松平康定
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 延享4年12月1日(1748年1月1日) |
死没 | 文化4年3月23日(1807年4月30日) |
改名 | 吉五郎(幼名)、康定 |
戒名 | 清崇院殿順誉徳風民興大居士 |
墓所 |
東京都港区虎ノ門の天徳寺 埼玉県川越市小仙波町の光西寺 |
官位 | 従五位下・左京亮、周防守 |
幕府 | 江戸幕府奏者番兼寺社奉行 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 石見浜田藩主 |
氏族 | 藤原姓前田家→松井松平家 |
父母 |
父:前田房長、母:青木直宥の娘・紋 養父:松平康瑞(旗本3000石として)、松平康福(浜田藩主として) |
兄弟 | 前田清長、康定、前田富長ら |
妻 | 松平康福の娘 |
子 |
松平康任正室 養子:康保、康任 |
松平 康定(まつだいら やすさだ)は、石見国浜田藩主。松井松平家7代。
生涯
[編集]延享4年(1747年)、旗本・前田房長の三男として生まれる。はじめ浜田藩松井松平家の分家の松平康瑞の養子となり、その家督を継いで300石の旗本となる。ところが本家の先代藩主・松平康福に嗣子がなかったことから、明和5年(1768年)10月に婿養子として迎えられ、12月28日に従五位下・左京亮に叙位・任官する。
寛政元年(1789年)、康福の死去により家督を継ぐ。このとき、周防守に遷任した。寛政4年(1791年)4月、所領のうち石見の一部・伊豆・相模の計5000石が信濃高井郡・水内郡に替地となり、富竹陣屋を置いて支配した。寛政7年(1795年)12月に奏者番に任じられる。もともと文学肌の藩主であり、参勤交代の途上で本居宣長を訪ねて国学に傾倒し、藩校・長善館を創設している。なお、財政再建を図って造林業を推進したが失敗した。
寛政10年(1798年)5月、奏者番を兼任する形で寺社奉行に任じられる。文化4年(1807年)3月23日に江戸で死去した。享年61。跡を婿養子の康任が継いだ。
系譜
[編集]父母
正室
- 峯姫 - 松平康福の娘
子女
- 松平康任正室
養子