樊城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search
樊城の戦い
戦争:樊城をめぐる劉備と曹操と孫権の衝突
年月日218年-219年
場所樊城(現在の湖北省襄陽市樊城区
結果関羽が捕虜・斬首され、孫権が荊州を支配することに成功。
交戦勢力
劉備 曹操 孫権
指導者・指揮官
関羽
趙累
関平
曹仁
趙儼
于禁
龐徳
徐晃
孫権
呂蒙
陸遜
戦力
不詳 不詳 不詳
損害
不詳 不詳 不詳
三国時代

樊城の戦い(はんじょうのたたかい)は、後漢時代の建安24年(219年)に起こった劉備軍の関羽曹操軍(曹仁于禁徐晃)並びに孫権軍(呂蒙陸遜)の合戦である。

概要[編集]

関羽の進軍[編集]

218年末に荊州南陽郡宛県で事件が起きた。南陽郡は当時、曹操の支配領であったが、ここの太守である東里袞が曹操に認められようとして領民に過酷な賦役を課していた。それに不満を抱いた侯音が関羽と通じて反乱を起こしたのである。侯音は219年初めに樊城を守る曹仁によって斬られたが、これにより南陽郡における曹操軍が動揺する。

219年、定軍山の戦いで劉備は曹操に勝利して漢中を奪い、漢中王を称した。それにより劉備の部下の関羽前将軍に任命され、荊州における軍権も与えられた。そして関羽は曹操領の事件を見て、この年の7月に息子の関平や配下の趙累らと共に水陸から南陽郡に進軍する。

当時、樊城は曹仁が、襄陽呂常が守っていたが、曹操は関羽の進軍を知って于禁を大将にした7軍を援軍として派遣し、曹仁も龐徳を遊軍として城外に出して関羽と戦わせた。だが折からの長雨で漢水が氾濫し、7軍は水没してしまう。于禁は高地に上ることで難を逃れたが、関羽が水軍を使って攻撃してきたために、3万の兵とともに降伏した。龐徳は配下の董衝董超らが降伏しようとするとこれらを斬り、あくまで抵抗を続けた。しかし配下の将が関羽に降伏して孤立無援になると、舟を使って曹仁の樊城に逃れようとしたが、捕らえられて斬られた。後にこのことを聞いた曹操は、「30年以上も仕えてきた于禁が龐徳に及ばなかったとは思わなかった」と嘆き、龐徳の忠義に涙を流し、その2人の息子らは列侯に取り立てた。

温恢は「川の水が増えているのに、曹仁は敵中に孤立し、危険に備えていない。勇猛な関羽が利に乗じて攻めてくれば、災難を引き起こすだろう」と語っていたが、この不安は的中してしまった。

この勝利に乗じて関羽は樊城と襄陽を包囲した。樊城も洪水により城壁の上部まで水没し、孤立無援の状態に陥っていた。

白衣渡江[編集]

この関羽の快進撃は、曹操領内で賊の蜂起を招いた。さらに丞相掾の魏諷までもが反乱を起こすなどしたため、曹操は動揺し遷都を考えるようになる。しかし曹操の参謀である司馬懿蒋済はこれに反対し、217年から曹操に形式上和睦していた孫権に関羽の背後を突くことを勧め、江南に孫権を封ずることを許せば、樊城の包囲は解けると進言した。曹操はこれに従った。

213年、孫権は曹操の40万大軍と濡須で交戦し、濡須口に陥落される。劉備にも救援を要請した、劉備は孫権の救援には赴かず、逆に劉璋を不意打した、孫権は激怒する事になる。戦後、劉備が益州を取ったのを見て、孫権は劉備に荊州の返還を求めてきた、孫権と劉備の荊州領有などにより孫権と劉備の仲は険悪化しており、魯粛は今回の一件について劉備陣営に信用がないことを叱責しました、関羽を怒鳴りつける。217年に魯粛が死去して呂蒙が都督になっていた。呂蒙は長江を超えて曹操と徐州を争っても得るものが無く、関羽を警戒して長江に拠った方が孫権のためになると進言しており、孫権もこの意見を尤もだと認めていた。関羽は傲慢な性格で孫権を軽視し、孫権との婚礼を断ると同時に孫権を罵倒するなどしたため、孫権は関羽に救援を申し出ていながら、わざとゆっくり兵を進めさせた。そこで関羽は「鯽子!樊城が陥落したとき、俺は君を滅ぼさずにいられようか!」。単刀会談で劉備はかくて湘水を境界線として割き、関羽が兵糧が足りなかったので呉と蜀の国境に設けられた境地の軍需物資を勝手に襲撃して強奪う事件が起きると[1]、孫権を怒らせた、討伐を決定した。孫権はついに呂蒙を先陣として派遣した。呂蒙・陸遜らは秘密裏に進軍したが、関羽の本拠地の江陵・公安は主力軍不在であり、さらに関羽に反感を抱いていた守将の糜芳士仁らが寝返り、結果として呉軍に落とされた。短期間で荊州の関羽の支配地は孫権に征服されたのである。

樊城解放[編集]

樊城では長雨のために城壁が水没し、関羽が水軍を使って兵糧攻めを行なっていたために食糧も尽きかけていた。ある者が曹仁に撤退を進言したが、満寵はこれに反対し、曹仁は満寵の判断を支持した。

曹操は新たに趙儼徐晃ら5万の軍勢を援軍として送り込む。徐晃の軍は新兵中心の編成のうえ寡兵であった為、趙儼の意見に基づき、独力での攻撃は行なわず更なる援軍を待ちつつ地下道などを用いて曹仁との連絡を取った。徐商・呂建らが更なる援軍として到着すると、徐晃は攻勢に移った。徐晃はまず偃城の奪取を目論見、塹壕を掘って背後から攻めると見せかけた。偃城の守備隊はこれを恐れて屯営を焼き払い撤退したので徐晃は偃城を無血で確保することが出来た。その後も、曹操は徐晃に援軍5万の追加派遣を行ない、さらに合計12の屯営の兵が徐晃の指揮下に入った。于禁が関羽に降伏した後、曹操の樊城・襄陽への援軍が小出しであったことは、定軍山の戦いの敗北、于禁ら七軍の全滅から魏軍が立ち直るのに時間がかかっていたという事情が伺われるところである。

関羽は囲頭や四冢に屯営を置いていが、徐晃は四冢を次なる攻撃目標に選択した。徐晃は囲頭を攻撃すると情報を流した後に油断している四冢を攻撃した。関羽は四冢の屯営が攻撃を受けているのを見ると、歩兵騎兵五千を自ら率いて徐晃に野戦を挑んだ。徐晃はこれを打ち破った。関羽は退却したが、徐晃は深くこれを追撃し、幾重にも設置された塹壕や逆茂木を総て突破し、関羽の包囲網に大損害を与えた。

関羽は徐晃に敗れたので樊城から撤退せざるを得なくなったが、襄陽の包囲は続けた。しかし、関羽は輜重を孫権に奪われたことを知り、襄陽の包囲を解いて僅かな兵力を率いて退却した。[2]

関羽の結末[編集]

その後、関羽は益州に逃れようとしたが、孫権は元の荊州を全数が奪還わせ、関羽は当陽まで引き返したのち、孫権が江陵に自ら軍を率いてきていることを知り、それを恐れて西の麦城に拠った。孫権から降伏を勧告する使者が派遣されてくると、関羽は偽って降り、幡旗を立てて城上に人を象って遁走した[3]。孫権は潘璋·朱然を派遣して関羽の退路を遮断し、臨沮において関羽は関平らと共に退路を断たれ、関羽および子の関平を捕らえた。孫権は関羽を生かして劉・曹にぶつけたいと思ったが、左右の者たちが言った「狼の子を養うことはできませぬ。のちに必ず害をなすでしょう。曹操は即座に彼を排除しなかったために自ら大きな心配事を作り、都を遷そうと提議したのです。今、どうして生かしておけましょう!」そこで関羽を斬首した[4]。その首は、孫権の使者によって曹操の下へ送られ、孫権は諸侯の礼をもって当陽に彼の死体を葬った(『呉歴』)。一方、曹操は諸侯の礼をもって洛陽に彼の首を葬った(『関羽伝』)。

戦後[編集]

郡の長官や居住する異民族達はすべて呉に帰順したため、呉は無血で荊州を占領する。逃亡した劉備軍の残党や支援者が討ち取ったり捕虜にしたり帰順させた者の合計は数万人にも達したという。危機が解除された曹操が上表して孫権を荊州牧とし、荊州の支配が認められた。荊州を占領した孫権は、民の租税を尽く除い、荊州の民心を得た。一方、蜀は荊州を完全に失う事となる。222年、劉備は関羽を殺された怒りによる報復と荊州奪還を目的として軍を進め、呉の孫権に対して夷陵の戦いを起こしたが、軍の大半と数多くの人材を失う歴史的大敗を喫した。

関羽に捕らえられた于禁は、呉が荊州を占領した際に呉の所属となり、魏成立後に帰国出来たが、曹丕に恥をかかされて憤死を遂げた。

関羽に斬られた龐徳の遺児である龐会は、蜀漢の滅亡後に関羽の子孫を皆殺しにすることで復讐を果たしている(王隠の『蜀記』)[5]

脚注[編集]

  1. ^ 三国志』呂蒙伝によれば、于禁ら数万人が関羽に降伏した為、関羽軍の食料が不足したことが原因。
  2. ^ 三国志趙儼
  3. ^ 『三國志·呉主伝』、『三國志·関羽伝』、『三國志·呂蒙伝』
  4. ^ 『蜀記』
  5. ^ 陳寿の三国志には記述がなく、宋書、旧唐書等に関羽の子孫を名乗る人物が登場する為、実態は不明である。

参考文献[編集]