死刑執行人

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1617年フランスでの斬首刑を行う死刑執行人

死刑執行人(しけいしっこうにん、: Executioner)は、裁判によって死刑が確定した犯罪者に対して死刑を執行する者のこと。通称「処刑人」とも呼ばれている。また、封建的な意味として犯罪者を処刑する高位の裁判官の名称として用いられる場合や、殺し屋を示す比喩として用いられる場合もある。

ここでは法律の定める手続きによって公務として死刑を執行する人物について記述する。

概説[編集]

死刑執行人は裁判所の死刑判決などを受けて死刑執行を行う者(通常は公務員の一種)である。執行する刑罰は死刑だけでなく鞭打ち刑などの身体刑が行われている国では身体刑の執行も行う。

ここで述べている死刑執行人は国から明確に死刑執行人に任命された人物であり、日本の刑務官のように附随業務の一部として死刑執行も行う公務員は含んでいない。アメリカドイツなどでは完全な公務員であるが、フランスでは公務員というよりも外部委託業者のような形態に近かった。

死刑執行は毎日あるわけではなく近代になるほど件数は減少し、1年以上も全く死刑執行の仕事が無いことも珍しくない。そのため、ヨーロッパの死刑執行人は普段は副業を行っており、アメリカなどは死刑執行人が副業、あるいは付随業務の一つであることが多い。

ヨーロッパにおける死刑執行人は世襲制によって受け継がれてきた。ヨーロッパの大半の国で国家の設立から近年の死刑制度の廃止まで政治体制に関係なく世襲が続いていることがほとんどである。これはヨーロッパにおける死刑執行人が一種の被差別民として扱われ、就業や婚姻において強い差別を受け、特定の一族以外が死刑執行人に就くのを妨げていたことによる。ドイツやフランスのように政治体制が何度も激変している国ですら、世襲制で特定の一族が数百年に亘って継承している。

ヨーロッパの死刑執行人は死刑を宣告した立場の人間を後に死刑執行する事例が歴史上相次いでおり、ロベスピエールからナチス戦犯まで歴史上何度も繰り返されてきた。死刑執行人が政治的な闘争で死刑になった事例は皆無であり、政治闘争に負けた人間を処刑する立場でありながら、政治においては不可侵民的な立場にいて、「死刑を宣告する為政者は変われど執行する処刑人は変わらず」という状態が続いていた。

アメリカなどの新興国では世襲すべき一族がいないため、世襲は行われず保安官助手などの一部が兼任で死刑執行人に任命される。このため、アメリカの歴代の死刑執行人は全員が全くの他人である。

世界各国[編集]

日本[編集]

日本では江戸時代の死刑執行人の一族、山田浅右衛門の世襲が明治まで続いていたが、明治以降は刑務官が公務の一部として行い、特定の死刑執行人を任命しない制度が現在まで続いている。

イギリス[編集]

イギリスにおける死刑執行人の起源は、死刑囚に死刑を延期免除する代わりに他の死刑囚の死刑を行わせたことが始まりだといわれている。後に、死刑囚による死刑ではなく公民による死刑が導入され、一般人から死刑執行人が募集されるようになった。毎週5通の希望の手紙が届くといわれ、死刑執行人への就職は意外と倍率は高かったらしい。

そのため、イギリスの死刑執行人はフランスやドイツなどと異なり、世襲はほとんどない。親の後を継いで死刑執行人になったのはグレゴリー・ブランドンリチャード・ブランドンヘンリー・ピエレポイントアルバート・ピエレポイントの2例しかない。3代続いた事例はイギリスの歴史上皆無である(ジョン・エリスアーサー・エリスは他人である)。

イギリスの死刑執行人の報酬は歩合制で、1回の死刑執行ごとに報酬と旅費が支払われていた。副収入として絞首刑に使用した縄を売っていたが、後に禁止されている。

イギリスでは1747年4月9日の第11代ロヴァート卿サイモン・フレーザー(Simon Fraser, 11th Lord Lovat)を最後に斬首刑が廃止され、近代になってからは死刑の方法は絞首刑のみとなっている。そのため、イギリスの死刑執行人はハングマン(首吊り人)の別名で呼ばれている。

年は死刑執行人として職務についていた期間

カナダ[編集]

カナダでは基本的にイギリスと同じ制度を採用している。死刑の方法は絞首刑のみで、死刑執行人は首吊り人(ハングマン)と呼ばれていた。

カナダでは“アーサー・エリス”が死刑執行人の代名詞となっているが、実際にはアーサー・エリスという人物は実在せず、複数の死刑執行人がアーサー・エリスの偽名を名乗っていただけである。名前の由来はイギリスの有名な死刑執行人であるジョン・エリスにあやかっている。

カナダ推理作家協会の年間賞であるアーサー・エリス賞は、この死刑執行人の名前に由来している。

シンガポール[編集]

シンガポールではイギリス連邦の一国としてイギリス式の絞首刑による死刑執行が行われている。シンガポールの死刑件数は世界的にも多く、死刑執行人は多忙である。過去に、シンガポールで死刑を行うのにマレーシアから死刑執行人を呼んだことがある。

マレーシア[編集]

ニュージーランド[編集]

アメリカ[編集]

電気椅子による死刑執行を行う電気技術者を「州の電気技術者(State electricians)」と呼んでいた。専任ではなく保安官助手などと兼務だった。アメリカで公式に死刑執行人がいるのは電気椅子だけで絞首刑、ガス室薬殺などに死刑執行人はおらず日本と同様に刑務官が行っている。

ニューヨーク州
エドウィン・デーヴィス (Edwin Davis) 1891–?
ジョン・フルバート (John Hulbert) 1913–1926
ロバート・エリオット (Robert Elliott) 1926–1939
ジョセフ・フランセル (Joseph Francel) 1939–1953
ダウ・ホバー (Dow Hover) 1953–1963
サウスカロライナ州
サム・キャノン (Sam Cannon)
アーカンソー州
ジョージ・マリドン (George Maledon)

フランス[編集]

フランス語では死刑執行人のことを「Bourreau」(ブロー)と呼んでいる。シャルル=アンリ・サンソンの請願によりフランスの死刑執行人の正式名称は1787年1月12日に「Exécuteur de Jugements Criminels」(エグゼキュトゥル・ド・ジュジュマン・クリミネル)、日本語に訳すと「有罪判決の執行者」と改名され、「Bourreau」と呼ぶことが法的に禁止された。しかし、一般的にフランス語では死刑執行人と言えば現在でも「Bourreau」で通用しており、正式名称は公文書などでしか使用されていないのが実情である。

フランス革命物の『ダルタニャン物語』『アン・ブーリン』など物語に登場することもあり、その場合は「首切り役人」と日本語訳されていることが多い。

首都であるパリの処刑人はムッシュ・ド・パリ(Monsieur de Paris)の称号で呼ばれ、フランス全土に160人いる死刑執行人の頭領になっていた。1870年11月以降は死刑執行人がフランス全土で1人になり、ムッシュ・ド・パリは事実上、死刑執行人の称号となった。

フランスの死刑執行人は社会的にも経済的にも恵まれていなかった。サンソン家は医師としての副業でそれなりに資産を築いていたが、経済的に困窮したことも多かった。社会的にも偏見と侮蔑の目で見られ、決して名誉とされることはなかった。経済的には政府から給金をもらっていたが十分な額とは言えず、結局のところ、シャルル・サンソン・ド・ロンヴァルからマルセル・シュヴァリエまで300年余り、副業をして生計を支えていた。

特に第二次世界大戦後の死刑執行人は貧しく、まともな職業には就けないで普段は工場の工員などをしていた。アンドレ・オブレヒトなどは年間の死刑執行が19人にもなった年など、副業であった工場労働者としての休暇を使いきってしまい、法務省の役人に頼んで会社経営者を説得してもらったが、結局は会社を辞めてまで死刑を執行したという逸話があるほどである。

フランスではギロチンが導入される以前の死刑には絞首刑斬首刑火炙りの刑車裂きの刑八つ裂きの刑が存在していた。死刑執行人はこれらの刑罰全てに熟知していることを要求された。また、死刑執行人は鞭打ち刑など処刑以外の公開刑の執行も行っていた。

フランスでは制度上、何時誰が誰を死刑執行したのか全ての記録が公開されている。死刑執行人の氏名は一般公開されているため、中世時代からマスメディアの標的とされてきた。第二次世界大戦の直前まで公開処刑だったこともあり、死刑執行人の絵や写真がマスメディアに載ることも多い。特にムッシュ・ド・パリは全員がマスコミになんらかの取材を受けた記録がある。プライバシーの観念が薄かった時代には、家系図から履歴書までマスコミでさらし者にされたこともあった。このため、死刑執行人の家族や親族が自殺した事例も多い。

組織[編集]

フランスの死刑執行人は同業者組合のような組織を構成しておりフランス全土の死刑執行人とその死刑執行人助手が加盟していて、ムッシュ・ド・パリが組織の代表者だった。 死刑執行人は一般人から忌避されていたため結婚はこの組合の中で行われていた。 一般の学校に通うことが出来ない死刑執行人の子供達への教育機関としての役目も持っていて、その教育水準は当時の一般的な学校を上回るほどで、フランス語とラテン語の読み書き、法学、医学、剣術にまで及んでいた。 この組織は厚生年金のような物も持っていて引退した死刑執行人やその未亡人の面倒をみていた。

特に組織として明確になったのはサンソン家の時代になってからであった。 サンソン回想録によると、賃金値上げを求めた団体交渉などを行っていたとの記録がある。 死刑執行人の人員削減に伴い、この組織も縮小され廃止されていった。

業務[編集]

近代における死刑執行人が行うべき業務の一例を以下に示す。

仕事の無い通常はギロチンの保管と維持管理が死刑執行人の仕事であった。

死刑執行人は裁判所から死刑執行の命令を受けると、指定された場所へギロチンを搬入して組み立てることから始まる。5人も助手が必要だったのは、ギロチンという大きな機材を搬入し組み立てるためという部分が大きい。公開処刑だった時代には、ギロチンだけでなく見物人との境目となる柵やギロチンを載せる台まで、かなりの資材を搬入して組み立てる必要があった。サンソンの時代には、当日に刑務所から囚人を搬送するのも仕事の一つだった。後に非公開になると、刑務所内で実施されたため、これは刑務官の仕事になった。死刑執行が終わると遺体の埋葬にまで立会い、使用したギロチンを洗浄し再び分解して搬出した。これが終わると証明書を発行して、法務省に諸経費の支払請求をした。

フランスの死刑執行人は、公務員というよりも実質的には外部委託業者のような形態だったと考えられる。死刑執行を行うギロチンは死刑執行人の私有財産であり、公共財産ではなかった。死刑執行人は国から給金を貰っていたが、手当てや公務員としての福利厚生などは一切なく、ギロチンのメンテナンス費用や輸送費用などはそのつど死刑執行人が法務省に経費の支払いを要求している形態であった。アナトール・デイブレルの手記によると、この経費を水増し請求することで、死刑執行人はささやかな収入を得ていたと言う。また、公務員ではないので副業を禁止されておらず、死刑執行がない時は全員がなんらかの副業についていた。

報酬[編集]

1721年に給料制に変更される以前は、ドロア・ド・アヴァージュという特権を行使し、年収6万リーブルとも言われるかなり高所得を得ていた。しかし、この独自徴税は頻繁にトラブルを起こし、1721年に処刑人が徴税を行う権利が剥奪され、年間1万6千リーヴルの給料制に制度変更された。これは大幅な収入減少であったが、この当時の死刑執行人であるサンソン家は医師としての副業で高額所得を得ていたため、なんとか生計を支えていた。フランス革命で大量の死刑執行が行われるようになると、6万リーブルにまで増額された。

しかし、ルイ18世の時代になると死刑執行人の人員削減が進み、報酬は減額に減額を重ねられるようになった。それでも死刑執行人は他の職業へ転職することが出来ないため、貧困に耐えながらでも仕事を続けたという。戦後には年間6万フランの固定給になったが、インフレに直面しても値上げされず、戦後の死刑執行人は実質上、子供の小遣いも同然の給料で仕事を続ける羽目になっていた。

歴史[編集]

アルジェリア(フランス領アルジェリア)[編集]

フランスの植民地だったアルジェリアフランス領アルジェリア)の死刑執行人はメイソニエ家が代々世襲で受け継いできた。メイソニエ家の人間は代々フランス国籍の白人であり、アルジェリア人ではない。アンリ・ロシュアンドレ・ベルジェニコラ・ロシュは親戚でありメイソニエ家と血縁関係にある。

彼らは法制度上はフランスの死刑執行人であり、フランスと同じくギロチンを使用していた。1961年にアルジェリアがフランスから独立するに伴って失職した。

アンリ・ロシュ (1928-1944)
アンドレ・ベルジェ (1944-1956)
モーリス・メイソニエ (1956-1947)
フェルナン・メイソニエ (1947-1961)

ドイツ[編集]

ドイツの死刑執行人はマイスター(親方)と呼ばれ、ニュルンベルクの死刑執行人はニュルンベルク・マイスターと呼ばれていた。死刑執行人の職業は世襲制で受け継がれていることが多い。収入はそれなりに高く、大勢の助手を抱えていたと言う。ライヒハート家は8代にわたり世襲で受け継いでいる。ドイツの死刑は中世時代までは斬首首吊り火刑車裂きの刑など罪状と身分によって多種多様な死刑が行われていた。1803年になるとフランス式の方法に習い、ギロチンのみとなった。

ドイツの死刑執行件数が歴史上最多を極めたのはナチス政権時代で、多忙な死刑執行人は1人で3,000人を超える死刑を執行している。第二次世界大戦が始まると死刑執行人が足りなくなり大幅増員されている。ナチス政権時代には、裁判の判決記録が公式に残っている死刑執行だけでも1万人を超えている。ナチス・ドイツに併合された国での死刑執行まで含めると、6万人が死刑になったと言われている。この反省により、ドイツでは比較的早い時期に死刑制度が廃止されている。

ザクセン王国[編集]

オーストリア[編集]

  • 1919年に死刑を廃止するまでは絞首刑がおこなわれていた。
  • 1933年~1945年にかけて死刑制度が復活し、ギロチンによる死刑が行われていた。
  • 1945年にはギロチンが廃止され絞首刑が復活。
  • 1950年6月30日に再び死刑が廃止され、2008年現在まで死刑廃止国である。

フランスのサンソン家のように250年以上にわたってシュロッテンバッハー家が死刑執行人を務めていたが、ナポレオン戦争におけるリュネヴィルの和約で戦争が小康状態になると、多数の人間が戦争責任により処刑された。その処刑に怒り狂ったヨハン・ゲオルク・ホフマン1世に焼き討ちにあい、最後の家長であるカール・シュロッテンバッハーを初めとする一家全員が虐殺によって絶えた。後任には、焼き討ちしたヨハン・ゲオルク・ホフマン1世本人が処刑されるか処刑人になるかの二択を迫られて、死刑執行人の職について3代にわたって世襲している。 オーストリアがドイツに併合されるとヨハン・ラングはナチスによって収容所送りになり、オーストリアの死刑執行はドイツの死刑執行人が行うようになった。 第二次世界大戦後に新しい死刑制度が始まると新たに死刑執行人が任命されたが、その名前や素性は公表されていない。イギリスからアルバート・ピエレポイントが派遣されて新しい死刑執行人達を教育したと自伝に書き残されているが、アルバート・ピエレポイントの弟子達がどのような人物だったかの具体的な記述は無い。

シュロッテンバッハー家(Schrottenbacher) 1550-1802 ウィーンの死刑執行人
ヨハン・ゲオルク・ホフマン1世 1802-1827 ウィーンの死刑執行人
ヨハン・ゲオルク・ホフマン2世 1839-1865 ウィーンの死刑執行人
ヨハン・ゲオルク・ホフマン3世 1865-1874 ウィーンの死刑執行人
カール・セリンジャー 1862-1899 ウィーンの死刑執行人
ヨーゼフ・ラング 1900-1918 ウィーンの死刑執行人
ヨハン・ラング 1933-1938 ウィーンの死刑執行人

ポーランド[編集]

第二次大戦後にはワルシャワに2人の専任の死刑執行人が居たとされているが氏名など非公開であった。

スイス[編集]

スイスでは中世時代から剣による斬首刑が行われていた。1835年にギロチンが導入され、剣による斬首かギロチンによる斬首かを死刑囚が選択できる制度になった。一般人では1940年10月18日にハンス・フォーレンヴァイダーにギロチンによる最後の死刑が執行された。1942年1月に一般人に対する死刑は廃止されたが、軍法上の死刑は存続した。軍人では第二次世界大戦中に30人が死刑判決を受けた。軍法による死刑も1992年3月20日に正式に廃止になった。

Bernhard Schlegel -1374 (バーゼル)
François Tabazan] -1624 (ジュネーヴ)
バルツァー・メンギス(Baltzer Mengis) -1652 (ルツェルン)
クリストフ・メンギス(Christoph Mengis) - 1653 (シュヴィーツ)
クリストフ2世・メンギス(Christoph II. Mengis) 1653-1681 (シュヴィーツ)
ヨハネス・メンギス(Johannes Mengis) 1681-1695 (シュヴィーツ)
バルタサール・メンギス(Balthasar Mengis) 1695-1723 (シュヴィーツ)
Vollmar family 1695- (サンガール)
 ? Deigentesch -1716 (フリブール)
ベルンハルト・メンギス(Bernhard Mengis) 1723- (シュヴィーツ)
 ? Mengis - 1779 (シュヴィーツ)
 ? Vollmer -1782 (グラールス)
Johann Melchior Grossholz -1815 (シュヴィーツ)
 ? Vollmer 19世紀から20世紀にかけて(チューリッヒ)
Augustin Grossholz 1815-1826 (シュヴィーツ)
Franz Grossholz 1822- (ツーク)
Joseph Pickel 1826-1829 (シュヴィーツ)
Oswald Schlumpf 1829-1830 (シュヴィーツ)
Franz Xaver Schmid 1830-1855 (シュヴィーツ、ツークとグラールス)
テオドール・メンギス 1839-1918 (ベルンラインフェルデン)
Johann Bettenmann 1855-1857 (シュヴィーツとサンガール)

チェコ[編集]

スウェーデン[編集]

斬首刑用の斧を持った中世スウェーデンの死刑執行人

スウェーデンでは死刑執行人を民間から募集していた。1900年まで斧による斬首刑が行われていた。公開処刑は1876年を最後に廃止されている。フランスやドイツに倣い、ギロチンを導入したが、ギロチンで死刑が執行されたのはストックホルムで執行されたヨハン・アルフレッド・アンデ1人だけで、これがスウェーデンで最後の死刑執行となったため、最初で最後のギロチンの犠牲者となった。

デンマーク[編集]

ノルウェー[編集]

1851年の公務員給与等級表、死刑執行人は最も低い16等級で給与は32ノルウェーターラーである

ノルウェーの死刑執行人は正規の公務員として月給を貰っていた。その給与は公務員としては最も低かった。

スペイン[編集]

スペインの死刑執行は鉄環絞首刑w:es:Garrote vil)と呼ばれる、スペイン独自の絞首刑で行われていた。 その残酷な執行方法は映画『サルバドールの朝』で詳細に再現されている。フランシスコ・フランコによる独裁政府になってから公開処刑は廃止され、関係者5人の立会いで執行されている。

死刑囚のかなりの人数がETAの関係者であり、ETAが仲間の死刑執行の報復として1973年12月にルイス・カレロ・ブランコ首相を暗殺するなど大きな社会問題が起きている。警察幹部から首相まで暗殺されているにもかかわらず、なぜか死刑執行人が報復テロの対象になることはなく、全員が天寿をまっとうしている。

1974年3月2日に2人に対して2箇所で死刑が執行されたのが最後の死刑執行である。1978年に新憲法が承認され、立憲君主制に移行すると同時に死刑制度が廃止された。

イタリア[編集]

メラーノ[編集]

  • 1748-1772 マルティン・プッツァー(Martin Putzer)
  • 1772-1777 バルトロメウス・プッツァー(Bartholomeus Putzer)
  • 1777-1787 フランツ・ミヒャエル・プッツァー(Franz Michael Putzer)

ナポリ[編集]

教皇領[編集]

サウジアラビア[編集]

世襲制で先祖代々死刑執行人を受け継いでいる。サウジアラビアでは神聖な職業であるとの思想が強く、欧米のように忌み嫌われていない。報酬も高く、処刑人の仕事だけで豊かな暮らしが出来るほどである。現代でも厳格なイスラム法に基づき、剣による斬首刑、銃殺刑、クレーンで吊るす絞首刑など多用な処刑方法を公開処刑でおこなっている唯一の国である。また、死刑だけでなく、鞭打ちや手足の切断刑などの身体刑も執行している。

死刑執行はモスクの近くにある首切り広場と呼ばれる白いタイルが敷き詰められた場所で金曜日の礼拝(サラート)の後に執行される[1]。 サウジアラビアでは公開処刑されるときに被害者遺族が呼ばれる。ディーヤと呼ばれるイスラーム法の制度に基づき最後の最後まで死刑囚を許すかどうか死刑執行人が遺族に問い続ける。この時に遺族が許した場合は減刑され死刑執行が中止される。 サウジアラビアにおいて死刑執行人が神聖な職業であると考えられる理由には、最後の減刑特権を有する存在であることも大きい。実際に公開処刑が中止され減刑された事例も多い。

インド[編集]

インドの死刑執行人はカーストの底辺層の職業の一つであり、カースト制度によって世襲が保証されているため、全員が先祖代々の死刑執行人である。イギリス式の絞首刑が行われ、各州ごとに1人ずつ死刑執行人が居る。インドでは1980年代から減少し、1995年から死刑執行停止が続いていたが、2004年に再開されてから増加傾向にある。

架空の死刑執行人[編集]

ヨーロッパの作品には死刑執行人が登場する作品が数多くある。日本語訳される時に「首切り役人」の訳語が当てられることが多い。

登場作品 時代、国 氏名
トゥーランドット  いつとも知れない伝説時代の北京 プー・ティン・パオ(Pu-Tin-Pao)
サロメ (戯曲) ユダヤ属州 ナーマン(Namaan)
ダルタニャン物語二十年後 中世フランス リールの首切り役人
赤い靴 (童話) 不明 カーレンの両足首を切断する首切り役人
不思議の国のアリス 夢の世界 ハートの女王の家来の首切り役人
スティール・ボール・ラン ネアポリス王国  ジャイロ・ツェペリ
千夜一夜物語 中世のイスラム世界 御佩刀持ちマスルール

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

リファレンス[編集]

  1. ^ 「BSワールドドキュメンタリー イスラムの新しい風」で首切り広場が取材された。