樊伷

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樊 伷[1](はん ちゅう、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代にかけての人物[2]本貫荊州南陽郡

生涯[編集]

荊州武陵郡の部従事を務めていた。この地は、樊城の戦い関羽の勢力が駆逐されると劉備から孫権の支配下に移ったが、樊伷は異民族たちをも誘い入れて孫権に反旗を翻し、劉備に与した。

孫権配下の督[3]はこの反乱鎮圧のため一万の兵を要請したが、孫権はまず潘濬を召し寄せて意見を求めた。これに対し潘濬は、「樊伷は南陽の古い家柄の出で、口先は達者ですが、真の弁論の才はありません。私の知るところによれば、樊伷は昔、同郷の人々を食事に招いたおり、なかなかその支度が整わず、自ら立ち上がる(支度の様子を窺う)こと十余回に上ったとのこと。これは侏儒[4]は体の一節を見れば分かるという例です」と樊伷を軽んじる意見を述べ、差し向ける兵も五千で十分とした。

孫権は大笑いしてその進言を容れ、潘濬率いる五千の兵により樊伷は斬られ、乱は平定された。

出典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 習鑿歯襄陽記』巻1では樊冑と表記する。s:zh:襄陽記#習珍
  2. ^ 史書上の樊伷の事績は後漢時代に当たるのか、後漢が禅譲した後の三国時代に当たるのか、正確な時期は定かではない。
  3. ^ 地方の駐屯軍の司令官。ちくま学芸文庫正史 三国志 8』11頁より。
  4. ^ 背丈の低い小人。侏儒/朱儒(しゅじゅ)とは? 意味・読み方・使い方をわかりやすく解説 - goo国語辞書 2024-03-23閲覧