澤村田之助 (6代目)

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ろくだいめ さわむら たのすけ
六代目 澤村田之助
屋号 紀伊國屋
定紋 釻菊 Kangiku inverted.png
生年月日 (1932-08-04) 1932年8月4日(84歳)
本名 山中 宗雄
襲名歴 1. 四代目澤村由次郎
2. 六代目澤村田之助
別名 藤間勘之(舞踊名)
出身地 東京
五代目澤村田之助
兄弟 二代目澤村六郎
五代目澤村由次郎
当たり役
仮名手本忠臣蔵』の小浪
神霊矢口渡』のお舟
築山殿始末』の築山殿

六代目 澤村田之助(ろくだいめ さわむら たのすけ、新字体:沢村1932年昭和7年)8月4日 - )は歌舞伎役者。屋号紀伊國屋定紋釻菊、替紋は波に千鳥舞踊の名取名は藤間 勘之(ふじま かんじ)。本名は山中 宗雄(やまなか むねお)。人間国宝

人物[編集]

父は五代目澤村田之助。第二次世界大戦中に一家で静岡県田方郡伊東町(現伊東市)に疎開していたため、静岡県立伊東高等学校に通った(後に中退)。

七代目澤村宗十郎の芸を受け継ぐ女形として活躍するほか、2013年1月まで横綱審議委員会の委員を務めている。

年譜[編集]

好角家としての一面[編集]

六代目田之助は幼少の時に六代目尾上菊五郎に連れられて初めて国技館(戦前の旧両国国技館)へ相撲観戦したが、その日が横綱:双葉山定次安藝ノ海節男に敗れて70連勝ならずという歴史的な日(1939年1月場所4日目)であったことを語っている[2]

長じてからも本業の歌舞伎の舞台の合間に国技館へ通うなど好角家としても知られるようになり、2003年に日本相撲協会からの委嘱を受けて横綱審議委員会委員に就任。横審委員として相撲への愛情から角界に対して数々の提言・苦言を呈するなどしている[3]。在任中は度々北の湖理事長に対して本場所を年4回に減らして力士の負担を軽減するように提案していた。[4]朝青龍が不祥事の責任を取って引退した際には引退直後にハワイを訪れ、その後のモンゴルでの会見で相撲協会への不満を表明したことに「実に傍若無人でとても不愉快に感じた。お客さんもそう思ったから、大阪場所も彼がいなくてもにぎわったんじゃないですか」と不満を爆発させ、引退相撲が計画されていることについて「横審が協会に中止を要請することはないですが、私は反対です」と話した。[5]

著書[編集]

  • 「澤村田之助むかし語り ~回想の昭和歌舞伎~」 (雄山閣) 2011 ISBN 978-4639021926

脚註[編集]

  1. ^ 沢村田之助氏、横審委員に 歌舞伎の人間国宝 共同通信 2003年7月13日閲覧
  2. ^ 『大相撲』2010年7月号(読売新聞社)インタビュー参照
  3. ^ 横審・沢村委員が提言「NHKは中継すべき」 スポーツニッポン 2011年3月28日閲覧
  4. ^ 「国技なんて言えない」 歌舞伎役者・沢村田之助氏(82) (2/3ページ) 産経ニュース 2015.1.2 21:24更新
  5. ^ 朝青龍の引退相撲、横審は「反対です」 Sponichi Annex 2010年03月30日

外部リンク[編集]