おやつ
おやつ(片仮名でオヤツとも)とは、午後の間食のこと[1]。あるいは、間食全般。
概要[編集]
昔の時刻の呼び方で「八つ時(やつどき)」(つまり現代の午後3時ころ)に食べたことからこう呼ばれた[1]。現代では「3時のおやつ[2][3]」などと呼ぶこともある。
明治以降は時刻の数え方が変化したため、一部の人が「お三時」と呼んだようで、広辞苑でも「お三時」という呼び方に一応言及されている[1]が、結局定着しなかった。関東の、ごく一部の家庭の年配者が家庭内で「おさんじ」と呼ぶことがあるようだが、少なくとも近年では日本全国でそんな呼び方はされていないようである。関東でも関西でも名古屋でも、そんな呼び方は聞いたこともない、という人がほとんどのようなので使えない表現である[4]。あくまで「おやつ」が標準の表現である。
おやつで食べるものは、大抵は甘いものである。たとえば菓子類、果物類、ケーキ類などである。つまりおやつでは比較的高カロリーのものが取られる傾向がある。
とはいえ、おやつというのはあくまで間食という位置づけであり、通常、昼食や夕食よりは量が控えめである。だが子供の中にはついおやつを食べ過ぎる者もいる。
「お茶にしよう」と声を掛け、お茶と共におやつを食べることは、日本の大人たちではよくある風景である。
1930年代後半や1940年代前半の日本の資料では、子供のおやつは、午前10時と午後3時とされた[5][6]。 あくまで子供のおやつはそれらの時間にとられ(語彙の少ない子供にも分かるように)「おやつ」と呼ばれた、ということである。 農林水産省のサイトでは、最近「食品の消費をもともとは八つ時(14時頃)にとる間食のことを指して「おやつ」と呼んでいたのだが、その後、午後のそれに限らず、間食全般を「おやつ」と呼ぶようになっていった[7]」と書いているが、広辞苑では今日でもあくまで「午後の間食」と説明する。地方によっては、農作業など野外で肉体労働をする人が昼食と朝・夕食の間にとる軽い食事のことを「小昼」(こひる、こびる)と呼ぶこともある。
なお、世界各地に午後に間食をとる習慣、いわば「それぞれの国のおやつ」がある。 その時刻は、夕食をとる時刻の影響も受ける、夕食の時刻は国ごとに傾向が異なるので、各国のおやつの時間もそれぞれ異なる。→#世界のおやつ、その時刻
歴史[編集]
日本では古くは食事は朝夕のみの1日2食であったが、農民たちが体力維持のため休憩時に軽食をとり、これを中食(ちゅうじき)、間食(かんじき)などと呼んだ[8]。元禄時代には1日3食が一般化したが、このころから「おやつ」の語が出現する。
江戸時代後期の戯作者、曲亭馬琴の日記には、まんじゅう、せんべい、団子などの菓子が頻繁に登場する。三代歌川豊国 の浮世絵には、魚をかたどった砂糖菓子「金花糖(きんかとう) 」を子どもに与える姿も[9]見られたという。
世界のおやつ、その時刻[編集]
世界各地に同様の習慣、つまり昼食と夕食の間に間食をとる習慣がある。
- フランス語圏

フランスには「グテ goûter」という習慣がある。午後の終わりころの間食を指して「グテ」と呼ぶことはルネサンス期ごろには始まっていたようである。そして世界で初めて出版された百科事典となったフランスの『百科全書』(18世紀末出版)にはgoûterという用語が掲載されている。当時はおもにパン(いわゆる「フランスパン」)をスライスしたものにバターやジャムを塗ったものや、果物などが食べられていたようである。19世紀頃には次第に裕福な人いわゆるブルジョアが増え、そのご婦人たちや子供が午後テーブル上にパティスリー類を並べカフェを飲みつつ楽しんだり、外出して屋外で楽しむ、などということも行われるようになっていた。フランスでは子供たちが学校を終えて帰宅しておやつをとることは一般的だった。 フランスのブルジョアたちはもともと紅茶を飲まず、飲むのはもっぱらカフェであったが、19世紀にイギリスの富裕層で流行しはじめた紅茶を飲みつつ軽食を食べること(下で詳説)をフランスのブルジョアの一部が真似しはじめ、彼らは午後の間食のことを英語の「tea ティー」をフランス語に訳した語の「thé テ」と呼ぶことを好んだ。そして従来の表現「グテ」はどちらかと言うと子供の間食を指すと見なすようになったいう。
なお「グテ」の別名は「quatre heures キャトルール」で、これは「4時」という意味である。1941年に、フランスの学校では4時のおやつをとることが普及したという。
現在のフランスでも午後の間食はとられており、子供たちは学校から帰宅すれば互いに交流して家で甘いものを食べるし、働く大人たちも(休憩をとる余裕がある職種ならば)4時ころに「グテ」をとる。現代のフランス人は何を食べているかというと、フランスではブーランジュリー(パン屋)とパティスリー(ケーキ屋)が兼業になっているところも多いのだが、その店頭には、午後の「グテ」や「テ」にぴったりのパティスリーやケーキ類が並ぶ。フランス人が好むのは、たとえばオーソドックスなスライスしたフランスパンにバターやジャムを塗ったものであったり、ブリオッシュ、砂糖がけのクレープ、パン・オ・ショコラ、パン・オ・レザン、タルト・オ・ポム(英語ならアップル・タルト)、ショソン・オ・ポムなどである。英米流にクッキーやドーナツやマフィンを食べる人もいる。子供たちはガトー(ケーキ)が大好きである。カフェや紅茶とともに食べる。
フランスの「グテ」という用語は、もともと「味見(あじみ)」といった意味の表現であり、「グテ」には時刻の意味がもともと含まれていないので、午後に限らず、朝食と昼食の間の間食までひっくるめて指すために使うフランス人もいる。
フランスの隣国ベルギーもフランス語が話されていて両国は文化的に密接につながっているが、ベルギーやフランス北部では16時半~17時にとることが一般的だという。一方カナダのフランス語圏では午後の真ん中あたり、つまり14時~16時ころにとることが一般的だと言う。
- イギリス、旧大英帝国圏内

イギリスでは、19世紀半ば過ぎごろに、富裕層の人々の間で午後に紅茶を飲むことが一般化し[10]、紅茶を飲みながらパンにバターを塗ったもの(bread and butter)や、薄くスライスしたパンで作った繊細なキュウリサンドイッチや、卵とコショウソウを挟んだサンドイッチや、ケーキやペーストリー類などを食べるということが次第にひろまり、それがやがて中間層まで広がってゆくことになった。イギリスでは午後に紅茶を飲みつつ軽食をとることを「ハイティー」「アフタヌーン・ティー」あるいは単に「tea ティー」などと言うようになった。
現代のイギリスの典型的な「ティー・タイム」は午後3:30~5:00といったところである。 イギリスの夕食の時刻は時代とともに傾向が変化してきたので、「ティータイム」も少しづつずれてきた歴史がある。

- スペイン語圏
スペインでは、夕食をとる時刻が非常に遅いので、午後5時から6時に「メリンダ merienda」という午後の軽食をとる。スペイン本国に加えて南米や中米各地の午後の間食も「メリンダ」と呼ばれている。
国ごとに習慣も異なるので「メリンダ」で食べられるものも時刻もかなり異なる。
- 世界のおやつ
脚注[編集]
- ^ a b c 広辞苑第六版
- ^ [1]
- ^ [2]
- ^ [3]
- ^ 石森延男 編 『まんしうの子ども』修文館、1939年、37頁 。"日本の子どもは……十時と 三時には きまつたやうに、おくわしのおやつをもらひます。"。
- ^ 文部省社会教育局 編 『乳幼児保護の問題』文部省社会教育局、1942年 。"間食の回数はどうしたらよいか。やはり昔から云はれてゐる通り「お十時」と「お三時」が適当であらう。"。
- ^ 農林水産省 おやつの意味を知りましょう
- ^ 『日本国語大辞典』の「ちゅうじき(中食)」の語誌
- ^ 読売新聞2014年8月8日「おやつの習慣 江戸時代に始まる」による。この記事にも書いてあるが、砂糖はもともと舶来の高級品だったが、8代将軍徳川吉宗が国内生産を奨励。砂糖を入手しやすくなり、甘味が広まる要因となったという。
- ^ スペイン、ポルトガル、オランダ、フランスなどに遅れをとるかたちで、イギリスも世界各地へ進出し、それらの国と熾烈な勢力争いを繰り広げ、イギリス人たちはインドでも1600年に東インド会社という貿易会社を設立しフランス、オランダなどと権益争いを繰り広げていたが、七年戦争(1756年-1763年)というイギリスとフランスとの間の大規模な戦争が起きると、両国はインドの地でも激突したのだが、1757年6月のプラッシーの戦いでイギリス側が勝利。それによりイギリスはインドで優勢な存在となり、おまけに貿易会社の東インド会社のインド貿易独占権が1813年に失効し、ただの政治組織になっていったこともあって、イギリス本国側はインドの地元の諸侯に対する支配を拡大し、1818年には当時インドの最大勢力となっていたマラーター同盟を解体してしまい、1848年にはパンジャーブのシク王国も滅亡させた。さらにムガル皇帝まで傀儡として支配し、1858年にムガル帝国を廃止し、ヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国を樹立した。つまりイギリスは皇帝がいた地であるインドをすっかり踏みにじって支配してしまい、植民地化してしまったわけであり、イギリス人はインドの人々を奴隷にして強制的に働かせることで富をつくりだし、その富がイギリス本国に流れ込み、結果としてイギリス国内で裕福層が増えた。そしてインドで奴隷を使い茶葉を生産させ、紅茶を生産することや、イギリス本国でそれを飲むことがまずは富裕層から、そして次第に中間層まで一般化した。インドで生産されたものは帆船でイギリス本国に運ばれたが、特に1840年代あたりから、イギリスで新たに登場した富裕層たちによる消費の量が増え、紅茶(やウール)などをイギリスに大量に速く運ぶ必要が出てきたので、より高速な帆船が開発された。それが「クリッパー」と呼ばれる船である。紅茶を運ぶものは「ティー・クリッパー」と呼ばれた。つまりイギリスで午後の間食を優雅に楽しむ習慣が根付いた背景には、実はそうした一連の歴史的な出来事、欧州諸国に対するイギリス側の追撃、帝国化、大英帝国の出現、インドの人々に対する過酷な扱い、イギリスで富裕層の出現と紅茶を飲むことの習慣化、があったわけである。