鮎川純太

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鮎川 純太(あゆかわ じゅんた、1960年9月14日 - )は日本の実業家。テクノベンチャー株式会社代表取締役会長。米国マサチューセッツ州ボストン出身。カトリック教徒

企業[編集]

テクノベンチャーは、日本ベンチャーの草分けとして活躍した鮎川純太の祖父、鮎川義介(旧日産コンツェルン総帥)が第二次大戦終戦後、ベンチャー企業およびベンチャー企業家の発掘・育成の重要性を痛感し、1952年(昭和27年)に中小企業助成会とする名称で設立。前身は、昭和17年に日本初のマネージメントバイアウトの為、鮎川義介が創設した、第一生命を中心とする生・損保各社の出資による、会社型ファンド、満州投資証券。第二次世界大戦終戦直後には、東京通信工業(現、ソニー)の創業に際し、同社創業者である井深大の依頼を受け、第二次世界大戦末期に満州投資証券の事務所があった日本橋のデパート、白木屋の空きスペースであった電話交換室の一部等を東京通信工業用の事務所として提供し、その設立に際し出資も行なう。その後、東都銀行を中小企業助成銀行に改組し、中小企業向けの直接金融間接金融双方の業務に乗り出す。

鮎川義介の没後、鮎川純太の父、鮎川弥一がベンチャー育成に関する活動等を受け継ぐとともに、鮎川弥一が終身理事を務めたマサチューセッツ工科大学など米国に於ける幅広いネットワークを作り、日本のベンチャーキャピタル業務のあり方を提案した。

鮎川弥一の急逝の後、日本商工会議所会頭石川六郎日産自動車会長石原俊ミサワホーム社長三澤千代治ケンウッド会長石坂一義らの後援によりテクノベンチャーの会長に就任した鮎川純太は、日本アジア投資元常務であった岡崎善郎と世界初のバイオベンチャーとなったジェネンテックの創業者でマサチューセッツ工科大学終身理事のロバート A. スワンソンをテクノベンチャーの社外取締役として招聘し、米国トップクラスのベンチャーキャピタルである、クライナー・パーキンス・コーフィールド・アンド・バイヤーズの唯一の日本人スペシャルリミテッドパートナーに就任するなどした。また、米国ITベンチャーのネットスケープの創設に際し出資業務に関与するなど、米国に於けるベンチャー投資業務にも取り組んだ。経団連会長の豊田章一郎ソニー会長の大賀典雄の招請を受け、ロバート A. スワンソンと共に経団連大賀が座長を務める専門部会で講演を行うなど、米国ベンチャー業界と、日本の産業界との架け橋業務に従事した。

また、香港のIT系企業のはしりであった、パシフィック・センチュリー・サイバーワークスの創業者リチャード・リーの依頼を受け、パシフィック・センチュリー・サイバーワークス・ジャパンの創設にも同社取締役として関与した。

テクノベンチャー創設者の鮎川義介が、現在の日産日立グループの産みの親といっても過言ではないため、それらの企業との絆が深いことが大きな特徴である。

経歴[編集]

成蹊大学経済学部マサチューセッツ工科大学大学院で経営学を修める。

帰国後、山一證券企業開発部においてサンスイの英企業への売却や日系企業による米国ベンチャー企業の買収等、国内外のM&Aを担当する。

1991年鮎川弥一の死に伴い、1992年にテクノベンチャー代表取締役会長として入社。その後、1993年6月に代表取締役社長を兼務する。

2005年1月11日女優杉田かおると結婚。同年8月11日に離婚。離婚騒動の際に、杉田関西テレビの番組にて、過剰な発言をした事に対して「事実関係を歪曲しており、自分の名誉を毀損・侮辱するものである」とし、関西テレビ訂正放送と謝罪を要求。その後、鮎川は放送倫理・番組向上機構人権委員会に同内容の人権救済の措置を申し立てた。審理の結果、鮎川の主張は全面的に認められ、人権委員会は関西テレビ側に再発防止を求める「勧告処分」を下した。「勧告」は人権委員会決定の中で最も重い処分である。 これによりみのもんた杉田関西テレビを批判した。またこの「勧告処分」を受け関西テレビ訂正放送を行い、鮎川に対し全面的な謝罪を行った。

テクノベンチャーの他、日産公益財団法人や国内外の企業、財団及びNGO等の理事・役員も兼務している。

親族[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]