習珍

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習 珍(しゅう ちん、? - 222年?)は、中国後漢末期から三国時代武将荊州襄陽郡の人。

生涯[編集]

習珍は若い頃から劉備に追随して功績を重ね、赤壁の戦い後に劉備が荊州南部四郡[1]を占領した時に、習珍は零陵北部都尉・裨将軍に任じられた。

建安24年(219年)、関羽北伐で荊州が手薄になった隙に、孫権呂蒙に命じて荊州を襲撃し占領し、関羽は捕えられて処刑され、荊州の南郡・零陵郡・武陵郡の各郡も孫権に降った。しかし習珍だけは固く城を守り降らず、屯所の零陵で呉の軍を迎撃した。しかし習珍は弟の習宏の諫言を入れて、身を屈して孫権に降り、零陵を後にした。習珍は密かに武陵従事の樊伷[2]と結び、反乱して蜀へ帰順する計画を立てたが、計画は漏れた。そこで習珍は反乱を起こしたが孫権の派遣した兵に敗れ、逃走し所轄の7県の兵を徴発し劉備に帰属し、昭陵太守[3]を自称し、異民族の土地に駐屯して蜀に味方した。

劉備が夷陵の戦いにて敗れると、零陵郡・桂陽郡の諸郡は習珍の反乱もあって動揺していたが、至る所で反乱兵は防がれ、歩騭が反乱を討伐して、すべて平定された。

孫権は潘濬に習珍を討伐させ、潘濬は兵を率いて反乱地域へ来攻し、樊伷を斬った。反乱はほぼ鎮圧され、潘濬は習珍に使者を派遣して投降を勧めた。習珍は大義のために凜然と言った。「私は蜀漢の鬼になろうと、呉の臣にはならぬ」潘濬は1月あまり包囲した後、食料が尽き援軍が来ないのを悟り、習珍は自殺した。

劉備は習珍が敗れて死んだことを知ると、喪を発し、習珍に昭陵太守を追贈したという[4]

一族[編集]

  • 習宏 - 習珍の弟。呉に仕える。
  • 習温 - 習珍の子。呉の荊州大中正。
  • 習宇 - 習温の子。呉の執法郎。

参考文献[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 桂陽郡武陵郡零陵郡長沙郡
  2. ^ 樊胄とも
  3. ^ 司馬昭の諱を避けるために西晋により昭陵郡は邵陵郡と改称された
  4. ^ 襄陽記