円谷幸吉

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円谷 幸吉 Portal:陸上競技
Kōkichi Tsuburaya 1964.jpg
選手情報
フルネーム つぶらや こうきち
ラテン文字 TSUBURAYA Kokichi
国籍 日本の旗 日本
競技 陸上競技
種目 長距離走
生年月日 (1940-05-13) 1940年5月13日
出身地 福島県岩瀬郡須賀川町
(現・須賀川市
没年月日 (1968-01-09) 1968年1月9日(27歳没)
死没地 東京都練馬区大泉学園町
マラソン 2時間16分22秒
獲得メダル
陸上競技
1964 マラソン
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円谷 幸吉(つぶらや こうきち、本名:つむらや こうきち[1][注 1]1940年昭和15年)5月13日 - 1968年(昭和43年)1月9日)は日本の元陸上競技長距離走マラソン)選手、陸上自衛官

福島県岩瀬郡須賀川町(現・須賀川市)出身。自衛隊体育学校所属。最終階級は2等陸尉中央大学経済学部卒。第一級防衛功労章、勲六等瑞宝章受章[2]

生涯[編集]

1940年昭和15年)5月13日福島県岩瀬郡須賀川町に生まれる。

須賀川市立第一中学校を経て福島県立須賀川高等学校卒業後、1959年(昭和34年)、陸上自衛隊へ入隊。郡山駐屯地に配属となり、同僚と二人で郡山自衛隊陸上部を立ち上げる。次第に陸上競技の実績が認められ、自衛隊の管区対抗駅伝や、青森東京駅伝などに出場した。一方、オーバーワークから腰椎カリエスを持病として抱え、後年悩まされるようになる。

東京オリンピックへの道[編集]

1962年(昭和37年)に、東京オリンピックに備えて前年発足した自衛隊体育学校がオリンピック候補育成のため、特別課程の隊員を募集した際には腰痛のため選考会に出られなかった。そのため、選考委員は円谷の持病の悪化を考え、円谷の選考に躊躇したが、同年開催された毎日駅伝のオール自衛隊チームでマネージャーだった畠野洋夫の推薦を受け、体育学校への入校が決定する。

体育学校入校当初は腰痛が治らず、満足に走れなかった。しかし畠野と同じく陸上班の教官だった澤田幸作が根気よく指導し治療を続けた結果、レースに復帰する(畠野はマネージャーであり、円谷の実際のコーチングは澤田が行っていたといわれている。澤田は駅伝オール自衛隊チームのコーチを務め、陸上班の教官兼、1962年の日本競歩選手権50km競歩で2位のアスリートであった[3])。円谷は10月の日本選手権で5000mに日本歴代2位の記録を出し、日本陸連からオリンピック強化指定選手に選ばれる。

翌年の1963年(昭和38年)8月には20000mで2位ながら世界記録を更新。10月の競技会では好記録を連発して10000mのオリンピック代表選手に選ばれた。この段階では円谷はトラックと駅伝の選手と見られており、マラソンは未経験だった。しかし、日本陸上競技連盟の強化本部長だった織田幹雄は円谷のスピードに着目してマラソンを走ることを勧めた[4]

東京オリンピック開催年の1964年(昭和39年)に、同年3月20日の中日マラソンで初マラソンに挑戦。2時間23分31秒で5位となる。それからわずか約3週間後の4月12日、オリンピックの最終選考会となる毎日マラソン(現在のびわ湖毎日マラソンの前身。このときは東京オリンピック本番と同じコースで実施)に出場、2時間18分20.2秒で君原健二に次ぐ2位となり、マラソンでもオリンピック代表となる。

なお、オリンピック本番までのマラソン経験3回は、戦後の男子マラソン代表では森下広一(2回)に次ぐ少ない記録であるが、初マラソンからオリンピック本番までの期間は森下が1年半あったのに対し、円谷は7か月(正確には7か月と1日)でこれは戦後では最短記録である[注 2]

東京五輪で栄光の銅メダル[編集]

東京五輪本番では、まず陸上競技初日に行われた男子10000mに出場する。

マラソン選手として日本代表に選出された円谷であったが、10000mへの出場は円谷本人が希望し、陸上総監督の織田幹雄が承認しての出場だったといわれている[5]。当初代表とされていたのは、同年7月の日本選手権で優勝し、オリンピック標準記録も突破した土谷和夫日本大学)だったが、急遽円谷にエントリーが変更。結果的に土谷はオリンピック代表でありながら、10000mは出場できず、マラソンも補欠に甘んじた。一方、円谷は10000mで6位入賞と健闘。これは日本男子の陸上トラック競技では戦後初の入賞であった。最終日に行われる男子マラソンについては、日本人では君原と当時持ちタイムが一番良かった寺沢徹の二人がメダル候補、と目されており、円谷は経験の少なさのためあまり注目はされていなかった。

しかし、男子マラソン本番ではその君原と寺沢がメダル・入賞(当時五輪入賞は6位まで)争いから脱落する中、円谷だけが上位にとどまり、ゴールの国立競技場に2位で戻ってくる。だが、後ろに迫っていたイギリスベイジル・ヒートリーにトラックで追い抜かれた。これについては、「男は後ろを振り向いてはいけない」との父親の戒めを愚直なまでに守り通したがゆえ、トラック上での駆け引きができなかったことが一因として考えられている。とはいえ、自己ベストの2時間16分22.8秒(結果的に生涯記録となる)で3位となり、銅メダルを獲得した[6][7]。これは東京五輪で日本が陸上競技において獲得した唯一のメダルとなり、さらに男子10000mと合わせて2種目入賞も果たして「日本陸上界を救った」とまで言われた。また銅メダルではあったものの、国立競技場で日の丸が掲揚されたのは、メダルを獲得した日本選手では円谷のみであった。

メダル獲得時、円谷は中央大学経済学部(夜間部)の学生でもあった。中央大学は師事した村社講平の母校で、箱根駅伝6連覇達成の記録継続中であった。箱根駅伝に出場することは、自衛隊体育学校との二重登録などの壁のために実現しなかった。

東京オリンピック後の円谷[編集]

東京オリンピックでのマラソン競技終了後のインタビューで、円谷は次のオリンピックではアベベに勝つ、すなわち銅メダル以上の成績を国民に約束する。円谷は後年たびたびメキシコオリンピックへの抱負を語っており、この「国民との約束」は真面目で几帳面な円谷の双肩にプレッシャーとしてのしかかることになる。

東京オリンピック後、一躍国民的英雄となった円谷は、各種の公式行事に引っ張りだこになる。1964年末から年始にかけては日本陸連の要請で南米に遠征し親善競技に参加するなど、忙しい日々を送る。

1965年5月以降、自衛隊の実業団登録と中央大学との学生登録の二重登録問題が露呈し、大会に出場できなくなる。7月、吉池自衛隊体育学校長や陸上競技関係者の尽力により二重登録問題は早期に解決され、自衛隊選手の実業団登録として大会参加していくことが決まる。二重登録問題解決後、競技に復帰するが、北海タイムスマラソンで途中棄権するなど、1965年は目立った成績を残せなかった。

1966年、円谷は久留米の幹部候補生学校に入学する。かねてから円谷は自衛隊幹部、体育学校の教官となることを希望しており、幹部候補生学校への入学は必須課程であった。しかし幹部候補生学校の課程スケジュールは厳しく、マラソンの練習時間は著しく削られることになる。

最初の縁談破談[編集]

円谷は幹部候補生学校に在学中、郡山自衛隊時代に知り合った女性との結婚を希望し、畠野教官に相談する。

女性は円谷より一歳年下で、円谷が19歳で郡山自衛隊に入隊した際に知り合い、円谷が一目惚れ。体育学校時代に文通し交際に発展した。ただ、東京オリンピック後、円谷の父・幸七の依頼により、体育学校関係者・円谷本人との間で、メキシコオリンピックまでは結婚をせず競技に専念する約束が交わされていた。そのため、教官の畠野は幸七を説得し、吉池体育学校長と体育学校課長に報告した。しかし、吉池校長はそれまで円谷の結婚について畠野から何の報告も受けていなかったうえ、前出のメキシコオリンピックまで結婚させないという円谷家との約束もあったため、円谷家、吉池校長、畠野、女性側との間で1966年6月7日に話合いの場がもたれた。

吉池校長は当初は結婚をメキシコオリンピック後まで延期するよう主張したが、話合いの最後には結婚を了承する。縁談が了承されたことで、円谷は幹部候補生学校卒業後の1966年末に挙式の日程で縁談の準備を進めるが、結果的に縁談は破談する。女性は後年、一方的に挙式の日程を決めるなど、縁談に前のめりになる円谷家との温度差を感じていたこと、そもそも円谷に好意を持っておらず、円谷から遠征先などから送られてきた贈り物も、その都度返送していたことを証言している[8]

手術と円谷の恋[編集]

東京オリンピック終了後、円谷には多くのファンレターが届くようになっており、ファンレターがきっかけで円谷は中央大学の同級生の妹と交際している。

1967年、前年に幹部候補生学校を卒業した円谷は、森川竹雄・新体育学校長のもと、翌年に迫ったメキシコオリンピックを目指し競技に集中するが、持病の腰痛の悪化や足の故障で満足に成績が残せなくなる。実業団の合宿や体育学校でのトレーニング中にアキレス腱を一部断裂し、8月には持病の椎間板ヘルニアと両足アキレス腱を手術、3ヶ月の入院を余儀なくされる。

入院中、円谷は世話役として派出婦会から派遣された女性と出会う。3ヶ月間付きっきりで身の回りを世話してくれる彼女と円谷は恋に落ち、結婚を誓い合う仲となった。退院後、円谷は女性のためにアパートを借り、彼女と半同棲の生活を送る。円谷は年末の帰省時には彼女のことを家族に話すつもりでいたという。

一方で、当時の円谷にはもう一人結婚を誓いあった女性がいた。母校・須賀川高校の4年後輩で、ファンレターがきっかけで交際を開始。既に両家の間でも結婚は諒解されていた。円谷自殺直前の年末年始には、兄の円谷敏雄が式場を予約する正式な縁談であった。[9]

ライバルのプレッシャーと国民との約束[編集]

手術後、再起をはかる円谷は別府駐屯地の療養所で療養も兼ね、トレーニングに励んだが、かつての銅メダルに輝いた走りを取り戻すことはできなかった。さらに、福岡国際マラソンで2時間10分を切り当時の世界新記録を樹立したクレイトン佐々木精一郎澤木啓祐など新たな強豪の出現も円谷にプレッシャーを与えた。円谷は手術前から長兄の敏雄や前教官の畠野洋夫には、もう一流の走りは無理であるとの手紙を送ったり、手術後には体育学校の関係者に弱音を吐いている。体育学校に在籍していた三宅義信をはじめ、周囲の関係者は円谷に選手を諦め、体育学校の教官(コーチ)になることを勧めていたという。1967年末には下田で合宿を行うが、まともに走ることはできず同僚のサポートに務める。この頃、「今後は後任の教育をやっていこう」との旨を前教官の畠野への手紙に記している。

メキシコオリンピックへのプレッシャーに苛まれる円谷には、全国のファンからメキシコへの期待や激励に満ちた手紙が送られてきていたという。メキシコオリンピック代表選出への最終予選が迫る中、走れなくなった現実、アベベに勝つという国民との約束や期待の狭間で円谷は苦しむことになる。

自殺[編集]

メキシコシティ五輪の開催年となった1968年(昭和43年)の、年明け間もない1月9日に、円谷は自衛隊体育学校宿舎の自室にてカミソリ頚動脈を切って自殺した。27歳没。戒名は「最勝院功誉是真幸吉居士」。

「父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました」から始まり、「幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」で結ばれている遺書にしたためた家族達への感謝と、特に

幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません

の言葉は、当時の世間に衝撃を与え、また円谷の関係者ら多くの涙を誘った。さらに、同年のメキシコシティ五輪男子マラソンで銀メダルを獲得、当時最後のマラソン代表枠を円谷と争っていた君原も、大きなショックを受けたという。

川端康成は、円谷の遺書について、「相手ごと食べものごとに繰りかへされる〈美味しゆうございました〉といふ、ありきたりの言葉が、じつに純ないのちを生きてゐる。そして、遺書全文の韻律をなしてゐる。美しくて、まことで、かなしいひびきだ」と語り、「千万言も尽くせぬ哀切である」と評した(「一草一花――『伊豆の踊子』の作者」の「十一」、『風景』1968年3月号初出)[10]。当時の関係者からは「ノイローゼによる発作的自殺」「選手生命が終わったにもかかわらず指導者に転向できなかった円谷自身の力不足が原因」など様々な憶測が語られたが、三島由紀夫は『円谷二尉の自刃』の中でこれらの無責任な発言を「円谷選手の死のやうな崇高な死を、ノイローゼなどといふ言葉で片付けたり、敗北と規定したりする、生きてゐる人間の思ひ上がりの醜さは許しがたい。それは傷つきやすい、雄々しい、美しい自尊心による自殺であつた」[11] と斬り捨て、最後に、「そして今では、地上の人間が何をほざかうが、円谷選手は、“青空と雲”だけに属してゐるのである」[11] と締めくくった。また、沢木耕太郎は「円谷の遺書には、(円谷が)幼いころ聞いたまじないや不気味な呪文のような響きがある」と述べている(『敗れざる者たち』所収「長距離ランナーの遺書」)。

円谷と接した人は口を揃えて、まじめで責任感が強く礼儀正しい好青年だったと評する。人一倍の努力家であり、責任感も強かった[12]。円谷の部屋だけは、ふとんの畳みぐあい、掃除、整頓と、他の選手の部屋とは比較にならぬほどキチンとしており、合宿の際は他の選手の衣服までキチンと畳むほどであったという。その性格はしばしば自らの不成績を責めるというかたちになって現れ、それを克服するためにオーバーワークを招きがちだったことが、自殺という悲劇につながったとする見方も強い(当時の日本陸上界は技術論より精神論を至上とすることがまだまだ多く、本人の意思にかかわらず過度の練習を美徳とする関係者の慣習もあった上、メンタル面でのサポートやケアなどは考えられていなかった)。

また沢木耕太郎は上記の自著の中で、1968年の正月に帰郷した際にかつての元婚約者が別の男性と結婚した事実を知ったことも、円谷が自殺に至った直接の引き金になったのではないか、という推論を述べている。しかし、当時の円谷は結婚を誓いあった派出婦の女性と半同棲の生活を送り、一方では母校の後輩とは式場まで予約するほど縁談が進行しており、元婚約者の結婚にショックを受けたという沢木耕太郎の推論には疑問が残る。円谷の自殺の原因については現在に至るまで様々議論されている。

また後年、ピンク・ピクルスにより円谷の苦悩を描いた曲「一人の道」が発表された。

円谷幸吉の自殺は日本のスポーツ史に最大級の痛恨事として記されている。円谷の悲劇の後、日本オリンピック委員会や一部競技統括団体では、オリンピック出場選手などのアスリートに対するメンタルサポートやメンタルヘルスケアが実施されるようになっているが、これは円谷の自殺が契機となった苦い教訓の産物でもある。

没後[編集]

出身地の須賀川市では、業績を偲んで毎年「円谷幸吉メモリアルマラソン」が開催されている。また、実家には幸吉の没後に家族の手で開設された「円谷幸吉記念館」があったが、遺族の高齢化により、2006年(平成18年)6月に展示品を市に寄贈したのち秋に閉館した。その後、市によって市営須賀川アリーナに展示コーナーが設置され、同年10月のメモリアルマラソン開催記念の特別展示を経て、2007年(平成19年)1月7日より「円谷幸吉メモリアルホール」として正式に公開された。

2020年3月12日郡山市で行われた東京五輪マラソン代表選手らの記者会見を前に、選手関係者らによる墓参が行われた[13]

須賀川市は2021年に、同郷の円谷英二とともに円谷幸吉に「名誉市民」号を贈ることを決め[14]、同年7月7日に授与式が実施された[15]

競技成績[編集]

陸上自衛隊[編集]

・高良山登山走…18分9秒(2020年現在も破られていない日本記録。参加する自衛隊員の合格基準記録は男性で約30分、女性で約35分)

マラソン[編集]

  • 自己最高記録…2時間16分22秒8(1964年10月・東京オリンピックコース)
年月 大会名 タイム 順位 備考
1964年3月20日 中日マラソン 2:23:31 5位
1964年4月12日 毎日マラソン 2:18:20.2 2位 東京五輪のコースで開催、東京五輪代表選考会
1964年8月 タイムスマラソン 2:19:50 2位
1964年10月21日 東京オリンピック 2:16:22.8 3位 同五輪で陸上競技日本代表選手唯一のメダル獲得
1965年8月 タイムスマラソン 記録無し 途中棄権 28km付近でリタイア
1967年3月 水戸マラソン 2:23:37 9位

トラック・ロード種目[編集]

成績
日付 大会 種目 記録 順位 備考
1960年10月25日 国体 5000m 15分8秒6 5位
1961年10月9日 国体 5000m 14分24秒2 1位 予選
1961年10月10日 国体 5000m 14分58秒8 2位 決勝
1961年 全日本 5000m 14分59秒6 6位
1962年7月13日 アジア大会最終予選 5000m 14分28秒6 2位
1962年8月11日 勤労者大会 5000m 14分48秒2 2位
1962年10月7日 一般対学生 5000m 14分36秒2 2位
1962年10月12日 全日本 5000m 14分20秒8 優勝
1962年10月14日 全日本 10000m 29分59秒0 優勝
1962年10月23日 国体 5000m 14分22秒8 優勝
1963年4月27日 東日本実業団 5000m 14分39秒4 3位
1963年4月28日 東日本実業団 1500m 3分58秒9 2位
1963年5月10日 東京選手権 5000m 14分39秒4 3位
1963年5月12日 東京選手権 10000m 30分5秒8 2位
1963年6月1日 全日本実業団 5000m 14分29秒6 2位
1963年6月2日 全日本実業団 10000m 29分38秒0 2位
1963年7月7日 一般対学生 10000m 30分49秒2 優勝
1963年8月24日 ニュージーランド記録会 20000m 59分51秒4 2位 世界新記録
1963年8月24日 ニュージーランド記録会 1時間走 20081m 2位 世界新記録
1963年9月15日 シドニー国際大会 10000m 29分25秒2 優勝
1963年10月13日 東京プレ五輪 5000m 14分14秒0 5位 日本新記録
1963年10月15日 東京プレ五輪 10000m 29分45秒8 4位
1963年10月19日 国際親善試合 5000m 14分13秒8 優勝 日本新記録
1963年10月28日 国体 5000m 14分8秒8 優勝 日本新記録
1963年11月10日 五輪候補記録会 10000m 29分13秒8 3位
1964年4月25日 東日本実業団 20000m 62分37秒2 優勝
1964年5月23日 全日本実業団 5000m 14分25秒8 6位
1964年6月7日 国体 5000m 14分2秒2 優勝 日本新記録
1964年8月20日 五輪候補記録会 10000m 29分19秒2
1964年8月27日 五輪候補記録会 10000m 28分52秒6 1位 日本新記録
1964年10月15日 東京オリンピック 10000m 28分59秒4 6位 入賞
1965年8月14日 関東選手権 5000m 14分33秒4 優勝
1965年10月2日 埼玉選手権 5000m 14分23秒8 優勝
1965年10月2日 埼玉選手権 10000m 30分28秒4 優勝
1965年10月29日 国体 10000m 29分27秒0 2位
1966年5月 久留米記録会 5000m 14分54秒0
1967年3月5日 青梅マラソン 30 km 1時間37分50秒0 2位
1967年4月22日 東日本実業団 20000m 63分42秒4 4位
1967年5月4日 埼玉選手権 5000m 14分24秒8 優勝
1967年5月4日 埼玉選手権 10000m 29分48秒8 優勝
1967年5月27日 全日本実業団 5000m 14分36秒0 6位
1967年5月28日 全日本実業団 10000m 29分54秒4

関連書籍[編集]

  • 『敗れざる者たち』(沢木耕太郎(著)、文藝春秋、1976/6、ISBN 9784163335605)※「長距離ランナーの遺書」を収録。後に文春文庫版も刊行(1979/9、ISBN 9784167209025)。
  • 『もう走れません 円谷幸吉の栄光と死』(長岡民男(著)、講談社、1977/12)
  • 『栄光と孤独の彼方へ 円谷幸吉物語』(青山一郎(著)、ベースボールマガジン社、1980/3)
  • 栄光なき天才たち 5 (ヤングジャンプ・コミックス) 円谷幸吉&アベベ・ビキラ』(森田信吾(イラスト)、集英社、1989/5、ISBN 978-4088614779
  • 『栄光なき天才たち 3 (集英社文庫コミック版) 円谷&アベベ編』(伊藤智義(著)、森田信吾(イラスト)、集英社、1997/7、ISBN 978-4086170949
  • 『オリンピックに奪われた命 円谷幸吉、三十年目の新証言 (小学館文庫)』(橋本克彦(著)、小学館、1999/5、ISBN 978-4094033410
  • 『栄光なき天才たち マラソン 円谷&アベベ編 (SHUEISYA HOME REMIX)』(伊藤智義(著)、森田信吾(イラスト)、ホーム社、2007/11、コンビニコミックISBN 978-4834242744
  • 『孤高のランナー 円谷幸吉物語』(青山一郎(著)、ベースボールマガジン社、2008/8、『栄光と孤独の彼方へ』の復刻版、ISBN 978-4583101057
  • 『円谷幸吉を救ったトレーニング 東京五輪秘話とわが陸上競技人生』(澤田幸作、文藝春秋企画出版部、2021/2)

円谷幸吉を扱った作品[編集]

小説[編集]

演劇[編集]

エッセイ[編集]

  • 『円谷幸吉を救ったトレーニング 東京五輪秘話とわが陸上競技人生』 - (澤田幸作(著)、文藝春秋企画出版部、2021/2、ISBN 978-4-16-008990-7)

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 日本陸連の登録名や日常では「つぶらや」を使用していた(東京オリンピック時の電光掲示板に「TSUBURAYA」と表示されている)。この点は同郷でもある円谷英二と同じである。
  2. ^ 女子マラソン代表では、1992年バルセロナオリンピックの代表となった小鴨由水が、本番までのマラソン1回、初マラソンからの期間6か月と6日という記録を残している。

出典[編集]

  1. ^ 沢木耕太郎『敗れざる者たち』(文春文庫、1979年)p.106
  2. ^ 20世紀日本人名事典
  3. ^ 澤田幸作『円谷幸吉を救ったトレーニング 東京五輪秘話とわが陸上競技人生』文藝春秋企画出版部、2021年
  4. ^ 日本陸上競技連盟七十年史編集委員会『日本陸上競技連盟七十年史』ベースボール・マガジン社、1995年、402頁
  5. ^ 『陸上競技マガジン』ベースボール・マガジン社 、1965年 1月号、p.47
  6. ^ 夢と感動と愛を与えた日本陸上界の偉人5人”. 【SPAIA】スパイア (2016年7月23日). 2020年11月17日閲覧。
  7. ^ 1964年ニュースハイライト(1964年(昭和39年)12月30日) (YouTube配信). (2021年9月18日). 該当時間: 28m27s. https://www.youtube.com/watch?v=wexFEwjNHkU&t=28m27s 2021年10月18日閲覧。 
  8. ^ 『中日新聞』1995年4月5日 朝刊
  9. ^ 『もう走れません―円谷幸吉の栄光と死』長岡民男 講談社、1977年 p.11-12
  10. ^ 川端康成「一草一花――『伊豆の踊子』の作者」(風景 1967年5月号-1968年11月号に連載)内。
  11. ^ a b 三島由紀夫「円谷二尉の自刃」(産経新聞 1968年1月13日に掲載)。『蘭陵王』(新潮社、1971年)、『決定版 三島由紀夫全集第34巻・評論9』(新潮社、2003年)に所収。
  12. ^ 中山恵『スーパスターに学ぶバスケットボール』株式会社ナツメ社、2003年、42ページ、ISBN 4-8163-3437-8
  13. ^ 「天国から力を」マラソン代表らが円谷さんの墓参り”. 日刊スポーツ (2020年3月12日). 2020年3月12日閲覧。
  14. ^ “「二人の円谷」須賀川の名誉市民に 幸吉選手と英二監督”. 河北新報. (2021年4月7日). https://kahoku.news/articles/20210407khn000023.html 2021年5月1日閲覧。 
  15. ^ “「2人の円谷」に名誉市民賞 「特撮の神様」円谷英二監督と五輪銅メダル円谷幸吉選手 福島県須賀市”. 福島民報. (2021年7月8日). https://www.minpo.jp/news/moredetail/2021070888234 2021年7月8日閲覧。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]