藤原岩市

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藤原 岩市
Fujiwara Iwaichi.jpg
生誕 1908年3月1日
日本の旗 日本 兵庫県
死没 (1986-02-24) 1986年2月24日(満77歳没)
所属組織 War flag of the Imperial Japanese Army.svg 大日本帝国陸軍
Flag of the Japan Self-Defense Forces.svg 陸上自衛隊
軍歴 1931 - 1945(日本陸軍)
1955 - 1966(陸自)
最終階級 帝國陸軍の階級―襟章―中佐.svg 陸軍中佐(日本陸軍)
JGSDF Lieutenant General insignia (a).svg 陸将(陸自)
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藤原 岩市(ふじわら いわいち、1908年(明治41年)3月1日 - 1986年(昭和61年)2月24日)は、日本陸軍軍人陸上自衛官F機関を成功させた人物として有名。

経歴[編集]

藤原為蔵の二男として兵庫県多可郡津万村(現在の西脇市)に生まれる。柏原中学校を卒業し、陸軍予科士官学校を経て、1931年7月、陸軍士官学校(43期)を卒業、同年10月、陸軍少尉任官、歩兵第37連隊付となった。天津駐屯歩兵隊付、豊橋陸軍教導学校付などを経て、1938年5月、陸軍大学校(50期)を卒業。歩兵第37連隊中隊長、第21軍参謀、留守第1師団司令部付を歴任。

戦中[編集]

藤原はもともとは情報畑の人間ではなかった。1939年服部卓四郎によって中国から呼ばれて参謀本部入りし、作戦参謀となる予定だったが、当時藤原がチフスを患っていたことで、そのころは皇族も在籍していた作戦課ではまずいということになった。それで謀略・宣伝を担当する別の課(第8課)に配属されることになったという。

陸軍中野学校の教官も兼務しながら、任務の性格について勉強していたが、南方作戦の実施が参謀本部の中で本決まりになってくると、8課では現地における宣伝戦について調査企画することを藤原に命じ、藤原は嘱託の民間人十数名を集めて調査研究を開始した。日本における現地情報の不足に直面した藤原は、自ら偽装身分で現地に入って情報と資料を集めた。また、民間の作家、記者、芸術家などを進軍先に連れて行って思想戦に資することを提案し、認められた。(いわゆる報道班員である。)

右の、立って両手を後ろに回しているのが藤原。机の上に両腕を置いてイギリス側を睨んでいるのが山下奉文将軍。

1941年10月、駐バンコク大使館武官室勤務として開戦に先駆けて当地に入った藤原は、南方軍参謀を兼ねる特務機関の長として、心理戦を行った。若干十名程度、増強を受けても三十人ぐらいの部下だけで、藤原はかなり幅広い任務を与えられた。その内容は、極端に言えば、マレー人、インド人、華僑等を味方にすることである。その一環としてマレーシア出身の日本人である谷豊を諜報要員として起用したのもF機関であった。谷は死後、「マレーのハリマオ」として日本で英雄視されることになる。

F機関と藤原の最も大きな功績は、インド国民軍の創設である。当時タイに潜伏していた亡命インド人のグループと接触して、彼らを仲介役として藤原は英印軍兵士の懐柔を図った。藤原は、降伏したインド人兵士をイギリスやオーストラリアの兵士たちから切り離して集め、通訳を通して彼等の民族心に訴える演説を行った。この演説は(日本についての歴史的評価がどうであれ)インド史の一つのトピックである(w:The Farrer Park address)。インド国民軍は最終的に5万人規模の大集団となった。

期待以上に大きくなったインド国民軍は、一少佐の手に余るものであり、F機関を発展解消して岩畔豪雄を長とする岩畔機関を作った。岩畔は中国における工作活動の経験豊かな人物だったが、インド事情には精通していなかった(それは藤原も同じだったが)。日本軍とインド国民軍の間で、またインド国民軍の内部で、トラブルが頻発し、インド国民軍のトップを誰にするかで大問題となった。彼らをまとめられる人物としてインド人の推挙に従いスバス・チャンドラ・ボースを呼び寄せることになるが、藤原は解任されて怒るモハン・シンを宥めなければならなかった。両軍とも大小さまざまなトラブルに悩まされつつ終戦まで一緒にやっていくことになるが、藤原は、後年、自分が岩畔の幕僚として残ればもっとインド人たちとうまくやっていけたかもしれないと後悔している。

スマトラ島での同種の活動の後、藤原はビルマ方面軍の参謀を経て内地でも参謀業務を行っている。

戦後[編集]

終戦時、藤原は九州の病院に入院していたが、そこに偶然、チャンドラ・ボースの飛行機事故で負傷した軍人が転院してきて、彼の死亡を知った。藤原は衝撃を受けたという。

やがてGHQ経由でイギリスの出頭命令を受け、1945年11月、インドまで赴く。そこではインド国民軍に参加したインド人将校たちを反逆罪で裁く裁判が行われており、その証人として呼び出されたのだった。しかしインドでは独立を求めてインド人たちの行動が活発化しており、この裁判に抗議する十万人規模のデモが繰り広げられ、軍艦を占拠されたりするような状況で、結局この裁判はうやむやのままに打ち切りとされた。

その後は藤原を戦犯とする裁判が始まった。1946年3月、ラングーン経由でシンガポールはチャンギーの刑務所に送られ、尋問を受けた。その尋問はとても厳しいものだったという。幸いにも、有罪とはされなかった。この後、さらにクアラルンプールで別のイギリス軍組織から、すなわちイギリス軍情報部から、F機関とインド国民軍結成について取調べを受けた。尋問官は藤原の功績をglorious success(輝かしい成功)と評価し、自身経験もなく、人員も不十分なのにもかかわらずそれを成しえた理由を聞きたがった。藤原自身その理由はよくわからなかったが、とにかく自分は誠意を持って彼らに接したんだということと、イギリスの統治に無慈悲なところがあったからではないか、と考えながら説明したという。

1947年6月、日本に戻った藤原は復員局の戦史部に在籍した後、公職追放を経て[1]1955年10月、陸上自衛隊に入隊した。1956年8月、希望して陸上自衛隊調査学校の校長に就任し、自衛隊情報部門の育成に努める。その後、第12師団長第1師団長を歴任した後、1966年1月、依願退職。藤原はまだ制服を脱ぐ前から東南アジア諸国について個人的に活動を行っていたが、退職して自由になると各地を訪問して現地の要人と関係を深めた。インドネシア情勢について、スカルノ失脚不可避の見通しを外務省より先に政界に伝えたといわれる。

インドネシア独立の英雄でもあるスカルノ大統領は、その在職が長期化するとともに、当初の清廉さを失い汚職にまみれ、盟友だったハッタ副大統領まで諫言辞任した。1965年9月に起きた親中国派によるクーデター事件(いわゆる9月30日事件)後も米国はスカルノ続投支持の方針であったが、藤原岩市は中島慎三郎らとともにスカルノを排し、1966年(昭和41年)のスハルト政権誕生に力を尽くした。

藤原と三島由紀夫の関係について、山本舜勝は、三島のクーデター計画に藤原も関わっていたと著書で書いているが、その信憑性は不明。藤原は田中清玄に紹介されて三島と知り合い、自衛隊各所への紹介を行ったのは事実のようである。

1971年第9回参議院議員通常選挙自由民主党公認で全国区から立候補するが落選した。

1978年4月29日勲三等瑞宝章受章[2]

1980年9月:全国戦友会連合会会長に就任した。

1986年2月24日:逝去、叙・従四位[3]

逸話[編集]

市川宗明の取材に対し、藤原は「自衛隊に中野学校はない。ないというより、出来ないといったほうが適当でしょう。第一、自衛隊はまだ軍隊ではないのです。中野学校では女房ももらわない、命もいらない、カネもいらない、ただ国家の捨石になろう、というのでしたが、そんなこと、いまではできませんよ」と語っている[4]

ビルマ方面軍の参謀として1944年のインパール作戦に参加中、藤原の下に第15軍司令官の牟田口廉也中将が「作戦の失敗の責任を取って、腹を切って陛下や死んだ将兵にお詫びしたい」と相談してきた。これに対し藤原は「昔から死ぬ、死ぬといった人に死んだためしがありません。 司令官から私は切腹するからと相談を持ちかけられたら、幕僚としての責任上、 一応形式的にも止めないわけには参りません、司令官としての責任を、真実感じておられるなら、黙って腹を切って下さい。誰も邪魔したり止めたり致しません。心置きなく腹を切って下さい。今回の作戦(失敗)はそれだけの価値があります」と答え、牟田口は悄然としたが自決することはなかった[5]

1952年、インパール作戦の非難に耐えきれなくなった牟田口は、藤原の自宅を来訪し助言を求めにきたという。藤原は「武運が軍に背を向けた悲運は無念ですが、矢張りこの責任は閣下に負っていただなかなければなりません。敗軍の将は兵を語らずと申します。閣下は生涯黙して語らずに、只管自責の悟道に徹してください。そして麾下戦没将兵の冥福を只管に祈念精行してください」と訴えた。

数ヶ月後、藤原の前に現れた牟田口は「自分の立場を表明もせずに世を去ることは、後世の史家を誤らせる」と主張してきた。藤原は隠忍自重を求めたが、牟田口は納得しなかった。そこで藤原は思い切って、あくまで研究資料として回想録を執筆し、30年間公表しないことを前提に国会図書館に納めてはどうか、と提案したという。

1962年秋、第12師団を在勤していた藤原のもとに、牟田口から一通の封書が届いた。封書には、バーカー元イギリス軍中佐のインパール作戦成功の可能性に言及した来信が同封されていた。この頃を境に牟田口は自己弁護活動を行うようになり、藤原は失望と悲しい思いになったという。自身を取り戻した牟田口は、藤原に自衛隊幹部の前で講演する機会を設けてくれと要請してきた。藤原は即座に断った[6]

家族親族[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 公職追放の該当事項は「陸軍中佐」。(総理庁官房監査課編 『公職追放に関する覚書該当者名簿』 日比谷政経会、1949年60頁。NDLJP:1276156 
  2. ^ 官報号外第34号(昭和53年5月2日)
  3. ^ 官報本紙第17731号(昭和61年3月24日)
  4. ^ 週刊サンケイ 臨時増刊号 陸軍中野学校破壊殺傷教程(60頁)1973年
  5. ^ 高木俊朗『抗命―インパール 2』(277-278頁)文藝春秋、1976年
  6. ^ 藤原岩市『留魂録』(204-207頁)1986年

著書[編集]

  • F機関(1966年、原書房)
  • 杉田一次との共著『スイスの国防と日本』(1971年、時事通信社)
  • 留魂録(1986年、振学出版)
  • F機関‐アジア解放を夢みた特務機関長の手記(2012年6月29日、バジリコISBN 978-4862381897