片山豊

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片山 豊(かたやま ゆたか、1909年明治42年)9月15日 - 2015年平成27年)2月19日)は、日本の企業家である。静岡県周智郡気多村(現在の浜松市天竜区春野町気田)生まれ。

モットーは「Love life, love cars」。

経歴[編集]

湘南高等学校を卒業後、慶應義塾大学を経て1935年昭和10年)に日産自動車へ入社。なお、日産自動車創業者の鮎川義介は片山の親戚にあたる。戦前は国内で宣伝を担当した後、満州国に赴任。戦後は日本に戻り、再び宣伝を担当。この頃、日本での自動車ショーの開催を発起し、1954年(昭和34年)の東京モーターショー(旧・全日本自動車ショウ)初開催に尽力している。東京モーターショーのシンボルマーク(ギリシャ神話の青年が車輪を持つ姿)を考案したのも片山である。また、軽自動車の祖とも言われるフライングフェザーを仲間たちと制作した事があるが、制作に当たったのがニッサンの子会社で、しかも自分の趣味で作らせたことで上司にお目玉を食らってしまい、一時は退職を考えていたと述べている。

1960年(昭和35年)に渡米。主にロサンゼルスを中心に、ディーラーに飛び込みでダットサンを売り歩く。これに対し、日産本社の反対勢力は米国での拠点をニューヨークに置く計画を進めて圧力をかけるが、北米の自動車事情に精通する片山の前に失敗に終わる。晴れて片山は米国日産の初代社長となり、日本車の機能性と、日本人の特性を生かした細やかなサービスで、日産車を米国に浸透させた。社長室のドアはいつも開け放たれ、誰もが自由に出入りできる環境をつくるなど、フランクで自由を尊重する人柄でも知られ、社員からはMr.K(ミスターK)と呼ばれ、慕われていた。「ディーラーが幸せになって初めてメーカーが幸せになれる」と公言して実行に移す姿勢がアメリカのディーラーに好評で退職後も「片山豊に感謝する会」が開かれては招待を受けていた。

また、フェアレディZの生みの親として1998年(平成10年)に米国自動車殿堂入りしているが、エンジニア以外での殿堂入りは稀な例である。Z-car Festaを初めとするイベントにも頻繁に出席しており、「Z-car(ズィーカー)の父」として各国で知られている。ファンへのサインに添えられる言葉は「Live life, love cars」や「快走」など。

2005年(平成17年)5月22日には「生まれ故郷であり、自然に恵まれた春野を皆さんに紹介したい」との豊の言葉から、春野町が主催となり春野町民、日産自動車、フェアレディZオーナーズクラブ(D.S.C.C.中部)を中心に「K'z meeting in HARUNO」が開催され、本人も出席。春野の山間にある「ふれあい公園」には全国から歴代フェアレディZ約700台と、町民を含め約5,000人が集った。自治体、自動車メーカー、ユーザーが一体となった自動車イベントは他に例が少なく、今なお語り継がれている。また、2007年(平成19年)には、浜松市春野歴史民俗資料館にて「Zの父・片山豊展」が開催された。

晩年には浜松市の「浜松市やらまいか大使」として浜松市のPR活動も行っていた。

2015年(平成27年)2月19日、心不全のため死去[1]。105歳没。

長男は元日本代表サッカー選手の片山洋で、メキシコ五輪銅メダリスト。

関連書籍[編集]

出典[編集]

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