戦艦大和ノ最期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
戦艦大和ノ最期
Requiem for Battleship Yamato
著者 吉田満
発行日 1952年8月
発行元 創元社
ジャンル 戦争文学
日本の旗 日本
言語 日本語
形態 上製本
Portal.svg ウィキポータル 文学
[ Wikidata-logo-en.svg ウィキデータ項目を編集 ]
テンプレートを表示

戦艦大和ノ最期』(せんかんやまとのさいご)は、吉田満の代表作。著者自らが体験した天一号作戦坊ノ岬沖海戦)での戦艦大和の出撃から沈没までを綴った記録小説。太平洋戦争大東亜戦争)を題材とした戦記文学である。

文語体で綴られた初稿は一日足らずで書かれ、1946年(昭和21年)12月の雑誌『創元』創刊号に掲載される予定だったが、GHQ検閲で全文削除された。そのため出版刊行は、独立回復後の1952年(昭和27年)8月に創元社からなされた。この小説が、後の太平洋戦争を描写した小説や映画に与えた影響は大きく、特に天一号作戦を取り上げた作品には、本作の内容を参考として記述されている物も多い。

翻訳版は、1985年にRichard H.Minear 訳(英題:Requiem for Battleship Yamato)で行われている。

刊行経緯や反響[編集]

『戦艦大和ノ最期』出版(1952年8月)に当たっては、河上徹太郎小林秀雄の奔走で、白洲次郎がGHQとの交渉を取り持ち、白洲正子が、小林秀雄と知り合う切っ掛けともなった経緯がある[注釈 1]。その後さらに改稿され、1974年(昭和49年)に北洋社から出版されたものが決定稿とされている。

1952年(昭和27年)8月に創元社から出版された刊行本には、河上徹太郎、小林秀雄、林房雄三島由紀夫吉川英治の5人が跋文を寄せた。

三島由紀夫の跋文は、短い簡潔な文章ながらも、いつの時代も青年が抱く「生」の意義、「絶対」との邂逅の希求から、戦艦大和の戦いの持つ哲学的な意味を綴っている[1]

感動した。日本人のテルモピレーの戦を目のあたりに見るやうである。

いかなる盲信にもせよ、原始的信仰にもせよ、戦艦大和は、拠つて以て人がに得るところの一個の古い徳目、一個の偉大な道徳的規範の象徴である。その滅亡は、一つの信仰の死である。この死を前に、戦死者たちはの平等な条件と完全な規範の秩序の中に置かれ、かれらの青春ははからずも「絶対」に直面する。この美しさは否定しえない。ある世代は別なものの中にこれを求めたが、作者の世代は戦争の中にそれを求めただけの相違である。

— 三島由紀夫「一読者として」[1]

戦艦大和沈没までの出来事を著者・吉田満の眼を通してリアルに記述した小説であるが、発表当初から記述の内容や描写に対して指摘や疑問の意見が多く、小説に描かれた表現や逸話について一部信憑性が薄い物もあるといわれている。

第二艦隊通信参謀付だった渡辺光男は、『連合艦隊』(株式会社パシフィカ発行、1981年)中の座談会「『大和』その生活と闘い」で、吉田の弱音を紹介している。渡辺と吉田の酒席で、吉田は「真実だけを描いていると言い切る自信がない」と謝罪していたという[2]。さらに臼淵磐大尉が仲介する原因となった「兵学校出の中尉、少尉」という文だが、兵学校出身の最下級士官は第七三期で、3月1日に中尉に昇進している。つまり、当時の大和に「兵学校出の少尉」はいないという細かい勘違いがある[2]

駆逐艦「初霜」が大和乗組員を救助する際、軍刀で生存者の手首を切ったとする部分については、現在も論争の原因となっている[3]。2005年(平成17年)4月7日、『朝日新聞』のコラム「天声人語」で、「初霜短艇」の行動が再びとりあげられると、『産経新聞』6月20日朝刊一面に於いて、初霜短艇指揮官・松井一彦の反論が掲載された[4]。松井は1967年(昭和42年)4月、吉田に削除を求める書簡を送り、吉田も了承したが、結局削除されないまま吉田は病没した[4][3]

八杉康夫(大和乗組員)によれば、羅針儀がある内火艇に磁気狂いの原因となる軍刀を持ち込むことはありえないという。八杉によれば、八杉は吉田を詰問し、吉田は「私はノンフィクションだと言ったことはない」と弁明したとされる[4]。駆逐艦「雪風」の田口砲術長は吉田に真偽を問いただしたが、「昔のことなので忘れた」という返答があった[3]大和ミュージアム館長の戸高一成は、『平家物語』における屋島合戦の記述に見られる軍記もののパターンだと指摘している[4]

野呂昭二(大和気象班員)は、生存者達の中では唯一、事実だと証言した[5]。吉田の妻・嘉子は、吉田の目撃談ではなく伝聞と前置きした上で、当時ならばあり得たことだと述べる[4]。吉田の長男は、著作権の後継者として記述改変を拒否した上で、吉田が執筆の時点で真実と思われたことを記述したものとした[5]。吉田の上官だった江本義男は「無かった」と述べ、同時に「初霜短艇」は瑣末な問題にすぎないと答えている[5]

また艦橋最上部の露天防空指揮所にいた有賀幸作艦長の最期も、目撃者の証言と異なる。吉田の小説では「羅針儀に固縛し、ビスケットを食らいつつ沈む」とある。塚本高夫(二等兵曹、防空指揮所艦長付伝令)や江本義男(大尉、測的分隊長)によれば、ただ羅針儀をつかんで「大和」と共に沈んでいった[6]。塚本によれば、最期の言葉は「フネと一緒に行くよ。君らは急げ」だった[7]。中尾大三(中尉、防空指揮所高射砲付)によれば、有賀は第一艦橋に下りていき、姿を消した[6]。しかし「大和」の幹部が羅針儀に身体を縛りつけたという事実はあった。第一艦橋にいた浅羽満夫(中尉、水測士)によれば、茂木航海長と、花田秦祐掌航海長が白布で身体を羅針儀に縛り、「大和」と共に沈んでいったという[7][8]

このように、現在では戦艦大和沈没という歴史的事実と、自らの体験に伝聞あるいは創作を加えたフィクション小説と理解されている。

初稿と定稿の違い[編集]

河上徹太郎小林秀雄白洲次郎が読んで感動したのは、「ほぼ半日で完成した」とされる文語体の『戦艦大和ノ最期』第1稿(初稿)で、定稿との違いは以下の点にある。

  1. 臼淵磐大尉の発言など、いわゆる「良識」は現行版と同じながら、修辞が非常に控えめであり、現行版にあるような、後付けのイデオロギーを感じさせる「あざとさ」が無い。
  2. 「この節のため話が発散しており、物語の主旨が不明瞭になっている」と、信憑性以外に文学的見地からも問題視されている「初霜短艇の記述」が書かれていない。
  3. 物語の結末にあたり、「理不尽な出撃を強いられ、敢闘を尽くした末に、なにもかもを飲み込んで沈没した大和」に対し「天下ニ恥ヂザル最期ナリ」、と言う言葉で最大限の花が手向けられている。

(冒頭で臼淵磐大尉が指摘した「理不尽な大和出撃に対して、乗組員が如何に精神昇華を行うか」を土台とした上で、「理不尽な出撃にも関わらず、士官下士官兵の各々が一丸となって敢闘した結果」への賛美が「天下ニ恥ヂザル最期ナリ」と受け取るとすると、イデオロギーを除外して、純粋に文学的見地からも、初出の文章はブレのない視点での終わり方と言える。)

版本[編集]

初出(文語体)
改定(口語体)
  • 『軍艦大和』(銀河出版社、1949年8月) - 雑誌『サロン』1949年6月号掲載
  • 『戦艦大和ノ最期』(創元社、1952年8月)
  • 『戦艦大和』(河出書房太平洋戦記シリーズ、1967年11月)
  • 『戦艦大和』(角川文庫、1968年7月、改版2002年) ISBN 4-04-128101-6
  • 『現代日本記録全集 第21巻』(筑摩書房、1969年9月)
決定稿
全集版
  • 『吉田満著作集』(上・下、文藝春秋、1986年9月)
英訳版
  • Richard H.Minear 訳『Requiem for Battleship Yamato』
(University of Washington Press、1985年10月) ISBN 0-295-96216-X

映像化作品[編集]

映画
テレビドラマ
  • 『終戦45周年記念3時間ドラマスペシャル 戦艦大和』 1990年8月10日放送
    • 製作:フジテレビ東宝。監督:市川昆。主演:中井貴一
    • これは、元々は劇場用超大作映画として企画されたが、諸般の事情により映画版の製作は中止され、3時間テレビドラマとして製作・放送されたものである。

脚注[編集]

[ヘルプ]

注釈[編集]

  1. ^ 1946年(昭和21年)春、小林はこの本の出版のことで、初めて白洲邸を訪問し、白洲正子とも面会する。夏には白洲邸に数日間滞在している。

出典[編集]

  1. ^ a b 三島由紀夫「一読者として」(吉田満著『戦艦大和ノ最期』創元社、1952年8月)。三島27巻 & 2003-02, p. 669
  2. ^ a b 生出寿 & 1996-12, pp. 312-313
  3. ^ a b c 阿部 & 1994-08, p. 54
  4. ^ a b c d e 栗原 & 2007-08, pp. 182-189
  5. ^ a b c 栗原 & 2007-08, pp. 192-193
  6. ^ a b 生出寿 & 1996-12, pp. 339-340
  7. ^ a b 栗原 & 2007-08, pp. 94-95
  8. ^ 阿部 & 1994-08, p. 51

参考文献[編集]

関連項目[編集]