松平乗穏

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松平乗穏
時代 江戸時代中期
生誕 元文4年3月22日1739年4月29日
死没 天明3年4月9日1783年5月9日
改名 銀次郎(幼名)→乗穏
戒名 徳誉運応興善還元院
墓所 東京都港区赤坂の浄土寺
官位 従五位下石見守
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗家重家治
三河奥殿藩
氏族 大給松平家
父母 父:松平盈乗
兄弟 乗穏乗睦
正室:太田資俊養女・芳春院
乗統乗友渡辺綱光乗尹
青山幸賢正室、倉橋久幾室、
築紫孝門正室

松平 乗穏(まつだいら のりやす)は、江戸時代中期の大名三河国奥殿藩3代藩主。奥殿藩大給松平家5代。官位従五位下石見守

生涯[編集]

元文4年(1739年)3月22日、2代藩主・松平盈乗の長男として江戸で誕生。寛保2年(1742年)に父が死去したため家督を継いだ。しかし幼少のため、義父の太田資俊の補佐を受けた。宝暦5年(1755年)12月18日、従五位下・石見守に叙位・任官する。

藩政では藩財政難のため、宝暦3年(1753年)に倹約令を出し、家臣の知行を借上し、宝暦9年(1759年)には税制を定免法に改め、明和2年(1765年)には借金を20年かけて返済する方法を採用するなど、積極的な藩政改革を行なった。しかし宝暦6年(1756年)と宝暦9年(1759年)に日光祭祀奉行、宝暦8年(1758年)4月に江戸城馬場先門番、明和5年(1768年)から安永8年(1779年)まで大番頭、明和5年(1768年)6月と安永5年(1776年)の大坂加番など要職を歴任した上、千曲川の水害、宝暦4年(1754年)の年貢減免一揆、明和5年(1768年)の江戸屋敷類焼など出費が激しく、財政改革は効果がなかった。

天明2年(1782年)11月21日、家督を次男・乗友に譲って隠居する。天明3年(1783年)4月9日、江戸で死去した。享年45。

系譜[編集]