浅利慶太
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あさり けいた 浅利 慶太 | |
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![]() キネマ旬報社『キネマ旬報』第355号(1964)より | |
生年月日 | 1933年3月16日 |
没年月日 | 2018年7月13日(85歳没) |
出生地 |
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死没地 |
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職業 | 演出家、実業家 |
活動期間 | 1950年代 - 2018年 |
所属劇団 | 浅利演出事務所 |
受賞 | |
紀伊國屋演劇賞 芸術選奨文部大臣賞 テアトロ演劇賞 アッビアーティ賞 経済界大賞特別賞 日本シェイクスピア賞シェイクスピア演劇賞 |
浅利 慶太(あさり けいた、1933年〈昭和8年〉3月16日 - 2018年〈平成30年〉7月13日[1])は、日本の演出家、実業家である。東京都出身。永田町小学校(現麹町小学校)[2]、慶應義塾高等学校、慶應義塾大学文学部仏文学専攻中退[3]。特選塾員。慶應義塾評議員。
劇団四季創設者の一人で、劇団の運営・管理に当たる「四季株式会社」の代表取締役社長・会長・芸術総監督をつとめた[4]。劇団四季、四季株式会社を、商業主義ミュージカル劇団としても企業としても成長させた。
来歴・人物[編集]
- 1953年7月、慶應義塾大学、東京大学の学生を中心に劇団四季を結成した[5]。主に、ジャン・アヌイやジャン・ジロドゥ等フランス文学作品を上演する。
- その後「東京田辺製薬株式会社(現在の田辺三菱製薬株式会社)」にて宣伝・広告などのアルバイトをしながら[6]、
- 劇団四季は、もともとは文化・芸術志向の良質な劇団だった。60年安保の際には、安保反対の劇団四季の学生もいて、寺山修司は「安保反対のデモに行きたいという劇団四季の学生をぶん殴って、デモへ行くな、俺の演劇こそ世界を変える」と語ったと、自身の著書で述懐している。だが浅利の右派への転向もあり、劇団四季は70年代にはミュージカルを上演する国内有数の商業主義劇団へと変化した。
- 浅利は、もともとは左翼だった。実姉と共に日本共産党員で、選挙戦や山村工作隊時代を戦ってきたが、実姉が左翼演劇人の劇団で交際していた男性と離別し自殺。浅利慶太は左翼陣営を離れた理由に姉の自殺をあげている。
- 1970年代から海外ミュージカルの翻訳上演を始め、中曽根康弘[11]や石原慎太郎[注 1]などの右派政治家との関係[注 2]を背景とした莫大な集金、集客力により、劇団四季を商業主義の企業型劇団へと成長させる。浅利は20代後半で日生劇場の取締役にも就任したが、これは異例のことであった。
- 1972年5月には、政府の中央教育審議会の委員に就任[13]。1975年の東京都知事選挙では、石原慎太郎の選挙参謀を務め、飯島清、中曽根康弘、深谷隆司とともに石原を熱心に応援した[14]。だが、石原はあえなく落選してしまう。興行面においては1983年『キャッツ』初演において日本で初めて無期限ロングラン公演を成功させた[15]。中曽根や石原のブレーンや佐藤栄作のなまりを治す家庭教師であったことや、財界人の五島昇など財界人[16]と親しい事実のほか、先述どおり政界との繋がりを利用して劇団を躍進させたことから、「政商」と批判された[17]。
- ミラノ・スカラ座での『蝶々夫人』『トゥーランドット』、ザルツブルク音楽祭での『エレクトラ』の演出や、長野オリンピック開会式の総合プロデューサーを担当。また、創立当初からのポリシーであるアヌイ、ジロドゥ作品の上演や、太平洋戦争や日中戦争を題材とした「昭和三部作」(李香蘭、異国の丘、南十字星)の上演を行っている。
- 2006年10月、政府の「教育再生会議委員」に就任。
- 2015年3月、新事務所の浅利演出事務所を設立し社長就任。劇団四季とは別に独自の演劇活動を開始[21]。第1弾公演は劇団四季でも公演した『オンディーヌ』で、劇団四季はJR東日本アートセンター自由劇場を提供し協力[21]。
家族[編集]
- 大叔父は二代目市川左團次。父は小山内薫らと築地小劇場の設立に参画し、三田英児の名で映画俳優として活躍した浅利鶴雄。鶴雄の母浅利たけの妹登美が左団次の妻で、左団次に子がなかったため慶太に左団次を継がせる話もあり、幼い頃は左団次の家にいたこともある[23]。
- 母方は江戸時代から薬種商を営む田辺家の一族で、祖父は製薬会社を経営し、戦前からサロメチールやエバクレームなどを開発・販売していた[24][25][26]。その他、叔父(田辺五兵衛の次男)に旧:東京田辺製薬元会長の田辺元三郎がいる[6]。
主な受賞歴[編集]
- 1974年・51年 紀伊國屋演劇賞
- 1976年 芸術選奨文部大臣賞
- 1984年 テアトロ演劇賞
- 1985年 アッビアーティ賞
- 1986年 経済界大賞特別賞
- 1993年 日本シェイクスピア賞シェイクスピア演劇賞
テレビ出演番組[編集]
著作・評伝[編集]
- 『浅利慶太の四季』慶應義塾大学出版会 全4巻、1999年
- 浅利慶太『時の光の中で 劇団四季主宰者の戦後史』文藝春秋、2004年/文春文庫、2009年
- 浅利慶太『劇団四季メソッド「美しい日本語の話し方」』文春新書、2013年
- 梅津齊『浅利慶太-叛逆と正統 劇団四季をつくった男』日之出出版、2020年
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ “浅利慶太さん死去、入院先から最後まで演出を指示”. 日刊スポーツ (2018年7月19日). 2020年7月26日閲覧。
- ^ 『昭和の歴史三部作』公演プログラム 2005年
- ^ 浅利慶太に聞く「劇団四季の半世紀」
- ^ “劇団四季の浅利慶太氏が81歳社長退任”. 日刊スポーツ (2014年6月26日). 2015年4月17日閲覧。
- ^ a b “四季の浅利慶太社長が退任 劇団での演出は継続”. 共同通信. 47NEWS. (2014年6月25日) 2014年6月26日閲覧。
- ^ a b 『一橋ビジネスレビュー』第52巻、p.117(東洋経済新報社、2004年)
- ^ 『財界』第29巻、第14~20号(財界研究所、1981年)p.87
- ^ 『週刊東洋経済』第 5081~5085号、1992年、p.88
- ^ 『新世紀』第187~189号、2000年、p.30
- ^ 越路吹雪後援会長は、佐藤栄作夫人の寛子が就いた。
- ^ “中曽根元首相、日米首脳会談で浅利さんから助言「局面で助けて頂いた」”. SANSPO.COM(サンスポ) (2018年7月19日). 2020年2月12日閲覧。
- ^ “佐藤栄作首相「新聞記者は出ていけ」発言の真相 浅利氏、「責任の半分は私に・・・」と明かしていた”. J-CASTニュース (2018年7月18日). 2020年1月22日閲覧。
- ^ 「有吉氏らが委員に 新中教審の18氏決る」『朝日新聞』昭和47年(1972年)5月30日夕刊、3版、3面
- ^ http://blogos.com/article/49255/
- ^ 『朝日年鑑』1984年版、p.394
- ^ 対談集『決断 そのとき企業トップは何を考えたか』にも詳しい。文春ネスコ、1985年(月刊文藝春秋に連載)。
- ^ 紺野一彦『劇団四季の謎』(ベストブック、2003年)
- ^ 大笹吉雄『戦後演劇を撃つ』p.198(中央公論新社、2001年)
- ^ 『中央公論』第115巻、第4~5号、2000年、p.317
- ^ 文藝春秋「私のはこう読んだ」
- ^ a b “劇団四季の浅利慶太さんが独自の活動”. 日刊スポーツ (2015年3月7日). 2015年4月17日閲覧。
- ^ “演出家の浅利慶太さんが死去 85歳 劇団四季創立メンバー”. Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2018年7月18日) 2018年7月18日閲覧。
- ^ 小谷野敦『谷崎潤一郎伝 堂々たる人生』p.154(中央公論社、2006年)
- ^ 田辺五兵衛コトバンク
- ^ 田邊五兵衞 (男性)『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 『時の光の中で』浅利慶太、文春文庫、2009年1月10日、p260
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 浅利演出事務所公式サイト
- 浅利慶太プロデュース (@asariproduce) - Twitter
- 浅利慶太 - NHK人物録