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井上日召

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
いのうえ にっしょう
井上 日召
昭和戦前期撮影
生誕 (1886-04-12) 1886年4月12日
大日本帝国の旗 日本群馬県利根郡川場村
死没 (1967-03-04) 1967年3月4日(80歳没)
日本の旗 日本神奈川県鎌倉市小町(佐藤病院)
死因 心不全
墓地 護国寺茨城県東茨城郡大洗町
吉祥寺群馬県利根郡川場村
国籍 日本の旗 日本
別名 尚、四郎、日召(号)、日象(号)
出身校 早稲田大学 中退
東洋協会専門学校(現:拓殖大学)中退
職業 政治運動家
テロリスト
影響を受けたもの 日蓮田中智学
影響を与えたもの 小沼正菱沼五郎四元義隆
運動・動向 血盟団
護国団
宗教 仏教禅宗日蓮宗
罪名 殺人罪共同正犯
刑罰 無期懲役
父・井上好人
家族 兄・井上二三雄
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井上 日召(いのうえ にっしょう、1886年明治19年〉4月12日 - 1967年昭和42年〉3月4日)は、日本宗教家政治運動家テロリスト右翼指導者。本名は井上 昭(いのうえ あきら)、別号に日象[1]。血盟団を結成して[注釈 1]一殺多生」を唱え、1932年血盟団事件を起こした。無期懲役の判決を受けたが恩赦により出所。戦後は右翼団体・護国団を結成した。日蓮宗を信仰し、仲間からは「和尚」と呼ばれたものの僧籍は有していない[3]

生涯

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生い立ち

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群馬県利根郡川場村に、医師・井上好人の四男として生まれる[4][5]。幼名は四郎、通称(たすく)[6][5][7]。幼少期より母との関係が悪く[8][5]、野火を付けたり脇差を持ちだして門松を斬り倒したりする悪童だった[9][5]

地元の小学校から旧制中学校に進むが、「善悪を決定する基準は何か」という問題に悩む[6][10][11]キリスト教にも関心を示して前橋教会に通い、堀貞一の説教に耳を傾け、洗礼を受けるに至ったが反発心を起こして教会に行くのをやめた[12]

大陸浪人

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旧制中学校卒業後は船員、職工、代用教員、陸軍工兵補充兵などを転々とした後、早稲田大学予科の英文科に入学[13][14]。小説家を目指すはずが、酒と吉原に入り浸った[15][16]東洋協会専門学校(現・拓殖大学)では卒業後に満韓台湾に赴任するという誓約書を入れると聞いて関心を持ち、早稲田大学を退学して入学、中国語を学ぶ[17][18]。しかし、暴動事件に関与したとの疑いで無期停学となり、無関係だと判明して停学が解除されたときには学年試験終了後であったため、満洲へ渡ることを決意し退学[17][18]

満洲では南満洲鉄道に勤務し、陸軍の諜報活動に携わる[19][20]。この時期坐禅の修行にも取り組んだが、満鉄内での張作霖打倒計画が発覚したため北京へ逃亡する[19][20]。北京では袁世凱の顧問であった阪西利八郎のもとに身を寄せ、青島での諜報などに従事した後、通訳官銅銭の売買などの商売を手がける[21][20]。このころ四郎からに改名。1921年大正10年)2月に日本に帰国[22][23]

神秘的体験を得る

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三徳庵時代の井上日召。

帰国後はしばらく東京に滞在した後で実家に帰り、地元の三徳庵という堂で坐禅、さらに題目修行に専念する[24][25]。そのうちにアオダイショウ法華経を聞かせたことを契機に木や石や草花と意思を通じ合うことができると感じ、「天地一体・万物同根」の悟りを得て「善悪の標準」という長年の疑問を解く[24][25]。さらに拝んで病気を治すようになり、村人からも治療を頼まれるようになる[24][25]

1924年(大正13年)の7月、「9月5日を期して東南に向って進め」という天の声を聞き、上京[26][27]。知り合いのジャーナリスト朝比奈知泉のもとを訪れた際の会話がきっかけで日召を名乗るようになる[26][28]。『日蓮宗の教義』を読んで日蓮の偉大さに感嘆し、身延山に登り修行したり田中智学の講習会を受講したりするが、満足を得ることはできなかった[26][29]。井上は国家改造を志向するようになり、日本主義者らとの面会を重ねる[30][31]大川周明にも面会するが、白人を追放してアジアを解放するという大川の思想は宇宙一元の大平等観に立って国家革新を目指す自分とは意見が異なると感じた[30][31]西岡元三郎の紹介により星光同盟に参加し、西田税と面識を得る[32]。当時田中光顕の秘書を務めていた旧知の高井徳次郎護国聖社を創設して青年らと共同生活を送る道場を作る計画を立てたが失敗に終わる[32]。そこで赤尾敏上杉慎吉らの建国会に参加するものの、上杉に失望し脱退[33][34]。井上は失望から禅の修行に取り組むこととし、松蔭寺山本玄峰に弟子入りする[6][35]

護国堂 - 血盟団事件

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現在の護国寺(旧護国堂)。

松蔭寺を訪れた高井徳次郎の提案により、田中光顕の支援のもと茨城県大洗町に建てた立正護国堂に移り、青年の育成を目指した。財閥や既存政党、特権階級の癒着に対する憤懣を抱えた井上は、自らが中心となって国家改造を完遂することを決意し、煩悶を抱える若者を取り込んでいく。井上は古内栄司、照沼操、黒澤大二、小沼正菱沼五郎といった後に血盟団メンバーとなる青年に対し、田中智学の影響を受けた日本精神による世界統一平和思想や、現代資本主義日本の日本主義国家への改造を説いた[36]。当初井上が目指したのは、宗教的啓蒙により同志を拡大し、大衆を動員して国会議事堂を取り囲む大規模示威運動によって国家改造を実現するというものであった[37][38]。しかし、藤井斉ら海軍の青年将校も護国堂に出入りするようになると、地道な啓蒙活動を志向していた井上に対し、急進的革命の必要を主張した[39]。はじめは権力の争奪を意味する革命ではなく自己革命を語っていた井上だったが、徐々に藤井の主張に近付き、自分たちが捨石となって革命における破壊の役割を果たすことが必要だと考え、そのためには最も犠牲の少ない暗殺という手段をとるべきだと考えるようになった[40]

護国堂の所有者であった水浜電車が井上らに退去を求めたことで井上は東京に居場所を移すこととなり、1930年昭和5年)末から翌年にかけて血盟団メンバーも続々と上京していった[41]。他方で井上が暴力革命を口にしたことも加わり、上京せずに離脱する者も出たことで井上と行動をともにするメンバーは絞られていった[41]

井上は東京で安岡正篤金鶏学院に出て安岡に不満を持つ四元義隆・池袋正釟郎らを仲間に加えた[42][43]。1930年末に香椎温泉で井上・四元らは藤井斉ら海軍軍人などと会合をもち、そこには三上卓や陸軍軍人の菅波三郎も出席していた[44]。またすでに面識のあった西田税と井上は接近し、井上は北一輝や大川周明も引き入れようとしたが、西田が両者の和解を望まなかったため断念する[45]。さらに愛郷塾塾長・橘孝三郎にも接近し、北の軍部独裁構想に対する批判的立場で両者は一致、井上は自身が行う「破壊」に続く「国家再建」の役割を橘に求めた[46]

また大川周明・橋本欣五郎長勇らによるクーデター計画の情報を得たため、西田の陸軍人脈を生かしてクーデターの共同戦線を敷くことを企図し、井上は西田を計画のリーダーに担ぐこととした[47]1931年(昭和6年)8月26日、日本青年会館で「郷詩社」主宰の会合という名目で各グループのメンバー約40名が集結した[48]。血盟団メンバーは井上を筆頭に古内、四元、小沼、菱沼らが出席し、海軍からは藤井斉、鈴木四郎、村上功、三上卓、古賀清志、村山格之、大庭春雄、山岸宏、伊東亀城、太田武、陸軍からは菅沼三郎、野田又雄大岸頼好、東昇、末松太平小川三郎、対馬勝雄、小河原清衛、安藤輝三栗原安秀若松満則、また愛郷塾から橘、後藤圀彦渋川善助などの出席があり、西田が司会役を務めた[48]。しかし、会合の内容は具体性がない上、陸軍が主導するもので血盟団グループや海軍青年将校、橘グループには大いに不満を抱かせるものだった[49]

井上は西田を介して橋本らのクーデター計画の要人暗殺を担当することを依頼され、井上は標的の具体化に取りかかったものの、10月10日ごろになって西田・菅波から暗殺は陸軍が一定数の兵隊を動員して行うことを一方的に伝えられたため、井上は激怒した[50]。さらにしばらくして十月事件が発覚したことで橋本らの計画は失敗に終わり、情報漏洩の原因を西田と疑う声も上がり陸軍や西田に対する不信感が高まり、井上ら血盟団は単独でテロを決行することを目指すこととなった[51]

同年11月ごろから、井上は四元が身を寄せていた権藤成卿代々木上原の自宅敷地にある空家に住み着き、以降同所が血盟団の拠点となっていく[52]。12月、犬養内閣が成立し荒木貞夫陸軍大臣として入閣したことで陸軍青年将校らのクーデターへの意欲は低下し、権藤邸で陸海軍青年将校も参加する忘年会を開催したものの、かえって西田や陸軍青年将校との決裂は決定的となってしまった[53]。翌1932年(昭和7年)1月9日、権藤空家で井上らと海軍メンバーの会合が開かれ、2月11日の紀元節の宮中参内の要人を一斉に襲撃することを決定した[54]。しかし、各地の同朋に計画を伝達するために派遣された四元の帰還が尾行を撒くために遅れ、1月28日に第一次上海事変が勃発し海軍メンバーの参加が怪しくなったため計画変更を余儀なくされる[55]。2月11日の決行が不可能となると、宮中参内の要人を一挙に暗殺する方法はとれないため、1人の要人に対し1人のメンバーが殺害を図る「一人一殺」の方針が採用された[56]。暗殺担当者は井上が各自の意見を聞いて決定し、各人は自分以外の標的を知らされないこととなった[57]

2月9日、井上準之助を小沼正が暗殺。逮捕された小沼は曖昧な供述に終始したため、テロ計画の全貌は発覚しなかったが、護国堂での修行の経歴などから井上を含むネットワークが断片的に明らかにされつつあった[58]。暗殺成功の報を受けた井上は捜査の手を逃れるため本間憲一郎の手引きで渋谷頭山満邸の天行会道場に隠れることとした[59]。20日に井上は古賀清志と面会し、「第二弾」となるテロが決行されれば井上一派の計画が暴露されるおそれがあるから、西田・大川に後続するテロ決行の準備を進めるよう伝えることを依頼した[59]

逮捕された菱沼五郎。

3月5日に菱沼五郎が団琢磨を暗殺して逮捕されたことで両事件が一連のものだと発覚し、新聞各紙も血盟団グループの存在と黒幕・井上を報じた[60]。井上が頭山邸に隠れていることも発覚し、関係者から出頭を説得されたため、出頭[60]

血盟団メンバーの多くは身柄を拘束されるに至ったが、捜査の手は海軍青年将校まで及ばず、彼らは5月15日に五・一五事件を起こす[61]。また血盟団メンバーのうち入隊中であった川崎長光は警察の取り調べを受けたが釈放されたため、五・一五事件の際は西田税を襲撃し重傷を負わせている[61]

無期懲役 - 戦後

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裁判の結果井上は無期懲役の判決を受け服役するが、紀元二千六百年の大赦を受け仮出獄。出所後は三上、四元らと「ひもろぎ塾」を開設。機関誌「ひもろぎ」を送って同志を全国に獲得し、戦争終結後に合法的な革新運動を推進することを目論んだが、官憲に圧迫されて活動を中断せざるを得なかった[62]

1941年(昭和16年)3月、当時の首相近衛文麿から電話を受けて会見し、複数回の面会を経て荻外荘に寄食して相談を受けるようになった、と自伝に記している[63]

終戦直後に戦犯容疑で取り調べを受け、公職追放となった。

戦後は右翼団体護国団」の指導者を一時期務めたものの、団体が問題を起こしたため退き、他の右翼関係者の庇護を受けて鎌倉長谷で余生を過ごした。

年譜

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1954年

親族

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  • 父・井上好人(1850年 - 1936年[6]) - 医師。熊本藩の典医の子として生まれる。神風連の乱に加わった猿渡弘伸の弟[64][5][4]。その際熊本を逃れるが、今井悟兵衛(今井今助の父)によって川場村に迎え入れられる[64]。村会議員・学務委員などを務める。武田範之とも親しく交流した[64][5][4]
  • 母・つね( - 1936年[6]
  • 伯父(母の兄[106])・星野長平(1851年 - 1936年[107]) - 群馬県会議員、群馬県勢多郡富士見村長[107]
    • 三兄・二三雄(1883年 - 1919年) - 海軍中佐
    • 妻・敏子(本名・志ツ) - 元看護婦脊椎カリエスを患い生活に困窮したが井上は家庭を顧みず、血盟団事件が起きた時点では本郷で下宿屋を営んで生計を立てていた[108]
      • 娘・涼子(1925年[108] - )  - 血盟団事件の第一審で無期懲役の判決が下ったときには家族との面会が許され、日召は子どもについて弁護士に「親はあっても大悟の親、親子の情愛に引かれて悩むことなし」と語っていたが、妻が娘を連れてきたところ、娘に「お父さんは死にゃしないのだから」「心配しないでお母さんの言うことを、よく聞くのだよ」と述べたことが新聞紙面上で報じられている[109]。戦後の井上は神楽坂芸者を妾にして鎌倉に家を建てて妾と暮らし、家族を顧みることはなかったという[108]。弟子らも多くが日召の顔色を伺って妾の側につき、わずかに血盟団の小沼正だけが彼女らの面倒をみたという[108]
      • 私生児・横地正次郎(1908年 - 1980年[110]) - 詩人[110]。筆名は尚(しょう)[110]草野心平伊藤信吉と詩誌『学校』を刊行。上毛新聞読売新聞の記者を勤める。母は横地はつ[111]。戸籍上は星野長平の子(井上の従弟)とされていた[106]。血盟団事件後に実父が井上であることを知る[110]。父子としての初対面は1934年(昭和9年)1月29日、東京拘置所でのこと[112]

著書

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  • 『日本精神に生よ』
  • 『一人一殺 - 井上日召自伝』 日本週報社、1953年
  • 『日召獄中日記』(『炎の求道者』)

登場する作品

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脚注

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注釈

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  1. ^ 血盟団事件を起こした井上日召らのグループは事件以前から他の国家主義者から「血盟団」と呼ばれることがあったが井上の命名したものではなく、血盟団の呼称が一般化するのは事件後のことである[2]
  2. ^ 『一人一殺』では明治43年8月[69]
  3. ^ 『一人一殺』では大正3年(1914年)11月11日[73]、『血盟団事件』では1912年12月[72]
  4. ^ 帰国の時期は1921年末という説と1922年初めという説がある[4]
  5. ^ 『血盟団事件』では1927年[90]
  6. ^ 『血盟団事件』では年号の記述なく12月とする[92]

出典

[編集]
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  5. ^ a b c d e f 中島 2013, pp. 23–25.
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参考文献

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外部リンク

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