コンテンツにスキップ

豊竹山城少掾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
豊竹山城少掾(入江泰吉撮影)

豊竹 山城少掾(とよたけ やましろの しょうじょう、1878年明治11年〉12月15日 - 1967年昭和42年〉4月22日)は、義太夫節太夫。本名は金杉 弥太郎(かねすぎ やたろう)[1][2]。近代の文楽を代表する太夫の一人とされる[2]

来歴

[編集]

東京浅草に生まれる[1][2]。幼少時には歌舞伎の舞台に立ち、その後、義太夫節の修業に入った[2]1889年(明治22年)に大阪へ出て2代目竹本津太夫に師事し、竹本津葉芽太夫を名乗った[1][2]1909年(明治42年)、二代目豊竹古靱太夫を襲名した[1][2]

昭和初期には、竹本津太夫、竹本土佐太夫とともに文楽界の三巨頭と称された[2]1942年(昭和17年)には文楽座の櫓下となり[2]1943年(昭和18年)には帝国芸術院賞を受賞した[2]1946年(昭和21年)10月、芸術院会員となった[1]1947年(昭和22年)3月には秩父宮家から掾位を受け、豊竹山城少掾藤原重房を名乗った[1]

1955年(昭和30年)2月、重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)となった[1]1959年(昭和34年)1月に引退し[1]1960年(昭和35年)には文化功労者となった[2]1964年(昭和39年)には勲三等旭日中綬章を受けた[2]1967年(昭和42年)4月22日に死去した[1][2]

芸風

[編集]
豊竹山城少掾の墓

4代目鶴澤清六とは名コンビとして知られる[1]。その語り口は理知的かつ写実的で、「山城風」と呼ばれた[2]。代表演目としては、『一谷嫩軍記』「熊谷陣屋」、『摂州合邦辻』「合邦庵室」、『艶容女舞衣』「酒屋」のほか、『二月堂』や『道明寺』などが挙げられる[2]

門人

[編集]

門人には、八代目竹本綱大夫、四代目竹本津太夫、初代豊竹咲太夫らがいる[3][4][5]

著書

[編集]
  • 『山城少掾聞書』豊竹山城少掾述、茶谷半次郎編、和敬書店、1949年[6]
  • 『十人百話 第7』「文楽十話」毎日新聞社 1965
  • 『私の履歴書 文化人 10』日本経済新聞社 1984

関連書籍

[編集]
  • 渡辺保『昭和の名人豊竹山城少掾 : 魂をゆさぶる浄瑠璃』新潮社、1993年
  • 藤田洋編『豊竹山城少掾覚書』(演芸資料選書9)日本芸術文化振興会、2010年[7]

脚注

[編集]
  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 菅原伝授手習鑑”. 文化デジタルライブラリー. 日本芸術文化振興会. 2026年4月10日閲覧。
  2. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 豊竹山城少掾”. コトバンク. 2026年4月10日閲覧。
  3. 竹本綱大夫”. コトバンク. 2026年4月10日閲覧。
  4. 竹本津太夫”. コトバンク. 2026年4月10日閲覧。
  5. 初代 豊竹 咲太夫 芸歴 (PDF). 人形浄瑠璃文楽座. 2026年4月10日閲覧。
  6. 山城少掾聞書”. 国立国会図書館サーチ. 2026年4月10日閲覧。
  7. 豊竹山城少掾覚書”. 国立国会図書館サーチ. 2026年4月10日閲覧。