豊竹山城少掾
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豊竹 山城少掾(とよたけ やましろの しょうじょう、1878年〈明治11年〉12月15日 - 1967年〈昭和42年〉4月22日)は、義太夫節の太夫。本名は金杉 弥太郎(かねすぎ やたろう)[1][2]。近代の文楽を代表する太夫の一人とされる[2]。
来歴
[編集]東京浅草に生まれる[1][2]。幼少時には歌舞伎の舞台に立ち、その後、義太夫節の修業に入った[2]。1889年(明治22年)に大阪へ出て2代目竹本津太夫に師事し、竹本津葉芽太夫を名乗った[1][2]。1909年(明治42年)、二代目豊竹古靱太夫を襲名した[1][2]。
昭和初期には、竹本津太夫、竹本土佐太夫とともに文楽界の三巨頭と称された[2]。1942年(昭和17年)には文楽座の櫓下となり[2]、1943年(昭和18年)には帝国芸術院賞を受賞した[2]。1946年(昭和21年)10月、芸術院会員となった[1]。1947年(昭和22年)3月には秩父宮家から掾位を受け、豊竹山城少掾藤原重房を名乗った[1]。
1955年(昭和30年)2月、重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)となった[1]。1959年(昭和34年)1月に引退し[1]、1960年(昭和35年)には文化功労者となった[2]。1964年(昭和39年)には勲三等旭日中綬章を受けた[2]。1967年(昭和42年)4月22日に死去した[1][2]。
芸風
[編集]
4代目鶴澤清六とは名コンビとして知られる[1]。その語り口は理知的かつ写実的で、「山城風」と呼ばれた[2]。代表演目としては、『一谷嫩軍記』「熊谷陣屋」、『摂州合邦辻』「合邦庵室」、『艶容女舞衣』「酒屋」のほか、『二月堂』や『道明寺』などが挙げられる[2]。
門人
[編集]著書
[編集]- 『山城少掾聞書』豊竹山城少掾述、茶谷半次郎編、和敬書店、1949年[6]
- 『十人百話 第7』「文楽十話」毎日新聞社 1965
- 『私の履歴書 文化人 10』日本経済新聞社 1984
関連書籍
[編集]脚注
[編集]- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 “菅原伝授手習鑑”. 文化デジタルライブラリー. 日本芸術文化振興会. 2026年4月10日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 “豊竹山城少掾”. コトバンク. 2026年4月10日閲覧。
- ↑ “竹本綱大夫”. コトバンク. 2026年4月10日閲覧。
- ↑ “竹本津太夫”. コトバンク. 2026年4月10日閲覧。
- ↑ “初代 豊竹 咲太夫 芸歴” (PDF). 人形浄瑠璃文楽座. 2026年4月10日閲覧。
- ↑ “山城少掾聞書”. 国立国会図書館サーチ. 2026年4月10日閲覧。
- ↑ “豊竹山城少掾覚書”. 国立国会図書館サーチ. 2026年4月10日閲覧。