中村雀右衛門 (4代目)

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四代目 中村なかむら 雀右衛門じゃくえもん

七代目大谷友右衛門時代。1954年撮影
屋号 京屋
定紋 京屋結び
生年月日 1920年8月20日
没年月日 (2012-02-23) 2012年2月23日(91歳没)
本名 青木あおき 清治きよはる
襲名歴 1. 初代大谷廣太郎
2. 七代目大谷友右衛門
3. 四代目中村雀右衛門
俳名 梅斗
別名 藤間亀三郎(舞踊名)
出身地 日本の旗 日本東京府東京市日本橋区
六代目大谷友右衛門
三代目中村雀右衛門(位牌養子)
晃子七代目松本幸四郎の娘)
八代目大谷友右衛門
五代目中村雀右衛門
公式サイト 中村 雀右衛門 (4代目)
当たり役
歌舞伎:
源平布引滝』の小万
祇園祭礼信仰記(金閣寺)の雪姫
本朝廿四孝』の八重垣姫
「豊後道成寺」
「傾城道成寺」
「毛谷村」のお園

映画:
『佐々木小次郎』の佐々木小次郎

四代目 中村 雀右衛門(よだいめ なかむら じゃくえもん、1920年大正9年)8月20日 - 2012年平成24年)2月23日)は、歌舞伎役者映画俳優位階従三位七代目 大谷 友右衛門(しちだいめ おおたに ともえもん)としても知られる。立女形

中村雀右衛門」としての屋号京屋定紋京屋結び、替紋は向い雀。「大谷友右衛門」としての屋号は明石屋。定紋は丸十、替紋は水仙丸日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)。

本名は青木 清治(あおき きよはる)。女形の大御所的存在として晩年まで若々しい美しさと、格調の高さ、芸格の大きさで人気を博した。

人物・来歴[編集]

青木清治は六代目大谷友右衛門の次男として1920年(大正9年)東京に生まれた。1927年昭和2年)1月、東京市村座幼字劇書初』の桜丸で大谷廣太郎を名乗り初舞台を踏む。

1942年(昭和17年)、徴兵をうけて出征。しかしその直後に戦地で、「父・六代目友右衛門が、巡業先の鳥取鳥取地震に遭い、崩壊した劇場の下敷きとなって圧死する」という悲報を受ける。

1946年(昭和21年)、復員。翌年6月、三越劇場源平布引滝』(実盛物語)の小万、『曽我綉侠御所染』(御所五郎蔵)の逢州などで女形・大谷廣太郎として舞台に復帰する。1948年(昭和23年)3月には東京劇場須磨都源平躑躅』(扇屋熊谷)の平敦盛ほかで七代目大谷友右衛門襲名した。その後、1950年(昭和25年)に映画俳優に転身、『佐々木小次郎』でデビューを果たす。東宝の専属俳優から、1954年(昭和29年)に新東宝に移籍し、二枚目スターとして数多くの映画に主演した。

ところが1955年(昭和30年)に映画界を事実上引退、舞台に再復帰したばかりか、活動の場を関西に移す。そして関西歌舞伎の大名跡・中村雀右衛門家に位牌養子として入り、1964年(昭和39年)9月、歌舞伎座祇園祭礼信仰記・金閣寺』の雪姫ほかで四代目中村雀右衛門を襲名した。以降格調の高い芸風で女形の第一人者となり、六代目中村歌右衛門亡きあとは事実上の最高峰を極めた。

大谷友右衛門はいわゆる江戸の大名跡のひとつで、通常はそれ自体が止め名となるが、七代目は友右衛門襲名後に四代目雀右衛門を継いでいる。これは、徴兵で入隊し太平洋戦争従軍中に戦病死した、三代目雀右衛門の長男・中村景章(終戦後「五代目中村芝雀」を追贈)が、七代目友右衛門の無二の親友だった関係によるもの。友右衛門も景章に2年遅れて徴兵され、過酷な南方の戦地を6年間も転戦したが、こちらは幸運にも生きて再び祖国の地を踏むことができた。

終戦後、復員してきた懐かしい友右衛門の姿を見た景章の母(三代目雀右衛門の未亡人)は、そこに何か運命的なものを感じ、以後は友右衛門を我が子同然に可愛がった。そして、「息子が果たせなかった『雀右衛門』襲名は、ぜひ親友だったあなたにしてもらいたい」と、再三にわたって懇願したのである。大谷友右衛門の明石屋と中村雀右衛門の京屋は、姻戚関係はおろか子弟関係の接点すらない、系統のまったく異なる家系で、友右衛門の雀右衛門襲名は、故人の無念の想いをその親友に託すという異色の養子縁組となった。

2010年(平成22年)1月19日、歌舞伎座さよなら公演 壽初春大歌舞伎『春の寿』の女帝役で1日だけ出演したのが最後の舞台となった。

2012年(平成24年)2月23日、肺炎のため東京都中央区の病院で死去[1][2][3][4]。91歳の大往生だった。墓所は青山霊園

2012年(平成24年)3月9日の閣議において、従三位を追贈することが決まる[5]

家族・親族[編集]

妻・晃子は七代目松本幸四郎の娘。そのため、十一代目市川團十郎初代松本白鸚二代目尾上松緑の三兄弟とは義兄弟の間柄だった。

自身の息子二人も歌舞伎役者。長男は明石屋を継承し、八代目大谷友右衛門として主に立役を務める。次男は京屋を継承し女形で活躍する五代目中村雀右衛門である。

受賞等[編集]

各賞[編集]

栄典[編集]

顕職[編集]

その他[編集]

主な出演作[編集]

歌舞伎[編集]

当たり役といわれるのは次のとおり:

映画[編集]

『噂の女』(1954年、大映)

関連書籍[編集]

著作
  • 『女形無限』白水社、1998年
  • 『私事――死んだつもりで生きている』岩波書店、2005年
写真集 他
  • 『雀右衛門写真集 すずめ百まで』岩田アキラ写真、京都書院、1987年
  • 『四世中村雀右衛門の世界 写真集』演劇出版社、2005年
  • 渡辺保『名女形・雀右衛門』新潮社、2006年/角川ソフィア文庫、2012年

脚注[編集]

  1. ^ “歌舞伎俳優の中村雀右衛門さん死去 91歳”. 朝日新聞. (2012年2月23日). http://www.asahi.com/obituaries/update/0223/TKY201202230514.html 2012年2月23日閲覧。 
  2. ^ “中村雀右衛門さんが死去 歌舞伎女形の人間国宝”. 共同通信. (2012年2月23日). https://web.archive.org/web/20130621042403/http://www.47news.jp/CN/201202/CN2012022301001558.html 2012年2月23日閲覧。 
  3. ^ “中村雀右衛門さんご逝去”. 歌舞伎美人. (2012年2月23日). https://www.kabuki-bito.jp/news/2012/02/post_556.html 2012年2月23日閲覧。 
  4. ^ 追悼2012 写真特集 中村雀右衛門」『時事ドットコムニュース』。2023年10月11日閲覧。
  5. ^ “故中村雀右衛門氏に従三位”. 時事通信. (2012年3月9日). http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2012030900431 2012年3月12日閲覧。 
  6. ^ 『朝日新聞』1981年3月4日(東京本社発行)朝刊、22頁。
  7. ^ 「「秋の叙勲」 東京で559人が受章」『読売新聞』1990年11月3日朝刊
  8. ^ 「2000年秋の叙勲 勲三等以上と在外邦人、外国人、在日外国人の受章者一覧」『読売新聞』2000年11月3日朝刊

外部リンク[編集]