撃するように見せかけ明を引き付けアジゲ、アバタイは独石口から関内に延慶居庸関昌平を襲撃した。しかし北京攻略の意図は無く8月末に帰還した。明の兵部尚書張鳳翼と宣大総督梁延棟はこの戦いの責任を取り自決した。[12]

1638年8月から翌年から三月から七ヶ月間主将をドルゴン、ホーゲ、アバタイの左翼軍ヨト、トドの右翼軍が関内に襲撃した。この時に密雲総督呉阿衡が追撃して逆に戦死した。 明はこれに慌てたが主戦派、和平派で真二つに別れ効果的な対応を決められないまま戦局を悪化させた。11月高陽城の戦いで孫承宗が戦死した。12月に太監高起潜も監軍として出撃したが、なすところなく逃走した。主戦派リーダーの盧象昇5千は巨鹿で孤軍奮闘したが殲滅された。巨鹿は北京南方にあり清軍はここまで奥深く攻めた。1月山東省臨清済南を攻撃した。済南では徳王朱由枢を捕らえる。この戦いで20万人以上の捕虜を得た。[13]

錦州城を1941年に再び攻める。この戦いは補給線を保つために遼西を一掃しようとする本格的な明征伐だった。錦州城の制海権は明にある、まだ余裕があった、大凌河城と同じように包囲戦を敷いた。この戦いは孔有徳、耿仲明の「漢三王」の部隊もいた。また清を欺いた祖大寿が守将であり、ホンタイジと因縁があった。錦州危うし、と朱由検は李自成と争っていた洪承畴を呼び出し、清軍を撃破するように大命を下した。洪承畴は8人の総兵[14]と13万の軍勢を率いて錦州城に向かった。洪承畴は持久戦を提案して自分勝手な部下達を説得した。しかし朝廷は長期間賄える食料が無い事から短期決戦を要求する。洪承畴は憤慨したが、皇帝の命令なのでしぶしぶ従った。くしくもサルフの戦いのと同じ失敗をしてしまう。短期決戦を選んだ洪承畴は筆架山島に食料を置いて、兵には軽装させた。これを察したホンタイジはホーゲアジゲに5千の兵を率いさせ食料を焼いた。 清はこの大軍に錦州松山、杏山、などをすっかり包囲した。ちなみにこの頃からホンタイジの体調が悪くなった。

洪承畴は決戦を主張したが、部下は包囲を突破して再び立て直すべきと主張し、実行した。しかし包囲は固く失敗する。その後将軍たちは逃げ出し5万人以上の死傷者を出した。呉三桂は寧遠に戻り、洪承畴はなんとか松山城に帰還したが兵は一万足らずだった。

ホンタイジはこのチャンスを逃さず松山城を攻めたので、洪承畴はいよいよ追い込まれる。清には祖大寿の息子祖可法は旧知の仲である夏承徳袁崇煥の例を出して説得した。夏承徳は1642年2月自分の息子をホンタイジに預けて投降する。2月21日清の攻撃に応呼した夏承徳もあり、松山城は落城し洪承畴を捕らえた。囚われた洪承畴は清に反抗したが、ホンタイジの寛大な態度に心動かされ彼に忠誠を誓った。ホンタイジはこれに喜び洪承畴を厚遇した。洪承畴もこれに答えて清の入関に貢献して、靖南王に任命されている。松山城が落城したことで完全に孤立した錦州城の祖大寿は息子の説得もあり、投降した。ホンタイジは一度裏切った彼を許し、生計を立つようにした。洪承畴や祖大寿を重要したのは明の政治的影響力が強く、その後、明の高官が帰順する事が増えて、反清感情も和らいだ。[15]

清軍は一気に寧遠城を攻めようとする意見が多くなるが、ホンタイジは兵を休め朝廷に揺らがす方が良いと考えた。

突然の死[編集]

1642年アバタイが大将となり、満州、モンゴル、漢の三族からなる大軍を率いて再び清軍は関内に入った。ホンタイジはアバタイに対して農民軍と明への対応を指示した。

  1. 和平を求める使者が来れば清皇帝に伝えること
  2. 李自成軍と対峙した時は明征伐のために入関した事を十分に説明し、衝突をさけること
  3. 農民軍兵を誤殺しないように、部下に厳重に注意する事
  4. 農民軍が清に連絡を取りたい場合は手紙や使者を瀋陽に送ること

そしてアバタイは雁門関を攻撃して、白騰蛟と白広恩の部隊を打ち破った。その後に河関を攻撃した後に衾州府を攻略したその際に朱衣珮ら諸王及び官司数千人虐殺した[16]

そして1643年5月に大量の捕虜と戦利品と共に瀋陽に凱旋した。アバハイが凱旋して三ヶ月後、東北部を完全に掌握したホンタイジであったが1643年8月9日に清寧宮で倒れ、急死した。51歳であった。死因については、脳出血等の疾患によるものだったのではないかとする研究がある。遼寧省瀋陽市の北にある昭陵に葬られた。

政治制度[編集]

明に倣って六部を創設し、漢人官僚を登用することで、それまでの部族連合体から中華的な中央集権帝国への移行を目指した。さらに上下の等級制度や衣冠の区別を付けるように奨励し、儒教を習い内秘書院大学士范文程などに孔子孟子祀らせ、祭文を書かせた。また騎馬民族の慣例である兄が死ぬと兄の妻を弟は娶る事や義母を娶る制度を厳罰化した。殉死の強要も廃止された。清は捕虜や連れてきた農民に耕作させる農奴制であったホンタイジはこれを改良して自立した農民を増やした。ホンタイジは農業を奨励して、農業の妨げとなる建築や補修を規制した。また貴族たちに勝手に農民を使役する事や鷹狩りで田畑を荒らす事を禁じた。また耕牛や農具を支給した[17]

さらに農民三人の二人は兵役を逃れさせたりなどして生産は向上した。その結果商業や手工業も発達した。市場では蜂蜜や人参と明の布地や日用品と交換された。ホンタイジは農業生産や経済力を身に付け明との決戦に備えた。[18]

一方で漢人は最下層であり農作物は女真人の手に渡り、財産も最小限に抑えられ死ぬと家族は相続できなかった。外交面は父ヌルハチより柔軟な考えで明の家臣を取り入れ、皇帝は序盤には和平工作もしている。また、天聡6年(1632年)、ホンタイジはダハイ中国語版(達海)に命じて満州文字を無圏点文字から有圏点文字に改良した。

親族の粛清[編集]

ホンタイジは従兄のアミン朝鮮へ遠征させ、朝鮮を弟、金を兄とする密約を結んだ。だがアミンは外藩の王にするよう申し出たが、自らの力を弱ることを恐れたホンタイジはこれを断り叱責する。またこの頃からアミンに対して警戒を強める。帰国したアミンはホンタイジによって幽閉されてしまう。アミンは元々ヌルハチの弟シュルガチの息子である。ヌルハチ直接に息子達の方が当然勢力は強い。だがそんなアミンにも容赦はしなかった。罪状は分派活動したこと、君命に従わなかったこと、永平などを放棄して漢人を虐殺したこと。アミンはその後10年後に死亡する。この裁決に他の兄たちは恐れて女真伝統の合議制は崩れ、ホンタイジの独裁色が強くなっていく。[19]

1629年ホンタイジは兄のマングルタイと関係が悪化する。入関戦争の時ダイシャンとマングルタイは、撤退を提案したがホンタイジは拒否した。この時は他の諸貝勅がホンタイジに賛成したので事なきを得たが、マングルタイは弟が尊大な態度を取るようになり不満を募らせた。1631年八月大凌河城にマングルタイは自分の軍を補充するために立て直して欲しいと申し出たがホンタイジはマングルタイの戦闘が悪いと非難した、この言葉に激怒したマングルタイは刀をぬこうとした。弟のデゲレが押しとどめ幕舎の外に連れ出した。この時の処罰は軽く家僕の没収のみで済んだ。その処分から9ヶ月後にマングルタイは死亡した。1635年マングルタイの家僕であるレンセンギは「マングルタイは弟デゲレ、妹マングジ、妹の夫サノム共に謀反を起こそうとした」と告発した。さらに幽閉中のアミンと連絡を取った共述べた。ホンタイジはマングジとマングルタイの息子エビルンを処刑してマングルタイの正妃や子供、デゲレの子供は庶民に落とされた。マングルタイの正妃はホンタイジが子供の頃、面倒を見ておりホンタイジに対して「恩知らず」と罵った。[20]

人物[編集]

  • ヌルハチと同じように三国志演義を愛読して、政治、軍人の参考した[21]
  • 漢人の風俗を取り入れたが、満州人の特性は受け継ぎたいと思い子弟、家臣に騎射を奨励した。[22]

后妃[編集]

清太宗常服袍褂像(北京故宮博物院蔵)
  • 孝端文皇后 (hiyoošungga doronggo genggiyen šu hūwangheo) ボルジギト氏(Borjigit hala、博爾済吉特氏)、名はジェルジェル(Jerjer、哲哲)。正宮皇后
    • 女:二女 固倫温荘長公主、三女 固倫靖端長公主、八女 固倫永安長公主
  • 孝荘文皇后(hiyoošungga ambalinggū genggiyen šu hūwangheo) ボルジギト氏、名はブムブタイ(Bumbutai、布木布泰)。永福宮荘妃
    • 子女:九子 フリン(Fulin、福臨、順治帝)、四女 固倫雍穆長公主、五女 固倫淑慧長公主、七女 固倫淑哲長公主
  • 関睢宮宸妃敏恵恭和元妃 ボルジギト氏、名はハルジョル(Harjol、海蘭珠)。
    • 子女:八子(夭折)
  • 麟趾宮貴妃懿靖大貴妃 ボルジギト氏、名はナムジョン(娜木鐘)。
    • 子:十子 襄親王ボムボゴル(Bombogor、博穆博果爾)、十一女 固倫端順長公主
  • 衍慶宮淑妃康恵淑妃 ボルジギト氏、名はバトマゾー(Batmadzoo、巴特瑪璪)。

以上5人は崇徳年間にホンタイジが皇帝に即位して立てた后妃。いずれもモンゴル族出身。

崇徳年間以前に別していた嫡妃には以下の2人がいた。

  • 元妃 ニオフル氏(Niohuru hala、鈕祜禄氏)
    • 1612年死去
    • 子:三子 ロボホイ(Lobohoi、洛博会)(夭逝)
  • 継妃 ウラナラ氏(Ula nara hala、烏拉那喇氏)
    • 1623年離婚した。
    • 子女:長子 粛親王ホーゲ(Hooge、豪格)、二子 ロゲ(Loge、洛格)(夭逝)、長女 敖漢固倫公主

その他

  • 側妃 イェヘナラ氏(Yehe nara hala、葉赫那拉氏)
    • 子:五子 承沢親王 ショセ(Šose、碩塞)
  • 側妃 ジャルート・ボルジギト氏(Jarud Borjigit hala、扎魯特博爾済吉特氏)
    • 女:六女 固倫公主、九女
  • 庶妃 ナラ氏(Nara hala、納喇氏)
    • 子女:六子 鎮国公 ガオセ(G'aose、高塞)、十女 県君、十三女
  • 庶妃 キレイ氏(Kirei hala、奇塁氏)
  • 庶妃 ヤンジャ氏(Yanja hala、顔扎氏)
    • 子:四子 輔国公 イェブシュ(Yebušu、葉布舒)
  • 庶妃 イルゲンギョロ氏(Irgen gioro hala、伊爾根覚羅氏)
    • 子:七子 チャンシュ(Cangšu、常舒)
  • 庶妃 姓不明
    • 子:十子 輔国公 トーセ(Toose、韜塞)
  • 庶妃 姓不明
    • 女:十二女

脚注[編集]

  1. ^ 三田村泰助「再び清の太宗の即位事情に就いて」(『東洋史研究』7-1, 1942)。三田村は、朝鮮実録に見える「黑還勃列」という漢字表記を「hekan beile」と満州語に還元し、hekanを本名、beileを満州貴族の称号とした。ダイチン・グルンの記録は一貫して名を「ホンタイジ」とのみ記す
  2. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・100P
  3. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・111P
  4. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・98P
  5. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・112P
  6. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・131P
  7. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・133P
  8. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・120P
  9. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・141P
  10. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・164P
  11. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・165P
  12. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・173P
  13. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・174P
  14. ^ 王朴楊国柱唐通白広恩曹変蛟馬科王廷臣呉三桂
  15. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・184P
  16. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・186P
  17. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・153P
  18. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・136117P
  19. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・117P
  20. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・137P
  21. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・147P
  22. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・147P

登場作品[編集]

小説
テレビドラマ

関連項目[編集]