洞浦の戦い

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洞口の戦い
戦争洞口の戦い
年月日222年223年
場所九江郡歴陽県洞口(現在の安徽省馬鞍山市和県[1]
結果:孫権軍の逆転勝利。
交戦勢力
孫権
指導者・指揮官
呂範
徐盛
全琮
賀斉
曹休
張遼
臧覇
戦力
2~3万 10万ほど
損害
数百人
尹魯
三国時代

洞口の戦い(どうこうのたたかい)は、中国三国時期に、曹丕孫権の間で行われた戦い。

前哨戦[編集]

夷陵の戦いの末に敗れた劉備白帝に逃れた際、徐盛・潘璋宋謙らは各々競って孫権に対し「劉備は必ず討ち取れるので、再攻撃を許可してほしい」と上表した。孫権がどうすべきか陸遜に問うと、陸遜・朱然駱統は「曹丕が兵を集めているのは表向きはを助け、劉備を討つためとしていますが、実は姦心があります(呉を攻める予定である)。計策を決して、すみやかに帰還するべきです」と意見した。これを受けて孫権が周泰·全琮を遣って歴陽(呉の所属地[2])に駐屯させると、果たして幾許もせずに、魏軍が攻撃を開始してきた。出撃してきた魏軍の曹休は歴陽の呉軍を撃破し、同時に別に兵を遣って横江を渡らせ、揚州の蕪湖の軍営数千家を焼いた。

事前の経緯[編集]

魏は侍中辛毗尚書桓階を派遣し呉に臣従の誓約を迫り、併せて人質を要求するも、孫権は表向きは辞譲しつつもこれを受けなかった。これに対し曹丕は222年秋9月、許昌から出撃し、他の諸将の軍も一緒に南下を開始した。曹休に五州の二十余軍(約10万の兵力)が与えられ、曹休は張遼・臧覇・趙儼・賈逵・王淩らを指揮して洞口へ進攻した。更に曹仁の軍を濡須口に、曹真夏侯尚張郃徐晃らの軍を江陵にそれぞれ派遣した。これに対して孫権は呂範に五軍(2~3万人)を指揮させて水軍にて曹休らを防がせ、徐盛・全琮・孫韶・吾粲・賀斉らを自ら指揮して洞口で魏軍と対峙した。濡須口では守将の朱桓が防衛にあたって、江陵では朱然が城に籠り防衛にあたり、孫権軍は防備を固めた。

冬11月、曹丕は孫権が嫡子の孫登を人質に差出さないということを口実として呉に親征を開始した。曹丕は宛城に入りこれを本営とし、三方面へ進軍した。

洞口の戦い[編集]

222年11月、曹休と対峙していた呂範の水軍は突風とそれを機と読んだ曹休の攻撃により壊滅的な損害を受けた。その後、臧覇が快速船500艘と1万人の兵を率いて、呉軍を襲撃し大勝したが、呉の全琮・徐盛は臧覇を反撃で打ち破り、魏の尹魯を討ち取った、呉軍はさらに曹休と張遼を撃ち破ったことで[3]、不利を転じて勝利をなした。

戦後[編集]

223年3月、魏軍は総退却した。この戦いにより呉と魏の友好関係は切れた。また孫権は戦中に鄭泉を使者として蜀に派遣し、蜀との同盟関係を回復させ、呉とが手を結び魏に対抗するという三国時代の基本的な構図が成立することになった。

脚注[編集]

  1. ^ 資治通鑑』では「洞口」と記されている。
    南宋胡三省の言によると「洞口在歴陽江邊。」とする。
    『一統志』によると「和州西南臨江」と記されている。
  2. ^ 『読史方輿紀要』巻二によると「揚治歴陽,歴陽,今南直和州也。」と記されている。
  3. ^ 『建康実録』