ヌルハチ

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太祖 愛新覚羅弩爾哈赤
後金
初代ハン(皇帝)
Qing-Nurhaci.jpg
王朝 後金
在位期間 1616年2月17日 - 1626年9月30日
都城 ヘトゥアラ → 遼陽 → 瀋陽(盛京)
姓・諱 愛新覚羅弩爾哈赤
蒙文尊称 クンドゥレン・ハーン
満州語 ᠨᡠᡵᡤᠠᠴᡳ(Nurgaci)
諡号 高皇帝(dergi hūwangdi)
承天広運聖徳神功肇紀立極仁孝睿武端毅欽安弘文定業高皇帝(abka i hese be alifi forgon be muktembuhe gurun i ten be fukjin ilibuha fergecuke gungge gosin hiošungga horonggo enduringge hūwangdi)
廟号 太祖
生年 嘉靖38年1月15日
1559年2月21日
没年 天命11年8月11日
1626年9月30日
タクシ
エメチ(顕祖宣皇后)
皇后 トゥンギャ氏
グンダイ
アバハイ
陵墓 福陵(hūturingga munggan)
年号 天命(abkai fulingga) : 1616年 - 1626年

ヌルハチ弩爾哈赤満州語ᠨᡠᡵᡤᠠᠴᡳ メレンドルフ転写:Nurgaci)[1]は、後金の創始者。の初代皇帝とされる。君主としての称号は満洲語でゲンギェン・ハン、モンゴル語でクンドゥレン・ハーン、廟号太祖諡号高皇帝である。なお、明の文献では童奴兒哈赤あるいは佟奴兒哈赤朝鮮の文献では老乙可赤あるいは奴兒哈赤、清の文献では弩爾哈齊あるいは弩爾哈奇と記載されている。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

満州族愛新覚羅氏出身。ヌルハチが生まれた頃の女真族は建州女真五部・海西女真四部・野人女真四部に分かれて、互いに激しく抗争していた。これを利用して明は、朝貢の権利を分散させることで飛びぬけて力の強い部族を出さないようにしていた。具体的な方法としては、建州・海西女真の有力者300名に対して勅書を渡していた。ただしヌルハチが生まれたときには、土木の変でのエセン・ハーン侵攻にあたって勅書が無資格者の手に渡るなど混乱した上、期待していた防壁代わりに全くならなかった反省から、建州女真1000通、海西女真500通をそれぞれの首長に一括して渡すようになり、若干の権力集中が行われるような政策に転換している。しかしその反面、明も放っておけないほど武力抗争が激しくなっていた。ヌルハチの祖先は代々明朝に尽くししばし恩賞を授けられている。
ヌルハチは生まれつき聡明で、力強く武術にを好み、よく働いたので両親に可愛がられた。九歳の時に母が病死し、新たに迎えられた継母とは折り合いが悪かった。我慢できなかったヌルハチは14歳の時に家出して外祖父ワンカオの元へと身を寄せた。ワンカオは都督の地位にあり、漢字が読め、文武に秀でた人物である。ワンカオは武芸に秀でた孫を可愛がった。[2]
ワンカオは明の圧政に反発して挙兵したが惨敗して捕らわれ殺された。この時にヌルハチも捕らわれたがどうにか逃げ切り父が住む故郷に戻った。その時にタブンバヤンの娘ハハナ・ジャチン(トゥンギャ氏)と結婚するが、父の後妻と惑わされた父に冷遇され再び家を出た。独立世帯での暮らしとなり人参や薬草を採取して細々と生計を立てた。その暮らしに満足いかないヌルハチは武将になることを志し、李成梁の部下になる。壮健で乗馬、弓術など抜群の腕前であったヌルハチは李成梁に目をかけられるようになった。[3]

1583年、李成梁の大軍が建州右衛の古城に攻めた。城主アタイが父ワンカオ殺害に憤慨して反旗を翻したからである。アタイの妻はヌルハチの祖父ギオチャンガの孫娘でヌルハチの従妹に当たる。ギオチャンガとヌルハチの父タクシと古城に入りアタイを説得した。
しかしその時にヌルハチ同じスクスフ部のニカンワイランが明軍を手引きして、アタイを殺害した。ニカンワイランはこの時に勢力を伸ばしたいと思いヌルハチの祖父ギオチャンガ、父タクシをも処刑した。怒ったヌルハチは李成梁に詰め寄り「祖父は孫娘を取り戻そうとしただけ、父は祖父の帰りが遅いから城に入っただけ、それをどうして殺したのです」と言った。言葉に窮する李成梁にヌルハチはさらに「父と祖父は一度たりとも明に背いた事はありません。汚名を着せられて死んだのでは報われません」と言い李成梁は処刑を悔やんだ。[4]
明朝はヌルハチを鎮撫する為に20通の勅書と20頭の馬を授けた左衛指揮使に任命した。勅書とは交易許可書のことであり、これを所持する者が明と交易する権利がある。また勅書の数が多ければ多いほど。交易で利益を得られる。この任命は李成梁の進言があったと言われる。またこの頃にヌルハチは一族の長なった。

明の遼東司令官李成梁はヌルハチを厚遇する一方でニカンワイランもスクスフ部の首長として重用した。ニカンワイランはこのはからいに気をよくしてヌルハチにも服従を求めた。しかし父と祖父の敵であるニカンワイランにヌルハチが従うわけがなかった。またギオチャンガの息子の子孫はヌルハチがギオチャンガの後を継いだ事をよく思わずニカンワイランと手を結んだ。一方でサルフ城のノミナ、ギャムフ城のガハシャン(ヌルハチ妹の婿)、などがヌルハチの味方となった。ただし連盟を組んでも軍勢は100人程度だったと言われている。[5]

1583年2月にトゥルン(図倫)城を攻めた。しかしニカンワイランはノミナと内通しており攻撃前にギヤバン城に逃れた。同年8月にギヤバン城を攻めたがまたもニカンワイランはノミナから密告を受け、オルホン城に逃げた。ノミナの内通に気が付いたヌルハチは「バルダ城を攻撃するから甲冑や武器を貸して欲しい」とノミナに申し出た。連盟を結んでいる建前ノミナは武器を貸したが、ヌルハチは隙をみてノミナを殺害してサルフ城を占領した。[6] ところがジョーギヤ城のリダイとギオチャンガの息子の子孫がヌルハチ所属のフジサイを襲撃したためニカンワイランの追撃は中止した。

1584年1月ジョーギャ城を襲いリダイを捕らえた。同性ということもあり命は助けた。同じ頃ギャムフ城のガハシャンがサムジャンに殺された。サムジャンはマルドゥン城に逃げ込んだがヌルハチは追いサムジャンを殺して仇を討った。同性同族の激しい骨肉の争いは1583年に終結して、ヌルハチの親族はヌルハチに屈服した。
ドンゴ部の族長アハイはスクスフ部をまとめたヌルハチを恐れ攻撃しようとしたが、ヌルハチに気づかれアハイの居城であるチギダ城を攻めたが、城が落とすことができずに引き返した。また引き返す時にオンゴロ城を攻めたが、傷を負いヘトゥアラに戻った。傷が治ると再びオンゴロ城を攻撃して落とした。
1585年2月にジャイフィヤン(界藩)城を攻撃して「ジャイフィヤン、サルフ、ドゥンギャ(棟佳)、バルダ城」の連合軍を破り、4月にトモホ、ジャンギャ(張佳)、ジャイフィヤン、サルフ、バルダ城の連合軍を破った。また9月にフネヘ(渾河)部を攻略して急激に勢力を伸ばした。
1586年7月いよいよニカンワイランの居城を攻めた。ニカンワイランは明軍に逃げ込んだので、ヌルハチは明軍に引渡しを求めた。明軍は最早ニカンワイランには利用価値が無いのでヌルハチを黙認しヌルハチはニカンワイランを捕らえて斬首した。[7]

女真の統一[編集]

李成梁は、明が制御できるほどの大きな勢力を一つ作り、その後ろ盾になることで女真を治めようとした。これに選ばれたのが建州女真の中のヌルハチである。その後1587年ジェチェン(哲陳)部、1588年にワンギャ(完顔)部を支配した。最後に残ったホホリもヌルハチ帰順した。こうしてヌルハチは建州五大部を統一する事に成功した。李成梁の思惑は上手く行き、ヌルハチは女真の中の大勢力となり、万暦17年(1589年)には建州女真五部を統一した。それと同時に李成梁の懐に入る賄賂の量も大幅に増えたが、これに気を良くしたのか、ヌルハチの統御を怠っていた。

その際にヌルハチは明に朝貢して、勅書500通を得る。この勅書のおかげで馬市や市場を拡大して、富を増やし他部の攻略に備えた。建州女真を統一したヌルハチの次の目標は海西女真であった海西女真も利害の対立から争いは絶えなかった。
1589年海西女真のフルン四部の一つ、イェへ(葉赫)部首長のナリンブルがフルン4部の盟主となった。女真を統一しようとしてヌルハチに帰順を求めた。ヌルハチはこれを無視して対立を深めた。[8]

この時期は、明が日本の豊臣秀吉による文禄・慶長の役への対応に忙殺されていたこともあり、明による介入は少なかった。明と日本が戦っている時に女真の争いは頂点に達した。イェヘ部の首長のナリンブルは1593年に6月にハダ(哈達)部、ウラ(鳥拉)部、ホイファ(輝発)部と連合軍を結成して建州を攻めたが、待ち構えていたヌルハチに追撃されて大敗した。

同年9月再びイェへ部の首長のナリンブルはハダ部、ウラ部、ホイファ部、ジュシェリ(珠舎哩)部、ネイェン(納殷)部、シベ部、グワルチャ部、ノン・コルチン部と9部連合軍を結成し、3万の大軍を繰り出し、三方面からヌルハチを攻撃した。(グレの戦い) 9部連合軍は建州の城を攻めている間、スクスフ(蘇子)河北岸のグレ(古埓)山の山形にヌルハチ軍の精鋭を置き、ヌルハチはわずか100騎で奇襲して逃げた。連合軍が後を追いかけると待っていたヌルハチ軍に包囲され大敗した。この戦いで海西女真と建州女真の勢力が逆転する。これにより、女真の諸部族はヌルハチに従うものが多くなり、明はヌルハチに対し竜虎将軍の官職を授けた。なお、李成梁はこの2年前に汚職を弾劾され、更迭されている。

ハダ部・ホイファ部攻略[編集]

その後、アムール川周辺にあるフルハ部と朝貢関係を結んだヌルハチは、次にハダ部の攻略にかかる。ハダ部もまたイェへとマンジュ国の間で板挟みの状態にあった。 1599年5月にイェへ部のナリンブルはハダ部を攻撃し始めた。ハダ部国王メンゲブルはヌルハチに人質と共にヌルハチに援軍の要請を送り、ヌルハチはこれに応じてシュルガチと2000の兵を差し向けるも、ヌルハチは急遽自ら兵を率いてハダを攻撃し、ハダを支配下に置き、メンゲブルを捕虜にする。その後、メンゲブルは妾と通じたという罪で死刑になる。 ヌルハチはハダの住民を全てマンジュ国に連れていってしまい、ここに事実上ハダ部は滅んだ。

ハダ部は明の対女真対策の要の地であり、これを滅ぼしたヌルハチに対して経済制裁をちらつかせるなどの圧力をかけた。そこでヌルハチはメンゲブルの長子であるウルグダイとハダの住民を元の地に戻したのだが、イェへ部のナリムブルがハダへの侵略を繰り返した為に、結局ハダの住民はマンジュ国に戻されることになった。ちなみにウルグダイはこの後ハダの地を踏むことなく、ヌルハチの忠臣となって活躍した。
1607年、またホイファも内乱に乗じてハダに続いてホイファもここに滅亡を迎えた。[9] この前年に日本軍が撤兵したこともあり、明はようやくヌルハチに危機感を抱き始め、海西女真のイェヘ部の後押しをすることでヌルハチに対抗しようとした。

ウラ部攻略[編集]

ヌルハチはウラ部の首長ブジャンタイに対して娘を嫁がせるなど懐柔を見せるが、内心彼を快く思っていなかった。またブジャンタイで裏ではイェへと関係を結びんでいた。 1607年1月にウラがワルカ地方のフィオ城を攻めている時に。ワルカはヌルハチに助けを求めて、ヌルハチは応じ弟シュルガチを派遣する。1607年3月シュルガチの軍と烏碣巌(うけつがん)で衝突。結果シュルガチが大勝した。その後和睦に応じる。[10]
ブジャンタイは腹いせに自分の妻であり、ヌルハチの娘オンジェ・ゲゲを虐待する。これに激怒したヌルハチは1613年1月ウラを攻めて、同月ウラを滅ぼす。[11]
こうしてヌルハチはイェへ以外の海西女真族を全て支配下に入れた。

シュルガチとの確執[編集]

ウラ部攻略で大功を挙げたシュルガチであるが次第にヌルハチとの仲が悪化した。権力を握るとヌルハチが自分への態度が尊大になる事に不満を覚えた、またヌルハチも自分の言う事を聞かないシュルガチに対して不満を覚えるようになった。
ウラ部攻略で戦い方が消極的と叱責し、シュルガチの兵権を縮小してしまう。さらに城を建設しようとシュルガチに兵を送るように命令するが、兵を送るどころかシュルガチは自分の城を築いてしまう。
1607年1月シュルガチは三人の息子と密談をして、イェへ、明朝へと近づくことした。その事がヌルハチに知れて、シュルガチの財産を没収して甥の二人を殺害する。シュルガチは深く謝り、許しを請うた。ヌルハチは彼を許そうとしたが、恨み言を言っていると耳にして、彼を幽閉して死に到しめるのだった。[12]

後金の建国、明との戦い[編集]

清太祖天命皇帝朝服像(北京故宮博物院蔵)

万暦44年(1616年)、ヌルハチは本拠地ヘトゥアラ(hetu ala、赫図阿拉)でハン(han、可汗)の地位に就き、国号を(aisin)、元号天命(abkai fulingga)とした。前後して、エルデニ中国語版(額爾德尼)とガガイ中国語版噶盖)に命じてモンゴル文字を改良した満州文字(無圏点文字)を定めた。また、八旗という軍事組織を創始した。このことで、満州人が勢力を拡大する基盤が固められた。 天命3年(1618年)、ヌルハチは「七大恨」と呼ばれる檄文を掲げ、明を攻めることを決定した。この文書の中には、明がイェヘに加担して満州を攻撃すること、祖父ギオチャンガと父タクシが明に誤殺されたことなどが書かれている。 同年、ヌルハチは明の庇護を受けていたイェへ周辺の諸城を攻撃し始める。
李永芳が守る撫順城を攻める、撫順城は兵1000人ほどだがヌルハチは女真人を馬市に参加させ李永芳通知し、隙を狙い撫順城を攻めて李永芳を投降させる。ついでに清河城は陥落。[13]
同日に東州、馬根丹など五百箇所を陥落させる。1619年4月29日、明はイェヘ部と朝鮮の兵を配下に47万と総大将に楊鎬を置き、軍を杜松軍3万、馬林軍1万5千、李如柏軍2万5千、劉綎軍1万の4つに分けて、4路からヌルハチの居城であるへトゥアラに侵攻させた。北は馬林軍1万五千とイェヘ軍1万、西は杜松、保定総兵王翦宣2万5千、東は李如柏軍2万5千、南は劉綎軍2万8千で攻めた。
撫順近くのサルフ(sarhū、薩爾滸)において、10万を号する満州軍と激突した(なお、「号して」とした場合、およそ実数は半分といわれる)。数の上では後金軍の不利であったが、明の将軍が功を焦って突出したため各個撃破できたことと、戦闘中に砂塵が舞い上がり、これに乗じて明へ奇襲をかけることができたことなどが幸いし、大勝した 後金の趨勢を決定づけたこの戦いをサルフの戦いと呼ぶ。 明に大勝したヌルハチはサルフの戦いから5ヶ月で、長年の宿敵イェへを統合し、悲願であった全女真族の統一に成功した。<[14]

遼東を巡る戦いと晩年[編集]

サルフの戦いの後に1619年6月、楊鎬に変わって遼東経略に着任したのは熊廷弼であった。 その頃にはサルフでの勝利とイェへの滅亡により遼東における後金の有利は決定的であり、兵士の士気も低かったため、鉄嶺は既に落ちており、蒙古もヌルハチに恐れて明につこうとしなかった。[15]

また治安も悪く、農民も離村して社会混乱を起こした。そこで熊廷弼はあえて守勢に回り軍備を整え、軍律を厳守して18万人の兵で守りを固めた。また朝鮮と連携するなどヌルハチを牽制した。[16]この方針により農民は耕作を再開したのだが、中央政府の目からは消極策に写り、熊廷弼は更迭。

この時ヌルハチも問題を抱えており、戦後処理での戦功の配分や朝鮮から通商停止、モンゴルの中立化など様々な国内問題を抱えており、1920年まで積極的な戦争を仕掛けられなかった。[17]

熊廷弼の後任には袁応泰が就いた。袁応泰は消極的と批判された熊廷弼を反面教師として、撫順と清河を奪い返す計画を立てたが、それに先んじてヌルハチは瀋陽を強襲した。[18]

1620年2月にジャイフィヤンからサルフへ遷都していたヌルハチは、瀋陽城をあっという間に陥落せしめる。ヌルハチは挑発を繰り返し城主の賀世賢を誘い出し、深追いしたところを包囲して戦死させた。また大砲と銃で守られていた城をこれだけ素早く攻略できた裏には、城主の賀世賢に不満を持っていたモンゴル人が後金に内応して中から城を開いてしまったからと言われている。[19]

この時袁応泰は瀋陽に陳策に援軍に行くよう命じたが、駆けつける時は既に城は落ちており引き返そうとしたが、部下に止められて勝ち目がないと分かりつつ進軍した。迎えたヌルハチは追撃して明軍をほとんど戦死させた。3月8日袁応泰は兵を遼陽城に集めて防備を固める。城が固いと認識したヌルハチは山海関に兵を進めるよう見せかける。 袁応泰はヌルハチの計略を見抜けず5万の兵を出して野戦で交戦してしまい敗北する。[20]

その後遼陽城を攻めるが城は攻める事は困難だった。その時に東の入水口を土濠で塞ぎ、排水口を開こうとした。すると明兵は出てきて両者が激突した。 橋を奪取した金軍は梯子をかけて城に侵入した。最早ここまでと袁応泰は自害した。[21]
城を得たその日のうちにヌルハチは明、朝鮮、モンゴルに近く、建築資材を川に流せば資源に欠かさず、山に獣、川に魚が多く食料も欠く事が無いとして遼陽へ居城し、1625年正式に遷都を決定し、幹部達の反対を押さえてこれを決行した。[22] 瀋陽と遼陽の2大重要拠点を獲得したヌルハチであったが、この二つの戦いは後金にとっても大きなダメージを残した。

一方で、瀋陽と遼陽を失った明政府には大きな動揺が起こり、以前は遼東を無難に治めていた熊廷弼の再任が強く推されるようになった。

1621年5月、朝廷に召還された熊廷弼は三方布置策という遼陽奪還策を提言した。[23] 三方布置策とは

  1. 広寧には騎馬・歩兵部隊を置いて守りを固める。
  2. 転身と山頭半島の登州・莱州(らいしゅう)とに水軍を設け、隙をついて遼東半島を攻撃する。
  3. 遼東経路は山海関を本営として全般の指揮を取る。

そうすれば後金は故郷の本拠地が気になり兵力が分散され、その間隙を縫って遼陽を回復するという作戦である。また朝鮮と連携を取ることを進言した。時の皇帝、天啓帝はこれを採用し、熊廷弼を経略に起用する。
しかし、熊廷弼は遼東巡撫の王化貞と意見が衝突することが多く、また王化貞が兵を自由に動かせる権限を持っていたため統一した戦いができなかった。加えて王化貞は軍事知識に乏しく、大言壮語で後金を侮っていた。 その上、明が指針としていた熊廷弼の三方布置策も王化貞配下の毛文竜が後金から鎮江を奪還してしまった(鎮江の戦い

1622年1月ヌルハチは二人の指揮官が争っている時に重要拠点の一つである広寧を攻める5万の大軍で攻める。広寧城は固いのでまず西平堡を攻めて、明軍を誘き出し野戦に持ち込んだ。王化貞に派遣された劉渠は戦死、孫得功は剃髪してヌルハチに降伏した。またこの戦いに勢いづき遼河以西40の城を落とした。遼西は略奪をして遼東の食料不足を解消した。 大勝利であるがこの戦いで孫のエセンデリを失った。[24] 王化貞は速やかに逃げて、熊廷弼と合流し、山海関に退却した。後にこの責任を問われて1632年に死刑に処されている。また熊廷弼は同じく責任を問われ王化貞に先んじて1625年に死刑になった。この頃ヌルハチは毛文竜のゲリラ攻撃にも苦しめられ、一方でヌルハチ領内の漢人との文化的な軋轢もあり国内問題に対応した。
天命11年(1626年)、連戦連勝のヌルハチは明の領内に攻め入るために山海関を陥落させようとした。 ところがその手前の寧遠城(現在の興城県城)に、将軍袁崇煥ポルトガル大砲紅夷大砲中国語版英語版を大量に並べて後金軍を迎え撃った(寧遠城の戦い中国語版)。 袁崇煥の名声を聞いたヌルハチは降伏勧告をして高位につかせると約束したがはねつけた。[25] 明軍わずか1万人ながらは遼人を持って遼を守る防衛策、農民を登用し総動員し、袁崇煥は援軍が来ると言い続け士気を鼓舞し、金軍は必死の抵抗に多くの犠牲を出した。 明軍の徹底抗戦に後金軍は散々に討ち減らされ、退却した。この戦いはヌルハチ最初にして最後の挫折と言えた。
しかしこのまま引き下がると権威が失墜すると恐れ覚華島を攻撃し、食料と軍船2千を焼いた。 ヌルハチは戦争中に背中に傷を負い、8月11日この世を去った。享年68歳であった。遺体は瀋陽の東の郊外の福陵に葬られた。 ヌルハチの死後は、子のホンタイジが後を継いた。またこの時、ヌルハチはドルゴンとドドの母のアバハイに殉死を命じている。[26] ヌルハチは生前に後継者を定めなかったため、死後に紛糾したが、第8子のホンタイジが後を継ぐことになった。 ヌルハチはあくまで明からの独立を目指しただけで、明を征服しようと思ったことはなかったと言われる。後継者を定めなかったのも、それまでの部族合議体制を維持しようとしたことの現われとも見られる。

継承問題[編集]

ヌルハチが還暦を過ぎると宮廷でも内紛が勃発した。宮中ではヌルハチの養子や婿が不可解な処罰を受けたり処刑された記録が残っている。 最初に後継者であったのはチュイェンであり、生母はアムバ・フジン(Amba fujin、正妃)のトゥンギャ氏で出自は申し分なく、生来豪胆で17歳の時から戦争に参加して「フン・バトゥル(hūng baturu,洪巴図魯)」の称号を得た。勇猛果敢と意味である。
だが1615年8月に処刑される。チュイェンは太子となるとすっかり汗王気取りで弟や老臣に対して威張るようになる。また「長兄の言う事を聞き、内輪の話は父王の耳に入れては行けない」「父王亡き後先に分配した財産を分割しなおす、また関係の良くない大臣や弟を排除する」と公言するようになった。 そこで不安に思った大臣と弟達はヌルハチ直訴した。ヌルハチはチュイェンを戒めても態度を変えないのでついに太子を廃し、幽閉した。 戦の敗北の責任を負わされたとも言われている。 チュイェンはその後ヌルハチや弟達を恨み、呪詛や陰謀を企てた。それを耳にしたヌルハチはついに彼を処刑した。[27]
ヌルハチの死後、後継者が決められていなかったので八旗の権力者四大王(ダイシャン、アミン、マングルタイ、ホンタイジ)、四小王(アジゲ、ドルゴン、ドド、ジルガラン)から選ばれることになった。前述のアバハイの殉死8人の内3人もアバハイの息子などでその勢力を抑えるためとも言われている。結局四大王の中で選ばれるようになった。
アミンはヌルハチの弟シュルガチの息子で勢力が、他の大王と比べて低かった。
次男のダイシャンは兄チュイェンと同じように戦功を立て、明征伐でも多くの戦績があった。正紅、鑲紅二旗を持つホショイ・ベイレ(和碩貝勒)筆頭。しかも二人の息子(ヨト、ショト)も成人しており一族も勢いがあった。

だが彼も太子を外れている。 理由は3つあり

  1. ヌルハチの正妃フチャ氏と曖昧な関係、
  2. サルフの居住地を決める際にダイシャンは息子の方が待遇が良いと言い争った。面倒になったヌルハチは自分の居住地をダイシャンに与えた。
  3. 次男ショトを不倫や明に逃亡など様々な噂を聞いたダイジャンはショトを処刑しようとしたしかしショトは無実であった。ヌルハチには無実の者を処刑したり、佞臣を登用する人物と思えたのだろう。

ホンタイジはこの問題を蒸し返しダイシャンの品性と正妃フチャ氏、その息子マングルタイも批判した。 またダイシャンの息子ヨトやサハリャンも積極的に協力した。二人はダイシャンから太子を外された。[28] アバハイの葬儀が終わるとヨトやサハリャンは「ホンタイジは才徳があり、衆人も心服しています速やかに王位を継ぐべきです」と述べ、ダイシャンも同意した。

逸話[編集]

  • ヌルハチは若いとき敵に追われたことがあり、逃げ場を失ったヌルハチは溝の中に隠れた。そのとき、カラスの群れが不意に飛んできて彼の体を覆い隠したため、彼は追っ手に見つからずに済んだ。以後、満州族の庶民にカラスに餌をやるよう命じた、また清王室はカラスを聖なる生き物として奉るようになった[29]
  • 騎馬民族の頭目でもあり、乗馬弓術には名人級であったと言われる。特に弓術は南ドンゴ部の名人と「射柳」という弓の競技を行い勝利した。[30][31]
  • 戦いの際に敵の矢がヌルハチの兜に当たり頭に傷を負ったが、その矢を引き抜いて、自分の弓に使い敵兵を倒した。[32]
  • ワンギャ部の残党もニングチン=ジャンギンの拠点ジョーギヤ城を攻めた時に、城兵が出てきて真っ直ぐとヌルハチへと突っ込んだ。ヌルハチは一人で百人の敵に立ち向かい、100人を蹴散らした。[33]
  • ジェチェン部の遠征に出かけた際に突如800人の大軍が現れて、ヌルハチ軍は狼狽するが、ヌルハチと弟三人で800人の軍勢に突っ込み20人あまりを倒し最終的に敵を敗走させる。[34]
  • 李の軍にいた頃に漢族の文化に触れて、三国志や水滸伝を読み、義侠心や人情の機微を感じること、そして軍略を身に着けた。[35]
  • ヌルハチについて特徴は「体は大きく骨格は太い、音声ははっきり澄んでいて、一度聞くと忘れがたい」歩き方は堂々とし、動作に威厳があり度胸も据わっていたため若い内にリーダーとなっても十分の一族の長として風格を備えていた。またカリスマ的な性格であり部下たちはヌルハチを「英明剛毅な人物」と畏敬した。[36]
  • ヌルハチは城攻めの際に二本の矢を受けた。城が落とされた後に自分を射た敵兵を勇士と称えて恩賞を与えた。[37]

后妃[編集]

正室[編集]

  • 元妃 トゥンギャ(佟佳)氏 - ヌルハチの最初の嫡妃
    • 子:長子 広略貝勒チュイェン(褚英)、二子 礼親王ダイシャン中国語版(代善)、長女 固倫公主
  • 継妃 フチャ・グンダイ(富察・袞代)
    • 子女:五子 貝勒マングルタイ中国語版(莾古爾泰)、十子 デゲレイ(徳格類)、十六子 フィヤング(費揚古)、三女 マングジ(莾古済)
  • 孝烈武皇后英語版 ウラナラ・アバハイ (烏拉那拉・阿巴亥) - 最後の嫡妃。ヌルハチ死去時に殉死したとされる。ドルゴンの死後、諡号を剥奪される。

側室[編集]

  • 孝慈高皇后(gūsin hiyoošungga dergi hūwangheo) イェヘナラ(葉赫那拉)氏、名はモンゴジェジェ
  • 寿康太妃 ボルジギト(博爾済吉特)氏
  • 側妃 イルゲンギョロ(伊爾根覚羅)氏
    • 子女:七子 饒余郡王 アバタイ(阿巴泰)、二女 和碩公主
  • 側妃 イェヘナラ(葉赫那拉)氏
    • 女:八女 和碩公主 聡古倫

側女[編集]

  • 庶妃 ジョーギャ(兆佳)氏
    • 子:三子 鎮国公 アバイ(阿拝)
  • 庶妃 ニオフル(鈕祜禄)氏
    • 子:四子 鎮国将軍 タングルダイ(湯古代)、六子 タバイ(塔拝)
  • 庶妃 ギャムフギョロ(嘉穆瑚覚羅)氏
    • 子女:九子 鎮国公 バブタイ(巴布泰)、十一子 バブハイ(巴布海)、四女 ムクシ(穆庫什)、五女、六女
  • 庶妃 シリンギョロ(西林覚羅)氏
  • 庶妃 イルゲンギョロ(伊爾根覚羅)氏
    • 女:七女

脚注[編集]

出典[編集]

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  1. ^ 努尔哈赤传 p2 阎崇年 北京出版社 2006年5月刊
  2. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・15P
  3. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・16P
  4. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・18P
  5. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・19P
  6. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・20P
  7. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・21P
  8. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・24P
  9. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・32P
  10. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・33P
  11. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・34P
  12. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・3P
  13. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・43P
  14. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・46P
  15. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・46P
  16. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・47P
  17. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・48P
  18. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・49P
  19. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・50P
  20. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・52P
  21. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・53P
  22. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・53P
  23. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・76P
  24. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・82P
  25. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・90P
  26. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・94P
  27. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・38P
  28. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・98P
  29. ^ http://japanese.cri.cn/chinaabc/chapter16/chapter160307.htm
  30. ^ 満和蒙和対訳満洲実録
  31. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・16P
  32. ^ 満和蒙和対訳満洲実録
  33. ^ 満和蒙和対訳満洲実録
  34. ^ 満和蒙和対訳満洲実録
  35. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・17P
  36. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・19P
  37. ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・21P


日本語文献[編集]

  • 若松寛『奴児哈赤』(人物往来社、1967年 中国人物叢書)
  • 今西春秋編『対校清太祖実録』(国書刊行会、1974年)
  • 松浦茂『清の太祖ヌルハチ』( 白帝社、1995年8月 中国歴史人物選)
  • 立花丈平『清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』(近代文芸社、1996年5月)
  • 松村潤『清太祖實録の研究』(東北アジア文獻研究會、2001年3月)
  • 鄭杜煕、李ギョンスン編著『壬辰戦争 16世紀日・朝・中の国際戦争』(金文子監訳 小幡倫裕訳 明石書店 2008年12月)
  • 三宅理一『ヌルハチの都 満洲遺産のなりたちと変遷』(ランダムハウス講談社、2009年2月)
  • 森田雅幸『天命は易ったか 清の太祖アイシンギョロ・ヌルハチ』(文芸社、2011年8月)

中国語文献[編集]

  • 閻崇年『努爾哈赤伝』(北京出版社、2006年)[1] ISBN: 9787200016598

登場作品[編集]

テレビドラマ

関連項目[編集]