鶴澤清六

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鶴澤 清六(つるさわ せいろく)は、文楽義太夫節三味線方の名跡

初代[編集]

(文政7年(1824年) - 明治11年(1878年5月24日[1]※『義太夫年表 明治篇』は5月23日とする。[2]

初代鶴澤徳太郎 → 初代鶴澤清六

本名:萬屋徳太郎。俳名:糸鳳。[3]大坂南船場出身。二代目鶴澤清七(笹屋清七)の門弟。通称:畳屋町。

文政11年(1828年)正月御霊社内芝居『義経千本桜』にて初出座(※文政10年(1827年)9月同座『奥州安達原』にも鶴澤徳太郎の名前がある[4])天保元年(1830年)正月より稲荷文楽芝居に出勤。天保7年(1836年)8月座摩裏門境内芝居『玉藻前曦袂』にて初代鶴澤清六を襲名(※同年同座4月『妹背山婦女庭訓』にも鶴澤清六の名がある[5])。天保年間には初代竹本大隅太夫、竹本勢見太夫、豊竹岡太夫を弾く。後に、初代豊竹靭太夫を弾き、明治年間にはその弟子初代豊竹古靱太夫の相三味線となる。明治9年(1876年)9月大江橋席『夏祭浪花鑑』(六代目竹本綱太夫襲名披露)の番付に「一世一代」を掲げ引退を表明するも、翌10月『絵本太功記』においても「一世一代」を掲げる。番付の口上に「今度古靭太夫始め 座中・弟子とも 未た芸道不行届の者計故に今しばらく之内 後見同様にて出勤致し呉候様 再三之頼に付 取不敢出勤仕候間 不相変是迄の通 御ひいき御取立之程を奉希上候」と記し、「未た芸道不行届の者」が座中全員に係っているように読めることから、五代目竹本春太夫をはじめとした一座の者が憤慨し、埋木改訂を余儀なくされた[6][7]。翌11月道頓堀弁天座『義経千本桜』「壽の楓 花種蒔 吉野山の段」(道行初音旅とは別物)にて五代目竹本春太夫初代豊澤團平六代目竹本綱太夫・初代豊澤新左衛門、初代豊竹古靱太夫・初代鶴澤清六と一座の看板を並べて引退披露を行う。[8]明治11年(1878年5月24日逝去。

親族[編集]

娘は鶴澤きくで、最初初代豊澤新左衛門に嫁ぎ、後に、法善寺と呼ばれた三代目竹本津太夫七代目竹本綱太夫)の生涯の伴侶となったことから、鶴澤清六家(初代・四代)と竹本津太夫家(初代~三代)=竹本綱太夫家(七代)が一緒になった。また、四代目鶴澤清六の義弟である初代鶴澤清友が六代目鶴澤徳太郎を襲名し、鶴澤清六家を相続。後に二代目鶴澤道八を襲名し、孫である六代目織太夫と鶴澤清馗の叔母が初代鶴澤道八家に嫁いだことで、鶴澤道八家(初代、二代)とも鶴澤清六家は縁戚となった。このように初代清六から今日まで八代にわたり家が続き、八代目竹本綱太夫五十回忌追善での六代目竹本織太夫襲名へと繋がっている。詳細は六代目竹本織太夫の系譜欄を参照。

鶴澤きく…娘

初代豊澤新左衛門…娘婿(鶴澤きくの最初の夫)

おあい…孫(鶴澤きくと初代新左衛門の娘)

三代目竹本津太夫七代目竹本綱太夫)…娘婿(鶴澤きくの生涯の伴侶)

二代目豊澤團平(豊澤九市・鶴澤九市)…孫婿(おあいの最初の夫)

おとく…曾孫(二代目團平とおあいの娘で後に祖父母津太夫ときくに引き取られる)

初代竹本春子太夫(三代目竹本大隅太夫)…孫婿(おあいの二番目の夫)

おとくの娘…玄孫(五代目鶴澤徳太郎=四代目鶴澤清六の最初の妻)

五代目鶴澤徳太郎(四代目鶴澤清六)…玄孫婿

墓・碑[編集]

戒名は釈清巌。墓所は四天王寺元三大師堂。[9]下記の通り一家一門で作られている。

初代鶴澤清六の墓

水鉢…三代目鶴澤徳太郎改め二代目鶴澤清六(清六名跡の後継者)

花立…二代目鶴澤勝七(高弟)、初代竹本春子太夫(三代目竹本大隅太夫)(孫婿)

香炉…三代目竹本大隅太夫(孫婿)

親柱…三代目竹本津太夫七代目竹本綱太夫)…娘婿

弟子の二代目鶴澤清六(三代目鶴澤徳太郎)が初代清六の七回忌の供養に建立した「初代鶴澤清六之塚」は東京向島長命寺内にある。[10]

初代鶴澤清六之塚

二代目[編集]

(天保9年(1838年) - 明治34年(1901年12月21日

鶴澤福造 → 鶴澤六三郎 → 三代目鶴澤徳太郎 → 二代目鶴澤清六

本名:石井平治郎。初代鶴澤清六(初代徳太郎)門弟。長らく江戸にいたが、大阪へ上り、明治3年(1870年)9月いなり文楽芝居『木下蔭狭間合戦』にて「東京下り 六三郎改」三代目鶴澤徳太郎を襲名。明治13年(1880年)松島文楽座『玉藻前曦袂』にて二代目鶴澤清六を襲名。明治14年(1881年)6月まで大阪で出座していたが、以降は東京に赴く。蛎殻町に住居を構えていたことから「蛎殻町の師匠」と呼ばれた。明治34年(1901年12月21日逝去。戒名は深心院圓達日清信士。墓所は東京浅草今戸長昌寺[11][12][13]

三代目[編集]

(明治元年(1868年)9月 - 大正11年(1922年1月19日

本名は田中福太郎。通称「塩町の師匠」。門弟には、二代目鶴澤清八(四代目鶴澤叶)(※『鶴澤叶聞書』の著者)、四代目鶴澤重造(四代目鶴澤浅造)初代鶴澤藤蔵(四代目鶴澤清二郎)がいる。甥に四代目竹本大隅太夫(初代竹本静太夫)。

静岡県七軒町で蕎麦屋を営む永田佐助の三男に生まれる。初め杵屋庄次郎に長唄を習い、明治17年(1884年)に大阪に出て、翌明治18年(1885年)1月に二代目鶴澤鶴太郎に入門し、鶴澤福太郎を名乗る。翌年御霊文楽座で初舞台を踏む。この頃師匠鶴太郎の養子となり、田中姓となる。師没後の明治20年(1887年)1月御霊文楽座にて、三代目鶴澤鶴太郎を襲名。明治26年(1893年)1月御霊文楽座にて三代目鶴澤叶を襲名。更に明治36年(1903年)9月御霊文楽座にて三代目竹本大隅太夫の帯屋を弾き、三代目鶴澤清六を襲名。

この時の帯屋について、弟子の四代目鶴澤叶は、「この時の大隅さんの帯屋のよかつたことを忘れません。マクラのあひだの間拍子のうまいことゝいつたら、地合ひ(節)の長短、アウンの呼吸の具合など目も覚めるやうでありました。私はその時は鶴太郎になつておりましたが、それまでに、そのやうに足が早くて、口調がよくて、文句がよくわかつて、それでゐて情合のある帯屋を聴いたことがありませんでした。それで私は師匠に「これはほんまの帯屋の足どりですか。」ときゝましたら、師匠は「これが清水町さん(豊澤團平)の弾かれた手や、お前もよう覚えておきなされ。」と云はれました。」と語っている。[14]

このように大團平没後、三代目竹本大隅太夫の相三味線を務めた。後、二代目豊竹古靱太夫(豊竹山城少掾)の相三味線を務めた名人。六代目野澤吉兵衛・六代目豊澤廣助と共に文楽座の三幅対の名手と言われた。大正11年(1922年)1月19日、五十五歳で死去。戒名は鶴林院福澤清水居士。墓所は大阪市北区東寺町宝珠院。[2]

元々は三代目鶴澤勝次郎の襲名を希望していたが、それが叶わず、鶴澤きく(初代鶴澤清六の娘)に相談し、三代目鶴澤清六を襲名した経緯がある。

「三世叶より三世鶴澤清六に改名してゐた。叶の名前と清六の名前には余り深い芸の系統はないのである。この清六の叶は、三世鶴澤勝次郎と名のりたかったが、それが或る事情に依って思ふ様に運ばない。むしゃくしゃして、或る日、法善寺津太夫(※三代目竹本津太夫=七代目竹本綱太夫)の家に行くと、このお内儀さん(※鶴澤きく。初代鶴澤清六娘)が、そんなら私の家にある 清六の名を継いで貰へぬか、そんなら継ぎませうと言ふ様な訳で極く偶然の機会に叶から清六になったのである。」[15]

それにつき、相三味線だった二代目豊竹古靱太夫は「清六さんを大阪へ連れてこられた二代目鶴太郎さん--綽名を黒鶴さん--の門人になつて、はじめは本名の福太郎、鶴太郎さんの歿後は三代目鶴太郎を名乗られ、養子となつて黒鶴さんの本姓田中を継がれました。その後叶になり、それから三代清六になられたのです。これでお判りになるやうに、清六といふ名跡は叶の家筋のものではなかつたんですが、芸を見込まれ、懇望されて清六を継がれたのです」と書き残している。」[13]

また、高弟の四代目鶴澤叶は「なぜ清六を襲名しないのか?」という問いに対して、以下のように答えている。

「今の清六さんが、徳太郎さんから四代目清六さんになられた當時、清六の高弟であつて何故清六を継がないのかといふお尋ねを諸方からうけて困りました。

 しかし、それはかういふわけであつたのです。清六といふ名は、代々叶にはゆかりのない名であつたのですが、法善寺の三代目津太夫さんの御内儀さんが初代清六さんの娘さんでありまして、そのお方が師匠を見込んで賴まれたので、師匠--當時叶--は三代目清六を継いだのであります。

 清六といふ名は立派な名であつたのですが、二代目清六さんは東京にゐられて、申憎いことでありますが、清六の名を小ひさくしてしまはれたのでした。それで津太夫さんの御内儀の、師匠へのお賴みは、「清六といふ名をあんたに磨いて貰ひたい。そしてあんたに門人もあるが、この名はあんた一代でこちらへ返してほしい。こちらの孫娘に三味線弾きを貰ふて四代目を継がしたいから--」といふのでありました。師匠はそれを承知して引受けられたのであります。

 師匠清六は前申したやうな次第で、門人一同に何の御遺言もなくお亡くなりになりましたが、師匠が襲名の事情はかねて師匠から承つておりましたので、未亡人とも談合の上、清六の名は法善寺の方へお返ししたのです。今の四代目清六さんの御内儀さんは法善寺津太夫さんのお孫さんです。師匠は、約束どほり立派に清六といふ名に磨きをかけられたのでありました。[14]

四代目[編集]

(明治22年(1889年)2月7日 - 昭和35年(1960年5月8日

鶴澤政二郎 → 五代目鶴澤徳太郎 → 四代目鶴澤清六

本名:佐藤(桜井)正哉。東京市四谷区塩町出身。明治35年(1902年)6月初代鶴澤友松(初代鶴澤道八)に入門。[16]。明治39年(1906年)1月市の側堀江座にて初出座。大正元年(1912年)6月近松座『本朝廿四孝』「信玄館(十種香)より奥庭狐火の段 切」で三代目竹本伊達太夫後の六代目竹本土佐太夫(天下茶屋)を弾き五代目鶴澤徳太郎を襲名。当時23歳。奥庭狐火のツレ弾きを近松座の三味線のトップであった二代目豊澤團平が勤めた。[17]

当時の劇評は、「伊達の糸を綱太夫の嗣子になった鶴澤政二郎が徳太郎と改名して弾くが弱年に似ぬ腕の冴は将来を思はしめる。」(毎日新聞)「十種香より奥庭狐火伊達の畑の物で頭から悪いと云ふにあらず、三味の徳太郎は大躰の筋が能いから餘り屑も出さず殊に團平が引立ツレ弾に出て居るから少しも間劣り無く伊達太夫相當の三味線である。「八百八狐付添て」で人形と倶に白地の衣裳に引抜く、床では兎に角伊達の美聲に徳太郎と團平のツレ弾き、道具は目の醒る計り美麗なり。」(浄瑠璃雑誌)と徳太郎の手腕を讃えている。[17]

「綱太夫の嗣子になった」とあるように、「おとくの娘」の夫となり、七代目竹本綱太夫(三代目竹本津太夫)の名跡養子となっている。ツレ弾きを勤めた二代目團平から見れば五代目徳太郎は孫婿にあたり、三代目竹本大隅太夫からみても義理の孫婿にあたる。三代目竹本伊達太夫(後の六代目竹本土佐太夫)は三代目竹本大隅太夫の弟子である。また、養父七代目竹本綱太夫が得意とした「沼津」も同月の狂言に選ばれる等、一家一門で鶴澤清六家の新たな跡取りの門出を祝している。(親戚関係の詳細は初代徳太郎の親族欄を参照)[17]

大正12年(1923年)10月文楽座『仮名手本忠臣蔵』「六段目 勘平住家の段」で二代目豊竹古靱太夫を弾き、 四代目鶴澤清六を襲名。その後長く二代目豊竹古靱太夫(豊竹山城少掾)を弾くが、昭和24年(1949年)に豊竹山城少掾と相三味線を解消。昭和27年(1952年)豊竹松太夫(後の三代目竹本春子太夫)の相三味線となる。

昭和25年(1950年)に日本芸術院賞を受賞。昭和30年(1955年)重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝の第一次指定を受ける。 昭和35年(1960年5月8日逝去。戒名は至藝院釋正緻居士。墓所は高野山奥之院。

四代目鶴澤清六の墓

有吉佐和子一の糸』で描かれる"露沢清太郎"のモデルで、「おとくの娘」と死別した後は静(『一の糸』の"茜"のモデル)と再婚した。静の妹と結婚したのが、弟子の六代目鶴澤徳太郎(後の二代目鶴澤道八)である。

曾祖母にあたる鶴澤きく(初代鶴澤清六の娘)が経営していた茶見世(後に「カフェーリスボン」というカフェとなる)のあった法善寺の一角で、天ぷら屋「鶴源」を経営。「鶴源は天婦羅屋、大阪風の衣のややあついテンプラ、主人は文楽の三味線引きの鶴澤清六。酒は菊正。梅月や天寅に比敵する一流店であった。」と宮本又次の「法善寺界隈由来記」に記されている。

脚注[編集]

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  1. ^ 四代目竹本長門太夫著 法月敏彦校訂 国立劇場調査養成部芸能調査室編『増補浄瑠璃大系図』. 日本芸術文化振興会. (1993年-1996年) 
  2. ^ a b 義太夫年表(明治篇). 義太夫年表刊行会. (1956-5-11) 
  3. ^ 茶谷半次郎 山城少掾聞書”. www.ongyoku.com. 2020年10月12日閲覧。
  4. ^ 義太夫年表 近世篇 第2巻 本文篇 寛政~文政. 八木書店. (1979-11-23) 
  5. ^ 義太夫年表 近世篇 第3巻上 本文篇 天保~弘化. 八木書店. (1981-9-23) 
  6. ^ https://twitter.com/izumonojyo/status/1264328874134913024” (日本語). Twitter. 2020年10月12日閲覧。
  7. ^ 義太夫年表(明治篇). 義太夫年表刊行会. (1956-5-11) 
  8. ^ https://twitter.com/izumonojyo/status/1264329203354230784” (日本語). Twitter. 2020年10月12日閲覧。
  9. ^ 義太夫関連 忌日・法名・墓所・図拓本写真 一覧”. www.ongyoku.com. 2020年10月12日閲覧。
  10. ^ https://twitter.com/izumonojyo/status/1264331705202044928” (日本語). Twitter. 2020年10月12日閲覧。
  11. ^ 四代目竹本長門太夫著 法月敏彦校訂 国立劇場調査養成部芸能調査室編『増補浄瑠璃大系図』. 日本芸術文化振興会. (1993年-1996年) 
  12. ^ 義太夫年表(明治篇). 義太夫年表刊行会. (1956-5-11) 
  13. ^ a b 茶谷半次郎 山城少掾聞書”. www.ongyoku.com. 2020年10月12日閲覧。
  14. ^ a b 茶谷半次郎 鶴澤叶聞書”. www.ongyoku.com. 2020年11月10日閲覧。
  15. ^ 名人のおもかげ 三代清六”. www.kagayakerugidayunohoshi.com. 2020年10月17日閲覧。
  16. ^ 四代目鶴澤清六”. www.ongyoku.com. 2020年10月12日閲覧。
  17. ^ a b c 財団法人文楽協会『義太夫年表 大正篇』. 「義太夫年表」(大正篇)刊行会. (1970-1-15)