アラン・ドロン
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| Alain Delon アラン・ドロン | |||||||||||||||||||
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2019年 カンヌ国際映画祭にて | |||||||||||||||||||
| 本名 | Alain Fabien Maurice Marcel Delon | ||||||||||||||||||
| 生年月日 | 1935年11月8日(84歳) | ||||||||||||||||||
| 出生地 |
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| 民族 | フランス人 | ||||||||||||||||||
| 身長 | 177cm | ||||||||||||||||||
| 職業 | 俳優 | ||||||||||||||||||
| ジャンル | 映画 | ||||||||||||||||||
| 活動期間 | 1957年 - 2017年 | ||||||||||||||||||
| 主な作品 | |||||||||||||||||||
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『太陽がいっぱい』(1960年) 『生きる歓び』(1961年) 『地下室のメロディー』(1963年) 『黒いチューリップ』(1963年) 『さらば友よ』(1968年) 『レッド・サン』(1971年) 『ビッグ・ガン』(1973年) 『百一夜』(1994年) | |||||||||||||||||||
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アラン・ドロン(Alain Delon, 1935年11月8日 - )はフランスの映画俳優。身長177センチメートル。
目次
来歴[編集]
出生[編集]
1935年11月8日パリ郊外のオー=ド=セーヌ県ソーで生まれる。父は小さな映画館を経営、母は後に結婚するナタリーと雰囲気の似た美人で、薬剤師の資格を持っていた。
4歳で両親が離婚し[1]母方に預けられるも、再婚したシャルキュトリ(ハムやソーセージなど豚肉加工品専門の食品店)の義父と合わなかったこと、そして母親が新たに生れた娘(エディット)だけを可愛がったためにアランはのけ者とされる。さらに追い討ちをかけるように実父も再婚、息子ジャン=フランソワ(後にアランの映画の製作に参加)が生まれていた。それら家庭不和による愛情不足のため、女生徒とたびたび問題を起こして寄宿学校を転々とし、最終的には感化院に入れられ、一時的に鉄格子生活を経験するはめにもなった。その後14歳より前述の食品店で働き始めた。
自分の居場所を求めていたアランは苦肉の策としてフランス海軍へ志願。未成年者は保護者の承諾が必要だったが、母は義父の言うがままに承諾した。この一件で、母への憎しみが根深く残ることになり、次第に女性不信という形で表れていった。こうして17歳で入隊し、マルセイユより貨物船に乗せられ、カービン銃の扱いだけを教わって第一次インドシナ戦争へ従軍することになった。1955年、休戦協定によって20歳で無事除隊後はアメリカとメキシコを放浪、1956年に帰国後はパリのモンマルトルなど方々を転々とし、サン=ジェルマン=デ=プレに落ち着いた。
また、戦場を経験しているためか、映画の中での殺しのシーンなどがリアルで迫力ある名場面が多く、またドロンと同時期のアメリカ映画のスターでありドロンと同じく戦場の経験があるスティーブ・マックイーンと共に銃の扱いの芝居の上手さが語られている[2]。
銀幕へのデビュー[編集]
翌1957年の夏、女優のブリジット・オーベールから「カンヌで映画祭が開催されるから、ぶらぶらしてみたら? あなたほどの美貌なら、監督の誰かから声が掛かるかもしれないわよ?」と言われた。それがきっかけで、帰国後パリで知り合ったジャン=クロード・ブリアリと2人で、暑かったので上半身裸のままカンヌを歩いてみると、過去にロック・ハドソンを発掘したハリウッドの一流エージェント、ヘンリー・ウィルスンに「君はいい体をしている…」とスカウトされた。その3日後にローマのチネチッタ撮影所にて、映画『武器よさらば』撮影中のデヴィッド・O・セルズニックのスクリーンテストを受け合格し、アメリカ合衆国での成功に太鼓判を押され、英語の習得を条件に7年間の契約を持ちかけられる。しかし「私はフランス人なので、まずはフランスで勝負をしたい」と保留、女優エステラ・ブランの紹介で、イヴ・アレグレ監督の『女が事件にからむ時』(共演:ジャン=ポール・ベルモンド)でデビューした。
1959年、『恋ひとすじに』で共演した西ドイツの若手スター、ロミー・シュナイダーと同棲し婚約するも、1963年に破棄。1960年、ルネ・クレマン監督『太陽がいっぱい』[3]に主演。ニーノ・ロータの曲と共に大ヒットし、世界的にその名を知られる。その後もクレマン監督作品など、数多くのフランス映画・イタリア映画・アメリカ映画に出演し、自身が出演する作品のプロデュースも手がけるなどして活躍。ルキノ・ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』にも出演している。その後も『シシリアン』[4]『冒険者たち』『さらば友よ』[5]『暗黒街の二人』『ボルサリーノ』『栗色のマッドレー』『地下室のメロディ』『レッドサン』『友よ静かに死ね』『ショック療法』『ル・ジタン』『アラン・ドロンのゾロ』ほか多数の映画作品に出演した。他には、ドロンがソ連の革命家・トロツキーを殺害する殺し屋を演じた『暗殺者のメロディ』などの作品もある。ジョゼ・ジョバンニ監督との名コンビは、よく知られている。音楽活動では1973年に、ダリダとアラン・ドロン『甘い囁き』がヒットした。
私生活:女性遍歴[編集]
ロミー・シュナイダーと破局した後には、1963年、ナタリー・バルテルミー(のちナタリー・ドロン)と出会う。ナタリー(本名はフランシス・カサノヴァ)はモロッコのカサブランカ出身で、育った境遇が似ていたことや、人生経験豊かなところに惹かれ、親しくなった。1964年にナタリーと結婚、息子アントワーヌ(後にアントニー・ドロンの名でデビュー)が生まれる。この年には3人でアメリカ合衆国のビバリーヒルズに滞在。いくつかの映画に出演したり、アカデミー賞のプレゼンターにも立った。ナタリー・ドロンは後に映画『個人教授』に出演した。
1966年フランスへ帰国。映画『サムライ』に出演したことにより、女優を続けたいと願うナタリーと対立し、やがて離婚。その後、ミレーユ・ダルクと長い愛人関係にあった。1987年にオランダ人モデル、ロザリー・ファン・ブレーメンと出会う。彼女とは籍は入れず、アヌーシュカとアラン・ファビアンの2子をもうけるが、2002年に別れた。
ヴェルヴェット・アンダーグラウンドとのアルバムがある、ドイツ人のモデル・歌手のニコとの関係も有名である。ニコは1962年にドロンとの子供である長男クリスティアンを生むが、彼は未だに認知をしていない。クリスティアンはドロンの実母に育てられた。
引退[編集]
2017年5月9日、今後出演する1本ずつの映画と舞台を最後に、引退するとの意向を示した[6]。
2019年5月19日(日本時間20日)、第72回カンヌ国際映画祭で、映画界への長年の功績をたたえて「名誉パルムドール」が贈られた。
日本での反響[編集]
1963年(昭和38年)、4月1日から4月10日まで東京・丸の内の東京商工会議所ホールで開催された第3回フランス映画祭(後援は在日フランス大使館ほか)のため初来日。日本のファン達の大歓迎をうけた。他にドロンと共に映画祭に参加したのは、映画監督のフランソワ・トリュフォー、セルジュ・ブールギニョン、女優のマリー・ラフォレ、アレクサンドラ・スチュワルト、フランソワーズ・ブリヨンらであった。
1963年4月6日と1964年(昭和39年)6月9日、フジテレビ『スター千一夜』に出演。同6月13日にはNHK『夢であいましょう』に出演。映像は現存しないが、司会を務めていたデザイナーの女性と番組セット内で撮ったカラー写真が現存する。
ドロンがマリアンヌ・フェイスフルと共演した『あの胸にもういちど』(1968)では、黒革のバイク・スーツを着たマリアンヌがそれを脱ぎ捨てると、ヌードだったというシーンが話題になった。 1975年の『ル・ジタン』では、当時最高峰の性能を持った3気筒のバイクに乗り、警官隊に囲まれた自宅から門を開けるとともにウィリー走行(前輪を上げた状態での走行)で脱出する姿を見せ、観客を感心させた[7]。
1977年に放送された実相寺昭雄と岸田森が演出した水谷豊主演の『S&Bスナックチップ』の「インタビュー編」のCMでの水谷の「アラン・ドロンかなー」というセリフは流行語になり、同CMを演出した岸田森とは『友よ静かに死ね』の来日イベントで共演している[8]。
2010年には生誕75周年を記念して、「アラン・ドロン生誕75周年記念映画祭」が東京や京都で開催された[9]。
日本ではアイドル的と呼べるほど大衆人気の高い二枚目スターであるが、娯楽大作中心と言いがたい出演歴に見られるように、本国ではもう少し個性派に近い位置を占めている。
その他の活動[編集]
1970年代より、自身の名をブランド名にした香水のプロデュースに注力している。男性用香水「SAMOURAI」・「SHOGUN」・「47SAMOURAI」は日本文化に感化されたネーミング・ボトルと、パッケージのデザイン・調香から日本でも人気を博している。「SAMOURAI」の名称は尊敬する三船敏郎から取ったものである。
1987年、モロッコでの15年間の投獄の末、脱走したマリカ・ウフキルは逃走中に自分たちの事実を伝えるため政治家やアーティストに20通ばかりの手紙を送ったが、返事があったのはアラン・ドロンただ一人だった。モロッコと関係のあるアラン・ドロンは弁護士を通じて「政治的立場をとるつもりはないが、ウフキルたちに友情を伝えてくれと言い、物資面の援助や裁判費用も払う用意がある」と伝え、ウフキルはこの厚意に心底感動したと語っている。
1993年、スイスで行われた女優オードリー・ヘプバーンの葬儀に参列。それまで交流があったことは一切報じられておらず、また、日本では長年人気投票の外国男優・外国女優部門の1位を獲得してきた人気俳優同士だった。彼は「僕は彼女を尊敬していた」と交流を語った。
1998年公開の『ハーフ・ア・チャンス』を最後に映画からの引退を公言した(その理由を「映画でやりたいことは全てやりきったから」と発言)が、復帰してテレビドラマや映画、舞台など幅広く俳優活動を継続しており、2007年にはベストセラー小説『マディソン郡の橋』の舞台化作品への出演が決まっていた。
1964年東京オリンピックのメインスタジアム(新宿区霞ヶ丘町)の落成式に出席し併せて国立代々木競技場を訪問した。また東京モノレールの開業前に昭和島車両基地を訪れ、そこで試運転車両に乗車した[10]。
2007年10月8日、『SMAP×SMAP』(フジテレビ)の「BISTRO SMAP」のコーナーにゲスト出演した。出演した理由を「50年経ったし、そろそろ日本に来てもいいかな、と思って」「(日本には)昼飯を食べるためだけに来た。」とユーモアたっぷりに語り、前日の夜に日本に到着し、撮影日の午後9時に帰途に発つ、という強行スケジュールだった。彼が料理絡みの番組に出たのは日本の料理番組に出演した一度だけで、「招待してくれてうれしい」とのことだった。また、番組内では各出演映画の名場面や上記の44年前の初来日の時の貴重なニュースフィルム(モノクロ)なども紹介された。
また、フィルムデビュー50周年を記念して、2007年11月8日の72歳の誕生日から、2003年 - 2004年にフランスとドイツ共同制作で製作されたドラマ『アラン・ドロンの刑事フランク・リーヴァ』がWOWOWで放送された。
大の格闘技好きであり、ドロン自ら格闘技の興行を主催したこともある。また、同じフランス人のK-1トップファイタージェロム・レ・バンナとは友人であり、映画で共演したこともある。
エピソード[編集]
出演[編集]
| 公開年 | 邦題 原題 |
役名 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1957年 | 女が事件にからむ時 Quand la femme s'en mêle |
ジョー | |
| 黙って抱いて Sois belle et tais-toi |
Loulou | ||
| 1958年 | 恋ひとすじに Christine |
フランツ・ロブハイナー | |
| 1959年 | お嬢さん、お手やわらかに! Faibles Femmes |
ジュリアン・フェナル | |
| 学生たちの道 Le Chemin des écoliers |
Antoine Michaud | ||
| 1960年 | 太陽がいっぱい Plein soleil |
トム・リプレー | |
| 若者のすべて Rocco e i suoi fratelli |
ロッコ・パロンディ | ||
| 1961年 | 生きる歓び Che gioia vivere |
Ulysse Cecconato | |
| 素晴らしき恋人たち Amours célèbres |
アルバート王子 | ||
| 1962年 | 太陽はひとりぼっち L'Eclisse |
ピエロ | |
| フランス式十戒 Le Diable et les dix commandements |
ピエール | ||
| 1963年 | 地下室のメロディー Mélodie en sous-sol |
フランシス・ヴェルロット | |
| 山猫 Il Gattopardo |
タンクレディ | ||
| 1964年 | 黒いチューリップ La Tulipe noire |
ジュリアン/ギヨーム・ド・サンプルー伯爵(二役) | |
| 危険がいっぱい Les Félins |
マルク | ||
| 黄色いロールス・ロイス The Yellow Rolls-Royce |
ステファノ | ||
| 1965年 | 泥棒を消せ Once a Thief |
エディ | |
| 1966年 | 名誉と栄光のためでなく Lost Command |
ピエール・エスクラビエ | |
| パリは燃えているか Paris brûle-t-il? |
ジャック・シャバン=デルマス | ||
| テキサス Texas Across the River |
ドン・アンドレア・バルダザール | ||
| 1967年 | 冒険者たち Les Aventuriers |
マヌー・ボレリー | |
| サムライ Le Samouraï |
ジェフ・コステロ | ||
| 悪魔のようなあなた Diaboliquement vôtre |
Pierre Lagrange/Georges Campo | ||
| 1968年 | 世にも怪奇な物語 Histoires Extraordinaires |
ウィリアム・ウィルソン | |
| あの胸にもういちど La Motocyclette |
ダニエル・コロニー | ||
| さらば友よ Adieu l'ami |
ディノ・バラン | ||
| 太陽が知っている La Piscine |
ジャン=ポール | ||
| 1969年 | ジェフ Jeff |
Laurent | 兼製作 |
| シシリアン Le Clan des Siciliens |
ロジェ・サルテ | ||
| 1970年 | ボルサリーノ Borsalino |
ロッコ・シフレディ | 兼製作 |
| 仁義 Le Cercle rouge |
コレー | ||
| 栗色のマッドレー Madly |
ジュリアン | ||
| 1971年 | もういちど愛して Doucement les Basses |
シモン・メデュー | |
| レッド・サン Soleil Rouge |
ゴーシュ | ||
| 帰らざる夜明け La Veuve Couderc |
ジャン | ||
| 1972年 | 暗殺者のメロディ The Assassination of Trotsky |
フランク・ジャクソン | |
| 高校教師 La Prima notte di quiete |
ダニエレ・ドミニチ | ||
| リスボン特急 Un flic |
エドゥアール・コールマン | ||
| ショック療法 Traitement de choc |
Docteur Devilers | ||
| 1973年 | スコルピオ Scorpio |
ジャン・ローリエ 通称スコルピオ | |
| 燃えつきた納屋 Les Granges brulées |
Pierre Larcher | ||
| ビッグ・ガン Les Grands Fusils |
トニー・アルゼンタ | ||
| 暗黒街のふたり Deux hommes dans la ville |
ジーノ・ストラブリッジ | ||
| 1974年 | 個人生活 La Race des 'seigneurs' |
ジュリアン・ダンディーユ | |
| 愛人関係 Les Seins de glace |
マルク・リルソン | ||
| ボルサリーノ2 Borsalino & Co. |
ロッコ・シフレディ | 兼製作 | |
| 1975年 | アラン・ドロンのゾロ Zorro |
ゾロ / ディエゴ | |
| フリック・ストーリー Flic Story |
ロジェ・ボルニッシュ | 兼製作 | |
| ル・ジタン Le Gitan |
ユーゴ・セナール 通称ジダン | 兼製作 | |
| 1976年 | パリの灯は遠く Monsieur Klein |
ロベール・クライン | |
| ブーメランのように Comme un boomerang |
ジャック・バトキン | 兼製作 | |
| 1977年 | 友よ静かに死ね Le Gang |
ロベール | 兼製作 |
| プレステージ L'Homme pressé |
ピエール | 兼製作 | |
| チェイサー Mort d'un pourri |
Xavier 'Xav' Maréchal | ||
| 1978年 | ナイトヒート Attention, les enfants regardent |
||
| 1979年 | エアポート'80 The Concorde ... Airport '79 |
ポール・メトラン機長 | |
| 未知の戦場/ヨーロッパ198X Le toubib |
Jean-Marie Desprée | ||
| 1980年 | ポーカー・フェイス/アラン・ドロン・ウィズ・ジャック・ドレー 3 hommes à abattre |
ミシェル | 脚本/出演/製作 |
| 1981年 | テヘラン 43 Tegeran-43 |
Georges Roche | |
| 危険なささやき Pour la peau d'un flic |
シュカス | 監督/脚本/出演/製作 | |
| 1982年 | 最後の標的 Le choc |
マルタン・テリエ | 兼脚本 |
| 1983年 | 鷹 Le battant |
ジャック | 監督/脚本/出演/製作 |
| 1984年 | スワンの恋 Un amour de Swann |
Baron de Charlus | |
| 真夜中のミラージュ Notre histoire |
ロベルト | セザール賞 主演男優賞 受賞 | |
| 1985年 | 復讐のビッグガン Parole de flic |
ダニエル・プラッツ | |
| 1986年 | デーモン・ワールド Le passage |
ジャン・ディアス | |
| 1988年 | アラン・ドロン/私刑警察 Ne réveillez pas un flic qui dort |
Eugéne Grindel | 兼脚本 |
| 1990年 | ヌーヴェルヴァーグ Nouvelle Vague |
ロジェ・レノックス / リシャール・レノックス | |
| 1992年 | カサノヴァ最後の恋 Le Retour de Casanova |
カサノヴァ | 兼製作総指揮 |
| 1995年 | 百一夜 Les Cent et une nuits de Simon Cinéma |
アラン・ドロン | |
| 1998年 | ハーフ・ア・チャンス Une chance sur deux |
ジュリアン | |
| 2002年 | アラン・ドロンの 刑事物語 Fabio Montale |
ファビオ・モンタル | テレビ・ミニシリーズ |
| 2003年 - 2004年 | アラン・ドロンの刑事フランク・リーヴァ Frank Riva |
フランク・リーヴァ | テレビシリーズ |
| 2008年 | アステリックスと仲間たち オリンピック大奮闘 ASTERIX AUX JEUX OLYMPIQUES |
ユリウス・カエサル |
ディスコグラフィ[編集]
- 甘い囁き - ダリダとアラン・ドロン(1973年)
受賞歴[編集]
- ゴールデングローブ賞
- 1964年 有望若手男優賞 『山猫』 - ノミネート
- ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞
- 1972年 特別賞 - 受賞
第72回カンヌ国際映画祭で現地2019年5月19日夜、映画への長年の貢献をたたえて名誉パルムドールが贈られた。
関連項目[編集]
- リノ・ヴァンチュラ
- ジャン・ギャバン
- チャールズ・ブロンソン
- ミレーユ・ダルク
- 野沢那智 - 長年にわたり日本語吹き替えの声優を担当。
- 堀勝之祐 - 初期の日本語吹き替えを担当していた。
- 三遊亭小遊三 - 「笑点」でネタに使う。
出典・脚注[編集]
- ^ Alain Delon Biography (1935-)
- ^ 町山智浩の映画特電第108回より
- ^ http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=13880
- ^ http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=9923
- ^ http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=9145
- ^ 時事通信 5月10日。
- ^ Le Gitan
- ^ 武井崇『岸田森 夭逝の天才俳優・全記録』 洋泉社、2017年。ISBN 978-4-8003-1222-8。同書の215pと589p。
- ^ アラン・ドロン生誕75周年記念映画祭
- ^ 光文社「女性自身」2014年10月14日号(第57巻第37号)100頁 雑誌20302-10/14
- ^ 週刊明星1971年8月29日号84〜85頁