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論争ジャーナル

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論争ジャーナル
the ronso journal
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ジャンル 総合雑誌、論壇雑誌
読者対象 保守派・右派市民
刊行頻度 月刊
発売国 日本の旗 日本
言語 日本語
出版社 育誠社
編集部名 論争ジャーナル
発行人 中辻和彦
編集長 中辻和彦
副編集長 万代潔持丸博
雑誌名コード NCID AN1029802X
刊行期間 1967年1月 - 1969年10月(第3巻7号)
発行部数 3,000-5,000部()
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論争ジャーナル』(ろんそうジャーナル)は、1967年(昭和42年)1月から1969年(昭和44年)10月まで、育誠社が発行していた保守総合雑誌[1]平泉澄の門下生が編集の中心となっていた[2][1]。「安保騒動を中心とした現代の虚像に挑戦」するという意気込みで創刊された雑誌である[3]。キャッチコピーは「勇気ある者にのみ真実は語りかける」だった[2]

創刊の経緯

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平泉澄の門下生の中辻和彦は、大阪府堺市出身で、父親が平泉の高弟だった[4]。中辻は、1960年(昭和35年)に安保闘争で活動家の樺美智子が死亡した件についてほとんどの新聞が「警官による圧死」「警官によって殺された」という報道をしていたことに疑問を持ち、直接その場にいた関係者に聞いてみると、デモ隊そのものによって圧死したらしいということを知り、弱者ぶる左翼の戦略に対抗する雑誌を作ることを決意したという[2]。当時は左翼全盛の時代で「朝日ジャーナル」を小脇にかかえて歩く左翼学生が多かった[5]

雑誌を作るにあたって平泉澄や、平泉の弟子の田中卓に薫陶を受けていた学生たちは村尾次郎の助言・指導を受けた[2]。村尾の人脈から林房雄に話が行き、三島由紀夫の執筆協力に繋がった[2]

編集長となる中辻和彦は明治学院大学卒で、同学卒の万代潔が副編集長を担当し、他3名と資金を出し合って発刊となった[6]。育誠社は準備期間と草創期には豊島区高田本町2-1467(現:雑司が谷)のビルの一室を事務所としていたが[6][4]、1967年(昭和42年)には銀座に引っ越し、同じ平泉門下の持丸博も編集に参加した[4]

寄稿者・部数など

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1967年(昭和42年)1月号(創刊号)の表紙は小汀利得だった[4]。次号の2月号の表紙は三島由紀夫[7][4][8]。2月号の表紙の三島はショッキング・ブルーのセーターを着ており、椅子に腰かけショート・ピースを吸う姿で写っている[6]。三島は原稿料無しで寄稿し続け[3][6]、1967年(昭和42年)8月号の表紙にもなった(村松剛石原慎太郎大阪大学教授の市村真一と一緒に)[5][6]。そして『論争ジャーナル』編集に集まってきた学生たちが、三島の組織した「祖国防衛隊」(のちの「楯の会」)の創立メンバーとなった[3][9][6]

同誌は、林房雄、三島由紀夫のほか、村松剛石原慎太郎西義之大島康正高坂正堯遠藤周作佐伯彰一福田恆存西尾幹二日沼倫太郎などが執筆した[7][1][8]。第2号の三島の表紙をきっかけにして執筆者の枠が広がった[7][10]。編集人の持丸博も「高山義彦」という筆名で執筆していた[5]

創刊号の発行部数は5千部、実売3千部だった[2][1]。あまり売れず、通常の発行部数は約2千部で、在庫の山だった[9]

おもな寄稿記事一覧

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出典は[3][11][6]

1967年3月号
1967年8月号
  • 現代日本の革新とは――ニュー・コンセンサス・メーカー大いに語る(三島由紀夫、村松剛石原慎太郎市村真一の対談) - 読売新聞に紹介された記事[2]
1967年10月号
  • 青年について(三島由紀夫)
1967年11月号
  • 文武両道と死の哲学(三島由紀夫、福田恆存の対談)
1968年2月号
  • 天皇と現代日本の風土(三島由紀夫、石原慎太郎の対談)
1968年7月号
  • 五月革命(三島由紀夫)
1968年8月号
1968年10月号
  • 三島由紀夫氏と体験入隊学生は語る――自衛隊の内側から見たチェコ問題(三島由紀夫、自衛隊体験入隊学生3名の対談)
1968年12月号
  • 新宿騒動――私はこう見た(三島由紀夫) - アンケート
1969年2月号
  • 反革命宣言(三島由紀夫)

脚注

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  1. ^ a b c d 竹内 2011, p. 442
  2. ^ a b c d e f g 「第三章 『弱者天国の時代』に抗して ● 論争ジャーナルは、樺美智子の死から誕生した」(持丸 2010, pp. 77–80)
  3. ^ a b c d 高橋新太郎「論争ジャーナル」(旧事典 1976
  4. ^ a b c d e 「八 松浦博(旧姓持丸)―松浦芳子 対談【平泉澄と論争ジャーナル】」(松浦 2020, pp. 265–268)
  5. ^ a b c 「二、幼子のような三島由紀夫【胸毛剃ったら十万円】」(松浦 2020, pp. 80–83)
  6. ^ a b c d e f g 「第二章 ノサップ 四」(彰彦 2015, pp. 86–91)
  7. ^ a b c 「第二章 たった一度の思想的対決――三島由紀夫と福田恆存 ●『事件』を予感した福田恆存」(持丸 2010, pp. 27–32)
  8. ^ a b 「第二章 1970年前後の証言から【日本という枠を超えるもう一つのもの】」(西尾 2008, pp. 38–40)
  9. ^ a b 「第一章 曙 一、熱い時代――一期生の誕生 持丸博」(火群 2005, pp. 16–22)
  10. ^ 「八 松浦博(旧姓持丸)―松浦芳子 対談【「論争ジャー」は学生のたまり場】」(松浦 2020, pp. 269–272)
  11. ^ 井上隆史編「作品目録 昭和42年 – 昭和44年」(42巻 2005, pp. 444–456)、山中剛史編「対談目録 昭和42年 – 昭和44年」(42巻 2005, pp. 530–534)

参考文献

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外部リンク

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