立原道造

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立原 道造
(たちはら みちぞう)
Tachihara Michizo at Ginza.jpg
23歳の立原道造
誕生 1914年7月30日
日本の旗 日本東京府東京市日本橋区
死没 (1939-03-29) 1939年3月29日(24歳没)
日本の旗 日本・東京府東京市中野区江古田
墓地 多宝院(東京都台東区)
職業 詩人建築家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
ジャンル
文学活動 四季派
代表作 『萱草に寄す』
『曉と夕の詩』
主な受賞歴 辰野金吾賞(建築設計)、中原中也賞
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立原 道造(たちはら みちぞう、1914年大正3年)7月30日 - 1939年昭和14年)3月29日)は、昭和初期に活動し24歳で急逝した詩人。また建築家としても足跡を残している。別筆名に三木祥彦、山木祥彦。父は立原貞次郎(婿養子)、母は立原登免(通称 光子)[注釈 1]。次男として生まれる。先祖には立原翠軒立原杏所などがいる。学歴東京帝国大学工学部建築学科卒業。学位(当時は称号)は工学士(東京帝国大学)。戒名は温恭院紫雲道範清信士。東京都谷中の多宝院。賞歴は、辰野賞3年連続受賞、中原中也賞受賞。

生涯[編集]

1914年(大正3年)、立原貞治郎、とめ夫妻の次男として日本橋区橘町(現:中央区東日本橋)の問屋街に生まれる[1]。家業は荷造用木箱製造[2]家系桓武平氏の一家系 常陸平氏 大掾氏一門 鹿島氏庶流 立原氏。近い祖先には水戸藩の儒家で『大日本史』を編纂した立原翠軒、画家立原杏所がいるという。1918年(大正7年)、浜町の幼徳幼稚園入園[1]1919年(大正8年)、8月22日父死去[2]。店の看板は「立原道造商店」と改称される。以後、家業は母が担う[3]。この頃、剣舞を習い、毎月歌舞伎観劇をした[1]1921年(大正10年)4月久松小学校に入学[2]1923年(大正12年)9月1日、関東大震災。橘町の家は焼失し、千葉県東葛飾郡新川村(現流山市)豐島方に避難。一時、新川小学校に転校[2]。12月橘町に仮建築竣工。久松小学校に復学[3]1927年(昭和2年)3月久松小学校卒業。6年間首席で通した[注釈 2][3]。4月東京府立第三中学校に入学[2]。同級生、金田敬、下平一郎、大和勇三らと親しくなる[3]。既に詩作への造詣を持っていた。同年、口語自由律短歌を5度にわたって雜誌部の『學友會誌』に発表[4]、自選の歌集である『葛飾集』『両國閑吟集』、詩集『水晶簾』をまとめるなど13歳にして歌集を作り才能を発揮していた[注釈 3]。7月、三中の先輩である芥川龍之介の自殺に衝撃を受ける[3]。夏、富士五湖に旅行[3]。秋には、『學友會誌』に戯曲「或る朝の出來事」を発表[5]1928年(昭和3年)三中の歴史教師豐島恭敏よりエスペラント語を学ぶ[3]。11月、金田久子を知る[3]。12月、国漢教師であり、白秋の門下生であり、いずれ『多磨』同人となる橘宗利の影響で短歌に関心を持ち、習作「硝子窓から」を作り始める[3]1929年(昭和4年)3月、『學友會誌』に「硝子窓から」の題で自由律短歌を10首発表[6]。同月下旬から、静養のため東葛飾郡新川村豐島方へ行き[7]、一学期は神経衰弱のため休学。この頃、石川啄木を愛読。自由律短歌を三行分かち書きで作成する[1]。7月、世界一周の途中で日本に立ち寄ったドイツの飛行船「ツェッペリン伯号」見学のため、三中の上級生伊達嶺夫と弟立原達夫と3人で、霞ケ浦飛行場へ行く[3]。8月、歌稿「葛飾集」作成[1]。9月、世田谷若林に北原白秋を訪問[注釈 4]。この頃、白秋、木下杢太郎前田夕暮などを愛読する[1]。10月、焼け跡に家が新築される。2階のテラスから天体望遠鏡で観測に耽る。『天文月報』、『萬有科學大系』を愛読する。また、三鷹の天文台を訪問、天文学専攻を志す[1]1930年(昭和5年)3月、三中『學友會雜誌』に短歌「鴉の卵抄」(一)を発表。5月2日、校長広瀬雄の辞任問題について、留任運動のリーダーになり、校長に懇願。5日、クラス代表の一人として、府知事に請願書をもって面会に行くが、失敗に終わる[2][3]。6月、修学旅行で関西方面へ行く。8月、御岳で避暑。このあいだ、房州富浦海岸に避暑中の金田兄妹に招かれて、富浦を訪れる[3]。10月、久子への愛を主題とする第一自選詩集『水晶簾』の成立[3]。11月、歌稿「葛飾集以後」をこの頃までに書いたと推定される。天文学に関心を持ち、学会にも出席し、天文学専攻を考える。一方、絵画にも関心があり、美術学校受験を考えたが、母に反対されて、画家志望はあきらめる[3]1931年(昭和6年)3月、『學友會雜誌』に「鴉の卵抄」(二)発表。4月、東京府立第三中学から第一高等学校理科甲類に天文学を志して進学した[8]。西寮入寮。入学直後、松永茂雄を知る[3]。短歌の倶楽部「一高短歌會」に入部した道造は高校時代を通じて詩作を続け[9]、5月一高歌會に参加し[3]、『校友會雜誌』「短歌會詠草」に短歌1首発表。当日の講師であった近藤武夫に認められ、以後近藤に師事する[3]。7月、同人雑誌『波止場』同人となり、創刊号に「鴉の卵抄」発表[3]。同月、短歌雑誌『詩歌』の會員投稿欄「七月集」に短歌12首発表[注釈 5][10][1]。同月、一高西寮同室の星野誠と、牛込に近藤武夫を訪問。以後、作歌指導を受ける。なお、この頃道造の用いた筆名「三木祥彦」は近藤の教示に従い付したもの[3]。この頃、近藤の紹介で前田夕暮を知る[3]。8月、『詩歌』に口語自由律短歌4首発表[3]。同月、御岳に避暑中、萩原朔太郎の詩を読む。9月、『詩歌』に口語自由律短歌8首発表[3]。10月竹山道雄教授より、テオドール・シュトルムの「みずうみ」をテキストにドイツ語を学ぶ[3]。同月、『校友會雜誌』に散文詩様態の物語「あひみてののちの」を掲載[1][注釈 6]。この頃、室生犀星堀辰雄を知り、師事する[1]。11月、『詩歌』に口語自由律短歌9首発表[3]。12月、『詩歌』に口語自由律短歌7首発表[3]。翌1932年(昭和7年)1月、尾山篤二郎を囲む一高短歌會に出席し、杉浦明平を知る[2][3]。同月、『向陵時報』にローマ字短歌7首発表[3]。2月、畠山重政ら一高西寮五番の友人と同人雑誌『こかげ』を創刊し、創刊号に物語「眠つてゐる男」発表[2][11][3]。また、同月、新宿中村屋での『詩歌』歌会に出席し、葉山耕三郎、中野嘉一らを知る[3]。この月『詩歌』には口語自由律短歌11首発表。同月、『一高校友會雜誌』に短歌6首発表[3]。3月、『詩歌』に口語自由律短歌8首発表。また、昭和7年度版『詩歌年刊歌集』に自由律短歌が7首採録される[3]。同月下旬に、畠山重政と伊豆を徒歩旅行する[3]。4月、文藝部委員となる[2]。同月、『こかげ』に物語「眠り」を発表[3]。5月、『詩歌』に口語自由律短歌7首発表。6月、『詩歌』に口語自由律短歌8首発表。同月『詩歌』退会[3]。8月、三好達治の詩集『南窗集』の影響で短歌から詩へ近づき、四行詩を作り始める[2][1]。さらに『堀辰雄詩集』および自作の短編「ゴンゴン」の手製本を製作[2][1]。また、四行詩集『さふらん』編纂も手がけ9月頃完成した[12]。9月、向島新小梅町に堀辰雄を訪問[13]。また、寮を出て、自宅通学開始[14]。同月、『こかげ』に物語「白紙」発表。12月、雑誌『こかげ』を4号で廃刊。なお、同誌に、物語「オメガ小品」、ラディゲの翻訳「夕方」発表。[2][3]。高校最後の年を迎えた1933年(昭和8年)5月、手製詩集『日曜日』[注釈 7]を製作。6月、『一高校友會雜誌』に物語「短篇二つ」発表[3]。7月、奥多摩の御岳に行き、9月上旬まで滞在。体操と散歩を日課とした。このとき身長五尺七寸余り、体重十三貫の細い身体であった[1]。7月19日よりジャック=アンリ・ベルナルダン・ド・サン=ピエールの『ポオルとヴィルジニイ』を原書で読み始める[15]。ほかに、リルケ、萩原朔太郎、室生犀星三好達治らの詩に親しむ。また、幾つかの短編小説と「ノートⅠ」を作成[1]。秋頃、近藤武夫を訪問。近藤の勧めにより、志望を天文学から建築学へと変更したとみられる[注釈 8]。また、フランス語学習開始[3]。この頃、杉浦明平と明治大正期の文学書蒐集を行い、とくに大正期のものは165冊集めた。音楽への愛好もあり、音楽設備のある喫茶店でレコードを楽しみ、音楽会にも出かけた[1]。11月、『一高校友會雜誌』に物語「手紙」発表[3]。なお、この年手製詩集『散歩詩集』を製作。1934年(昭和9年)2月頃、「室生犀星とリルケとにだけ、僕は心を打ちこまう!」と手紙に記した[1]。3月、第一高等学校卒業。4月、東京帝国大学工学部建築学科に入学した。居室を二階三畳から三階屋根裏部屋に移す[3]。「にんじん」という綽名を付けられた[2]。建築学科では1934年(昭和9年)から1937年(昭和12年)まで岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三浜口隆一が1学年下、生田勉が2学年下に在籍した。一高同期でもあった生田とは、特に親しく交わった[16]。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野金吾賞を3度受賞した。5月、三好達治、丸山薰、堀辰雄編集第二次『四季』創刊に参画[3]。この頃、津村信夫を知る。6月、猪野謙二、江頭彦造、沢西健ら一高同期生と同人誌『僞畫』創刊。同月、堀より津村らの雑誌『四人』を与えられ、津村の詩に共感する[3]。7月、『僞畫』創刊号に物語「間奏曲」発表。この頃初めて14行詩「雲の祭日」試作。また、『四人』に掲載されていた津村の散文詩風手記「火山灰」の影響下に、同じく「火山灰」と称する手記を作り始める[3]。同月9日・10日、ブルーノ・タウトの公開講義に出席する[3]。同月22日、沢西健とともに、軽井沢に堀辰雄を訪問。堀が不在であったので、浅間高原をまわる[3]。25日、近藤武夫に招かれていた信濃追分の油屋に滞在する。26日、再会。堀とも再会。油屋満員のため油屋の紹介で若菜屋に宿泊する[3]。近藤に、千葉市の弁護士関一二の長女鮎子を紹介される。また、近藤に、村の地誌、浅間の植物などを教えられる[3]。8月、油屋に移り、堀の薦めによりエドモン・ジャルーの「リルケ論」を訳す[3]。このあいだ、堀に伴われて、軽井沢の室生犀星別荘を訪問[注釈 9]。一夏を過ごし、読書に専念する一方、同地滞在中の堀、室生と行き来して、追分は愛すべき土地となり、詩作上の舞台ともなる[1]。8月21日、追分を立ち、上松を経て福江の杉浦明平を訪問し、23日帰京[3]。10月、『僞畫』に散文詩「子供の話」を発表。同月、萩原朔太郎を、世田谷代田に訪問する[3]。11月『四季』第2号に「村ぐらし」発表。以後、津村信夫とともに『四季』に参加[17]。12月『四季』に「村ぐらし」、「詩は」発表。同月、『僞畫』に物語「メリノの歌・第1章」発表。この年『僞畫』廃刊し、新雑誌発行を計画する[2][3]1935年(昭和10年)1月『四季』に「初冬」発表。2月『四季』に「小さな墓の上に」発表。3月、小住宅設計により辰野金吾賞受賞、銅牌を得る[2][1]。同月、『帝國大學新聞』に詩「枯木と風の歌」が掲載され、初めて原稿料3円を貰う[1]。同月、『四季』に「燕の歌・その一」、エッセイ「抒情小曲集」発表[3]。5月、高尾亮一、猪野謙二、杉浦明平、竹村猛寺田透、江頭彦造、国友規房、田中一三らと雑誌『未成年』創刊、創刊号に「一日は……」発表[3]。また、新しい抒情詩の確立を図り、「風たちの歌」を作る。「その一」は14行詩型で、立原の作詩様式がほぼ固まる[3]。同月、『四季』に「旅装」発表[3]。6月、「ファウスト」、「ギリシャ・ローマ神話」、世阿弥、定家を読む[3]。同月、『四季』に「愛する」発表[3]。7月、『未成年』に「風たちの歌」発表。『四季』に「風のうたつた歌」、書評「花卉」発表[3]。同月10日、追分油屋に宿泊。15日、「四季」の會出席のため、一度帰京。津村、神保光太郎と会う。21日、富士見高原療養所に堀辰雄を訪ねる[3]。23日、発哺に三好達治を訪問[3]。25日、再び追分に戻り、9月21日まで滞在[3]。このあいだ8月5日、浅間山の爆発を初めて体験し、「ノートⅣ 火山灰」を書き始める[2][1]。『コギト』に連載中の第三高等学校教授芳賀檀による「ナポレオン・ボナパルテ」を読み、心を動かされる[3]。6日、神保光太郎を通して、『コギト』に「風に寄せて」を送り、9月号に掲載される。16日、柴岡亥佐雄が追分に来訪。その夜、追分に避暑中の柴岡の遠縁の一家に招かれて、エリザベエトと呼ばれた姉妹横田ミサオ・ケイ子と識る。17日、千葉から追分に来た関鮎子に再会[3]。エリザベエト、鮎子の2人に「不吉で哀しい恋」を経験[1]。この年、油屋宿泊費1円20銭、中食代40銭。下旬、鮎子は千葉に帰る。この夏頃よりソネット形式の詩作をする[1]。9月、軽井沢の犀星別荘を訪問[3]。映画のロケに来ていた大河内傳次郎が、室生一家とともに写真を撮る。また、油屋で、筝曲家今井慶松の次女春枝(北麗子)とモーツァルトのレコードを聴く。春枝の教示により音楽への理解を深め、のちに14行詩集の構成法に影響する。このあいだ、新古今和歌集を読む。これらの日々のうちに「めぐりあひを記念して」、「はじめてのものに」、「またある夜に」作成[3]。21日、名古屋経由で生田勉を訪問し、帰京[3]。10月、一高時代の友人松永茂雄、龍樹兄弟の「ゆめみこ會」に参加し、やがて彼等の新古今研究に基づく新古今の現代詩化を試みる[3]。同月、『四季』に「或る風に寄せて」、「傷ついて、小さい獣のやうに」、書評「クロスビー詩抄」発表。『帝國大學新聞』に「民謡」発表。『ゆめみこ』に「窓」発表。『藝術科』に「雲の祭日」発表。この頃、杉浦明平の音楽論の影響を受ける[3]。この月、赤門通の茶房タムラで近藤武夫に関鮎子の写真を見せられ、欲しいと言ったが貰えず[3]。11月、『四季』に「はじめてのものに」「またある夜に」発表[2]。同月『未成年』に物語「生涯の歌」、リルケ「真面目な時」、『ゆめみこ』に「離愁」発表[3]。同月、友人宮尾亮一の誘いで雅楽演奏会を聴き、古典音楽に感動[3]。津村信夫の『愛する神の歌』出版記念会に出席。12日、鮎子に対する思慕を柴岡亥佐雄に告白。23日、伊東静雄の『わがひとに与ふる哀歌』出版記念会出席。静雄と識る。この頃、詩集『わが納屋のうた』の製作を構想するが、これは果さず。また、『椎の木』、『作品』より寄稿を依頼される[3]。12月、『コギト』、『文藝汎論』より寄稿依頼あり[3]。同月、『四季』に「夏の旅」発表。『ゆめみこ』に短歌「うた」発表[3]。大学卒業年次を迎えた1936年(昭和11年)1月、『四季』に「雨の言葉」発表。『コギト』に「憩らひ」発表。『未成年』に「メリノの歌・第2章」、雑記「いろいろなこと」発表。『ゆめみこ』に「夏の弔ひ」発表。2月、『四季』が同人制開始。堀辰雄、三好達治、丸山薰、井伏鱒二、萩原朔太郎、竹中郁田中克己辻野久憲中原中也桑原武夫神西淸、神保光太郎、津村信夫、道造の14名。同月、『四季』に「孤独の日の真昼」、書評「愛する神の歌」発表。『コギト』に「夏の花の歌・その一」発表。『作品』に物語「春のごろつき」発表。『椎の木』に物語「夜に就いて」発表。『ゆめみこ』に「葬送曲」発表。3月、2度目の辰野金吾賞受賞。この頃、詩と物語を集めた作品集『詩人の出発』を計画するも実現せず。また、3月に死んだ従兄や一高時代の旧友を思って「3月の死」という想念に憑かれる[3]。同月、『四季』に「朝やけ」発表。『未成年』に「メリノの歌・第3章」、雑記「いろいろなこと」発表。『ゆめみこ』に「天の籠」、「切抜画」、「夏へ」発表。4月、東京で開催されたリリー・クラウスシモン・ゴールドベルクエマヌエル・フォイアーマンの演奏会を聴く。大学では、ホテルの設計に専念する。『ゆめみこ』が第8号で終刊する。同誌に「ファンタスチック」、「ヴァカンス」、「八月の旅情歌」、短歌1首発表。この頃、一高生中村真一郎と知る。また、関鮎子が結婚する[3]。『未成年』5月号に「鳥啼くときに」、「ちひさき花の歌」、リルケ「オルフェへのソネット」、雑記「いろろなこと」を発表。同月、『四季』に「小譚詩」、雑記「黒手帖」発表。『文藝汎論』に「窓下樂」発表。同月、関鮎子あるいは今井春枝より別れの手紙を受け取る。杉浦明平に心情告白[3]。6月、『四季』「時々片片」で萩原朔太郎により道造と伊東静雄の詩が論評される[3]。同月、『四季』に「旅人の夜の歌」、「失はれた夜に」(原題「ある不思議なよろこびに」)発表[3]。7月8日信越線車中で今井春枝と会い、9日、軽井沢で2人で遊ぶ。11日、油屋で療養中の野村英夫と知る。以後、追分に滞在し、詩、物語、翻訳などを行う。『コギト』『四季』『文藝汎論』『椎の木』などに発表[2][1]。また、春枝との出会いと別れを主題とする「花散る里」、「かろやかな翼ある風の歌」を作成。同月、『四季』に「夏花の歌・その二」発表。『鵲』に「夜想樂」発表。『未成年』に「みまかれる美しき人に」、物語「Dictation」発表。『建築』にエッセイ「住宅・エッセイ」発表[3]。8月、『四季』に「風と枯木の歌」、雑記「追分案内」発表。『文藝汎論』「虹の輪」発表[3]。8月4日、春枝結婚。この頃、一高の後輩加藤周一を知る。また、堀辰雄の紹介で、『椎の木』同人阪本越郎を知る。一方、山本文庫の一冊テオドール・シュトルムの短篇を翻訳。21日、追分の夏祭りの夜、エリザベエトの横田ケイ子と再会する。25日友人土井治とともに追分を出発し、名古屋、尾鷲、新宮と転じ、ここで土井と別れて天祐丸で那智、勝浦と南紀を半周し、大阪、京都、奈良興福寺、福江伊良湖岬を経て9月上旬帰京[2][3]。9月13日、再び、追分を訪れる。「わかれる昼に」、「のちのおもひに」を書く。21日、雨の街を歩き、発熱、発病の前駆症となる。30日、寺田透と手紙で文学上の論争。道造より絶交[2][3]。このあいだ9月、『新潮』に「月晩き日の夕に」発表。『コギト』に物語「かろやかな翼ある風の歌」発表。『文藝懇話會』に物語「花散る里」発表[3]。10月、『四季』に「甘たるく感傷的な歌」、「逝く昼の歌」発表。『未成年』にエッセイ「夏秋表」発表[3]。10月24日、奈良、京都に行く。京都では田中一三、芳賀檀と会う。30日帰京[2][3]。『文藝汎論』11月号に「ゆふすげびと」を発表。同月シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出刊行。『四季』に「わかれる昼に」、「のちのおもひに」発表[3]。同月、津村信夫の結婚式に列席し、竹村俊郎を知る[3]。12月、『帝國大學新聞』に「予後」発表[3]。12月3日、東大で開催された萩原朔太郎らを囲む座談会に出席。18日、卒業論文「方法論」提出[2][3]。31日、友人小場晴夫と銀座、浅草の除夜を散策し、「薔薇叢書」なる作品集の刊行を思い立ち、これは、のちに「風信子叢書」として実現する[3]1937年(昭和12年)1月、『四季』に「虹とひとと」、「夏の弔ひ」、「忘れてしまつて」発表[3]。なお、この月『未成年』第9号を出し、廃刊とする[3]。同月7日より15日にかけて、「鮎の歌」作成[3]。同月30日、堀辰雄の滞在する追分油屋へ行く[3]。2月1日、帰京。以後、卒業設計に没頭[2]。同月20日、「わすれぐさに寄す」の手書き本を橘宗利に献ずる[3]。同月、『四季』に物語「鳥啼く夕べに詠める歌」、「座談會・現代詩について」発表[3]。3月、11日卒業設計「浅間山麓に位する藝術家コロニイの建築群」提出。3度目の辰野金吾賞受賞[2]。同月、『四季』に「浅き春に寄せて」発表。『コギト』に「ひとり林に……」発表[3]

同月、数寄屋橋畔の石本建築事務所[注釈 10]に就職決定。大学卒業記念に「風信子叢書」の第一冊である『萱草に寄す』の原稿を印刷所に渡す[3]。同月下旬頃結婚した阿比留信の依頼で、追分に山荘を作るため油屋に一泊する。これは、実際には実現せず[3]。同月卒業。4月に事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」や、横浜市に現存する「秋元邸」を設計[1]。また、長崎出身で早稲田大學卒業生の武基雄と親しくなる[3]。同月、『婦人畫報』に「うたふやうにゆつくりと……」発表[3][注釈 11]。この月、東大に入学した中村真一郎に『ジャム詩集』を贈る[3]。5月、『四季』に「追憶」発表[3]。6月、『四季』に「眠りのほとりに」発表[3]。同月、今井慶明作曲の歌曲「ゆふすげびとの歌」の発表会が上野の音楽学校講堂で開かれる。7月、物語「鮎の歌」、「溢れひたす闇に」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ他『四季』に「石柱の歌」、エッセイ「風信子」発表[3]。同月詩集『萱草に寄す』刊行[注釈 12]。同月18日より、大森の室生犀星宅魚眠洞の軽井沢避暑中の留守を預かり[3]、ここより通勤[2][1]。8月、『四季』に「失はれた夜に」(原題は、「不思議な川辺で」)発表[3]。同月、5日より8日まで追分油屋に滞在し、歌人であり作家の若林つや(杉山みつゑ)、今井慶明らを知る[3]。この頃、高見順の文学論に反発する[3]。また、勤務が苦痛となる[3]。9月、『都新聞』に「真冬のかたみに」発表。『文藝汎論』に「物語」発表[3]。同月4日より10日前後まで油屋で静養。ここで、キェルケゴールの『反復』を読み、友人にしきりに手紙を書く。第二冊目の「風信子叢書」の刊行を図る[3]。10月、上旬発熱。肋膜のため病臥する[2]。同月23日、中原中也死去。会葬に参列[3]。同月、『四季』に「やがて秋……」発表[3]。11月、『四季』に「辻野久憲追悼」発表[3]。同月15日、静養のため、追分に赴き、現地滞在中の堀辰雄、野村英夫と生活[2][3]。同月19日油屋火事。逃げ遅れ、二階から土地の鳶職に助け出される。軽井沢「つるや」に移る[2][3]。同月23日、野村と帰京[3]。12月、再び、石本事務所に出勤[3]。同月、詩集『曉と夕の詩』刊行。建築と詩作の双方で才能を見せた。1938年(昭和13年)1月、5日頃まで風邪にて寝込む。このあいだ、関西より来訪した小高根二郎より古いマリア観音の厨子を贈られ、以後愛蔵する[3]。『四季』に「初冬」、雑記「風信子」発表。『文藝』に「晩秋」発表。『一高同窓會會報』に「ふるさとの夜に寄す」発表[3]。同月16日、銀座数寄屋橋脇のミュンヘンで『曉と夕の詩』出版記念会[2]。この頃、北欧に強い憧憬を覚える。また、芳賀檀より『古典の親衛隊』を贈られ、感動する[3]。『新日本』2月号に物語「オメガぶみ」を発表。『四季』に「歌ひとつ」発表。『セルパン』に「午後に」発表。『朱韓』に「歌ひとつ」発表[3]。同月、中旬鎌倉深田久弥宅で喀血、安静中の堀辰雄を見舞い、深田久弥、北畠八穂夫妻と識る[3]。浦和での風信子荘という週末住宅の建築を構想する[3]。3月、『新日本』に「何處へ?」発表。『文學界』に「夜を詠める歌」発表。『日本浪漫派』に「芳賀檀氏へ」発表[3]。石本事務所での勤務に心理的圧迫を覚えるようになる。この頃、雑誌『午前』の創刊を考え、中村真一郎とともに編集計画を立てる[3]。4月、『四季』に「わがまどろみは覚めがちに」、雑記「風信子」、「座談會『測量船』について」発表。『新潮』に「或る晴れた日に」発表[3]。この頃、同じ建築事務所の水戸部アサイを愛するようになる[3]。5月、堀辰雄論として「風立ちぬ」論の執筆開始[2]。同月、『四季』にエッセイ「遙かな問ひ」発表[3]。同月15日、アサイと軽井沢に初めて旅行。堀辰雄の山荘を訪問するも、堀夫妻帰京中にて会えず[3]。6月、『四季』にエッセイ「風立ちぬⅠ~Ⅲ」、雑記「別離」発表[3]。同月5日、再び、アサイと軽井沢の堀を訪問。道造の病状すでに篤し[3]。7月、杉浦明平に弘前高校生小山正孝を紹介される[3]。また、福岡高校生矢山哲治より『九州文學』を贈られ、文通を始める[3]。20日、建築事務所を病気休職[2]。下旬よりしばらく室生宅で静養[1]。同月、『四季』に「風立ちぬⅣ~Ⅵ」発表[3]。同月よりエッセイ「風立ちぬ」を執筆[3]。8月、医師の診断は肺尖カタル。要1ケ月安静[18][3]。この頃、秋からの日本縦断旅行を計画[3]。『文藝汎論』8月号に「物語」を発表[19]。同月、『四季』に「初夏」発表。『むらさき』に「草に寝て……」発表[3]。同月11日、アサイと軽井沢に行き、12日、加藤周一に迎えられ、信州千ヶ滝に滞在中の中村真一郎を加藤を伴って訪問[注釈 13][3]。のち夕刻追分の油屋に戻り、転地療養。野村英夫、若林つや、中村、加藤らとともに夏を楽しむ[3]。このあいだ、28日、信州千ヶ滝の中村を訪ね、油屋に呼び寄せて、「風信子叢書」第三冊の詩集『優しき歌』を構想し、中村にも見せ編纂開始[2][1][3]。同日、アサイは再度油屋を訪問する[3]。また、『コギト』に「風に寄せて」の連作を送付[3]。9月、『コギト』に「風に寄せて」発表。『新生』に「月の光に与えて」発表。『映画朝日』に「麦藁帽子」、「失題」発表[3]。同月6日、『優しき歌』の編纂を一応終えると、東京で開催中の深澤紅子の個展を観るため帰京。大宮にアサイ出迎える[3]。『優しき歌』の第1番より5番を『午前』創刊号掲載のため詩友太田道夫に託す[3]。同月15日、北方への旅に立つ。楯岡の竹村俊郎宅、山形、仙台、石巻の江頭彦造訪問を経て、19日、盛岡郊外の愛宕山下にあった深澤紅子の実家の別荘生々洞に到着、「ノートⅤ」を作成し、「風立ちぬ」の終章を書く[2][1]。10月、『四季』に「優しき歌」―「朝に」「また昼に」発表。『月曜』にエッセイ「月曜4の感想」発表[3]。10月2日、野村英夫が生々洞来訪[2]。同月15日、弘前より小山正孝来訪し、17日に立原に見送られて、小山帰京[3]。同月19日、盛岡を出発し、20日帰京、明朝武漢三鎮陥落の提灯行列に参加、宮城前広場で万歳三唱[3]。月末、山形訪問の返礼を兼ねて、馬込に竹村俊郎訪問[3]。11月、『四季』に書評「西康省」発表。『こをろ』に「唄」発表[3]。同月、新しい詩誌『午前』を計画するも進展せず[2]。上旬、照井栄三の「戰争詩の夕」で朗読を聴き、照井と識る[3]。同月23日、田中克己の『西康省』出版記念会に出席し、帰路、銀座の茶房「門」で神保光太郎とベートーヴェンの「イ長調ソナタ、作品69」を聴く。同月24日、九州旅行に出立する。亀山、奈良、京都に立ち寄り、芳賀檀、大山定一と会う。さらに27日京都発、山陰線で舞鶴経由で松江到着。市内見物をするも、病状悪化[3]。下関、門司、小倉、戸畑、若松を経て、12月2日、博多到着[2]。3日、旧友である福岡高校教授秋山六郎兵衛を訪ねる。ここで福岡高校の矢山哲治に迎えられ、矢山とともに久留米の独立山砲隊第三聯隊に入隊中の檀一雄を訪ねるも不在で会えず。矢山の案内で白秋の郷里である柳河に行く。さらに矢山と別れ佐賀を経て、4日長崎の武基雄の生家である武医院に到着し、旅装を解く[2]。5日、滞在すべき家を探して市内を見物するが、空想と現実との相違に失望。6日に武医院にて発熱・喀血し入院する[1][3]。「ノートⅥ」を作成[1]。同月10日、福岡より矢山が見舞いに来る。同月13日、長崎を立ち、下関まで矢山に付き添われて、特急「富士」で上京。14日自宅に帰る[2][1]。帝大病院で診察を受け、絶対安静を命じられ、読書も執筆も禁じられる[1]。同月26日に東京市中野区江古田の市立療養所へ入院するが、このときすでに結核が咽喉から腸まで侵しており、手遅れであった。29日夜より水戸部アサイの献身的な看護を受ける[20][1]。病状やや安定[3]。このあいだ12月、『コギト』に「魂を鎮める歌」発表。『四季』に「風立ちぬⅦ~Ⅷ」発表[3]1939年(昭和14年)1月、『文藝汎論』に「メヌエツト」発表[3]。同月、室生犀星、津村信夫、堀辰雄夫妻らの見舞いを受ける[3]。15日、付添派出婦と水戸部アサイ交替し、以後日曜ごとに見舞いに訪れる[3]。アサイ、小場晴夫より立原の回復は絶望と告げられる[3]。2月、熱下がり、やや小康状態。寺田透との和解を思う[3]。13日、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)の受賞決定[注釈 14]。20日、『四季』に三好達治「中原中也賞受賞発表」が載る[3]。3月、衰弱するも比較的小康を保つ[3]。同月23日に芳賀檀と若林つやの見舞いを受ける[注釈 15][3]。同年3月29日午前2時20分、病状急変、血痰による喀痰不能により絶息。24歳で没した。同夜、内輪の友人による通夜。30日荼毘に付す[3]。4月6日、自宅で告別式[1]

法名は温恭院紫雲道範淸信士。谷中多寶院に埋骨。4月29日、中也誕生日に因んで本郷赤門前の鉢の木にて、『四季』主宰で中原中也賞授賞式と立原道造の追悼会を兼ねた集いが催され、『四季』同人多数参加。野村英夫、小山正孝、中村真一郎ら知友も参加[3]。7月、『四季』を立原道造追悼號に当てた[注釈 16][2][3]

詩以外に短歌・俳句・物語・パステル画・スケッチ・建築設計図などを残した。道造の優しい詩風には今日でも共鳴する人は多く、文庫本の詩集もいくつか刊行されている。また存命中に今井慶明が立原の2つの詩を歌曲にして以来、柴田南雄高木東六高田三郎別宮貞雄三善晃などが作曲している[21]

立原道造全集[編集]

最初の全集は、山本書店で1941年(昭和16年)から1943年(昭和18年)にかけ刊行。戦後は角川書店で3度刊行(1950-51年、1957-59年、1971-73年)。

決定版全集は、筑摩書房(全5巻 順に詩Ⅰ・詩Ⅱ・手記・建築図面・書簡)で、2006年(平成18年)より2010年(平成22年)にかけ刊行された。編集委員は中村稔安藤元雄宇佐美斉鈴木博之

立原道造記念館[編集]

1997年(平成9年)、文京区弥生に立原道造記念館が設立された。記念館は、2011年2月20日に閉館。

2011年2月、信濃デッサン館(現・KAITA EPITAPH 残照館)内に「立原道造記念展示室」を新設。

ヒアシンスハウス[編集]

立原が構想した図面に基づき、2004年に「ヒアシンスハウス」がさいたま市別所沼公園に竣工された[22]

主な作品[編集]

  • 『優しき歌 I』『優しき歌 II』は、詩人の没後に複数人によって編纂されたもの。『I』は『II』の後に編まれたことに注意。[注釈 17]
  • 『優しき歌 II』は角川書店から1947年に『優しき歌』として出版された。詩人の生前の構想を、中村真一郎の証言によって堀辰雄が復元したものである。『優しき歌 I』は、第三次角川書店版全集(1971-73年)にあたって復元されたものである。『II』の出版後に発見された立原のメモに基づいている。
  • 筑摩書房版『立原道造全集』(全5巻)では、「立原の死の時点で彼の作品が残されていた状態をなるべく正確に再現するように」(第一巻、p.582)という目的から、2種の『優しき歌』は採用されていない。

『萱草に寄す』[編集]

「わすれぐさによす」と読む。

  • SONATINE NO.1
  1. はじめてのものに
  2. またある夜に
  3. わかれる昼に
  4. のちのおもひに
  • 夏花の歌
  1. その一
  2. その二
  • SONATINE NO.2
  1. 虹とひとと
  2. 夏の弔ひ
  3. 忘れてしまつて

『暁と夕の詩』[編集]

  1. I 或る風に寄せて
  2. II やがて秋‥‥
  3. III 小譚詩
  4. IV 眠りの誘ひ
  5. V 真冬の夜の雨に
  6. VI 失はれた夜に
  7. VII 溢れひたす闇に
  8. VIII 眠りのほとりに
  9. IX さまよひ
  10. X 朝やけ

『優しき歌 I』[編集]

  • 燕の歌
  • うたふやうにゆつくりと‥‥薊の花のすきな子に
  1. I 憩らひ
  2. II 虹の輪
  3. III 窓下楽
  4. IV 薄 明
  5. V 民 謡
  • 鳥啼くときに
  • 甘たるく感傷的な歌ひとり林に‥‥
  1. I ひとり林に‥‥
  2. II 真冬のかたみに‥‥
  • 浅き春に寄せて

『優しき歌 II』[編集]

  • 序の歌
  1. I 爽やかな五月に
  2. II 落葉林で
  3. III さびしき野辺
  4. IV 夢のあと
  5. V また落葉林で
  6. VI 朝に
  7. VII また昼に
  8. VIII 午後に
  9. IX 樹木の影に
  10. X 夢見たものは……

備考[編集]

  • 立原道造が生前、東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校・附属中学校)時代に東京市電(現在の東京都電車)の切符収集の趣味を持っており、自らコレクションした東京市電切符3,000枚が現存している。その切符などが「立原道造記念館」で、2010年3月から9月までの特別展覧会にて一般公開された[23]
  • 立原道造をモデルとした青年を登場させた小説『菜穂子』を堀辰雄が執筆している[24]

関連人物[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 父は千葉県東葛飾郡新川村大字平方の狼家の出。旧名、狼貞次郎。小山正孝「年譜 立原道造」『日本の詩歌24 丸山薫、田中冬二、立原道造、田中克己、蔵原伸二郎』中央公論社、1968年 p.421
  2. ^ 小学校の頃から『子供の科學』を愛読した。水沢遙子『立原道造覚書 夭折の詩人、その光と翳』不識書院、1996年 p.16
  3. ^ また、絵画部でパステル画を、音楽部でハーモニカを学んでいた。博物部では解剖や標本に興味を持ち、天文学にも関心があった。水沢遙子『立原道造覚書 夭折の詩人、その光と翳』不識書院、1996年 p.16
  4. ^ 橘宗利に伴われて訪問し、詩稿を見せる。伊吹知子「立原道造と新古今集」山田俊幸編『論集 立原道造』風信社、1983年 p.80、「立原道造年譜」『日本詩人全集28 伊東静雄、立原道造、丸山薰』新潮社、1968年 p.222
  5. ^ 『詩歌』は前田夕暮主宰。自由律短歌には山木祥彦の筆名を使用。以後1年間に85首発表することを得る。小山正孝「年譜 立原道造」『日本の詩歌24 丸山薫、田中冬二、立原道造、田中克己、蔵原伸二郎』中央公論社、1968年 pp.421
  6. ^ これをドイツ語教授立沢剛が激賞し、校内の注目を集める
  7. ^ 母への献呈。寮生活では「日曜日ごとに家に戻ることを楽しみとした日々を記念する」作品。小山正孝「年譜 立原道造」『日本の詩歌24 丸山薫、田中冬二、立原道造、田中克己、蔵原伸二郎』中央公論社、1968年 pp.421、水沢遙子『立原道造覚書 夭折の詩人、その光と翳』不識書院、1996年 p.66
  8. ^ 近藤は、一高理科の同級生星野誠のまたいとこ。一高歌會の先輩で『詩歌』に属した。健康状態を慮り、天文学志望に異を唱え、絵もうまいので、美の創造のできる建築学科への進学を勧めた。水沢遙子『立原道造覚書 夭折の詩人、その光と翳』不識書院、1996年 pp.127-128
  9. ^ 立原は、昭和10年代の或る日、室生の詩集について、『抒情小曲集』を採るか、『愛の詩集』を採るか、そのどちらを採るかで、その人間の文学は決定されるのだ、と中村真一郎に語り、自分は断乎として『愛の詩集』を採ると述べた。中村真一郎「詩人の肖像」『日本の詩歌15 室生犀星』中公文庫、1975年 p.405
  10. ^ 石本より「設計の堪能な人」を求められ、岸田が立原を推薦した。岸田日出刀「立原道造君のことども」『四季』立原道造追悼號、四季社、1939年7月 pp.56-58
  11. ^ 内田嚴の挿絵とともに掲載。
  12. ^ この年、一高文芸部委員となった中村真一郎らと交流。文芸部委員の先輩たる雑誌『未成年』の同人らとの連絡があり、道造は真一郎が『校友會雜誌』に載せた詩を批評する手紙を寄越してきた。この頃、道造は「バー・コペンハーゲン」と貼り紙が扉にある屋根裏部屋に居住しており、真一郎はできたばかりの『萱草に寄す』を部屋に呼ばれてもらっている。中村真一郎「道造さんと私」『日本の詩歌24 丸山薫、田中冬二、立原道造、田中克己、蔵原伸二郎』付録16 中央公論社、1968年 p.1
  13. ^ 中村と加藤は初対面であった。中村真一郎「道造さんと私」『日本の詩歌24 丸山薫、田中冬二、立原道造、田中克己、蔵原伸二郎』付録16 中央公論社、1968年 p.1
  14. ^ 賞金百圓をどう使うか母と話し合い、「恢復祝ひにしよう。一人一圓なら百人も呼べるね」と言った。神保光太郎「立原道造の生涯 覚え書として」『四季』立原道造追悼號、四季社、1939年7月 p.80
  15. ^ 「何か欲しいものがあれば、注文なさるといいわ」との若林の言葉に応えて、「それでは注文を出しませうか、一度づつでおしまひになる小さな罐詰をいくつも欲しいのです。さうすると食事の度に樂しみでせう。それがサンタクロースのおぢいさんが持って來るやうな袋の中に入つていると一さううれしいな」、「それからもう一つ欲しいものがあります、五月のそよ風をゼリーにして持つて來て下さい」、「非常に美しくておいしく、口の中に入れると、すつととけてしまふ青い星のやうなものも食べたいのです」と言った。若林つや「野花を捧ぐ」『四季』7月号 四季社、1939年 pp.35-38
  16. ^ 同号に遺稿「優しき歌」―「爽やかな五月に」、「落葉林で」、「さびしき野辺」、「夢のあと」、「また落葉林で」発表。さらに『四季』8月号に「立原道造の手紙」発表。12月号に遺稿「午後に」、「朝に」、「優しき歌・序の歌」発表。
  17. ^ 表題「優しき歌」は、1938年(昭和13年)夏、中村真一郎と加藤周一とレコードで聴いた音楽の題に基づく。ヴェルレーヌの詩にフォーレが作曲したもの。「ラ・ボヌ・シャンソン」。水沢遙子『立原道造覚書 夭折の詩人、その光と翳』不識書院、1996年 p.192

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah 「立原道造年譜」『日本詩人全集28 伊東静雄、立原道造、丸山薰』新潮社、1968年 pp.221-224
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am 小山正孝「年譜 立原道造」『日本の詩歌24 丸山薫、田中冬二、立原道造、田中克己、蔵原伸二郎』中央公論社、1968年 pp.421-422
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo bp bq br bs bt bu bv bw bx by bz ca cb cc cd ce cf cg ch ci cj ck cl cm cn co cp cq cr cs ct cu cv cw cx cy cz da db dc dd de df dg dh di dj dk dl dm dn do dp dq dr ds dt du dv dw dx dy dz ea eb ec ed ee ef eg eh ei ej ek el em en eo ep eq er es et eu ev ew ex ey ez fa fb fc fd fe ff fg fh fi fj fk fl fm 小川和佑「立原道造年譜」『現代詩読本 立原道造』思潮社、1978年 pp.233-240
  4. ^ 水沢遙子『立原道造覚書 夭折の詩人、その光と翳』不識書院、1996年 p.35
  5. ^ 水沢遙子『立原道造覚書 夭折の詩人、その光と翳』不識書院、1996年 p.17
  6. ^ 水沢遙子『立原道造覚書 夭折の詩人、その光と翳』不識書院、1996年 p.19
  7. ^ 水沢遙子『立原道造覚書 夭折の詩人、その光と翳』不識書院、1996年 pp.19-20
  8. ^ 神保光太郎「立原道造の生涯ー覚え書として」(『四季』立原道造追悼號(1939年7月))
  9. ^ 水沢遙子『立原道造覚書 夭折の詩人、その光と翳』不識書院、1996年 p.53
  10. ^ 水沢遙子『立原道造覚書 夭折の詩人、その光と翳』不識書院、1996年 p.54
  11. ^ 水沢遙子『立原道造覚書 夭折の詩人、その光と翳』不識書院、1996年 p.97
  12. ^ 水沢遙子『立原道造覚書 夭折の詩人、その光と翳』不識書院、1996年 p.60
  13. ^ 水沢遙子『立原道造覚書 夭折の詩人、その光と翳』不識書院、1996年 p.73
  14. ^ 水沢遙子『立原道造覚書 夭折の詩人、その光と翳』不識書院、1996年 p.67
  15. ^ 水沢遙子『立原道造覚書 夭折の詩人、その光と翳』不識書院、1996年 p.77
  16. ^ 『立原道造と生田勉―建築へのメッセージ』 立原道造記念館(1998年3月)
  17. ^ 鈴木亨「凶事の季節 立原道造と三島由紀夫」山田俊幸編『論集 立原道造』風信社、1983年 p.51
  18. ^ 水沢遙子『立原道造覚書 夭折の詩人、その光と翳』不識書院、1996年 p.8
  19. ^ 鈴木亨「凶事の季節 立原道造と三島由紀夫」山田俊幸編『論集 立原道造』風信社、1983年 p.43
  20. ^ 大塚英良『文学者掃苔録図書館』原書房、2015年 p.142
  21. ^ 『国文学解釈と鑑賞』別冊立原道造特集(2001年5月)掲載「立原道造の詩による作曲一覧」
  22. ^ ヒアシンスハウス ヒアシンスハウスの会
  23. ^ 夭逝の詩人・立原道造 元祖“乙女系男子”は元祖鉄道オタク!? 産経新聞 2010年5月12日閲覧
  24. ^ 『新潮日本文学アルバム17 堀辰雄』(新潮社、1984年)

外部リンク[編集]