橋岡久太郎
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橋岡 久太郎(はしおか きゅうたろう、1884年7月12日 - 1963年9月15日)は観世流シテ方の能楽師。日本藝術院会員。
来歴
[編集]香川県出身。旧姓は乃村。大阪の観世流シテ方橋岡雅雪(本名・橋岡忠三郎)の後継者。もともとは雅雪の甥の橋岡平三郎が継ぐ予定であったが、明治維新以降の能楽界の衰退を鑑み実業家の道に進んだ[1]ため、1898年(明治31年)に久太郎が継いで橋岡家七世となった。のち上京し23代宗家観世清廉に師事。独立後、2代梅若実、観世華雪とともに観世流の発展に尽くした。能の形式主義、権威主義に対し反骨精神を貫き、脱俗の風で知られた[2]。難声で、舞台の謡が聞こえぬほどであったが、リズム感には独自の主張があった[2]。京劇の梅蘭芳との交流でも知られる[2]。1952年芸術祭賞[3]、1959年度芸術選奨[4]。1961年日本芸術院賞受賞、1963年日本芸術院会員。淡交会主催。
長男は橋岡久馬(久馬の長男が橋岡久太郎を襲名[5](重要無形文化財保持者(総合認定))[6])、二男は橋岡久共(のちに橋岡慈観に改名)。
脚注
[編集]- ^ 『経済人』35 (6)(405)、関西経済連合会、1981年6月、59頁。NDLJP:2666843/31。
- ^ a b c 日本人名大辞典+Plus,百科事典マイペディア,367日誕生日大事典, デジタル大辞泉,精選版 日本国語大辞典,新撰 芸能人物事典 明治~平成,20世紀日本人名事典,改訂新版 世界大百科事典,日本大百科全書(ニッポニカ),デジタル版. “橋岡久太郎(ハシオカキュウタロウ)とは?”. コトバンク. 2024年7月28日閲覧。
- ^ “文化庁芸術祭賞受賞一覧 | 文化庁”. www.bunka.go.jp. 2024年10月20日閲覧。
- ^ “芸術選奨 | 文化庁”. www.bunka.go.jp. 2024年10月20日閲覧。
- ^ “橋岡久馬氏死去/観世流シテ方能楽師”. 四国新聞社. 2024年7月28日閲覧。
- ^ Noh+編集部, 作成者: (2023年8月19日). “重要無形文化財保持者(総合認定)の新たな認定/日本能楽会新会員(令和5年・2023年、第18次増員)”. 能楽マガジン Noh +(ノープラス). 2024年7月28日閲覧。
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