多摩川スピードウェイ

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座標: 北緯35度35分12.12秒 東経139度39分47.37秒 / 北緯35.5867000度 東経139.6631583度 / 35.5867000; 139.6631583

多摩川スピードウェイ
Tamagawa Speedway
概要
Tamagawa speedway site03.JPG
所在地 日本の旗 日本神奈川県川崎市中原区
座標 北緯35度35分12.12秒
東経139度39分47.37秒
運営会社 東京横浜電鉄
営業期間 1936年 - 1950年代
収容人数 約3万人
主なイベント 全国自動車競走大会
(1936年 - 1938年)
コース長 1,200m
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多摩川スピードウェイ(たまがわスピードウェイ)は、神奈川県川崎市中原区多摩川河川敷に存在した日本初の常設サーキット。「オリンピアスピードウェイ」とも呼ばれた。1936年5月9日に開業。東急東横線多摩川橋梁北側付近に相当する。

開業[編集]

多摩川スピードウェイメインスタンド跡

1910年代から、日本国内でも富裕層や外国人により自動車によるレースが行われており、さらに1920年代には国産の自動車メーカーが複数設立されたが、パーマネント(常設)サーキットが無いために目黒競馬場代々木練兵場立川飛行場で開催するなど開催場所の確保に苦労していた。

このような状況を打開するため、アメリカモータースポーツ活動を行っていた藤本軍次がパーマネントサーキットの開場を企画し[1]報知新聞社とともに「日本スピードウェイ協会」を設立しサーキット用地の確保に奔走した。その後東京横浜電鉄がオリンピア球場跡地(異論もあり)を提供するとともに、同社が総工費10万円のうち7万円を出資した。さらに三菱グループの株主の飯田正美が3万円を寄付し、日本及びアジア初のパーマネントサーキットとして、1936年5月9日に開業した。

一周1,200m、幅20mのオーバルダートトラックの左回りのコースに、多摩川の堤防土手を利用したメインスタンドを持つ構造となっていた。メインスタンドの収容人数は数千人程度で、サーキット敷地内の最大収容人数は3万人とされている。運営は東京横浜電鉄が行った。

1937年4月発行の『東横・目蒲・玉川電車 沿線案内』には「面積四萬坪、コース一哩、三萬人を収容する大スタンド等施設完備せる東洋一の自動車大競走場」と記載されている。1920年までは多摩川の自然堤防があった場所であり、自然堤防上には青木根集落として30軒ほどの家があった。多摩川の築堤建設のため、青木根集落の住民は中原区上丸子天神町に移った。

開催大会[編集]

第1回全国自動車競走大会[編集]

ブガッティ・タイプ59(フランスグランプリ/ 1934年)

1936年6月7日には、日本自動車競走倶楽部をオーガナイザーとして、日本初の本格的な自動車レースとなった第1回全国自動車競走大会が開催された。開会式には大日本帝国陸軍の将官が列席し、多摩川沿いという、都心から遠く離れた僻地での開催にもかかわらず1万人以上の観客を集めるなど大きな注目を集めた。

当時横浜市にある工場で生産されていたフォードや、三井高公男爵が輸入したブガッティベントレー、インヴェィクタやハップモビルなどの様々な外国車のみならず、カーチスの航空機エンジンを搭載した改造車、日産自動車などの日本の大手自動車会社もワークス体制を組んで参戦した[2]

このレースには、後に本田技研工業を創設する本田宗一郎も自製の「浜松号」(エントラント名は「ハママツ」)で参戦したが、レース中の他車との接触事故によりマシンが横転しリタイアし、マシンから放り出された本田も骨折や視力低下を招くなどの重傷を負っている[3]

国産自動車部門で優勝したのは当時三井物産の傘下にあったオオタ自動車工業が手作業で組み上げたレース専用マシンの「オオタ号」であった。なお、当日、スタンドからレースを観戦していた日産自動車の鮎川義介社長は敗北に激怒、社員に号令をかけ3ヶ月後の第2回大会に雪辱を期した。

第2回全国自動車競走大会[編集]

自社の路線案内図に「スピードウェー」として紹介された多摩川スピードウェイ(中段上。『東横・目蒲電車沿線案内図』1938年)

同年10月に第2回大会が開催され、10カテゴリーに分けられるなどより細かいレギュレーションが採用された。今回も日産自動車やオオタのワークスチームのほか、第1回には出場していなかったメルセデス・ベンツMG[4]ボクスホールダッジなど様々な外国車も参戦した。

さらにドイツの自動車部品大手のロバート・ボッシュ社による賞典も設けられ[5]、観客数も増え2-3万人を動員したと伝えられるなど開催が軌道に乗った。なおこのレースにおいては、前回優勝できなかった日産自動車が雪辱を果たし優勝した。

第3回全国自動車競走大会[編集]

1937年5月16日に第3回大会が開催された。この回も多くの日本車と外国車が参戦したが、前回優勝した日産自動車のワークスチームは参加を見送り、オオタのワークスチームが優勝を飾った。

第4回全国自動車競走大会[編集]

1938年4月17日には第4回大会が開催され、同時に全日本オートバイ選手権も開催された[6]。しかし、前年の7月7日に盧溝橋事件をきっかけに勃発した日中戦争の激化を受けて施行された物資動員計画に伴うガソリンの配給制移行などに伴い、第4回大会を最後に自動車レースは行われなくなった。

その後[編集]

第二次世界大戦前後[編集]

自動車によるレースは休止を余儀なくされたものの、1939年9月にヨーロッパ第二次世界大戦が開戦し、ドイツイタリアイギリスなどでレースの開催が中止された後もオートバイの草レースが開催されていた。

しかしオートバイによるレースも、1941年12月の大東亜戦争の勃発を受けてやがては終了を余儀なくされ、その後は同盟国のドイツやイタリア、敵国のイギリスやアメリカなどと同様に全くレースが開催されなくなってしまった。しかし、1945年8月に第二次世界大戦が終結しまもなく余剰ガソリンが市中に出回るようになると、ほどなく愛好家たちによりオートバイの草レースが行われるようになった。

公営競技場建設計画[編集]

またこの頃、この場所を公営競技場として使用する計画が持ち上がり、1949年にはオートレースの創設を目指して結成された日本小型自動車競走会(後の日本小型自動車振興会、現在のJKA)の主催により、戦後初の『全日本モーター・サイクル選手権』が開催されている。

しかし当時既に競輪競技が創設されていた上に、翌年の1950年10月に千葉県に船橋オートレース場がオープンしたため、代わりに競輪場を建設する方向で神奈川県などの自治体が動きを見せていたが、河川敷における水害の心配や、地理的に近隣にある川崎競輪場などとの競合が懸念されたことから、結局この話が実現することはなかった。

さらにこの頃、連合国の1国として関東地域の占領業務にあたっていたアメリカ軍将校などが横田基地エプロン滑走路ジムカーナなどを開催し始めると、日本における自動車レースの活動の中心がそれらに移ることとなる。なおこのような基地内でのジムカーナは、1952年に日本が連合国軍の占領を脱した後の1960年代に至るまで開催されていた。

廃止[編集]

鈴鹿サーキット

このような形で利用者も減り、さらに戦後地方からの流入人口が増加したため、周辺地域に住人が増えてきたこともあり騒音問題が取りだたされるようになり、また公営競技場としての建設計画もなくなったこともあり、1950年代の初頭には廃止されることとなった。サーキットとして廃止された正確な時期は不明である。

その後[編集]

その後1962年に、第1回全国自動車競走大会にも出走した本田宗一郎が三重県鈴鹿市鈴鹿サーキットをオープンしたが、それまでの間は日本国内に自動車が使用できるパーマネントサーキットは存在しなくなってしまう。

なお首都圏のパーマネントサーキットとしては、鈴鹿サーキットのオープン後の1966年には静岡県富士スピードウェイが、1970年には茨城県筑波サーキットがオープンしている。

現在の跡地[編集]

跡地の中央には日本ハム球団多摩川グラウンドが造成されたが、メインスタンドは多摩川の土手にコンクリートで直接造られたこともあり、現在も護岸のような形で座席の跡や階段が現存する[7]。トラックは最後まで舗装されずダートであったため、現在もコーナーの様子などが野球グラウンドの敷地の隙間などで線形を伺うことができる。2016年5月、開設80周年を記念するプレートが現地の観客席跡地に設置された[8]

関連項目[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ AUTOSPORT
  2. ^ 『昭和の日本 自動車見聞録』P.121/P122 小林彰太郎トヨタ博物館
  3. ^ HONDA公式サイト - 多摩川スピードウェイのオープニングレース開催
  4. ^ Gazoo
  5. ^ 『昭和の日本 自動車見聞録』P.125-P128 小林彰太郎著 トヨタ博物館
  6. ^ 『昭和の日本 自動車見聞録』P.128/P129 小林彰太郎著 トヨタ博物館
  7. ^ グラウンド自体は現在も存在しており、2011年に国と北海道日本ハムファイターズとの間で交わされた土地の借用契約が満了し、国に返還されたのち川崎市が買い取り、2015年に市営の川崎市多摩川丸子橋硬式野球場として再オープンした。
  8. ^ 神奈川)80周年で記念プレート 多摩川スピードウェイ朝日新聞 2016年5月30日

外部リンク[編集]