槇文彦

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槇 文彦
Fumihiko Maki 2010.jpg
人物情報
国籍 日本の旗 日本
生誕 1928年9月6日(86歳)
東京都
母校 慶應義塾大学予科中退
東京大学工学部学士
ハーバード大学大学院修士
所属組織 槇総合計画事務所
業績
建築物 ヒルサイドテラス
前沢ガーデンハウス
スパイラル
幕張メッセ
東京体育館
受賞 日本建築学会賞(1962、84年)
プリツカー賞(1993年)
UIAゴールドメダル(1993年)
村野藤吾賞(2000年)
高松宮殿下記念世界文化賞(1999年)
日本建築学会賞大賞(2001年)
AIAゴールドメダル(2011年)

槇 文彦(まき ふみひこ、1928年昭和3年)9月6日 - )は、日本建築家一級建築士)。モダニズム建築の作品や幕張メッセなどのメタリックな作品で知られる。

来歴・人物[編集]

2010年3月3日マサチューセッツ工科大学教授石井裕(中央)、槇総合計画事務所副所長亀本ゲイリー(右)と

東京都出身。母方の祖父は竹中工務店の会長を務めた竹中藤右衛門。1941年昭和16年)慶應義塾幼稚舎卒業、慶應義塾普通部を経て慶應義塾大学予科を中退し、建築学科のある東京大学工学部建築学科に入り、1952年卒業。丹下健三の研究室で外務省庁舎のコンペを担当した後、アメリカ合衆国に留学し、クランブルク美術学院およびハーバード大学大学院建築修士課程修了。1954年に、スキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリル、翌1955年には、セルト・ジャクソン建築設計事務所に勤務。その後はワシントン大学 (セントルイス)とハーバード大学で都市デザインを講じた。1965年に槇総合計画事務所を設立。1979年 - 1989年に東京大学教授を務めた。

ハーバード大学時代にホセ・ルイ・セルトスタジオで学んでいたこともある。

ヒルサイドテラスは旧山手通り沿いで数次にかけて実施したプロジェクトであるが、10m軒線を守り、用途地域が変わった第六期では、10m以上の部分をセットバックさせている。

家族[編集]

受賞[編集]

作品[編集]

建築作品[編集]

主な作品・外観画像

進行中のプロジェクト[編集]

構想・都市計画[編集]

  • 新宿副都心ターミナル再開発(大高正人・ミド設計研究所と) 1960年
  • サンフランシスコ再開発競技設計案 1961年
  • 堂島再開発計画 1961年
  • ローゼンバーグ部庭園計画・ボストン 1966年
  • 後楽園総合開発計画 1967年-1968年
  • 立正大学熊谷キャンパス総合計画 1965年-1967年
  • 環境整備計画(大阪府高石市) 1967年
  • 羽衣駅周辺都市改造事業計画(大阪府高石市) 1968年
  • 百草団地センター 1968年-1969年
  • ウィーン国際会議場・国連事務機構都市国際設計競技応募案・群造形 1969年
  • 国連ペルー低所得者層集合住宅国際指名競技設計 1969年
  • 泉北大蓮公園計画(大阪府堺市) 1969年
  • 横浜市海の公園基本構想 1969年-1970年
  • 小田原駅前再開発計画の協力 1970年
  • ボストン市交通網計画
  • 筑波大学キャンパス計画

著作・作品集[編集]

日本の都市・建築の「奥」について述べている。槇事務所スタッフの若月幸敏大野秀敏高谷時彦(後者2名については現在は独立)も一章ずつ執筆している。
  • 記憶の形象(筑摩書房)
  • 槇文彦(新建築社JAの作品集)
  • 現代の建築家槇文彦 1~4(鹿島出版会) 
4でのヒルサイドテラスの特集では、槇が隅入りや円柱について述べている。当時は進行中のプロジェクトであったテレビ朝日なども掲載されている。
  • 槇事務所のディテール(鹿島出版会)
  • ヒルサイドテラス+ウエストの世界(鹿島出版会)
  • 漂うモダニズム(左右社)

その他[編集]

新国立競技場関連[編集]

新国立競技場の建設計画の問題点を、早くから指摘してきた(2013年8月の論文[1])。大枠では、景観への影響やキールアーチ[2]について。細部では、ライブ会場として使用するには残響時間に対する高度な電気補助機能が必要になること、透過型屋根による室内温度上昇の懸念[3]など。

槇グループとして、大野秀敏中村勉元倉眞琴山本圭介古市徹雄らも問題点追及に加わった[2]

なお、槇自身2012年の国際デザインコンペの応募資格を満たしていたが、応募しなかった。逆にほぼ著名建築家しか応募できないという条件への疑問、そして第一には敷地が広くないところでその10倍の施設をつくるという設計条件をミスマッチだと直感的に感じたため、という[4]。「コンペへの不参加声明を出して、メッセージを出してもよかったのでは」という意見(高崎正治)もあった[5]

2015年7月のザハ・ハディド案の白紙化決定後も、縮小案を提案するなど活動している。ただし同月、やり直しとなる国際コンペへの参加を否定し、その審査委員の依頼があっても受けない姿勢を示した[6]

(8万人でなく)5万 - 6万人規模を推奨する理由として、立地上、災害などで避難誘導するのは難しいことも挙げている[7]

脚注[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]