中華思想

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中華思想の概念図

中華思想(ちゅうかしそう)は、中華天子天下 (世界) の中心であり、その文化・思想が神聖なものであると自負する考え方で、漢民族が古くから持った自民族中心主義思想[1]。自らを華夏中国と美称[2]し、王朝の庇護下とは異なる周辺の辺境の異民族を文化程度の低い夷狄 (蛮族) であるとして卑しむことから華夷思想(かいしそう)とも称す[1][2]

中国語では「華夷秩序」(簡体字:华夷秩序、英語:Hua-Yi distinction)、また中国中心主義(簡体字:中国中心主义、英語:sinocentrism) とも呼ばれる。

意味[編集]

古代漢民族のエスノセントリズム[編集]

エスノセントリズム (自民族中心主義) としての中華思想は漢民族を中心としたものであり「中国皇帝が世界の中心」であり、朝廷の文化と思想が世界で最高の価値を持つとみなされる[3]。そのため、異民族や外国の侵入に対しては、熾烈な排外主義思想として表面化することがある[3]

中国の歴史においては、はじめは北の遊牧文化に対し,漢民族の農耕文化が優越であることを意味した[1]。中華思想の美点とされる要素は農耕文化の他、漢字の使用(儒学文化)・都市生活・官僚政治機構が挙げられる。春秋戦国時代以後は、「詩経」や「韓非子」「呂氏春秋」などの古典にある「普天之下 漠非王土 率土之浜 莫非王臣」(天下のもの全て、帝王の領土で無いものはなく、国のはてまで、帝王の家来で無いものはいない)という言葉にあるように礼教文化王道政治[3]にもとづいて天子を頂点とする国家体制を最上とし、そのが及んでいない状態であればと称される。からはずれた禽獣(鳥やけだものを意味する)に等しいものとして東夷・西戎・南蛮・北狄などと呼んだ[1]。この夷の基準は固定的なものではなく、天子のが及び、文化の発展と共に移動する変動的な概念である。

  • 中華とは中華は『華(文明)の中』であり『文明圏』を意味する儒教的価値観から発展した選民思想であり、その字義のことである。

自らを華(文明)と美称するにあたって、対比となる夷(非文明)が『華の外』に必要となり、全ての非中華が彼らの思想的に夷(蛮)とされた。 司馬遼太郎は著書『この国のかたち』の中で、 「華が文明であるかぎりは野蛮(夷)が存在せねばならない。具体的に─地理的に─いえば、華はまわりを野蛮国でかこまれてこそ華である」とする。 そして「中国人が、世界を華と夷というい二次元的風景でとらえてきたのは紀元前からだが、とくに武帝(紀元前159〜前87)の儒教国教化以降、思想として体質化された」と述べる。 このため「華にとっては、周辺の国々とは対等な関係がなく、従って外交がは成立せず、19世紀のある時期まで朝貢関係のみが存在した」ことや、 中国王朝が1文字表記(漢、魏、晋、唐、隋、宋など)であるのに対し、周辺の国々は匈奴鮮卑東胡烏丸のような二字以上の表記であること、 さらに虫編や差別的な意味の文字をあてて他民族や他国を呼んでいたことをあげている。

  • さらに中華の意味について、司馬遼太郎は同書の中で「げんに中国人は、みずからを華人という。文明人のことである」「中華とは、宇宙唯一の文明ということである」と記す[4]

四夷[編集]

中国人の考える中華思想では、「自分たちが世界の中心であり、離れたところの人間は愚かで服も着用しなかったり獣の皮だったりし、秩序もない」ということから、四方の異民族について四夷という蔑称を付けた[5]

中華世界では四夷は辺鄙な場所に住んでいるために中華文明の影響と恩恵を受けていない「化外の民」であり、いずれ中華文明に教化されることによってやがて文明化されていくとされ、中華世界ではこの「化外の民」を教化して中華文明の世界へ導くことが中華世界の責務であるとされた。特に中華文明を代表する「天子」としての皇帝は自らの徳をもって周辺諸民族を教化して文明へと導くと考えられた。「民」が教育によって「」となりうるように、「四夷」の概念は固定的なものではなく文化の発展と共に移動する変動的な概念であり、孟子はこれを「夏を用いて夷を変ずる」と述べている。

そのため、この範囲は時代により異なる上、これらが蔑称かどうか議論がある。例えば「東夷」については孟子に古代の聖王は東夷の人であるという説があり、またの同類とされ習俗が仁で君子不老の国とされており、蔑称かどうか議論がある。蔑称ではないという主張も存在し、外国宛の文書に相手国を「東夷」と記して蔑称であるか、そうでないか問題になったこともあるという[6]

夷狄とする国家、民族、人物に対して良い意味では無い漢字をあてる場合もあり、例として「蒙古」の「蒙」(無知蒙昧)、ヌルハチに対し明王朝が「奴児哈赤」と「奴」の字をあてたものがあげられる。

現代中国・台湾・日本などでは、これらの言葉は鴨南蛮カレー南蛮等で名前を残す以外、ほとんど死語となっているが、学術的には使われ続けている。

華夏[編集]

中華という名称は「華夏」という古代名称から転じて来たものともいわれる。古代中国の呼称は夏、華、あるいは華夏(かか)と云われていた。「華」ははなやか、「夏」はさかんの意で、中国人が自国を誇っていった語であった[3]。そこから、文化の開けた地、(みやこ)を意味した[3]

満州族が支配層であった清朝を打倒するために中華民族ナショナリズムを構築したひとりの章炳麟[7]は次のように「華夏」を国土の名称・地名でもあり種族の名称でもあると解説している[8]

我が国の民族は古く、雍、梁二州(陝西、甘粛、四川)の地に居住して居た。東南が華陰で、東北が華陽、すなわち華山を以って限界を定め,その国土の名を「華」と曰く。その後、人跡の到る所九州に遍(あまね)き、華の名、始めて広がる。華は本来国の名であって、 種族の号ではなかった。

「夏」という名は、実は夏水 (河の名前)に因って得たるものなり、雍と梁の際(まじは)りにあり、水に因って族を名付けたもので、邦国の号に非らず。漢家の建国は、漢中(地名)に受封されたときに始まる。(漢中は)夏水に於いては同地であり、華陽に於いては同州となる故、通称として用いるようになった。本名(華夏)ともうまく符合している。従い、華と云うのも、夏と云うのも、漢と云うのも、そのうちどの一つの名を挙げても、互いに三つの意味を兼ねている。漢という名を以って族を表している、と同時に、国家の意味にもなる。又、華という名を国に付けたと同時に、種族の意味にも使はれているのはそのためである。

また民族の名称だけでなく地理的国土的な名称ということについては中国の辞典 「辞海」も、漢民族の発祥地が黄河流域で、国都も黄河の南北に建てたので、そこが国の中央となり「中原」や「中国」と呼んだとし、「中つ国」も蛮夷戎狄の異民族とは内と外の関係、地域の遠近を表わすために用いられたとする。

歴史[編集]

春秋における中華と夷狄[編集]

中華夷狄の峻別を理論的に説いた文献のうち、現在確認できる最古のものは孔子によるものとされる春秋である。春秋において、孔子は初の礼楽を制度化し、夷狄起源の文化要素を排除すべきことを主張したとされる。漢代に春秋学が理論化される過程で、中華思想も前述の「四夷」のようなまとめがなされていき、理論化されていった。

戦国末期の荀子は儒家の理想国家であるの華夷秩序について、中原の王者が治めた地を中心に、畿内、畿外、候、衛、蛮、夷、戎、狄の順に500ごとの距離をとった同心円状の構造であり、遠近に応じてそれぞれにふさわしい制度で帰服したと説明した[9][10]

の皇帝の王莽は、前漢において夷狄を王に冊封していた慣習を華夷秩序の観点から改め、匈奴高句麗の王を侯に降格せしめようとしたが、これらの諸国の離反を招いてしまった。

夷華融合[編集]

西晋滅亡後、いわゆる五胡といわれる北方異民族が中国本土に侵入して相次いで国を建て、混血が進んだことから「中華思想を越え、中華夷狄も平等だ」という、仏教に基づく「夷華同一」という思想も誕生した。[要出典]

煬帝太宗は中華と夷狄の融合政策を取り、の太宗は630年3月、中華皇帝に加えて四夷の族長たちに推薦された形でハーンの位にも即位している。隋唐時代には西域を主とする異国文化を珍重し、また外国人が宮廷で登用されることも珍しくなかった[11]

宋学の中華思想[編集]

ところが、唐が滅び五代十国を経てになると、漢唐以来の不正に対する批判から始まり、仁や徳を身につけ、人格を高める必要性が説かれる。儒学文献の字句の解釈を中心として、この世界を司る天理の解明を追求する。それに、唐が支配していた北方民族を宋が支配できなくなり、北方はといった北方騎馬民族による征服王朝を建国。南方の宋は北方に常に見下され、毎年多額の贈与金を支払う実質的な従属国家に過ぎなくなった。これは漢民族にとって極めて屈辱的なことであり、その負け惜しみから、儒学の中で道学と呼ばれる新しい学問が始まり、宋学では華夷の序が強調され、自国・宋こそ中華であり、敵対する遼や金は夷狄だと主張した[12][13][14]司馬光が編纂した資治通鑑においても、五胡十六国以降における華夷秩序が強調された[15]


中華の概念と成立の歴史[編集]

  • 中華の概念は『前漢』の『武帝劉徹(紀元前159~前87)の野心に起因している。武帝の時代に正式な国教となった儒教は、天命によって天から選ばれた天子(皇帝または王)を頂点とした徹底した序列による秩序を唱えており、さらに「九州之他、之(これ)ヲ蕃国と謂う」(周礼)として、中国本土以外の非儒教圏を蕃(野蛮:未開)とし、悪としてきた。こうした考え方をさらに選民思想へと発展させることにより『中華』(「華の内側で文明圏を意味する」)と『夷狄』(「華の外で蛮地を意味する」)とに分ける考え方が生まれ、周辺民族(非支配地域:非儒教圏)を蕃(蛮:夷狄)として扱うことにより、数々の侵略や恐喝(大宛への汗血馬の要求と実力行使。出典:史記)、それにともなう戦争殺害などあらゆる行為を肯定した[4]
  • また武帝(前漢)は東北地域の領土獲得(楽浪郡などの4郡)により、始めて朝鮮半島に暮らす民族と遭遇するが、彼らを『穢』(わい:穢れ、汚いに類似)や『貊』(ばく:獣に類似)と名づけて蔑視したことも、儒教(中華)の一面性を現している[4]
  • その後、前漢は武帝の度重なる遠征と「塩」や「鉄」の専売制度(前119年)などによって急速に衰え(「国力は消耗し、人口が半分に減っていた」班固『昭帝紀』の後書き、「長安は廃墟になった」司馬遷)、さらに後漢末期になると周辺民族(夷狄側からの)の侵犯と略奪が繰り返されるようになり、三国時代(魏、呉、蜀)から晋(西晋東晋)を経て『五胡十六国』時代に入ると、異民族側(匈奴、鮮卑など)の侵略(または領地の奪回)が顕著になり、その支配が乱立(出典:『魏書』陳寿、『後漢書』范曄)し、やがて仏教を国教とした鮮卑族の王朝である『』、それに続く『』による再統一の過程で、旧来の漢民族の概念は消滅して儒教(中華)は衰退した[4][16]
  • 『中華』が叫ばれだしたのは沙陀族の王朝とされる『』時代(960~1279)に入ってからであり、その代表的なものが司馬光の『資治通鑑』(1084年)である[16][4]。背景には儒教の一派『朱熹』(『朱子学』)ら宋学派の存在と、宋のおかれた屈辱的な歴史にある。は新興勢力の契丹族の『』に苦しめられたすえに『澶淵の盟』(1004年)により、朝貢することを誓って従属関係となり(毎年、十万両の銀と二十万匹の絹を貢ぐ)、この結果として異民族である『遼』を正統な王朝(皇帝)として認めなければならなくなった(『南北朝時代』)。その後、さらに満州人女真族)の『』によって都の『開封』(1126年)を追われてしまう。こうした悲惨な実情と選民的な儒教思想とのギャップとに苦しめられた宋の人々は、新しい儒教である朱子学(宋学)を創りだし、『中華』『夷狄』『尊王』『攘夷』といった言葉を使って、現実的でない解釈で善悪を決めたり、現実的でない正統性の有無によって、自らの優位性や支配を肯定する必要があった[4][16]
  • 『資治通鑑』(司馬光:1084年)は、中華である宋には支配する正統な権利があると主張する一方、遼を夷狄であるとしてその支配を否定した[4][16]
  • その後、金、宋(南宋)とを滅ぼしたモンゴル民族の王朝である『』も自らを中華とし、皇帝による支配に都合のよい朱子学を体系化して利用した(例えば元の科挙試験は朱子学によるべきとされ、その後の王朝もこの前例を踏襲した)。その後の王朝、南方から進出してきた『』や、満州人(女真族)の『』も中華を称し、既に(元王朝によって)制度化されていた朱子学をそのまま国教(及び『官学』)として採用したため、『明』及び『清』に従属して自らも朱子学を国教とした朝鮮李氏朝鮮)を含め、中華の言葉や選民思想的な概念は現在に残った[4][16][17]

朱子学(宋学:道学)について[編集]

  • 』(沙陀族の王朝とされる)の時代に強調されだした『中華』は、宋王朝の歴史的背景と、そこから生まれた朱子学の影響(王朝の正統性のありなし)に強い影響を受けている。契丹族の『』に従属して朝貢(1004年)し、女真族(満州人)の『』に都の開封を追われる(1126年)、『宋』の時代(南宋を含む)に生まれた朱子学は、宋代の形而上的思想を朱喜(1130~1200)が集大成したもので、客観的な論理性よりも主観的(感情的)な観念や大義名分が重視された思想とされる。
  • 宋学の成立について司馬遼太郎は、筆書である『この国のかたち』の中で、「宋は、儒教をもって国教としている。儒教とは、華(文明)であるにはどうすればいいかという宗教で、野蛮を悪としてきた。しかし、現実には文明(華)が野蛮(夷)に服従している。この矛盾が、宋学という形而上学を発展させたといい」と述べている。
  • また宋学の内容について司馬遼太郎は同書の中で、「朱子学の理屈っぽさと、名分を重んずるという風は、それが官学されることによって、弊害を生んだ」とし、さらに同氏は朱子学(宋学含む)について「理非を越えた宗教的な性格がつよく、いわば大義名分教とうべきもので、また正統か非正統かをやかましく言い、さらに異民族をのろった」、「朱子は、字句解釈をやかましくいう〝漢唐訓詁訓学〟という現実的な人文科学的方法よりも、むしろこうあるべきだという観念を先行させた」、「朱子学にあっては、歴史についても、史実の探求よりも大義名分という観念の尺度をあて、正邪を検断した」、さらに「朱子学は、危機環境のなかでおこった。このため過度に尊皇を説き、大義名分論という色眼鏡で歴史を観、また異民族(夷)を攘(うちはらう)という情熱に高い価値を置いた。要するに学問というより、正義体系(イデオロギー)であった」と記す。
  • 以上のような点から、司馬遼太郎は朱子学について、「元が(中略)朱子学を官学とし、科挙試験も朱子学に拠らせた。このことは、二十世紀の清末まで続く。李氏朝鮮も同様で、そのことが、中国や朝鮮の停滞の遠因の1つになった」、「朱子学の理屈っぽさと、現実よりも名分を重んずるという風は、それが官学化されることによって弊害をよんだ。とくに李氏朝鮮の末期などは、官僚は神学論争に終始し、朱子学の一価値観に固執して、見様によっては朱子学こそ亡国の因をつくったのではないかと思えるほど凄惨な政治事態が連続した」と評価する。
  • 江戸時代に朱子学(儒学)を官学とした(日本人は仏教や神道から儒教への改宗や棄教はしなかった)日本への影響について、司馬遼太郎は同書の中で、江戸中期に多様な思想(荻生徂徠伊藤仁斎など)が出て、朱子学の空論性を攻撃したため、朝鮮末期のような神学論争による凄惨な政治事態にならなかったとしながらも、一方で幕末期の(水戸藩を中心とした)『一君万民思想』には影響を与えていたと記している。
  • 江戸中期、空論として攻撃にさらされていた朱子学は、寛政2年(1790年)、老中の松平定信が『寛政異学の禁』を出すことにより、ようやく江戸幕府の官学としての体裁が保たれるが、他藩を中心に朱子学を否定する風潮や多様な思想が残り、例えば幕末に生まれ明治にかけて活躍する福沢諭吉を生む。彼の一節「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」(『学問ノススメ』)は、『天命』によって天から選ばれた『天子』(皇帝や王)を頂点とした序列秩序の儒教を根底から否定している。
  • また福沢諭吉は脱亜論の中で、儒教体制のままにある中国と朝鮮(司馬遼太郎はこれに江戸幕府の儒学『朱子学』を加えた解釈をしている)を否定し、また儒教(中華)を『古風の専制』とし、「道徳さへ地を払ふて残刻不廉恥を極め、尚傲然として自省の念なき者の如し」と痛烈に批判している。
  • さらに司馬遼太郎は同書の中で、明治時代に停滞していた朱子学は昭和時代に入って蘇ったとし(例えば日本でも正統性を巡って争いになった南北朝時代に活躍した楠木正成の英雄視とその学校教育によって)、京大文学部の創設に加わった中国学者の君山狩野直樹(くんざんかのうなおき)の発言「宋学が国を滅ぼした」の引用から、昭和期の軍閥における(朱子学的な)空論の害や、左翼勢力の空論好みが生まれたことに触れている[18]
  • 北宋について、近年の研究によって沙陀族の王朝であったとされる。例えば岡田英弘は著書『皇帝達の中国』の中で、北宋の太祖である趙匡胤について、「趙匡胤も、出身地は北京で、まさに安・史の乱のトルコ人の安禄山の本拠地だったところである」と記す。また、岡田英弘は著書『だれが中国をつくったか』のなかでも、北宋に先立つ後唐後晋後漢後周は、いずれもトルコ族か鮮卑族で、漢族ではない。当然、今の北京市に起源をもつ北宋も、漢族ではなく、北族だろう」」「実際は古く入植した遊牧民の子孫である北宋の人達」と見解を述べている[16][17]

清の中華思想[編集]

「夷」である満洲人がを継承し作り上げ、中華圏を支配したでは漢人の王朝とは異なっていた。清は満洲人、モンゴル人、漢人、チベット、イスラムの同君連合であり、皇帝は満洲人にとっては八旗を率い、自らも上三旗の旗王である部族長会議の議長、旧明領では明王朝を継承する中華皇帝、モンゴルにとってはチンギス・ハーン以来の大ハーンであり、チベットでは仏教の最高施主であり文殊菩薩の化身とされ、東トルキスタンでは異教徒でありながらイスラムの保護者であり、様々な人々に対し様々な顔を持ち君臨・統合していた。

儒教も仏教もイスラムも単独で絶対視せず、支配地域それぞれの世界観に基づく王権像と秩序論を踏まえ、共通する価値を拾い上げながら、しかも個別の世界観とは一定程度の距離を置いて統治し、それぞれの文化圏の接触を厳しく制限した。中華圏では中華皇帝としてふるまい、満洲人を夷狄として反抗しようとする漢人にどのように対するかが課題となった。雍正帝は「大義覚迷録」で古代の聖王であるや、文王の出自が「夷」であったことを例に挙げて出自では無くの有無が重要とし、中華支配を正当化した。政策としても辮髪などの胡俗の強制や反清勢力の鎮圧と並行して科挙の存続やかつて反清運動の中心となった者たちに明史の編纂をさせるなど、中華の文化を尊重して漢人知識人に対し名誉と利権に与る道を開く懐柔政策を行い清朝への夷狄視を減らしていた。ただし漢人の科挙官僚が政治を担えたのは旧明領だけである。また北方から来たロシアとは対等なネルチンスク条約を締結しているが、乾隆帝の時代に中華として南方経由で来たイギリスとの対等外交を拒絶した。

その後に夷狄とみなしていた西洋列強に領地や冊封国を侵食され、それに対し中体西用による洋務運動で対抗しようとしたが、実質的には漢人有力者が自身が保有する私軍の装備の強化を行っているに過ぎず、日清戦争で敗れた後、制度・思想上も近代化の必要に迫られ華夷秩序は後退するが、清朝の弱体化と革命思想の流入などにより漢民族のナショナリズムとしての中華思想はむしろ増大し、辛亥革命に繋がった。魯迅は中華思想に染まって現実を見ようとしない人々を痛烈に批判し、「狂人日記」「阿Q正伝」などを記して中華思想からの覚醒を呼びかけた。

中華民国[編集]

章炳麟孫文梁啓超らは漢民族のナショナリズムを原動力として[7]清朝を倒し、1912年に中華民国を建国し、「中華」を正式な国名に使用した。この国号の提議は孫文によるものであり、中国同盟会の誓詞「恢復中華」があげられている[19]。しかし日本の駐清大使伊集院彦吉は、立憲君主制国家の成立を目指していたため共和政体に不満を持っており、日本国内において「中華民国」の国号を用いず、欧米の「China」の用法にしたがって「支那共和国」と呼称するように具申した[20]。この意見は閣議決定によって承認され、日本側は外交文書に「支那共和国」の国号を用い、中華民国政府側はこれに反発するという動きが続いていた。日本の知識人には「中華」がかつての中華思想に基づくものであると見て、強い反発を持つ者も少なくなかった[21]。1930年に中華民国側の要請が盛り上がった際にも、那賀王霞は伊集院の意図が「中華民国と呼べば世界の中心の国として認めることとなり、日本をその付属国としてしまう」ものであったからだと分析している[22]。このため日本国内において中華民国という国号を呼ぶ動きには反対も多く見られた[23]。しかし幣原喜重郎外相は中国国民の感情などにも配慮し、外交文書上での正式国号は中華民国と呼ぶ方針を決定した[24]。この決定は幣原の軟弱外交の証拠であるとして、批判の対象となった[25]

清末に中華民族という考えが梁啟超らにより提唱され、中華民国でも清朝を継承するとして清朝領土とともに清朝を構成した満洲人・モンゴル人・ウイグル人・チベット人も中華民族とするとしたが、清末民国初期にかけて独立したモンゴルやチベットには拒絶されている。

中華人民共和国[編集]

1949年、毛沢東らは中華人民共和国を建国し、中華民国に続いて、「中華」を正式な国名に使用した。 漢民族以外の民族もあわせて中華民族とし、実質的には民族浄化ともいえる漢民族との同化政策を進めており、元々は政治的共同体(ネーション)であった東トルキスタンやチベットなどでは反発も起きている。

その他の地域[編集]

中華思想は儒教とともに中華圏の周りの東アジア諸国に分有され、自らを「中華王朝(大中華)と並び立つもしくは次する文明国で、中華の一役をなすもの(小中華)」とみなす小中華思想を持ち、中華王朝に臣下の礼を取ったり、その国自体が「中華」となり、周辺諸民族を「夷狄」とする、中華思想共有圏 (文化圏) と言えるものが形成される。それと同時に思想の内容が形骸化したり、中華思想自体を否定する動きも見られた。

日本[編集]

古代には中華王朝であるから漢委奴国王印から「親魏倭王」印を与えられ、倭の五王が朝貢したことが伝えられるが、飛鳥時代にはに対し「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」という国書を渡したように中華帝国に対し対等の関係を表明して独立を宣言している。儒教も仏教と同時期に伝来しているが、仏教の普及に力が入れられ儒教が国家の思想とされることはなかった。

「夷」征討に際し任命された征夷将軍太平洋側を攻め、日本海側を攻める将軍は征狄将軍(鎮狄将軍)、九州へ向かう将軍は征西将軍(鎮西将軍)と呼び、中華思想の「四夷」を当て嵌めたとされている。しかし次第に太平洋側以外への征討も征夷大将軍が行うようになった。鎌倉時代以降は征夷大将軍は武士の棟梁であり、実質的な最高権力者でもある幕府の長の称号として用いられ、異民族征討の長という意味合いは形骸化した。しかし江戸幕府末期に昂揚した尊王攘夷思想により「征夷大将軍なのに夷狄である西洋諸国を征討していない」という論争も起こっている。

江戸時代に入り、朱子学が江戸幕府に官学として取り入れられ政治に反映されるようになった。しかし科挙が存在しなかったこともあり、朝廷や公家、町人などの武家社会以外は思想統制を受けなかったため国全体のイデオロギーにはなり得ず、中華式に「藤」と一文字の姓を名乗り明の官服を着ていた藤原惺窩のような例外は除き主従関係や道徳面が重要視され華夷秩序は重要視されなかったが、学問の先達として中華王朝に対する尊敬の念は残った。

が異民族王朝のに支配されると、日本の朱子学者の一部、林羅山などは、日本の天皇家は中華正統王朝である周王朝の分家である太伯の子孫であるから、日本こそは中華であると主張し始めた。更に、明の遺臣の一部は清に仕えることを潔しとせず抵抗もしくは亡命し、そのうちの一人である朱舜水は、夷狄によって治められている現在の中国はもはや中国でなく、亡命先の日本こそが中華であると述べた。日本の江戸時代儒学者山鹿素行は著書『中朝事実』の中で「日本ではすでに神道という聖教が広まっており、もし聖人の道が行われていることが中華であることの理由ならば日本こそが中華である」という主張をした。

また、国学者本居宣長は歴史書『馭戒慨言』『うひ山ぶみ』『玉勝間』などの著作において「まづ漢意(からごころ)をきよくのぞきさるべし」と儒教などの中華的精神の排除の必要性を強く主張している。 これらが後に水戸学や平田派国学へも思想的影響を与え、幕末の尊王攘夷論に結びつくこととなる。

明治維新後は朱子学教育を受けた下級武士階級が政権を担ったこともあり、西洋のキリスト教社会に対抗するために朱子学的な道徳が広められ、太平洋戦争中に天皇を現人神として崇め奉り、軍部が敗色濃厚になるや神州(中華正統王朝)不滅を唱えるに至ったのは、朱子学に基づく中華思想に影響されたものであるという[26]

朝鮮[編集]

朝鮮の歴史においては中国と直接国境を接しているため安全保障の背景から皇帝に対し臣下の礼をとり国内の敵対国との抗争に有利な立場を得たり儒教及びそれに伴う華夷観を受容し、中華に同化することで自国の格上げを図る道を選択するなど[27]、自らを「中国(大中華)と共に中華を形成する一部(小中華)」と見なそうとした。

ベトナム[編集]

ベトナムの歴史においては自国と中国を南国と北国、自国人と中国人を南人と北人と呼んで対比し両者の対等性の主張がしばしば行われた。『大越史記全書』に代表されるベトナム王朝の正史には中国への貢物の進呈や中国からの冊封の事実を記しているが朝貢使の派遣については「宋に如く」「清に如く」などと書かれ対等の外交関係とみなしている。

1010年に李公蘊ハノイに建都したことを賞賛する中でハノイが 地の利 を得たことの効果として李氏が宋に抵抗し占城を平らげることができ、その後の歴代帝王も中国に抗衡できたことを強調した[28]

1285年の元寇の記録には陳平仲中国語版が元軍に捕縛され王爵を以て降伏を勧告されたのに対し「むしろ(死んで)南の鬼になろうとも、北の王にはなるまいぞ」と呼んで元人に殺害されたことや[29]1370年に即位した陳朝芸宗が先朝日礼の国制がのそれに従わなかったのは「南北おのおの、その国に帝たる」がゆえんであるとして衣服楽章などを「北俗」に合わせることを拒否した[30]

1329年ごろに成立した国家祭祀を受けた神々の事績集越旬幽霊集においても李朝の仁宗の時(1076年)に来侵した宋兵に対して

南国山河南帝居 裁然分定在天書 如何逆虜来侵犯 汝輩行看取敗虚

と詩を吟ずるのが聞こえたとされ「南国の山河には南の帝が居る」という一句が北国や北の帝との対比を暗示している[31]

黎朝で儒教の礼制と科挙官僚制を基礎とする集権国家体制の確立を見るなか、「中国」を「北国」としそれに対する自らを「南国」とする国家意識(「南国意識」)が形成され、「中国」世界からの自立が意図された。明軍撤退後の1428年、黎朝を建国した黎利の命により儒者の阮廌が撰述した『平呉大誥中国語版』において

おもうに我が大越国は実に文献の邦たり。山川の封域すでに深くして、南北の風俗また異なる。趙の我が国をはじめて造れるより、漢唐宋元と各々一方に帝たり。強弱は時によりて不同ありといえども、豪傑は世に未だかつて乏しからず。

という一節を見るようにベトナムは「文献の邦」(文明国)であって夷狄の地ではなく、地理や領域は「中国」とは異なり、風俗も南(ベトナム)と北(中国)では異なる。これは「中国」世界からの自立宣言に等しいものとされる。併せて自己を文明人(「京人」)、周辺の異民族を夷狄(「土人」)とする中華思想が展開された。この「京人」が、今日のベトナムの多数民族であるキン族の名称の起源である[32]。しかしカオバンを拠点とし鄭氏政権に抵抗していた莫敬宇中国語版が1677年鄭軍に追われ中国領鎮安州を「内地鎮安州」と表記したり[33]、ベトナムの儒者の一人、黎貴惇中国語版が北部の鄭氏が南方の広南阮氏を倒したことを述べた『撫辺雑録』において、中国を「上国」(大明・大清とも)と呼ぶなど朝鮮と同様事大主義の一面を隠し切れない難点もあった。

ベトナムはカンボジアやラオスのような「小国」を皇帝の徳の及ぶ藩属国と見なし、シャムなどの大国とは対等な外交を意味する「邦交」関係を維持した。19世紀の阮朝では中国との関係も、国内では朝貢ではなく対等の「邦交」だとしていた。また阮朝の明帝代のカンボジア経営では行政単位や官職をベトナム式にし、仏寺を破壊して儒教のを建てるなどの同化政策を採った[34]

この意識はフランス植民地支配下においても存続し、1920年代までのベトナム人のインドシナに対する認識には「中華」であるベトナムから見て他民族を、蛮夷の経営という枠組みで山地民族を組織化しようとした潘佩珠のような改革派から、ベトナム人の優先説を説く改良派まであった。1930年代までのインドシナ共産党の文献でも、「ベトナム民族」という場合にはキン族のみを指しており、この点はナショナリストと共産党の間に大差はなかった。40年代初期の路線では、ベトナムという枠組みはキン族を核としつつ、その他の少数民族を包摂した枠組みとなった[35]

ベトナムの南北分断がもたらした北ベトナムの中国依存の構図は、中国からの離脱という近代ナショナリズムの源流から生まれた共産主義者たちを再び中国に引き戻し、毛沢東思想はベトナム労働党の党規約において普遍モデルとして受容されるに至ったが、その後の中国の文化大革命後の混乱と、60年代からの「ベトナム・モデル」の提唱、そしてベトナム戦争の激化はベトナム史像をナショナルなものに変えた。中国歴代王朝の侵略に対抗し、キン族を中心とし、周辺民族が結集した「ベトナム国民」がきわめて早期に形成されたとされ、ベトナムが中国文明の影響を受けて発展したという側面は完全に否定され、四千年の愛国主義の伝統がベトナム革命の推進力であるという考えが1970年刊行の党の正史に記された。このようなキン族を中心とし、周辺民族を結合していこうという傾向は、南北統一後には中国系住民をめぐる問題となり、ボートピープルなどの悲劇を生むことになる[36]

その他[編集]

小中華(小華)の誕生[編集]

  • 小華(小中華)とはから冊封を受けていた『朝鮮李氏朝鮮)』が、天朝と呼んでいた明王朝の『中華』に対し、自らを支の国として『小華』を自称したことに始まる[4]
  • 司馬遼太郎は著書『この国のかたち』の中で、朝鮮王朝は「中国に在(いま)す皇帝をもって本家とし、朝鮮王家は分家であるという礼をとった。地理的には蕃(蛮地)であっても、思想的には儒教であるため、大いなる華の一部をなすという考え方による」と記す[4]。さらに「李氏朝鮮では中国(明)のことを『天朝』と呼んで尊んだ。中国皇帝が天命によって地上を支配する唯一人であるがために、支の国としてそうよぶのが『礼』であった」と説明している[4]
  • さらに司馬遼太郎は同書の中で、「近代以前、華(中国)を中心に「冊封」という国際秩序があり、李氏朝鮮から冊封をうけていた。例えば朝鮮の太祖である李成桂(1335~1408)は、1392年7月に王位につくと、同年11月に明に使いを出して国号の『朝鮮』を選んで貰った行為など(もう1つに『和寧』案があった)は、典型的な『冊封』の形とされる」であると説明する[4]。さらに「朝鮮では明の年号を使用するとともに、両国は儒教という思想を共有し、祭典もまた朝鮮は明の礼制に合わせた。朝鮮固有のシャーマニズムを淫祠とし、また廃仏毀釈(仏教弾圧)をおこなって、儒教の優位性を高め、観念の上では中国以上の儒教国家となった」とし、「やがて本流である中国の「中華」に対し、支の国として『小華(小中華)』と称するようになる」と同書の中で述べる。そして「小華である以上、その徳に服する蛮(蕃)が必要となる。このため他の国々(日本や琉球や満州の一部など)が(思想的に)それらに当て嵌められた」と関係性を述べ、「この理(空論)によって日本は蕃国(野蛮国)とされた。ただ朝鮮という華に朝貢してこないのは、日本がそれだけ無知だったという形式論になった」と説明する[4]
  • さらに司馬遼太郎は著書『韓のくに紀行』の中で、「儒教というものは、日本にあっては紙で木版画印刷された書物というかたちをとりつづけてきたが、中国ではもっとおそるべきものである」と記す。それは「漢以来、(儒教が)統治の原理であり、多分に体制そのものであり、これを統治させるものからいえば人間関係の唯一の原則で、人間であるかぎりこれ以外の習俗はない」と儒教思想とその体制のありようを説明する。そして「李朝五百年間、中国的儒教体制の模範生であった朝鮮は、中国の歴代王朝から、『東方儀礼ノ国』とほめられつづけたように、習俗として礼教を重んじつづけてきた。むろんそれは形式主義であってもかわまない。むしろ形式主義こそ国家と人間の秩序にもっとも大切な物だというのが、儒教的な思考法である」と書き述べている[37]
  • また朝鮮の礼について司馬遼太郎は著書『この国のかたち』のなかで、朝鮮は「華の国である明にたいして、『事大』の礼をとり、明を天朝と呼んだ。事大とは大に事(つか)えるということで、後にその語感のわるさが民族的自尊心をわるく刺激したが、当時は事大こそが礼教に適うとされた[4]」とする。『事大』の典拠について、司馬遼太郎は「孟子に、小国は大国に事(つか)えるほうがいい(小ヲ以テ大ニ事エル者ハ天ヲ畏ルル者ナリ)」をあげている[4]
  • さらに司馬遼太郎は同書の中で「朝鮮王朝(李氏朝鮮)が儒教を国教とするの14世紀末のことで、16世紀には李退渓が現れ、朝鮮朱子学が確立された」「朝鮮は『東方儀礼ノ国』などと言われたが、この儀礼とは儒教イデオロギーをさす」と記している[4]


小中華(小華)としての振る舞い[編集]

  • 儒教の礼が意味する例として、司馬遼太郎は著書『この国のかたち』の中で、「朝鮮儒教は華夷の差をたてることに敏感だった。『小華』である以上、その徳にすいふくする『蛮』(蕃)をもたねばならない」とし「このため、(儒教)思想的に日本が蕃(野蛮)に当て嵌められた」と、小華(中華)のありようを記している。その例の1つとして「李朝では、日本のことを、ほとんど正称のように『倭夷』と呼ぶようになった。それが朝鮮儒教での礼というものであった。礼とはお行儀のことではない」と説明する[4]。以下は儒教(中華)における礼がどういうものか、朝鮮(小華)の理屈(空論)によって、日本が蕃国(野蛮国)として扱われてきた歴史的な一例である(『この国のかたち』司馬遼太郎(文春文庫):『韓のくに紀行』(街道をゆく2)司馬遼太郎(朝日文芸社)より)。
  • 『海遊録』(1719年)によると、対馬の城下の厳原に、申維翰(しんいかん)一行が着いたとき、対馬藩の通訳が対馬藩主に謁見させようとすると、申維翰は「この島は朝鮮の一州県に過ぎない」「対馬の島主は、わが国の藩臣(辺境の臣)である」とし、なぜ一地方官にこちらから出向いて挨拶しなければならないのかと不満を述べたとある[4]。さらに申維翰の文中では、不特定の日本人をさすとき、「群衆と呼ばず『群倭』と呼び、対馬の警備人を『禁徒倭』、さまざまな人々を『諸倭』と言う。くどいほどに差を明らかにしている」[4]
  • (実際の対馬藩は徳川幕府時代にあって10万石格の大名にしてその臣であり、それ以前の豊臣秀吉時代の唐入り(文禄の役)では第一陣の小西行長らに加わっている)
  • (実際の『』の語源は説文解字に記されている「順ナルカタチ。人二シタガフ。委声」であり、「よく順(したが)う」の意から「純朴な人」を意味するが、儒教的な蔑視と空論、または発言者の無知から、『倭』は同音異語の文字『矮』(矢編は弓を連想させ、弦が引かれて曲がっているイメージがある)と混同され、主にチビを意味する蔑称として使われている[37]
  • (『倭』は「人」(人偏)と「委」(ゆだねる)からなる文字であり(例:「委員会、委託、委任」など)、例えば三国志時代を含めて幾度か国名に用いられてきた『』は、この「委」と死者を意味する「」から成り立っており、本来の「倭」の文字に悪い意味はない)
  • また申維翰について、彼は後に科挙に合格するが、庶子であるため身分が低く、朝鮮通信使でも大使ではなく製述官(記録者)であった[38][4]。司馬遼太郎はドナルド・キーンとの対談の中では、申維翰自身は「朝鮮王から派遣された1人なので、対馬の殿様なんてものは自分より下だと思っている」と述べている[38]。また司馬遼太郎は著書『この国のかたち』の中では、この典型的な儒教的価値観をもった申維翰について、「小中華という架空の真実のなかで生きる儒教の徒の申維翰は、日本人に対し、『人』という文字をつかわないのである。人とは文明人のことで、申維翰的定義では、中華と小中華の場合のみつかわれるのに違いない」と書き述べ[4]、さらに「申維翰の用法は、倭とは人間の形をとっているものの内容は野蛮人であるという意である。もし申維翰が、中国の北東の蒙古に使いしたとすれば群狄(ぐんてき)、禁徒狄、諸狄と書くはずで、ようするに人でない」と捕捉している[4]
  • その後も申維翰は、江戸時代の沸騰した商品経済や、庶民を含めた識字率の高さ、商売での公の精神などには目もくれず、華夷の差別感だけで日本を見たとされ[4]、しきりに「笑うべし」という問投句を入れつつ[4]、さらに中国古典にあった『士農工商』という言葉さえ使わず、『国に四民あり、曰く農工商』と言った[4][37]。このことについて司馬遼太郎は『この国のかたち』の中で、儒教文明にあって『兵』は卑しいものとされ、例えば中国の俗諺に「良い鉄は釘にならない。良い人間は兵にならない」とあるように、兵とはあぶれ者ややくざ者が王朝の徴に応じて兵になるものとされ、読書階級の士である申維翰は、『士』という言葉を日本人に使うことを惜しんだとしている[37]
  • 明治維新成立の前年、これまで2世紀に渡って朝鮮王朝と外交関係のあった徳川家の当主である徳川慶喜から、政権を朝廷に返した旨を対馬藩を介して通告したが、朝鮮宮廷は無視した[4]
  • 明治維新後すぐ(9月と11月)、明治政府は対馬藩を通じて、日本で政権の交代が起こった事と友好関係を求める趣旨の書を送るが、朝鮮側は釜山にある対馬藩の倭館に書簡を送り返してきた[4][37]
  • 対馬藩はその後、明治新政府に対韓外交の役目を辞めさせてくれと哀願し、受理される[37]。その請願状の中には、「自分の藩の財政は従来窮迫しておりましたために、たいていは韓土に依って生養を遂げてきました(朝鮮と対馬の貿易をさす)[39]。ですから操縦の権はつねに彼にあり、ややもすれば愚弄軽侮をうけ、その術中におち入るおそれも多く、そういうわけで適任ではございませぬ」とある[37]
  • <対馬貿易について、対馬側の輸出額は朝鮮側のおよそ2倍であり(貞享元年:1684年私貿易取引によると輸出額合計は(銀と銀相当の物で)2,678貫388匁余、輸入額合計は1,405貫874匁)、このため朝鮮側にって貿易規制がなされることがあった[39]>。
  • 明治3年(1870)2月、明治政府の外務関係の使者3人が釜山の倭館に行き、日本側が維新成立の事情を告げ、善隣の方針を伝えたが、地方官2名が応対しただけで、ソウル(朝鮮朝廷)は相手にせず、滞留して1年半も待たされた末、ついに得た返答は、返答の無期限延期であった[37][4]
  • 明治6年(1873)5月、突然、朝鮮は倭館に出入りする朝鮮人に向けての貼り紙(門壁の訓令文)により、「其ノ形ヲ変ジ、俗ヲ易(かえ)ユ。此即(これすなわち)、日本ノ人ト謂(い)フ可(べ)カラズ。…無法ノ国ト謂フ可シ」「洋服を着はじめたのはけしからん」とし、維新成立を告げた前記の明治政府側の文書(明治3年(1870)2月)のなかで使われていた『皇室』『皇祖』『皇上』といった用語の使用について、告示文は目をむいて咎め、さらに倭館への韓民の出入りまで禁止した[4][37]
  • (明治政府による政権交代の通達と親善を求めた文章は『本邦(日本)、頃(このごろ)、時勢一変、政権一(いつ)二、皇室二帰ス。貴国トノ隣誼(りんぎ)、固(もとより)厚シ』であり、その内容自体には問題はない[4]。)
  • この朝鮮側の対応について司馬遼太郎は著書2つの中で、天皇の『皇』の文字は中国の皇帝と同格であり、王の地位であった朝鮮(李氏朝鮮)としては、小中華的(儒教的)に蕃(蛮)として蔑視してきた日本が『皇』の文字を使用することは、(儒教思想と感情的に)許し難い事であったこと、そして今さら『皇』の文字を問題にするほど朝鮮が日本の文献を読まないできたことを指摘している[4][37]。この他にもこうした朝鮮側の対応の理由として、司馬遼太郎は『この国のかたち(一)』の中で、「朝鮮にとって尊王の王は(思弁的な屈折はありつつも)清国皇帝のみをさすのである。日本の場合は、当時の朝鮮からみれば物知らずにも自国の天皇をさしている。日本には礼教という秩序感覚がない」として、『礼教』(儒教的体制と思想)の枠から外れている日本に対する、朝鮮側の不快と不安の現れを説明している。さらに司馬遼太郎は同書の中で「礼教がないぶんだけ野蛮だということである。野蛮とはルールがないことをさし、何をしでかすかわからない、ということである」と、儒教的価値観でしか物事を考えられないでいた朝鮮側の心境を書き述べている[4]
  • (さらに司馬遼太郎は、このような朝鮮側の態度について、明治初年の日本政府が、朝鮮の頑迷さを「自尊自大、百世の古籍を敲(たた)き、宇宙の字体を解せず」とあらわしたことを書き述べている[4]。)
  • (現在でもこうした儒教的(小華的)な序列と選民的思想は色濃く、例えば朝鮮半島国内のニュース記事でも『天皇』を『日王』と表記していることが、ネット検索で容易に確認できる)
  • こうした小中華的(儒教的)な考え方や対応について、司馬遼太郎は著書『この国のかたち』の中で、「韓国人がいまも日本人を『倭奴』と蔑称しつづけているのは、一つには『小華』としての伝統的な虚構が深層にあってのことにちがいない」とし、また「儒教の礼とは日本語の礼儀や行儀という多分に互敬的な作法ではなく、『礼は国の幹なり』(春秋左氏伝)というように、礼が人倫の秩序を守るための基本であり、秩序を現代風に言えば、上下の差別を重んじ、自他の差を服装や礼儀で装飾化することであった。差別が国の幹なのである」と言いあらわしている[4]


小中華(小華)価値観の社会[編集]

  • その後の李朝的な儒教社会がどういうものであるかの一例として、司馬遼太郎は著書『韓のくに紀行』(街道を行く2)の中で、以下のように説明している。「韓国にあっては、李朝式の儒教によって、十親等までが濃厚な身内とされる。日本人もおなじく孔子や孟子を読みはしたが、とてものこと、こういう本格派の儒教社会の人間のシガラミというものは理解できない。(中略)だれかが大官になる。すると十親等までの人間が押しかけてきて、商人ならば利権をもらい、学歴のある者なら官職につけてもらおうとするし、げんにそうなる。もし政府の大官のところへ十親等の伯父がやってきて、「おれに石油輸入についての利権をくれんか」とたのんで、その大官がにべもなくことわるとすれば道義論をたてにとった騒ぎになるにちがいない。こういう道義主義こそ儒教的体制というものであり、日本人が考えているような朱子学、陽明学というような書物だけの甘っちょろいものではないのである」と書き述べている[37]
  • 呉善花は著書『攘夷の韓国 開国の日本』の中で、「日本民族に対する自民族的優位主義が韓国で流通しやすいのは、韓国の儒教的な論理からくる歴史観と無縁ではない。先祖を自らの論理価値の源、根拠として崇拝する儒教の論理が、自らを『日本文化の先祖』という位置に置くことに大きな役割を果たしている。儒教の論理では、先祖と子孫、親と子のように、先にある方、起源の方がより上位に立つ」と書き述べている」[40]


華と礼の虚構[編集]

  • 司馬遼太郎は著書『この国のかたち』の中で、「実は華も礼も虚礼に過ぎない」と書き記している。その例の1つとして、「李氏朝鮮の場合、社会の底にいる聡明な小児をえらび、男根を断って宦官にし、宮廷で秀才教育を施した。明の宮廷への工作のためだった。ありようは、朝鮮国王から『天朝』に美姫を献ずるとき、お付きとしてその宦官をも贈り、入り込ませるのである。その宦官は学才があるため、当然ながら明の宮中で出世をする。明のほうもよく心得ていて、朝鮮国王の代がかわるとき、冊封のための勅使としてその朝鮮系宦官をその母国に派遣するのである。ブラックユーモアといっていい。天朝の勅使になったその朝鮮系宦官は道中、ほしいままな気儘をはたらき、賄賂をふところにいれつづけ、ついに母国の王城にいたる。朝鮮国王は城門のそとでその宦官に拝跪するのである。壮大な虚構ではないか」と記す[4]
  • この他にも司馬遼太郎は同書の中で、「清の世になると、朝鮮は(オランケと呼び蔑視していた女真族・満州人の)清朝に対して前代の明朝と同様、これを、『天朝』ととなえ、清国皇帝に手厚く事えた」としながらも、「内々においては清朝をもって夷狄とののしり、また女真風に辮髪させられている中国人民についてはこれを『犬羊』であるとした」と記す。そして「このような腸捻転(ねんてん)にも似た思想的閉塞は朱子学という思弁哲学の惨禍であったともいえる」と書き述べている[4]


『中華』と『支那』の呼称問題[編集]

  • 思想的な意味合いをもつ『中華』の呼称(字義)を使う以上、非中華である物は全て野蛮を意味する夷や蛮となる。司馬遼太郎は著書『この国のかたち』の中で思想的な意味をもつ言葉『中華』の使用について警告をしている。「大衆食堂などに入って、軽々に、『冷やし中華』などというべきではない。『華』とは文明という字義で、意味が重い。げんに中国人は、みずからを華人という。文明人のことである。他に用例として、中華人民共和国、中華民国という国名がある。中華とは、宇宙唯一の文明ということである」と記述する[41]。当然のことながら特定のものを『華』と呼ぶ以上、それ以外の物は(地域や料理や人も)蕃(野蛮)となる。
  • その一方で、シナ(支那)と呼ぶことにも問題があるとする意見がある。しかし「チャイナ」と「支那」は同語源であり、差別的な意味ではない。支那の語源は「秦(チン)」(始皇帝の国)による。中国では歴史上、王朝が変わると国号自体ががらりと変わるが、ほかの国では、そのようなことがそれほど多くない。だから秦が滅びた後も、周辺の諸民族は、「あの国はチンだ」と呼び続けた。やがてインド、ペルシャ、アラビアなどでも中国を「秦」系統の言葉で呼ぶようになる(「チーン」、「チーナ」、「シーナ」)[42]。さらに仏典にも中国を指す国名として「チーナ」が登場した(仏教はシルクロード経由などで中国にも伝来。おおむね後漢の頃とされる)」)[42]。その後、中国は懸命に仏典の漢訳に取り組み、「チーナ」に「支那」の字を当てた。その他にも「脂那」や「至那」の文字も使われた。また、インドの言葉で「秦国」をあらわした「チーナスターナ」という言葉は、「震旦」、「真丹」などと漢字化された。仏典の漢訳には中国人僧だけでく、シルクロード諸国やインド出身の僧も多数、参加していたため、「支那」の字を考えついたのは中国人とはかぎらない。ただし、「漢訳仏典」が中国社会で受け入れられたのは事実であり、咎められることはなかった[43]
  • 日本(主に明治政府以降)でも「国外では“唐土”のことをチーナと呼ばれている」と知り、その一方で、仏典の中に「支那」という言葉を発見することで、「チーナ」=「支那」と理解し、当時は欧米語の固有名詞は漢字で表記するのが一般的だったため「チーナ」を「支那」と書くようになった。「チーナ」はもちろん、英語の「チャイナ」の語源であり、逆に言えば「チャイナ」は「チーナ」の英語版である」)[42]。自分たち(英語圏)の言葉で発音しやすいよう、使いやすいよう、形を少々変えただけあり、日本語で「支那」を使うようになった経緯と同じ構造である。もし「支那」を禁止するなら、「チャイナ」も禁止してもらわないと理屈が合わない。日本人に対して「支那」とは言ってほしくないと主張するなら、『中華』は英語国名も通称は「Zhongguo」であり、正式国名も「People’s Republic of Zhonghua」としなければ(国際法上)おかしい[43]
  • 『支那』が差別語だと勘違いされた可能性の1つに、戦時中の中国人が日本を蔑視して『倭』と呼んでいたため、「日本人も自分達を差別して『支那』を使ったのに違いない」という思いこみの可能性がある。『倭』の文字が使われ出した時代の辞書(中国最古の辞書)に相当する『説文解字』では、『倭』の意味を「順ナルカタチ。人二シタガフ。委声」と記す[37]。これは「よく順(したが)う人」の意味から「よく言うことをきく人、純粋(純朴)な人」を意味しているが[4]、同音異語である『矮』(矢編は弓を連想させ、弦が引かれて曲がっているイメージがある)とやがて混同されるようになり、チビを意味する蔑視した言葉として使われてきた[37]。司馬遼太郎は陳舜臣との対談の中で、朝鮮では「倭奴」などと呼んでいたが、「日中戦争のときに、中国側の新聞は『倭軍、何とかに上陸』とか、書いた」(司馬)「倭寇とよんでいた」(陳)と述べている[44]


儒教の概念[編集]

  • 中華の概念の根本となっている儒教では、天命によって天から選ばれた天子(皇帝または王)を頂点とした(身分や血筋による)徹底した序列秩序が唱えられており[4]、従って儒教の基本概念に平等はない。このことについて司馬遼太郎は著書『この国のかたち』の中で「儒教では祖先への祭祀や血族の序列、尊卑貴賤という身分制を固守する形式が重要」、「儒教の礼とは日本語の礼儀や行儀という多分に互敬的な作法ではなく、『礼は国の幹なり』(春秋左氏伝)というように、礼が人倫の秩序を守るための基本であり、秩序を現代風に言えば、上下の差別を重んじ、自他の差を服装や礼儀で装飾化することであった。差別が国の幹なのである」と記す。また「九州之他、之(これ)ヲ蕃国と謂う」(周礼)」から、本土以外を蕃(野蛮)としてきたとし、さらに「儒教とは、華(文明)であるにはどうすればいいかという『宗教』で、野蛮を悪としてきた」と説明する[4]
  • また司馬遼太郎は著書『韓のくに紀行』の中で、儒教とは習俗として礼教を重んじることであるとし、「むろんそれは形式主義であってもかわまない。むしろ形式主義こそ国家と人間の秩序にもっとも大切な物だというのが、儒教的な思考法である」と説明している[37]。さらに「礼とはつまり形式のことで、この形式がいかに煩瑣(はんさ)であれ、これを命懸けでまもってこそ人間社会と社会が成立するというものが、儒教の祖とされる孔子の考え方であった」とし、「逆にいえば儒教国家というものは自然のままの人間というものをみとめない。人間は秩序原理(礼)でもって飼い慣らしてはじめて人間になる。そうなっている」と書き述べている[37]


批儒教運動[編集]

  • 1919年、中国で『五・四運動』が起こったさいには、反孔子、反儒教がスローガンの1つになった[44]司馬遼太郎陳舜臣は対談のなかで、批孔の人物として陳独秀洪秀全(太平天国の首領)の名をあげ、さらに愛国運動とされる「五・四運動のときには、孔子の教えは国を滅ぼす、儒教は奴隷に対するモラルだとして、猛烈に批判がされたことを述べている[44]
  • また昔から李卓吾などが、孔子の弟子が悪かっただけで孔子は悪くないとする主張をしていたことや、康有為の『孔子改制論』では、「孔子は絶対だけれど、いまの儒教は孔子の教えではない。本当の孔子の教えは弟子達が変えてしまってよくわからないが、

それを再構築しなければならない」とする主張だったことを述べている[44]



初期の宋学について[編集]

宋学の主張を要約すると「異民族をうちはらえ。王を重んじよ」であるが、もともと儒教に、この思想はなかったとされる。司馬遼太郎は著書『この国のかたち』の中で、「儒教では血族の紐帯を論理化し、かつ役人の教えを説いたもので、その思想には本来、尊王や忠君という要素はなかった。 そこに宋学派の孫泰山(992~1057)が『春秋』(前480年頃成立)のなかからそういうことばをさがしだして、『春秋尊王発微』という本をあらわした。要するに自分の思想の典拠を古語にもとめただけで、孫復(孫泰山)の独創にちかいものだったし、尊王という熟語も、かれによってはじめて用いられたもので、その思想に本来、尊王や忠君はなかった」としている[4]


日本の官学(朱子学)が儒学であって儒教でなかったことについて[編集]

  • 江戸時代の日本人は儒教(朱子学)を学問である『儒学』にとどめ、仏教や神道から儒教への改宗や棄教はしなかった。この事について、司馬遼太郎は著書『この国のかたち』(一)の中で、「日本人は面としての儒教を入れなかった」と記す。

このことについて司馬遼太郎は同書の中で「面の儒教とは、民衆のなかに溶け込んだ孝を中心とする血族(疑似血族ふくむ)的な宗教意識を言う。ここから、祭祀や葬礼の仕方や、同姓不婚といった儀礼や禁忌などもうまれる。それら儒教のいっさいのシステムぐるみを入れたとすれば、日本は中国社会にそのものになっていたにちがいない。 結局、日本における儒教は多分に学問──つまりは書物──であって、民衆を飼い慣らす能力をもつ普遍的思想として展開することなくおわった」と書き述べている[4]。 また日本人が儒教化しなかった最大の要因として、司馬遼太郎は、『科挙の試験制度』を導入しなかったことを理由にあげている[4]

香港と台湾における中華思想への反発[編集]

台湾ならびに、香港においては中華思想への反発といえるものが起きている。香港では大中華膠ともよばれ、大中華主義ども呼ばれる。これは、中華民族が住む土地は一つの国家であるべきでこれに反すると漢奸となる。[45][46]これに反発してできたのが香港民族主義であり、香港人は一つの民族であるとする香港民族論も影響を受けている。[47] また、台湾においても中華民族主義に対する反発は、台湾独立派を中心にあり[48]、台湾の場合は中国国民党中国共産党双方に対するものである。 李登輝によれば、台湾は移民国家であり民主国家である。中華民族主義に対し、台湾民族主義を掲げ民族国家に戻る必要はなく民主そのものが対立軸となると主張した。[49]張彧暋は日本、台湾、香港などは、中国に対し距離を置いてものごとを見ることができる「辺境の思想」と定義した。[50]また、林泉忠は国家の端に位置する、沖縄香港台湾辺境東アジアとし特別なアイデンティティを持つとした。[51]

中国民主派による中華思想の批判[編集]

劉仲敬は中華民族は政治的捏造であるとして諸夏主義を提唱した。 また、劉暁波は著書において台湾、香港、チベットなどの辺境地域の独立を認めるべきと主張した。 [52] その一方、中国民主党郭文貴などの中国分裂に反対する中国民主派も存在する。

批判・疑問・危険性[編集]

現代の中国人において、この中華思想(あるいは華夷秩序)が理解されていると直断ずるには疑問があるとする説がある。元外交官宮家邦彦[53]は、現在の中国では教科書に「中華思想」がなく、学術的に研究・考証する専門家もいないされている、としている。その上で、これらは中国に限らずアラブ諸国などの開発途上国に概ね共通する以下のような「対先進国劣等感」の裏返しとした。

  1. 世界は自分を中心に回っていると考える
  2. 自分の家族・部族以外の他人は基本的に信用しない
  3. 誇り高く、面子が潰れることを何よりも恐れる
  4. 外国からの経済援助は「感謝すべきもの」ではなく、「させてやるもの」だと考える
  5. 都合が悪くなると、自分はさておき、他人の「陰謀」に責任を転嫁する

ところがあろうことか夷狄であるはずの欧州列強アヘン戦争で大敗してしまった。そのため洋務運動が起き、とりわけ中体西用によって国力回復を目指した時点では近代化の手本をヨーロッパに求めたため、そこにはあからさまに西欧を卑下する態度は見られないとする。

ただし概ねこうした運動は、時の支配者である「満族」から開放し、かつて中華思想を奉じた「漢族」に取り戻すための滅満興漢を目的としたものであり、それは現在でも国名を「中華」にこだわることなどに、時の改革者によって思想は変貌しつつ、いまだに中華思想と完全に決別できていないことが認められる、とする。アヘン戦争敗北から長い歳月を経っても、いまだに欧米諸国に対しては新しい中国の国家像や国際秩序モデルを示しえているとはいえず、この途上国共通の「劣等意識」こそが根底にあるのでは、と論じている。


脚注[編集]

  1. ^ a b c d 百科事典マイペディア
  2. ^ a b 世界大百科事典,コトバンク
  3. ^ a b c d e デジタル大辞泉
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap 『この国のかたち』司馬遼太郎(文春文庫)
  5. ^ 竹内実『中国の思想』NHKブックス。以下、竹内の引用する説文解字の説や、歴史上の文献により概略を述べる。
  6. ^ 陳舜臣の説。
  7. ^ a b [1]
  8. ^ 章炳麟『太炎文録』、『中華民国解』
  9. ^ 『荀子』「正論」
  10. ^ 中島隆博 『悪の哲学:中国哲学の想像力』 筑摩書房〈筑摩選書〉、2012年。ISBN 9784480015433 pp.194-196.
  11. ^ 後藤多聞『ふたつの故宮』NHK出版
  12. ^ 小島毅:《宋學の形成と展開》,東京:創文社,1990。
  13. ^ 堀敏一「律令制と東アジア世界」
  14. ^ 島田虔次:《朱子學と陽明學》,東京:岩波書店,1967。
  15. ^ 堀敏一「律令制と東アジア世界」、岡田英弘「中国文明の歴史」。日本の東洋史学における通説となっている。
  16. ^ a b c d e f 『だれが中国をつくったか』岡田英弘(PHP親書)
  17. ^ a b 『誰も知らなかった皇帝達の中国』岡田英弘(WAC文庫)
  18. ^ 『この国のかたち』司馬遼太郎(文春文庫)
  19. ^ 于紅 2002, pp. 81.
  20. ^ 于紅 2002, pp. 81-82.
  21. ^ 于紅 2002, pp. 85.
  22. ^ 于紅 2002, pp. 87.
  23. ^ 于紅 2002, pp. 88.
  24. ^ 于紅 2002, pp. 89-92.
  25. ^ 于紅 2002, pp. 98-99.
  26. ^ 狩野君山山本七平『現人神の創作者たち』の説
  27. ^ このような朝鮮の態度から中国は朝鮮を「小中華」と呼んだ。小中華という言葉は17世紀に文献上に初出するが、そこには「ああ、我が国は海の辺隅にあり、国土は狭小ではあるが、礼教・音楽・法律・制度、衣冠(身分秩序)・文物(文化の産物)、ことごとく中国の制度にしたがい、人倫は上層ではあかるく、教化は下のものに行われた。風俗の美は中華をひとしくなぞっている。華人(中国人)はこれを称して小中華という。」(『童蒙先習』総論末尾、1699年本、粛宗王序・宋時烈跋文)と書かれている。
  28. ^ 『大越史記全書』本紀2:李太祖 頂天元年(1010年)の「史臣呉時仕日」
  29. ^ 『大越史記全書』本紀5:陳仁宗 紹宝7年(1285)2月
  30. ^ 『大越史記全書』本紀7:陳芸宗 紹慶元年11月15日
  31. ^ 『大越史記全書』本紀3:李仁宗 太寧5年春3月条
  32. ^ 古田元夫:『ベトナムの世界史』,東京大学出版会,1995。
  33. ^ 『大越史記全書』本紀19:黎玄宗景治5年<1667>9月条
  34. ^ 古田元夫:『ベトナムの世界史』,東京大学出版会,1995。
  35. ^ 古田元夫:『ベトナムの世界史』,東京大学出版会,1995。
  36. ^ 古田元夫:『ベトナムの世界史』,東京大学出版会,1995。
  37. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『韓のくに紀行』(街道をゆく2)司馬遼太郎(朝日文芸社)
  38. ^ a b 『世界のなかの日本』司馬遼太郎・ドナルド=キーン(中央公論)
  39. ^ a b 『倭館』田代和生(文春新書)
  40. ^ 『攘夷の韓国 開国の日本』呉善花(文春文庫)
  41. ^ 『この国のかたち』司馬遼太郎(文春文庫)
  42. ^ a b c 『日中勘違い:「支那」という言葉について考える』鈴木秀明サーチナ
  43. ^ a b 『日中勘違い:「支那」という言葉について考える』鈴木秀明サーチナ 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "aaee6"が異なる内容で複数回定義されています
  44. ^ a b c d 『対談中国を考える』司馬遼太郎、陳舜臣(文春文庫)
  45. ^ 大中華主義
  46. ^ 大中華膠的懺悔
  47. ^ 雨傘運動とその後の香港政治 - J-Stage
  48. ^ 台湾モダニズム詩の光芒 -P7
  49. ^ 新台湾の主張 李登輝 PHP新書 P137
  50. ^ 辺境の思想 日本と香港から考える 福嶋亮大 張彧暋 第1回 辺境(ホンコン)から辺境(ニホン)へ
  51. ^ 「辺境東アジア」のアイデンティティ - J-Stage
  52. ^ 《統一就是奴役:劉曉波論臺灣、香港及西藏》(主流出版社、2016年)
  53. ^ 宮家邦彦『語られざる中国の結末』、PHP新書。その要約

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]