松旭斎天勝

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女奇術師・松旭斎天勝
天勝と助手

初代松旭斎 天勝(しょうきょくさい てんかつ、本名:金沢カツ(旧姓:中井、野呂)、1886年明治19年)5月21日 - 1944年昭和19年)11月11日)は、明治後半から昭和初期まで興行界で大成功した女流奇術師東京神田生まれ。

人物[編集]

松旭斎天一一座のポスター(明治41年公演分)左が天勝

1895年(明治28年)、神田松富町の質屋の娘だったが家業が失敗、門前仲町のテンプラ屋に奉公人として勤める。店主が当時の一流奇術師・松旭斎天一(しょうきょくさい てんいち)だった事が縁で、器用さを見込まれ弟子として採用された。後に天一に妾になるよう迫られ、自殺を図るも一命は取り留める。それからは「奇術を積極的に自分の物にする」と決心し、妾を宿命とし受け入れた。弟子70人を数える「天一一座」でスターとして頭角を表し、「天勝」と名乗って舞台へ出演した。

日本人離れした大柄な体格とキュートな美貌で人気を博し、数度に渡るアメリカ興行も成功させた。帰国後の公演では、スパンコールの衣裳に付け睫毛、という日本初の欧米風なマジックショーを披露。モダンさと目新しさに大衆は熱狂した。

1911年(明治44年)、27歳で独立。座員100名を越す「天勝一座」を名乗り、座長に就任。一座のマネジャーを務めた野呂辰之助と結婚した(が、奇術師の立場が強くなかった当時、一座と天勝の名を守るために野呂が考慮した便宜上の入籍だといわれている)。

奇術といえば天勝」という代名詞にもなった程の知名度を誇り、キャラクター商品なども大ヒット。当時の得意芸は水芸だった。人気と知名度にあやかった「ニセ物」の天勝一座も複数現れていた。

1936年に引退後は姪の正天勝に二代目天勝の名を譲り、50歳を過ぎてからスペイン語の学者と出逢い、一生を添い遂げた。墓所は台東区西徳寺。

弟子に二代目松旭斎天花がいる。女流イリュージョニストである二代目・引田天功(プリンセス・テンコー)の師、初代・引田天功は天勝の弟弟子である松旭斎天洋の門下であり、遡れば彼女もまた「松旭斎一門」である。ほかにも女優桜むつ子も師事していた。

映画[編集]

参考文献[編集]

  • 日本奇術協会監修『七十年の歩み:社団法人日本奇術協会創立七十周年記念誌』日本奇術協会、2006年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]