島尾敏雄

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島尾 敏雄
(しまお としお)
Shimao-Toshio.png
1944年夏頃の島尾敏雄海軍大尉
誕生 1917年4月18日
日本の旗 日本神奈川県横浜市
死没 1986年11月12日(満69歳没)
日本の旗 日本鹿児島県鹿児島市
職業 小説家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
教育 文学士
最終学歴 九州帝国大学法文学部文科(東洋史
活動期間 1947年 - 1986年
ジャンル 小説
文学活動 第二次戦後派
第三の新人とされることもある)
私小説
シュールレアリスム
アヴァンギャルド
代表作 『夢の中での日常』(1948年)
死の棘』(1960年)
『出発は遂に訪れず』(1962年)
『日の移ろい』(1976年)
主な受賞歴 戦後文学賞(1950年)
芸術選奨(1961年)
毎日出版文化賞(1972年)
谷崎潤一郎賞(1977年)
読売文学賞(1978年)
日本文学大賞(1978年)
日本芸術院賞(1981年)
川端康成文学賞(1983年)
野間文芸賞(1985年)
デビュー作 『単独旅行者』(1947年)
配偶者 島尾ミホ(1946年 - 死去まで)
子供 島尾伸三
親族 しまおまほ(孫)
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島尾 敏雄(しまお としお、1917年大正6年)4月18日 - 1986年昭和61年)11月12日)は、日本の作家である。

第十八震洋特攻隊隊長として、奄美群島加計呂麻島に赴任。1945年8月13日に特攻戦が発動され、出撃命令を受けたが発進の号令を受けぬまま即時待機のうちに終戦を迎える。

作品は超現実主義的な「夢の中での日常」などの系列、戦争中の体験を描いた「出発は遂に訪れず」などの系列、さらに家庭生活を描いた「死の棘」などの系列に大別される。また生涯書き続けられ、小説作品との決定的な差異は無いとされる日記や紀行文など記録性の高いテキスト群や南島論なども高い比重を占める。

妻は同じく作家の島尾ミホ。長男は写真家の島尾伸三で、漫画家のしまおまほは孫にあたる。心因性の精神症状に悩む妻との生活を描いた『死の棘』は小栗康平によって映画化され、第43回カンヌ国際映画祭にて最高賞パルム・ドールに次ぐ、 審査員グランプリを受賞した。

ヤポネシア」なる概念を考案したことでも知られる。

年譜[編集]

  • 1917年大正6年) - 横浜市で輸出絹織物商の長男として生まれる。
  • 1936年昭和11年) - 長崎高等商業学校に入学。中桐雅夫編集『LUNA』同人。
  • 1937年(昭和12年) - 長崎高商の友人らと『十四世紀』を創刊するが発売禁止の処分に遭う。
  • 1940年(昭和15年) - 九州帝国大学法文学部経済科に入学。翌年文科に移り東洋史を専攻する。
  • 1943年(昭和18年) - 私家版『幼年記』を出版。夏、伊東静雄を訪ねる。
  • 1944年(昭和19年) - 10月、第十八震洋特攻隊隊長となり、奄美群島加計呂麻島にて待機。
  • 1946年(昭和21年) - 大平ミホと結婚。同人誌『光耀』を結成、三号まで続く。
  • 1947年(昭和22年) - 神戸市外国語大学(当時・神戸市立外事専門学校)の世界史講師を務める。『VIKING』同人となる。
  • 1948年(昭和23年) - 長男伸三生まれる。この年「単独旅行者」で文壇に認められる。
  • 1950年(昭和25年) - 長女マヤ生まれる。4月、「出孤島記」及びその他の作品で第一回戦後文学賞受賞。長篇『贋学生』を刊行。
  • 1952年(昭和27年) - 神戸市外国語大学を辞し、妻子とともに上京。東京都江戸川区小岩に居を構える。
  • 1955年(昭和30年) - 『帰巣者の憂鬱』刊行。妻の病気療養のため奄美大島名瀬市に移住。
  • 1956年(昭和31年) - 9月、短篇集『夢の中での日常』刊行。12月カトリック受洗。
  • 1957年(昭和32年) - 『島の果て』刊行。鹿児島県職員となり県立図書館奄美分館に勤務。
  • 1960年(昭和35年) - 『離島の幸福・離島の不幸』刊行。講談社より短篇集『死の棘』刊行。
  • 1961年(昭和36年) - 「死の棘」で芸術選奨受賞。
  • 1962年(昭和37年) - 『島へ』、『非超現実主義的な超現実主義の覚え書』刊行。
  • 1963年(昭和38年) - 『出発は遂に訪れず』刊行。アメリカ国務省による招待旅行。11月沖縄旅行。
  • 1964年(昭和39年) - 南日本文化賞受賞。沖縄本島、石垣島、宮古島を旅行。
  • 1965年(昭和40年) - 第一回日ソ文学シンポジウムへ参加。
  • 1967年(昭和42年) - 『島尾敏雄作品集』第5巻完結刊行。ソ連・東欧を単独旅行。翌年より長大な『東欧紀行』を連載。
  • 1968年(昭和43年) - 自転車で谷川へ転落し負傷、半年以上入院し、後遺症のため更に数年苦しむ。
  • 1972年(昭和47年) - 『硝子障子のシルエット』で第26回毎日出版文化賞。第1回南海文化賞受賞。
  • 1973年(昭和48年) - 『島尾敏雄非小説集成』全6巻が冬樹社から刊行。
  • 1975年(昭和50年) - 指宿市へ転居。鹿児島純心女子短期大学教授兼図書館長に就任。
  • 1977年(昭和52年) - 茅ケ崎市へ転居。『日の移ろい』で第13回谷崎潤一郎賞受賞。
  • 1978年(昭和53年) - 『死の棘』で第29回読売文学賞、第10回日本文学大賞受賞。
  • 1979年(昭和54年) - 神戸市外国語大学の市民講座で「ヤポネシア考」の講義を行う。
  • 1980年(昭和55年) - 『島尾敏雄全集』全17巻が晶文社より刊行。
  • 1981年(昭和56年) - 日本芸術院賞受賞[1]
  • 1983年(昭和58年) - 短編「湾内の入江で」で第10回川端康成文学賞受賞。
  • 1985年(昭和60年) - 『魚雷艇学生』で第38回野間文芸賞受賞。
  • 1986年(昭和61年) - 脳梗塞のため死去。

生涯[編集]

幼少時代[編集]

1917年4月18日神奈川県横浜市戸部町に輸出絹織物商を営む父島尾四郎、母・トシとの間に長男として生まれた。両親、妹二人、弟三人の6人兄弟であった。1922年、横浜尋常小学校附属幼稚園に在園時、関東地震により横浜の自宅が全壊したが、福島県相馬の実家に帰省中のため難を逃れた。この頃の大震災からの疎外体験については、後の戦争体験との類似においてエッセイ等でたびたび言及される。

1924年関東大震災の影響で11月下旬に兵庫県武庫郡西灘村に一家で移住し、西灘第二尋常小学校(現・神戸市立稗田小学校)に転校する。謄写版や片仮名のゴム活字を用いて小冊子を編集・印刷することに没頭した。1929年、神戸尋常小学校(現・神戸市立こうべ小学校)に転校し、そこで当時国語教師をしていた小説家の若杉慧に綴方の指導を受ける。同じく神戸小学校で若杉に綴方、書方の指導を受けた陳舜臣が印象に残る生徒であった一方、島尾は目立たない生徒であったという。

学生時代[編集]

1930年兵庫県立第一神戸商業学校に入学。同校在学中の1933年、金森正典と同人誌『峠』を創刊する。他に何種類もの同人誌に詩や文章を寄稿していた。本来であれば商業学校卒業者は進学せずに社会に出るのが一般的だったが、卒業の頃になって父親の事業が軌道に乗り上級の学校へ進学することが許された。しかし兵庫県立神戸高等商業学校の受験に失敗して進学先の決まらぬまま第一神戸商業学校を卒業し、浪人生活に入った。当時商業学校から高等学校への進学は制度上許されていなかったので[要検証 ]、翌年も高等商業学校を受験しなければならなかったが、地元の兵庫県立神戸高等商業学校を避け、実家から遠方の小樽高商長崎高商鹿児島高商など地方の高等商業学校への進学を考えていたと述べている。

1936年4月、長崎高等商業学校に入学した。中桐雅夫編集の『LUNA』同人となり、以降同誌に幾つもの詩を発表した。1938年、長崎高商2年の頃、矢山哲治らと同人誌『十四世紀』を創刊するが、島尾が載せた小説と他同人二名の小説及び詩の内容が風俗壊乱と反戦思想の嫌疑をかけられ発行と同時に内務省より発売禁止の処分を受けた。この頃ロシア語を学習する傍らドストエフスキープーシキンチェーホフゴーゴリガルシンなどロシア文学や商業学校時代から引続き大菩薩峠を耽読した。1939年3月に長崎高等商業学校を卒業するが、神戸商業大学の受験に失敗したため引き続き4月から同校海外貿易科に籍を置く。この夏、毎日新聞社主催のフィリピン派遣学生旅行団の一員としてルソン島台湾を旅行した。その体験が後に『呂宋紀行』として結実する。また同年、雑誌「科学知識」の懸賞小説に「お紀枝」が当選し(選者杉山平助高見順)、賞金十円を得た。10月からは福岡の同人雑誌『こをろ』に加わる。長崎高商時代を舞台とした小説は「断崖館」と「春の日のかげり」、および習作期の「南山手町」がある。

『こをろ』は福岡市で刊行された文藝同人誌で、1939年から1943年末にかけて、14号まで発行された。同人には島尾敏雄のほか矢山哲治真鍋呉夫阿川弘之那珂太郎小島直記一丸章らがおり、同人は長崎高商福岡高校の二つの系統からなっていた。島尾の言によれば、福岡高校出身者はゲオルゲカロッサリルケ等ドイツのそうした系統や当時の風潮の「日本浪曼派」的な傾きが強く、商業(福岡商業)、高商出身者はそれに馴染まないものが多かったという。

そうした性質の異なる二派の青年たちからなる『こをろ』は度々分裂の危機に見舞われた。『こをろ』の中心人物で、25の若さで自殺とも事故ともつかぬ列車事故により夭折した矢山哲治の死に際しては、同人の多くが既に出征していたこともあって島尾が最も近くに居り、衝撃を受けた。『こをろ』の矢山追悼号へは「矢山哲治の死」を掲載し、葬式では島尾が弔辞を読んだ。

矢山哲治との関係についてその当初の印象を「このやうにドイツ風な又日本浪漫派風な雰囲気に誕生していた矢山とさういふ所に無縁であった私」としていたが、矢山の死後の1943年後半を述懐して、島尾は日本浪曼派の代表的批評家である保田與重郎について「旺ニ彼ノ書ク物ヲ読ンデソレニ傾イタ」「ムサボルヤウニ読ンデ甚ダシク心ヒカレタ」と書いている。

『こをろ』へは「呂宋紀行」「暖かい冬の夜に」「浜辺路」「断片一章」などを発表している。

1940年九州帝国大学法文学部経済科に入学。翌41年に九州帝大法文学部文科を受験しなおして再入学し、東洋史を専攻する。そのため『水滸伝』のほか『浮生六記』などの小説や『李太白詩選』、また研究資料として元史にも親しんだ。在学中、同じ研究室の一級下に庄野潤三がおり親交を結ぶ。佐藤春夫木山捷平らを共通して好んだ。庄野にはこの頃を描いた日記体の小説「前途」がある。1943年、8月に卒業論文『元代回鶻人の研究一節』を書き上げ九州帝国大学を半年繰り上げで卒業し海軍予備学生を志願した。また、私家版「幼年期」を70冊限定で発行。この頃、庄野を介して詩人の伊東静雄との通交がはじまる。その関係は戦後のある時期まで続き、伊東の圏内で林富士馬庄野潤三三島由紀夫らと同人誌『光耀』を創刊することとなった。

特攻隊体験[編集]

呑之浦にある島尾敏雄文学碑

1943年の9月末、九州帝国大学を半年繰り上げで卒業したのち、陸軍での内務班生活を嫌って海軍予備学生を志願する。はじめ飛行科を志願し、予備学生試験の当日の判定では航空適性であったが一般兵科に採用され、旅順の教育部へ入った。基礎教育期間を終了したあとの術科学校の希望書に暗号、一般通信に加え、惰弱と思われるのが嫌で第三希望に魚雷艇部門を記入したところ採用され、第一期魚雷艇学生として1944年2月から横須賀市田浦の海軍水雷学校で訓練を受けた。当時魚雷艇部門は創設されたばかりであり、また術科の専門部門では一番の危険配置とされていた。

1944年4月から長崎県川棚町の臨時訓練所で水雷学校特修学生として過ごすうち、特攻の志願が認められた。猶予期間として一日の休暇が与えられ、就寝前に志願の可否を紙に書いて提出するかたちで募られたという。

1944年10月には第十八震洋特攻隊指揮官として、180名ほどの部隊を率いて加計呂麻島呑之浦へ赴いた。その地で更に訓練を重ね、出撃命令を待つ日が長く続いた。

1945年8月13日の夕方に特攻戦が発動され出撃命令を受けたが、敵艦隊が姿を見せず、発進の号令を受け取らぬまま14日の朝を迎えた。震洋での特攻戦は夜襲を原則としていたため日中の出撃はありえず機会は翌晩まで延期されることとなった。その日の正午に大島防備隊司令部から全指揮官参集の命令を受け、翌15日に即時待機状態のまま敗戦を知る。 復員後は実家のある神戸で文学活動を開始する。伊東静雄を度々尋ね、はじめ庄野潤三林富士馬三島由紀夫らと『光耀』、のちに同じく伊東静雄の下に集まっていた富士正晴らと『VIKING』を創刊する。

「死の棘」体験[編集]

VIKING』へ掲載した中篇「単独旅行者」が野間宏の目に触れ、1948年5月、『近代文学』系の雑誌『芸術』へ転載されることとなり文壇に認められる。また、デビュー第2作「夢の中での日常」が花田清輝佐々木基一らの『綜合文化』(真善美社)へ掲載された。翌月に雑誌『近代文学』へ同人として参加する。また1950年5月、新日本文学会の雑誌『新日本文学』へ掲載した「ちっぽけなアヴァンチュール」が井上光晴の「書かれざる一章」とともに批判を受けた。 その後東京へ行き、吉本隆明奥野健男、詩人の清岡卓行らと雑誌『現代評論』を始めるが、自らの浮気問題を機に妻が心の病に冒される。その後、妻の病気のため妻の実家がある奄美に帰島して鹿児島県立大島実業高等学校講師をしながら執筆活動を続ける。

受洗[編集]

奄美大島移住後、カトリック信徒であった夫人の親戚に勧められ、1956年に奄美の聖心(みこころ)教会で、カトリックの洗礼を受ける(洗礼名ペトロ)。その後、鹿児島教区教区司祭の田辺徹神父(元指宿教会主任司祭・現在教区司祭を引退し、指宿市に在住)、大野和夫神父(元・南九州小神学院院長、現鹿児島教区奄美地区長)、美島春雄神父(元・鹿児島教区本部付司祭、故人)、小平卓保神父、郡山健次郎神父(後述)や、コンベンツァル聖フランシスコ修道会のルーシン・ヤング神父(元赤羽教会主任司祭、故人)、ルカ・ディジヤク神父(元・古田町教会司祭、故人)、ゼローム・ルカゼフスキー神父(元・古田町教会主任司祭、名瀬市名誉市民、故人)ら、カトリック聖職者と親交を結ぶこととなる。特に、ルカ・ディジャク神父は「トシオは、私のベスト・フレンド。」とまで述べている。

また、長崎純心聖母会の修道女とは、娘のマヤが鹿児島純心高等学校に入学した関係で交流を持つようになり、後年鹿児島純心女子短期大学で教鞭をとるきっかけとなった。(同会の郡山康子修道女はミホ夫人の遠縁にあたり、郡山健次郎司教の実姉である)

奄美分館長を辞した翌年の1976年に名瀬市(現奄美市)から指宿市西方に住所を移し、鹿児島純心女子短期大学で教鞭をとっていた。純心女子短期大学退職後、1977年に神奈川県茅ヶ崎市に移住。1983年に娘のマヤが、鹿児島純心女子短期大学の図書館司書に就職したのを期に、鹿児島県姶良郡加治木町に移住。1985年12月鹿児島市宇宿町に自宅を購入。亡くなる3日前宇宿町の自宅で、書籍の整理中に脳内出血を発症し、出血性脳梗塞のため鹿児島市立病院に搬送されるが意識が戻らぬまま、1986年11月12日死去。葬儀は鹿児島市の谷山教会で行われ、生前に交流のあった鹿児島教区教区司祭の小平卓保神父(元鹿児島純心女子短期大学教授・元紫原教会主任司祭、故人) 、郡山健次郎神父(元志布志教会主任司祭、現鹿児島教区司教)の司式で執り行われた。

系譜[編集]

来歴・人物[編集]

新宿の酒場で、酔ってからんできた中上健次に「自分は作家などと思っていない、ただ苦しまぎれに書いているだけだ」「お前、あれぐらいの作品で、自分を作家だと思っているのか」と批判し、しまいには「なまいき言うな、ぶちのめしてやるから、ちょっと表へ出ろ」と言って追い払った。

図書館長として[編集]

奄美大島は戦後の一時期アメリカ軍の支配下にあった影響で行政組織の再建が十分ではなく、島には本格的な図書館が無かった(アメリカ軍と琉球政府が管轄していた琉米文化会館を改組した奄美日米文化会館が図書館の機能を担っていたが、日本返還後の引継の不十分さから機能停止に陥っていた)。そこで島尾は奄美に図書館に誘致する計画を立てた。鹿児島県はこれに応じて、1958年に奄美日米文化会館を母体として鹿児島県立図書館奄美分館が設置され、島尾が初代分館長となる。島尾は図書館については素人であったが、熊本商科大学に出向いて司書講習を受けて資格を習得している。開館時に上司にあたる鹿児島県立図書館長の久保田彦穂(椋鳩十)は、島尾に対して「地方文化保存のための保存図書館」「調査研究のための参考図書館」「量・質共に備えた貸出図書館」という、3つの課題を与えた。島尾はこの久保田からの課題に応えるべく精力的に活動した。在任中の島尾は執筆活動と図書館長としての業務を厳格に峻別していたが、郷土資料の蒐集・刊行活動や当時としては先駆的な日曜日開館や住民の読書活動支援などに全力にあたり、離島の教育委員会公民館を通じた図書の貸借や港の待合室や船内での読書室の設置活動、これらを支援するために時には自ら船に乗って離島への移動図書館業務の充実に尽すなど、日本の離島を抱えた地域における図書館活動のあり方に影響を与えている。また、図書館活動を通じた人的交流が島尾の執筆活動にも大きな影響を与えた。

南島論[編集]

島尾敏雄の南島論については、沖縄返還に係る諸問題の顕在に先立つ1954年の「「沖縄」の意味するもの」以来、『新日本文学』へ連載していた『名瀬だより』をはじめとして南島琉球弧と呼ばれる地域に関する数々のエッセイが発表されていた。それらは1960年に最初の南島に関するエッセイ集『離島の幸福・離島の不幸 名瀬だより』(未來社)の刊行を皮切りに1966年、『島にて』(冬樹社)、1969年『琉球弧の視点から』(講談社)と幾度となくエッセイ・雑文集としてまとめられている。

ヤポネシア」という造語については、1961年に「ヤポネシアの根っこ」という文章において初出が確認されている。大和を中心として出来事をみる「正統」とされた歴史観では、「日本」としてくくれる地域の本来持つ多様性、豊穣な側面が切り捨てられてしまうとして、日本列島を単に「島々の連なり」として捉える視点を新たに提案するものだった。しかし、当時の沖縄返還をめぐる議論の高まりや、この言葉が「天皇制を前提としない古代」を想定するのに格好の概念であったこともあり、60年代から70年代にかけて、谷川健一吉本隆明らによって考古・民俗学的なキータームとして使用され広まることとなった。

「日本」概念の硬直性を融解させるこの試みは、本来の意図を離れ、また「ヤポネシアの根っこ」が柳田國男『海上の道』の解説のかたちとして書かれていたことなども相まって、それらが柳田南方学的な国家拡張的な側面をも有するとして、後年、村井紀らをはじめとするオリエンタリズムポストコロニアル批評の一部の論者から否定的な評価を受けることもある。

受賞歴[編集]

作品の一覧[編集]

小説[編集]

非小説[編集]

  • 非超現実主義的な超現実主義の覚え書 未來社 1962年6月
  • 私の文学遍歴 未來社 1966年3月
  • 島にて 冬樹社 1966年7月
  • 琉球弧の視点から 講談社 1969 のち朝日文庫
  • 日本の作家 おりじん書房 1974年9月
  • 南島通信 潮出版社 1976年9月
  • 名瀬だより<人間選書> 農村漁村文化協会 1977年10月
  • 南風のさそい 泰流社 1978年12月
  • 島尾敏雄による島尾敏雄<試みの自画像> 青銅社 1981年6月
  • 過ぎゆく時の中で 新潮社 1983年3月
  • 忘却の底から 晶文社 1983年4月
  • 島尾敏雄詩集 深夜叢書社 1987年4月
  • 透明な時の中で 潮出版社 1988年1月
  • 「死の棘」日記 新潮社 2005年3月
  • 戦後文学エッセイ選10 島尾敏雄集 影書房 2007年9月
  • 島尾敏雄日記 『死の棘』までの日々 新潮社 2010年8月

対談集[編集]

全集など[編集]

個人全集・作品集[編集]

文学全集等収録分[編集]

共著・監修[編集]

  • 日本の古典8 徒然草・方丈記 世界文化社 1976年1月
  • 奄美の文化(島尾敏雄編)法政大学出版局 1976年3月
  • ヤポネシア序説<創樹選書>(島尾敏雄編)創樹社 1977年2月
  • 日本の伝説23 奄美の伝説 島尾ミホ・田畑英勝共著 角川書店 1977年10月
  • イメージの文学誌 水底の女 (島尾敏雄監修) 北宋社 1978年10月

特装版・限定版など[編集]

  • 帰巣者の憂鬱 限定版(303部) プレス・ビブリオマーヌ 1969年10月
  • 東北と奄美の昔ばなし 限定版(300部) 島尾伸三絵 詩稿社 1972年10月
  • 記夢志 限定特装版(100部) 冥草社 1973年2月
  • 硝子障子のシルエット―葉篇小説集 限定版(550部) 創樹社 1973年2月
  • 島の果て 限定特装版(506部) 成瀬書房 1973年9月
  • 出孤島記―島尾敏雄戦争小説集 限定特装愛蔵版(80部) 冬樹社 1975年3月
  • 影 限定版(15部) 1975年9月
  • 兄といもうと 遠足<風信子叢書> 限定版(270部) 鹿鳴荘 1976年8月
  • 鬼剝げ 限定版(500部) 沖積社 1976年11月
  • 詩集 春 限定版(300部) 五月書房 1977年8月
  • 日暦抄 限定版(100部) 鹿鳴荘 1977年11月

文庫[編集]

  • 死の棘<角川文庫> 角川書店 1963年11月
  • その夏の今は・夢の中での日常<講談社文庫> 講談社 1972年5月
  • 島へ―自選短編集<潮文庫> 潮出版社 1972年6月
  • 出発は遂に訪れず<旺文社文庫> 旺文社 1973年6月
  • 出発は遂に訪れず<新潮文庫> 新潮社 1973年9月
  • 夢の中での日常<角川文庫> 角川書店 1973年10月
  • 日を繋けて<中公文庫> 中央公論社 1976年3月
  • 出孤島記<新潮文庫> 新潮社 1976年8月
  • われ深きふちより<集英社文庫> 集英社 1977年11月
  • 島の果て<集英社文庫> 集英社 1978年8月
  • 夢の中での日常<集英社文庫> 集英社 1979年5月
  • 死の棘<新潮文庫> 新潮社 1981年1月
  • 対談 特攻体験と戦後<中公文庫> 中央公論社 1981年9月
  • その夏の今は/夢の中での日常<講談社文芸文庫> 講談社 1988年8月
  • 魚雷艇学生<新潮文庫> 新潮社 1989年7月
  • 日の移ろい<中公文庫> 中央公論社 1989年12月
  • 続 日の移ろい<中公文庫> 中央公論社 1989年12月
  • 贋学生<講談社文芸文庫> 講談社 1990年11月
  • 夢日記<河出文庫> 河出書房新社 1992年1月
  • 新編 琉球弧の視点から<朝日文庫> 朝日新聞社 1992年7月
  • はまべのうた/ロング・ロング・アゴウ<講談社文芸文庫> 講談社 1992年1月
  • ちくま日本文学全集032 島尾敏雄 筑摩書房 1992年5月
  • 「死の棘」日記<新潮文庫> 新潮社 2005年3月
  • 夢屑<講談社文芸文庫> 講談社 2010年9月

単行本未収録作品[編集]

  • 「斎藤寅次郎小論」 長崎高商映画研究会『映画軌線』(1939年 昭和14年 7月)
  • 「二匹の猫」 向丘高校定時制文芸部『ロゴス』(1955年 昭和30年 3月)
  • 「(復員)国破れて」 『新潮』(1987年 昭和62年 1月)
  • 「地行日記」 『新潮』(2009年 平成21年 1月)
  • 「憂愁の街」 『新潮』(2009年 平成21年 1月)
  • 「無題」 『新潮』(2009年 平成21年 1月)
  • 「秋風手記」 『新潮』(2009年 平成21年 1月)

アンソロジー等収録分[編集]

  • 暗黒のメルヘン 立風書房 1990年7月(「摩天楼」を収録)
  • 現代童話<福武文庫> 福武書店 1991年2月(「春の日のかげり」を収録)
  • 夢÷幻視13=神秘 星雲社 1994年10月(「月暈」を収録)
  • 塔の物語 異形アンソロジータロット・ボックス1<角川ホラー文庫> 2000年9月(「摩天楼」を収録)
  • 戦後短篇小説選-『世界』1946‐1999 4 岩波書店 2000年4月(「子と共に」を収録)
  • 戦後短篇小説再発見6 変貌する都市 <講談社文芸文庫> 講談社 2001年11月(「摩天楼」を収録)
  • 戦後短篇小説再発見16 「私」という迷宮 <講談社文芸文庫> 講談社 2003年11月(「夢屑」を収録)
  • 文士の意地-車谷長吉撰短篇小説輯-下 作品社 2005年8月(「お紀枝」を収録)
  • 文芸誌「海」子どもの宇宙<中公文庫> 中央公論新社 2006年10月(「正チャンの冒険」を収録)
  • 残しておきたい日本のこころ 幻戯書房 2007年6月(「昔ばなしの世界」を収録)
  • 我等、同じ船に乗り<文春文庫> 文芸春秋 2009年11月(「孤島夢」を収録)
  • 百年文庫035 灰 ポプラ社 2010年10月(「アスファルトと蜘蛛の子ら」を収録)

関連人物[編集]

島尾ミホ
小説家。『海辺の生と死』で田村俊子賞を受賞。「死の棘」に登場する「妻」のモデル。アレクサンドル・ソクーロフ監督の映画『ドルチェ―優しく』(2000)に主演した。島尾敏雄の間に息子の島尾伸三(写真家)と娘の島尾マヤ(1950年 - 2002年)がいる。1986年11月に島尾敏雄が死去した後も喪服を日常に着続けた。
伊東静雄
詩人。戦後、神戸時代に親しく付き合っていた。
庄野潤三
小説家。九州大学時代から戦後にかけて変わらず付合いを持った。
埴谷雄高
小説家、批評家。郷里が同じく福島県小高町。同地に埴谷島尾記念文学資料館がある。
小川国夫
小説家。島尾が朝日新聞上で私家版「アポロンの島」を激賞したことで作家として出発した。
阿川弘之
小説家。福岡で発行された文藝同人誌『こをろ』の創刊以来、活動を共にした。島尾と同じく海軍予備学生として出征し、ポツダム大尉の階級で終戦を迎えた。また、戦後、島尾敏雄、庄野潤三吉行淳之介安岡章太郎らが結成した「構想の会」へも参加していた。
富士正晴
小説家。
三島由紀夫
小説家。戦後、伊東静雄のもと島尾、庄野潤三らとともに活動した。
中村地平
小説家。島尾が同人誌『こをろ』に発表した「呂宋紀行」について、文芸時評で取り上げていた。その後、文学講演のために福岡にやってきた際、島尾は友人の矢山哲治とともに中村地平の宿を訪ね面識を得る。中村はその時、島尾の文章が中村の友人(太宰治)のそれに似ていることを指摘した。戦後、奄美に移住した島尾は、当時宮崎県立図書館長であった中村に鹿児島県立図書館椋鳩十へ推薦依頼の労を取って貰っている。
吉田満
小説家。
矢山哲治
詩人。
久坂葉子
小説家。
吉本隆明
批評家。
奥野健男
批評家。
谷川健一
民俗学者。
小栗康平
映画監督。映画版『死の棘』を完成させた。
アレクサンドル・ソクーロフ
映画監督。『ドルチェ』の中に島尾敏雄の写真があらわれ、経歴を監督本人が読み上げる。

脚注[編集]

  1. ^ 『朝日新聞』1981年3月4日(東京本社発行)朝刊、22頁。

参考文献[編集]

  • 饗庭孝男編「島尾敏雄研究」冬樹社
  • 島尾ミホ志村有弘編「島尾敏雄事典」勉誠出版
  • 井谷泰彦「『道の島』に本を担いで -奄美の図書館長・島尾敏雄-」(日本図書館文化史研究会 編『図書館人物伝 図書館を育てた20人の功績と生涯』(2007年 日外アソシエーツ ISBN 9784816920684))

関連項目[編集]

外部リンク[編集]