加藤道夫

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加藤 道夫
(かとう みちお)
誕生 1918年10月17日
日本の旗 日本福岡県遠賀郡戸畑町(現・北九州市戸畑区
死没 (1953-12-22) 1953年12月22日(35歳没)
日本の旗 日本東京都世田谷区若林町
墓地 日本の旗 日本多磨霊園
職業 劇作家演出家翻訳家
英語教員
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 慶応大学英文学科
活動期間 1941年 - 1953年
ジャンル 戯曲、演劇評論翻訳
主題 詩的要素の導入
演劇の芸術的自律性
文学活動 新劇研究会、麦の会、
文学座雲の会
代表作 『なよたけ』(1946年)
『挿話』(1949年)
思い出を売る男』(1951年)
ジャン・ジロゥドゥの世界』(1953年)
主な受賞歴 第1回水上滝太郎賞〈三田文学賞〉(1948年)
デビュー作 『なよたけ』(1946年)
配偶者 加藤治子
親族 加藤武夫(父)、加藤幸子(姪)
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加藤 道夫(かとう みちお、1918年大正7年)10月17日 - 1953年昭和28年)12月22日)は、日本の劇作家カミュミュッセの翻訳、ジャン・ジロドゥ研究や演劇評論などでも知られ、芥川比呂志三島由紀夫矢代静一らと共に、岸田国士が発足した文学立体化運動「雲の会」の同人としても活躍したが、最後は自宅書斎で縊死自殺した[1][2]。妻は女優の加藤治子は作家の加藤幸子[3]

生涯[編集]

生い立ち[編集]

1918年(大正7年)10月17日福岡県遠賀郡戸畑町(現・北九州市戸畑区)に誕生。父は鉱床学者加藤武夫1921年(大正10年)、道夫が3歳の時に一家は東京府世田谷区若林に移住した。道夫は1925年(大正14年)に駒沢尋常高等小学校に入学し、卒業後1931年(昭和6年)に東京府立第五中学校(現・東京都立小石川中等教育学校)に入学した[4]。同級生には原田義人菊池章一がいた[4]

1937年(昭和12年)、慶應義塾大学予科に入学。担任教授は奥野信太郎であった[4]文学に興味を覚えた道夫は、同人誌などに小品を書いた。校内誌の『予科会誌』に小説「銀杏の家」を投稿し、阿部知二に推薦されたこともあり、この頃に石坂洋次郎と知り合った[4]

予科時代は演劇にも関心を持ち始め、しばしば英語劇の舞台に立ち、同期生の芥川比呂志梅田晴夫らと知り合った[4]。また、この時期、中村真一郎福永武彦白井健三郎らとも交友関係を結び、友人数名と共に北軽井沢にいる岸田国士を訪問した[4]

「新演劇研究会」結成[編集]

1940年(昭和15年)、道夫は慶應義塾大学英吉利文学科に入学した。同期には向井啓雄掛川長平などがいた[4]。同年には、仏蘭西文学科芥川比呂志の演出でシャルル・ヴィルドラックの『商船テナシティー』を原語で試演し、道夫はイドウを演じた[4]

在学中の1941年(昭和16年)、道夫は芥川比呂志、原田義人、鳴海弘(鳴海四郎)、鬼頭哲人らと研究劇団「新演劇研究会」を結成[5][4]。劇作や戯曲翻訳の執筆を始め、「十一月の夜」「ばあや」などを試作した。この頃に堀田善衛白井浩司と知り合った[4]

在学中は、学費を稼ぐため映画出版社で働いたこともあり、映画に関する評論を映画雑誌に書いた[4]。大学の授業ではエリザベス朝演劇を勉強。西脇順三郎教授、ジョン・モリスに研究上の指導を受け、内村直也とも知り合った[4]

1942年(昭和17年)に慶應義塾大学を卒業した道夫は大学院に進学し、おもにシェイクスピアベン・ジョンスンを研究した[4]。その傍ら、神田区神田三崎町(現・千代田区三崎町)のアテネ・フランセにも通い、画家山内穎吾と交友した[4]

1943年(昭和18年)には、高津赤繁からギリシャ語を学んだ[4]。この年から道夫は、最初の長編戯曲となる「なよたけ」を書き始めた(翌年春まで)[4]。この頃、ヴァレリーリルケジャン・ジロドゥクローデルなどを愛読した[4]

道夫はにも興味をもち、中村真一郎らと共によく観劇に行った[4]折口信夫の作品にも影響を受けた。また、この年には、陸軍省通訳官の試験を受けて任官した[4]

南方へ出征[編集]

1944年(昭和19年)の春、加藤道夫は処女戯曲「なよたけ」(5幕9場)を脱稿。この頃、川口一郎と知り合った[4][5]。この年、陸軍省通訳官として南方へ出征。マニラハルマヘラ島を経て、東部ニューギニアに赴任した[4]

ソロンという部落で終戦まで過ごすが、その地でマラリア栄養失調により死線をさまよった加藤は、陰鬱なジャングル野戦病院の掘立小屋の片隅で、烈しい熱病に憔悴し身を横たえていた[4][6]

死の誘いは既に間近にあった。死ぬなどと云うことは至極簡単なことの様に思われた。唯、ちょっと気をゆるめればいい。精神への意志を放棄しさえすれば、それだけで何の苦もなく死ねる、と云うことだけは僕は確信していた。事実、死ぬということ程造作のないことはなかった。毎日、何十人という人間達が、まるで自らすすんでそうするかのように、ころッころッと死んで行った。重病人達は寧ろそうなることを望んでいるのだ。……ああ、それに、あの雨、三ヶ月も四ヶ月も絶え間なく降りつづく雨、雨。

……身も心も腐りきってしまう様なあのニューギニアの雨期。……唯肉体だけを生きると云うことは耐えられぬ倦怠以外の何物でもなかった。絶望と死の影があたりを蔽いつくしていた。僕は目前に死と向い合っていた。死に対する恐怖は殆んどなかった。此処では人々は人間社会の因習から遥かに遠く隔たっていた。肉親から、家庭から、あらゆる社会の羈絆から。

— 加藤道夫「死について」[6]

1945年(昭和20年)8月の終戦と共に、終戦事務・戦犯通訳の仕事に従事した加藤は、その間に徐々に体力を回復していった[4]

帰国[編集]

1946年(昭和21年)の夏、加藤は日本に帰国した[4]。出征前に書き上げていた「なよたけ」は、雑誌『三田文学』に連載発表中(5月から10月まで)であった[4]。加藤は帰国するとすぐに、親友の芥川比呂志らとチェーホフの『熊』を上演した[4]

同年、加藤は東京女子経済専門学校(現・新渡戸文化中学校・高等学校)に奉職した[4]。また、太宰治の『新ハムレット』の脚色を試みた[4][7]。その作に演出意欲をそそられた芥川が太宰治に上演許可をもらうため、疎開先の青森県北津軽郡金木町(現・五所川原市)を夏に訪問したが、加藤の脚色は未完となり上演されなかった[7]

10月には「新演劇研究会」のメンバーであった滝浪治子(女優の加藤治子)と結婚[4]仲人は芥川比呂志・瑠璃子夫妻が務めた[3]。新婚の加藤は治子と共に世田谷区上馬に一時住んだ後、近くの若林町にある広い西洋館の実家に移り、加藤の親族と同居した[3]

1947年(昭和22年)は、マラリアが再発して病臥することが多く、貧窮して新聞・雑誌等に雑文を書いた[4]。この年に「新演劇研究会」は、劇団「麦の会」と改称して、芥川比呂志、長岡輝子荒木道子、島田安行らと共に再出発した[4][3]。この頃、島田を通じて俳優座矢代静一早稲田大学仏蘭西文学科生)と知り合い、以後親交を結んでいった[3]

同年には、東京女子経済専門学校の職を辞して、出身校の慶應義塾大学予科に奉職した[4]久保田万太郎岩田豊雄木下順二とも知り合い、評論「演劇の故郷」を雑誌『劇作』に発表した[4]

新進劇作家へ[編集]

1948年(昭和23年)は、雑誌『三田文学』に、ニューギニアでの体験を綴った回想評論「死について」などを発表。雑誌『劇作』には評論「舞台幻想(一)(二)」を連載し、評論「ジロゥドゥの世界とアヌイュの世界(オンディーヌユーリディス)」を雑誌『悲劇喜劇』(第4集)に発表。同誌第5集には、戯曲「挿話(エピソオド)」を発表した[4]

また同年には、評論「アメリカ戯曲の特徴(写実精神と詩)」を雑誌『日本演劇』に発表。新月社刊雑誌『フランス演劇』には、ジロゥドゥの『シャイヨの狂女』の抄訳を載せた[4]。しかし同年秋に肋膜炎となり、次いで肺浸潤のため、小金井桜町病院に入院した[4]

入院中の12月には、 岸田国士らにその格調ある詩劇様式を高く評価された『なよたけ』(1946年発表)により、原民喜の『夏の花』と共に第一回水上滝太郎賞(三田文学賞)を受賞し、新進劇作家として文壇に認められた[4][8]

文学座と合流[編集]

1949年(昭和24年)に桜町病院を退院した後は、自宅で療養生活を続けた。病床に伏しながら、ウィリアム・サローヤンの戯曲『君が人生の時』を翻訳し、ラジオ週評、時評などを『時事新報』に書いた[4]

同年3月には、前年発表の戯曲『挿話』が文学座により上演され、これが加藤の劇作の初上演作となった[9]。この『挿話』上演を機に「麦の会」は正月から文学座に合流し、加藤は文学座の座員となった[3][9]

同年4月から文学座付属の「演劇研究所」が開校され、加藤と芥川は岸田国士から、俳優の教育を任された[10]。加藤らが入座した当初、文学座は柄の悪い連中が多かった[10]

加藤は研究生らに、シェイクスピアの朗読を英語で聴かせ、フランス文学者の内藤濯中原中也三好達治を題材にして耳から入る日本語の美しさについて講義し、己の裡に内的世界を持つ「新しい俳優」を育てようとした[10]。加藤の演劇的理想に対する共鳴や、その人柄に惹かれた研究生たちは次第に活気を帯び、のちに「加藤道夫の神話」と言われるほど若い俳優に影響を与えていった[10]

一、俳優が芸術家ならば、詩人が常に己れの内面に詩的世界を持っている様に俳優もまた己れの意識の裡に演劇の本質に基いた厳密な言葉とヴィジオンの内的世界を持っていなければならぬ。

二、「描写」偏重を棄てよ。「描写」というものは実証的客観的知性だけで出来るごくつまらぬものだ。
三、「表現」せよ。「表現」となると強烈な主観的知性が働かなければ不可能である。新しい俳優の魅力を決定するものはこの主観的知性である。
四、芸術家が共産党員であっても一向差支えないはずだが、外的な政治意識と内的な芸術意識とは悲劇的に相容れない関係にある。

— 加藤道夫「新劇への不信」[11]

同年6月、芥川比呂志の初のプロ演出作『アンチゴーヌ』(ジャン・アヌイ原作)が上演された毎日ホールのロビーで、加藤は矢代静一から、劇作をし始めた三島由紀夫を紹介され、以後親交を結んだ[12]。矢代もこの月に俳優座を辞めて文学座の研究生となった[12]。年下の矢代や三島は加藤のことを「加藤さん」と呼び、芥川は「道ちゃん」と呼んでいたという[12]

同年9月、加藤は倉橋健と共訳したサローヤンの『我が心高原に』を文学座アトリエのために演出[4]。この作品が初のプロ演出作となった[12]。また、1幕物の「天邪鬼(あまんじゃく)」を雑誌『少年少女』に発表し、放送劇「誰も知らない歴史」を雑誌『日本演劇』に発表。評論「新劇の動向」を雑誌『再建評論』に発表した。この年には、出身校の慶應義塾大学の講師となった[4]

「雲の会」同人へ[編集]

1950年(昭和25年)4月に、サローヤン『君が人生の時』の訳書が中央公論社より刊行された。雑誌『三田文学』には、NHK放送劇「こよなき歌(La Bonne Chanson)」を発表し、雑誌『人間』には、評論「アメリカ演劇の常識性」、サルトルの戯曲『蝿』の翻訳を載せた他、『東京新聞』『毎日新聞』『テアトロ』などに「演劇時評」を執筆した[4]。また、福田恆存作の戯曲『キティ颱風』の関西公演に俳優として協力出演した[4]

同年8月には、岸田国士が「文学立体化運動」を提唱して主宰した「雲の会」の結成に、芥川比呂志三島由紀夫矢代静一らと共に参加した[2][4]。この会の発足には他に、大岡昇平小林秀雄、福田恆存などもおり、総勢63名が名を連ねた[2][注釈 1]

また夏には、信濃追分の地、長野県北佐久郡西長倉村大字追分(現・北佐久郡軽井沢町大字追分)を訪れて堀辰雄と知り合った[4]。加藤はこの年、再び健康にすぐれず自宅で病臥することが多かった[4][13]。この時期、矢代も結核を患い、同じく胸部疾患の再発をした芥川と2人共慶應義塾大学病院に入院していた[13]

同年11月、加藤は気胸療法などを試み闘病しながらも、「青年劇場」という文学座から独立した新しい劇団の構想を抱き、芥川へ喚起の手紙を出した[14]

研究生の一部は充分に新しいグループの中心たる資格あり、と思う。経済的に精神的に、一さい文学座プロパーから独立して、〈真の演劇〉の方向に向けて育て上げること。僕のやりたいこと、すべきことは之以外にない。之が許されないならば僕は止めてしまう。(中略)一切のオベッカを放棄してL’homme artiste になり給え。君がに理性を喪っている姿は見苦しい。某などと言うくだらぬ女とケンカしている君の姿はイタマしいと言うよりは、アサマしい。 — 加藤道夫「芥川比呂志への書簡」(昭和25年11月30日付)[14]

1951年(昭和26年)、1幕物「まねし小僧」を雑誌『少年少女』の発表。「雲の会」の雑誌『演劇』(白水社)にカミュの『誤解』の翻訳を載せた[4]新潮社刊の『日本現代戯曲集V』に「挿話」が収録され、書肆ユリイカから『なよたけ』が限定出版された[4]

同年6月、『なよたけ』が、約3分の1にカットされ『なよたけ抄』として東京新橋演舞場尾上菊五郎劇団、演出・岡倉士朗により縮小上演された[4][13]。大幅なカットに上演許可するかどうかを加藤は迷い、戸板康二に相談していた[13]。三島は縮小上演に同情し、腹を立てていた[13][15]

加藤が文学座に入座した動機の一つには、自身の演出による『なよたけ』の完全上演の夢があり、主人公の文麻呂に芥川比呂志、ヒロインのなよたけに加藤治子を配役し、演出助手に矢代静一が理想であった[13]。しかし彼らは文学座においては、まだ新参者であり時期尚早であった[13]。カット上演にしろ他劇団で上演すると、さらに文学座での来年上演の可能性はほぼなくなった[13]

この年は他に、評論「演劇の変貌」、「新しい芝居(一)・(二)」の連載、戯曲「思ひ出を売る男」を雑誌『演劇』に発表。NHKのため、シェイクスピアの『テンペスト』を脚色した[4]

また、中村光夫福田恆存戸板康二と共に「雲の会」刊行の単行本『演劇講座』(河出書房より全5巻)の編集に携わり、評論「フランス演劇」「シェイクスピアとジョンスン」など執筆。河出書房刊行の『現代戯曲選集 第五巻』に「なよたけ」が収録された[4]。10月は、カミュの翻訳書『カリギュラ誤解』を新潮社より刊行し、11月に文学座アトリエで『誤解』を演出した[4]

加藤は出身校である慶應義塾大学予科や、慶應義塾高等学校などで講師を務めながら、独自な文体による戯曲を発表していった。慶應高校での英語の教え子には浅利慶太などもいた[10]

1952年(昭和27年)には、堀辰雄作『曠野』を新日本放送のため脚色した。ドーデの戯曲『アルルの女』を角川書店角川文庫)より翻訳出版。人文書院刊行の『サルトル全集』には加藤訳「蝿」が収録された。また、岸田国士著『新しき演劇のために』(創元文庫版)の「解説」を担当。サルトルの戯曲『悪魔と神様』の抄訳を雑誌『芸術新潮』に載せて紹介し、雑誌『放送文化』には評論「詩劇に就いて」を発表した[4]

同年5月、文学座の求めに応じ、堀田善衛原作の『漢奸』『歯車』などより『祖国喪失』を脚色・演出した(三越劇場や関西で上演)[4]。その後は、放送劇「街の子」を雑誌『悲劇喜劇』に発表。評論「戯曲の文体について」を雑誌『文學界』に発表し、ジュヴェ評論集『聴き給へ君(エクツトモナミ)』の抄訳・紹介を『芸術新潮』に載せた[4]。また、芥川比呂志演出の『恭々しき娼婦』の関西上演に俳優として協力出演。ラジオ東京のため『思ひ出を売る男』を放送劇化した[4]

『襤褸と宝石』初日の一件[編集]

劇作と演出に活躍する一方、加藤はラジオドラマや評論、翻訳を発表。西洋演劇の精神を現代日本の舞台に生かそうとした試みは高く評価されたが、1952年(昭和27年)10月1日に俳優座により初演された文部省芸術祭委嘱作品『襤褸と宝石』(演出・千田是也)への評価は、仲間内でもあまり芳しくなかった[16][15]

『襤褸と宝石』初演の観劇後、皆で有楽町寿司屋横丁に行くことになったが、一軒の店に全員が入りきれず、路地を隔てた向い側のもう一軒の店と二手に分かれ、二階の座敷で窓を開け合っての宴となった[16][15]。主賓の加藤のいる座敷には、親しい芥川比呂志矢代静一三島由紀夫ほか若い後輩の面々が入り、加藤のいない方の座敷は、福田恆存中村光夫堀田善衛中村真一郎などの顔ぶれだった[16]。最初はお互い交歓し合っていたが、祝杯が捧げられた後、向うの窓の賑わいが次第にヒソヒソ声になっていった[16][15]

やがて、向うの障子窓が閉められ、密かに戯曲の出来を批評しているのがありありとわかる雰囲気だった[16][15]。加藤は青い顔になった[15]。気まずい空気を解きほぐそうと誰かが、「畜生、悪口を言おうと思って、障子を閉めやがったな」と言ったことが、かえって座を沈ませた[15]。冗談でおどけたりできない真面目な加藤は、眉間をぴくぴく震わせ俯いたきり、お寿司に全く手をつけずもふせたままだった[16]

矢代や芥川は親友なだけに、劇に感動したなどと空々しいことを言えず、お世辞は逆に不誠実だと思う歳頃でもあったため、戯曲の出来に触れない代わりに役者の演技を貶して元気づけようとしたが、座は盛り上がらなかった[16]。三島は向う側の障子窓が閉められた時の気まずさを次のように語っている[15]

私はこんなことになるまでは、加藤氏に今夜の初日の素直な意見も言はうと思つてゐたのであるが、この瞬間から、言へなくなつてしまつた。不幸な初日の作者の心があまりにもありありとわかつたからである。そこまで氏自身がわかつてゐるものなら、誰がそれ以上、氏の傷口に手をつつこむやうな真似をする必要があるだらうか。 — 三島由紀夫私の遍歴時代[15]

三島は、「岸輝子さんの乞食婆さんの、半間を外したセリフが面白かったね」と、戯曲の長所をいくつか拾い集めて加藤を励ましていたが、その後の渋谷スナックバー「ボン」での合同二次会でも、加藤は懸命に自分を抑えようと努力しながらも浮かない表情を隠すことができなかった[15][16]

傷心とカトリック[編集]

加藤が『襤褸と宝石』の不評をその後もかなり気にしていたことは、尾崎宏次宛ての手紙からもうかがえるが[16]、その文面で、三島の感想(東野英治郎の役の台詞がお説教みたいだったという意見)だけには納得して肯いていた[16]

『襤褸と宝石』の一件のあった1952年(昭和27年)の暮から、加藤はカトリックに関心を持ちはじめ、神父のもとに通っていた[16][17]。加藤の実兄(加藤幸子の父)も加藤に勧められて信者となった[17]。またこの年、故堀辰雄ゆかりの信濃追分の地にある「油屋旅館」の隣に小さな山荘を建て、12月からはそこで、アルフレッド・ド・ミュッセの『マリアンヌの気紛れ』の翻訳作業に取り組んだ[16]

同年には、自伝「演劇遍路」を雑誌『会館芸術』に発表。1幕物の「天国泥棒」を雑誌『文藝』に発表した。雑誌『群像』には、ビニール・ベソン『五日目』の翻訳を載せた[4]

1953年(昭和28年)11月には、『ジャン・ジロゥドゥの世界――人とその作品』を早川書房から刊行して高評価された[17]。同月には戯曲『思ひ出を売る男』(1951年)が、やっと文学座アトリエで上演された[17]。この戯曲は同年に河出書房刊行の『新撰現代戯曲 第五巻』にも収録された[4]

その後、ラジオ劇「奇妙な幕間狂言」(ラジオ東京放送)を『悲劇喜劇』に掲載。新潮社からは白井健三郎と共訳したカミュ『正義の人々』を刊行。NBCのための放送劇『泥棒と赤ん坊』を執筆し、ラジオ東京で『挿話』を放送劇化した。また、スタジオ・8・プロダクションのために『襤褸と宝石』のシナリオを執筆した[4]

突然の自殺[編集]

同年1953年(昭和28年)の12月は、16日頃までは静岡県田方郡上狩野村(現・伊豆市)の嵯峨沢温泉で、ミュッセの翻訳『マリアンヌの気紛れ』を仕上げて清書し、9日には宿から妻の治子に手紙を出した[18]

こんな贅沢な宿屋にいると毎日苦労している治坊のことを考えて心苦しい。でも、若林の家ではどうしても落着いて仕事も手につかないので、勘弁して下さい。岩波のミュッセだけはどうしても今月中に渡してしまわねばならないので。

来年は必ず小さな家をみつけて引越すから、もうすこし我慢して下さい。来年は必ずいいことがあるように努力します。身体の調子はいいです。十六日の夜には帰ります。風邪をひかないように頑張って下さい。

— 加藤道夫「加藤治子への書簡」(昭和28年12月9日付)[18]

しかし帰京した後の12月22日の夜、加藤は自宅書斎で、本棚の上段のパイプに寝巻の紐を括り付け、少し腰が床から浮いたような状態で縊死自殺した[18]。同居していた幸子によると、就寝前に加藤の部屋の前を通った時に、扉の下からオレンジ色の光が洩れていて静かだったという[18]。その夜更け、帰宅した妻の治子が加藤の死を発見した[18]。ベッドの枕元には食パン歯磨き粉があった[18]

妻の治子と芥川宛ての遺書には、「僕は幼にして罪を犯され、その記憶が、いまに忌しく、地獄の苦しみ…」という言葉も書かれてあり、遠因には、幼時期に誰かから悪戯(わいせつ行為)をされた体験があったことがうかがわれた[18][19]。加藤が自殺した日、中村真一郎原田義人矢内原伊作らが忘年会を催していたが、加藤は欠席して来なかった[18]

翌日の12月23日、訃報を聞いて三島由紀夫は加藤邸に駆けつけた。治子夫人によると、三島が心底から加藤の死を悼んでいるのが分ったという[18]。他にも、大阪にいた芥川比呂志以外の、岸田国士や矢代静一、中村真一郎、木下順二観世栄夫北見治一神山繁仲谷昇小池朝雄らが駆けつけ、この日に仮通夜があった[18]。翌日12月24日に本通夜が行われ、告別式の12月25日はであった[18]

死後・追悼[編集]

友人だった加藤について三島は、「私は何の誇張もなしに云ふが、生れてから加藤氏ほど心のきれいな人を見たことがない」と述べ[20]、「心やさしい詩人は、『理想の劇場の存在する国』へと旅立つた」と哀悼している[21]

ともあれ「なよたけ」を残して死んだ加藤道夫は、「モオヌの大将」を残して死んだアラン・フウルニエを想起させる。共に完璧な青春の遺書であり、不朽の青春の証しである。しかしフウルニエは幸ひにして戦場に死んだが、加藤氏は戦後のおぞましい現実に立ち会ひ、第二幕で、子供たちの虫類虐待のざんげをきいて放つなよたけの叫びのやうに、「まあ、むごたらしい!……そんなことをするから、後の世の人達が食べなくてもいいものまで食べるやうになつてしまふ」その「後の世」に立会ふといふ不幸を、閲しなければならなかつた。かくてこの人肉嗜食の末世は、一人の心美しい詩人を、喰べてしまつたのである。 — 三島由紀夫「加藤道夫氏のこと」[20]

同じく友人で、加藤に勧められ、その後にカトリックに傾倒した矢代静一は、加藤が死の前に鬱病ぎみになっていたとする中村真一郎の仮説を鑑みながら、以下のように語っている[17]

いまとなっては確かめるすべもないが、その病いが、彼を病的にリゴリスト(厳格主義者)に仕立てあげ、その結果として、自分にはの御許に行く資格なしと、自己判断を下してしまったのではないか。私が、加藤の死から十年ほどたって、神に向ってその目を挙げたのは、加藤がくれたあの「カトリック入門書」の中の一節が目にとまったからであった。

「自殺は最大の罪悪である」 加藤は、この一節に、わざわざ定規をあてて朱線を引いていた。

— 矢代静一「旗手たちの青春――あの頃の加藤道夫・三島由紀夫・芥川比呂志」[17]

福永武彦は、加藤の自殺に衝撃を受け、『夜の三部作』を執筆したと語っている[22]

加藤の処女作であり代表作の『なよたけ』がノーカットで完全上演されたのは加藤の死後になったからのことで、1955年(昭和30年)9月に、加藤の念願であった文学座により、大阪毎日会館で芥川比呂志の演出で行われた[13]。三島は、「彼の生前にこれを上演しなかつた劇壇といふところは、残酷なところだ」と批判しながら、もしも加藤の生前に『なよたけ』が完全上演されていれば、「彼を死から救つたかもしれない」としている[20]

芝居の仕事の悲劇は、この世でもつとも清純なけがれのない心が、一度芝居の理想へ向けられると、必ずひどい目に会ふのがオチだといふことである。(中略)

(加藤)氏があれほど上演を待ちわびた代表作「なよたけ」さえ、文学座によつて完全上演されたのは氏の死後であり、生前の氏は、いつも不安不満におびやかされながら、ジロオドオへの至純なあこがれと、宝石のやうな演劇のを、心に抱きつづけた青年であつた。

— 三島由紀夫「私の遍歴時代」[15]

加藤の死を痛惜していた岸田国士は、その2か月半後、演出作『どん底』(原作・マクシム・ゴーリキー)の舞台稽古中に脳軟化症を再発して倒れ、急逝した[18]。岸田は加藤を追悼して次のような言葉を残していた[23]

彼のやうな死に方をした作家の誰よりも、彼は、この世に残した仕事の量だけについていへば、おそらく非常に少いに違ひない。そのことはまた、一方からいへば、彼ぐらゐ未来への仕事を豊かに残して去つたものはないといへるのではあるまいか。こんなことを、私はたゞ気安めの繰り言として言つてゐるのではない。

今迄、彼と一緒に芝居の仕事をしてゐた人々の心のなかに、新劇の楽屋や稽古場の一隅でぢつと腕組みをして立つてゐる彼の物言ひたげな姿は、おそらく、長い年月の間、生きつゞけることと、私は信じる。それはどこか、予言者めいた、配役の妙を思はせる姿ですらあつた。

— 岸田国士「加藤道夫の死」[23]

おもな作品[編集]

戯曲・放送劇[編集]

  • なよたけ(三田文学 1946年5月-10月。執筆は1944年)
  • 挿話(悲劇喜劇 1948年10月)
  • 天邪鬼(少年少女 1949年)
  • 誰も知らない歴史(日本演劇 1949年)
  • こよなき歌〈La Bonne Chanson〉(三田文学 1950年)
  • まねし小僧(少年少女 1951年) - 子供狂言
  • 思ひ出を売る男(演劇 1951年10月)
  • 祖国喪失(1952年) - 堀田善衛原作を脚色。
  • 街の子(悲劇喜劇 1952年)
  • 襤褸と宝石(1952年)
  • 天国泥棒(文藝 1952年) - 現代狂言
  • 奇妙な幕間狂言(悲劇喜劇 1953年)
  • 泥棒と赤ん坊(悲劇喜劇 1953年)

エッセイ・評論[編集]

  • 演劇の故郷(劇作 1947年)
  • 死について(三田文学 1948年6月)
  • 舞台幻想(劇作 1948年)
  • ジロゥドゥの世界とアヌイュの世界(悲劇喜劇 1948年)
  • アメリカ戯曲の特徴(日本演劇 1948年)
  • 新劇の動向(再建評論 1949年11月)
  • アメリカ演劇の常識性――The Madwoman of Chaillotを読みて(人間 1950年8月)
  • ホイップル氏とサローヤン(三田文学 1950年2月)
  • 二十世紀フランス演劇概観(演劇講座 1950年)
  • 作品展望ジャン・ジロゥドゥ(演劇講座 1950年)
  • 詩人と学者(演劇講座 1950年)
  • 自然主義悲劇の再反省――「令嬢ユリエ」を観て(テアトロ 1951年2月)
  • 演劇の変貌(演劇 1951年7月)
  • 劇と詩の調和――新しい芝居・覚書2(演劇 1951年10月)
  • フランス演劇(演劇講座 1951年)
  • シェイクスピアジョンスン(演劇講座 1951年)
  • 詩劇に就いて(放送文化 1952年9月)
  • 戯曲の文体について(文學界 1952年6月)
  • ジュヴエ「聴き給へ君」(芸術新潮 1952年7月)
  • 演劇遍路(会館芸術 1952年)
  • 劇詩人の生成――ジャン・ジロウドウ序説(三田文学 1953年8月-9月)
  • 午年の作家の感想(1953年12月)

ナレーション[編集]

  • 映画『生きる』(1952年10月)の冒頭ナレーション

刊行本[編集]

自著[編集]

訳書[編集]

伝記・追悼録[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ 平敷尚子「加藤道夫」(事典 2000, pp. 474-475)
  2. ^ a b c d 「第九章 その『雲の会』」(矢代 1985, pp. 131-145)
  3. ^ a b c d e f 「第四章 その雌伏時代」(矢代 1985, pp. 51-65)
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf 加藤道夫自筆年譜」(『新文学全集 加藤道夫集』河出書房、1953年6月)
  5. ^ a b 「第一章 その戦争」(矢代 1985, pp. 20-35)
  6. ^ a b 加藤道夫「死について」(三田文学 1948年6月号)。矢代 1985, pp. 20-21
  7. ^ a b 「第三章 その出会い」(矢代 1985, pp. 36-50)
  8. ^ 鈴木晴夫「加藤道夫」(旧事典 1976, p. 88)
  9. ^ a b 「第五章 その初上演」(矢代 1985, pp. 66-81)
  10. ^ a b c d e 「第八章 その研究所」(矢代 1985, pp. 115-130)
  11. ^ 加藤道夫「新劇への不信」。矢代 1985, p. 125
  12. ^ a b c d 「第六章 その初演出」(矢代 1985, pp. 82-98)
  13. ^ a b c d e f g h i 「第十章 その病い」(矢代 1985, pp. 146-163)
  14. ^ a b 加藤道夫「芥川比呂志への書簡」(昭和25年11月30日付)。矢代 1985, p. 147
  15. ^ a b c d e f g h i j k 私の遍歴時代」(東京新聞夕刊 1963年1月10日 - 5月23日号)。32巻 2003, pp. 271-323
  16. ^ a b c d e f g h i j k l 「第十二章 その傷心」(矢代 1985, pp. 179-194)
  17. ^ a b c d e f 「第十三章 その神」(矢代 1985, pp. 195-210)
  18. ^ a b c d e f g h i j k l 「第十四章 その鎮魂」(矢代 1985, pp. 211-228)
  19. ^ 「第一章 その死」(矢代 1985, pp. 9-19)
  20. ^ a b c 「加藤道夫氏のこと」(毎日マンスリー 1955年9月号)。芸術断想 1995, pp. 226-228、28巻 2003, pp. 535-537
  21. ^ 「楽屋で書かれた演劇論――理想の劇場は死んだ」(芸術新潮 1957年1月号)。芸術断想 1995, pp. 229-233、29巻 2003, pp. 417-420
  22. ^ 福永武彦「序」(『福永武彦全集第3巻・小説3』新潮社、1987年10月)
  23. ^ a b 岸田国士加藤道夫の死」(文藝 1954年2月号)。矢代 1985, pp. 222-223

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]